04 もし、私が
文字数 3,276文字
宮殿のなかにいる人間はたいていがよく教育されているから、余程の緊急の用でも申しつけられるか、或いはとても慌てて動転してしまっているのでない限り、ばたばたと足音を立てて走り回るようなことはない。
だがそのとき、彼はそう言った音が耳に響いてきたことに気づく。足音は、彼の方に向かってきていた。
「――ファドック様、すみませんっ」
小走りに寄ってくる足音とよく知る声に、ファドック・ソレスは階段の途中で足を止めると振り返った。
「どうした、イージェン」
「どうした、じゃありませんよ」
近衛の青年はしかめ面をして、ようやく捕まえた、などと呟いた。
「お話があります。いま、いいですか」
イージェン・キットの言葉にうなずくと、彼は階段を降りて青年に向かう。
「ここでよいか。どこか、部屋が要るか」
「内密ってほどじゃあないですけど、まあ、あんまり聞かれたいとも思いませんかね」
「よし」
言うと護衛騎士は手近な空き部屋にイージェンを先導し、扉を開けた。飾りなど何もない小さな部屋は、ちょっとした打ち合わせなどに使われる場所で、城内のどの棟にもいくつかこうした場所がある。部屋に入ったふたりは無造作に置かれている簡素な椅子を引くと、細長い卓を挟んで向かい合うようにした。
「何だ」
短く、ファドックは問うた。イージェンは肩をすくめる。
「いくつか、あるんですけどね。まずは」
青年は身を乗り出し、誰もいないにも関わらず、声をひそめた。
「本気なんですか」
「何がだ」
「恍けないでくださいよ」
イージェンは眉をひそめた。
「本気で、近衛隊長 の任を受けるんですか、ファドック様」
「――そのことか」
ファドックは、心情を表面に出さないようにした。イージェンはそれをどう取ったか、慌てたようにつけ加える。
「もちろん、俺は大歓迎ですよ。もともとアルドゥイス隊長 に近いことをされることも多いんですし、ほかの隊員たちだってみんな、この話には喜んでます。現隊長が退いたあとを継ぐのがあの副隊長だなんてぞっとしませんからね」
冗談めかして言ったあと、青年は困ったように頭をかいた。
「ただ、ファドック様らしく、ないでしょう。断り続けてきたことをいきなり翻して引き受けるなんて」
何かあったんですか――と青年は問い、騎士の返答を待つように黙った。
「……シュアラ様のお考えだ」
少し不自然な長い沈黙のあとに、ファドックはゆっくりと言った。
「……まあ、そんなこったろうとは思ったんですが」
イージェンは嘆息した。
「繰り返しますけど、俺は、嬉しいですよ。でも、ファドック様が自分の意思で俺らの隊長になろうと思ってくださった方がもっと嬉しかったですね」
少し皮肉めいた口調で彼は言い、返ってくるであろういつもの言葉を待った。即ち、シュアラの望むことは自身の意思である、というような――。
「すまなかった」
「なっ」
その返答に青年は仰天して目を見開く。
「やめてくださいよ、何、言い出すんですか。ファドック様が姫様の希望に沿おうとしたって誰も文句なんか言うもんですか! 俺だって文句のつもりじゃないし、第一、ファドック様が謝るようなことじゃないでしょう!?」
「……そうか」
ファドックは笑みを浮かべようとしたが、イージェンがよく知るものと異なり、それは何ともぎこちなかった。
もちろん――シュアラが望むのならば、彼は躊躇わないだろう。
確かに、王女は彼女の護衛騎士に対して、その任に就くことを考えるように告げた。だがそれがシュアラの「望み」ではないことは、長年彼女に仕えた騎士には容易に見て取ることができる。おそらくはアルドゥイスがシュアラに願い出たのだろうという推測もついた。
いつもの彼ならば、シュアラの「望み」に従う。彼はずっとそうしてきた。
だが、魔術の制約は彼にそれを許さなかった。
アスレンが、彼を苦しめたい、彼に屈辱を覚えさせたいと言うような歪んだ欲望を持っているのなら――そのとき、それはいちばん叶ったことになる。
彼が、王女の護衛騎士以外のものになる辞令を受けたことは、シュアラを傷つけた。
彼の最も厭うことが彼の言葉によって、なされたのだ。
「ファドック様?」
「イージェン」
黙ってしまったファドックに不安そうな顔を向けた青年を見て、彼は言った。
「もう一度、言わせてくれ。すまなく思う。これは私の意思だとは、私は言えない。だが、受けたからには任を疎かにすることはない」
「そんなことは判ってます。でも……らしくないですよ」
イージェンはまた言った。
「話はほかにもあるんです。このところ、ファドック様の様子はおかしい」
「――そうか?」
ファドックは意外そうに言った。イージェンの言葉をごまかす意図もあったが、何も態度には表していなかったつもりだったので、単純に驚いたこともあった。
「そうですよ。いつもなら近づくだけで顔を上げるのに、じっと考え込んでこっちが声をかけるまで気づかなかったり、廊下ですれ違った兵に敬礼を受けてもそのまま通り過ぎることもあるでしょう。気取った軍隊長のなかには一兵士の敬礼なんか無視するのもいますけど、ファドック様はそうじゃない。何かファドック様の不興でも買ったのかと、若い兵士なんざ隊長に怒鳴られるよりびびってますぜ」
「それは……悪いことをしたな。謝っておこう」
「いいんですよ、そんなのは」
イージェンは「若い兵士」を慮るのかそうでないのか、判らないような態度を取った。
「ロジェス閣下がいらしてからはお忙しいんだし、それに」
少し躊躇うようにしてから、しかし青年は続けた。
「必ずしも姫様の近くに――いなくて いい 、ってのは、ファドック様には困りものでしょうし。いろいろ、考えることがあるんだろうとは思ってます」
イージェンは微妙な言い方をした。確かにファドックは、「いてはならない」のではない。
「そうだな。確かに考えることは、ある」
ファドックはきゅっと目を細めた。考えたくない男のことを思い出せば、魔術のものと彼自身のものと、どちらにしても嫌な感覚が浮かんだ。
「だがそれに翻弄されるようでは、いかんな」
「ファドック様は自分に厳しすぎますよ」
イージェンは言った。
「悩んでるなら悩んでると言えばいいんです。誰も不思議に思わない。超然としてる方が、不思議に思います。俺が手伝えるのは近衛隊に関わることだけですけど、ファドック様の負担を少し軽くすることくらいはできますよ」
「有難う、イージェン」
ファドックは優しく笑った。たとえ、彼の業務が全てなくなったとしても、いまの彼の負担は減ることがない。むしろ仕事が忙しい方が、〈魔術都市〉の王子の声を耳に蘇らせずに済む。
だがもちろんそのようなことは言わず、ファドックはただ礼を言った。
「イージェン。もし、私が……」
言いかけたファドックの言葉にイージェンは耳を傾け、その声が途切れたことに片眉を上げた。
「……何です?」
青年は先を促す。
「いや、何でもない」
ファドックは言いやめて首を振った。イージェンはまた、このような態度はファドックらしくない、と考えたが口には出さなかった。
もし、自分が城を去ればどうなるか――彼はそれを口に出さなかったが、この考えはあまりにも心弱いものであるかのように思えた。
ここから逃げたところでどうにもならない。
逃げられるはずもなければ、逃げるつもりもなかった。
たとえそれがアスレンの嘲弄の対象となろうと、彼には守るものがある。それを置き去りにしてどこかへ行くことなど、決して有り得ない。
だと言うのに、何故そんなことが頭に浮かんでしまったのか。
騎士は、自身の意志とは裏腹に、彼を苛むことを楽しむ白金髪の王子の魔術に屈しかけているのだと、気づかない訳にはいかなかった。
だがそのとき、彼はそう言った音が耳に響いてきたことに気づく。足音は、彼の方に向かってきていた。
「――ファドック様、すみませんっ」
小走りに寄ってくる足音とよく知る声に、ファドック・ソレスは階段の途中で足を止めると振り返った。
「どうした、イージェン」
「どうした、じゃありませんよ」
近衛の青年はしかめ面をして、ようやく捕まえた、などと呟いた。
「お話があります。いま、いいですか」
イージェン・キットの言葉にうなずくと、彼は階段を降りて青年に向かう。
「ここでよいか。どこか、部屋が要るか」
「内密ってほどじゃあないですけど、まあ、あんまり聞かれたいとも思いませんかね」
「よし」
言うと護衛騎士は手近な空き部屋にイージェンを先導し、扉を開けた。飾りなど何もない小さな部屋は、ちょっとした打ち合わせなどに使われる場所で、城内のどの棟にもいくつかこうした場所がある。部屋に入ったふたりは無造作に置かれている簡素な椅子を引くと、細長い卓を挟んで向かい合うようにした。
「何だ」
短く、ファドックは問うた。イージェンは肩をすくめる。
「いくつか、あるんですけどね。まずは」
青年は身を乗り出し、誰もいないにも関わらず、声をひそめた。
「本気なんですか」
「何がだ」
「恍けないでくださいよ」
イージェンは眉をひそめた。
「本気で、
「――そのことか」
ファドックは、心情を表面に出さないようにした。イージェンはそれをどう取ったか、慌てたようにつけ加える。
「もちろん、俺は大歓迎ですよ。もともと
冗談めかして言ったあと、青年は困ったように頭をかいた。
「ただ、ファドック様らしく、ないでしょう。断り続けてきたことをいきなり翻して引き受けるなんて」
何かあったんですか――と青年は問い、騎士の返答を待つように黙った。
「……シュアラ様のお考えだ」
少し不自然な長い沈黙のあとに、ファドックはゆっくりと言った。
「……まあ、そんなこったろうとは思ったんですが」
イージェンは嘆息した。
「繰り返しますけど、俺は、嬉しいですよ。でも、ファドック様が自分の意思で俺らの隊長になろうと思ってくださった方がもっと嬉しかったですね」
少し皮肉めいた口調で彼は言い、返ってくるであろういつもの言葉を待った。即ち、シュアラの望むことは自身の意思である、というような――。
「すまなかった」
「なっ」
その返答に青年は仰天して目を見開く。
「やめてくださいよ、何、言い出すんですか。ファドック様が姫様の希望に沿おうとしたって誰も文句なんか言うもんですか! 俺だって文句のつもりじゃないし、第一、ファドック様が謝るようなことじゃないでしょう!?」
「……そうか」
ファドックは笑みを浮かべようとしたが、イージェンがよく知るものと異なり、それは何ともぎこちなかった。
もちろん――シュアラが望むのならば、彼は躊躇わないだろう。
確かに、王女は彼女の護衛騎士に対して、その任に就くことを考えるように告げた。だがそれがシュアラの「望み」ではないことは、長年彼女に仕えた騎士には容易に見て取ることができる。おそらくはアルドゥイスがシュアラに願い出たのだろうという推測もついた。
いつもの彼ならば、シュアラの「望み」に従う。彼はずっとそうしてきた。
だが、魔術の制約は彼にそれを許さなかった。
アスレンが、彼を苦しめたい、彼に屈辱を覚えさせたいと言うような歪んだ欲望を持っているのなら――そのとき、それはいちばん叶ったことになる。
彼が、王女の護衛騎士以外のものになる辞令を受けたことは、シュアラを傷つけた。
彼の最も厭うことが彼の言葉によって、なされたのだ。
「ファドック様?」
「イージェン」
黙ってしまったファドックに不安そうな顔を向けた青年を見て、彼は言った。
「もう一度、言わせてくれ。すまなく思う。これは私の意思だとは、私は言えない。だが、受けたからには任を疎かにすることはない」
「そんなことは判ってます。でも……らしくないですよ」
イージェンはまた言った。
「話はほかにもあるんです。このところ、ファドック様の様子はおかしい」
「――そうか?」
ファドックは意外そうに言った。イージェンの言葉をごまかす意図もあったが、何も態度には表していなかったつもりだったので、単純に驚いたこともあった。
「そうですよ。いつもなら近づくだけで顔を上げるのに、じっと考え込んでこっちが声をかけるまで気づかなかったり、廊下ですれ違った兵に敬礼を受けてもそのまま通り過ぎることもあるでしょう。気取った軍隊長のなかには一兵士の敬礼なんか無視するのもいますけど、ファドック様はそうじゃない。何かファドック様の不興でも買ったのかと、若い兵士なんざ隊長に怒鳴られるよりびびってますぜ」
「それは……悪いことをしたな。謝っておこう」
「いいんですよ、そんなのは」
イージェンは「若い兵士」を慮るのかそうでないのか、判らないような態度を取った。
「ロジェス閣下がいらしてからはお忙しいんだし、それに」
少し躊躇うようにしてから、しかし青年は続けた。
「必ずしも姫様の近くに――
イージェンは微妙な言い方をした。確かにファドックは、「いてはならない」のではない。
「そうだな。確かに考えることは、ある」
ファドックはきゅっと目を細めた。考えたくない男のことを思い出せば、魔術のものと彼自身のものと、どちらにしても嫌な感覚が浮かんだ。
「だがそれに翻弄されるようでは、いかんな」
「ファドック様は自分に厳しすぎますよ」
イージェンは言った。
「悩んでるなら悩んでると言えばいいんです。誰も不思議に思わない。超然としてる方が、不思議に思います。俺が手伝えるのは近衛隊に関わることだけですけど、ファドック様の負担を少し軽くすることくらいはできますよ」
「有難う、イージェン」
ファドックは優しく笑った。たとえ、彼の業務が全てなくなったとしても、いまの彼の負担は減ることがない。むしろ仕事が忙しい方が、〈魔術都市〉の王子の声を耳に蘇らせずに済む。
だがもちろんそのようなことは言わず、ファドックはただ礼を言った。
「イージェン。もし、私が……」
言いかけたファドックの言葉にイージェンは耳を傾け、その声が途切れたことに片眉を上げた。
「……何です?」
青年は先を促す。
「いや、何でもない」
ファドックは言いやめて首を振った。イージェンはまた、このような態度はファドックらしくない、と考えたが口には出さなかった。
もし、自分が城を去ればどうなるか――彼はそれを口に出さなかったが、この考えはあまりにも心弱いものであるかのように思えた。
ここから逃げたところでどうにもならない。
逃げられるはずもなければ、逃げるつもりもなかった。
たとえそれがアスレンの嘲弄の対象となろうと、彼には守るものがある。それを置き去りにしてどこかへ行くことなど、決して有り得ない。
だと言うのに、何故そんなことが頭に浮かんでしまったのか。
騎士は、自身の意志とは裏腹に、彼を苛むことを楽しむ白金髪の王子の魔術に屈しかけているのだと、気づかない訳にはいかなかった。