1 冷たい風
文字数 3,803文字
紫の月が終わりを迎えようとする頃、季節はもう真冬と言っていい。
吹く風に人々は身を縮め、外にいることが仕事でさえなければ、外衣の前を合わせてとっとと壁のなかへと戻ろうとする。
昼間でもそうなのだから、太陽 が落ちたあとはなおさらだ。街びとたちは酒場での一杯を控えて家路を急ぐか、それとも次に太陽 と出会うまで酒場に居座ろうとするか、というところだった。夜更けの街頭はこの数月の間、人気 が薄れる。
かと言って物騒になるかと言えばそうでもない。盗賊 たちも、かじかむ手で商売をしたり、いつ通るかも判らぬ獲物を風に吹かれながら待つのは好まぬものだ。
だが、なかには物好きに、この寒空の下で剣を合わせている者たちもいた。
実のところを言うなら、彼らは好きこのんでその時間帯を選んだのではない。都合のいい時間がそのときしかなかったというだけである。ただ、身体を動かしていれば寒さは感じなかった。
まして、南に比べたらここは温暖な地である。
この街では雪など滅多に降らぬし、ここの城壁は雪嵐など経験したこともないのではないだろうか。
カン、と剣を弾き飛ばされて青年は顔をしかめた。
「どうした、不調か」
「ちょっと、手がかじかんでるんですよ」
「そういう言い訳は、開始して数分 の内でないと役に立たないぞ」
男は青年ののど元に剣を突きつけたままでそう言った。
「少し訓練を怠ったのではないか、イージェン?」
「何言われるんです、俺に新兵の訓練を押しつけておいて。おかげで俺は訓練項目を考えなきゃならないし、ちょっと真面目な奴がいて、見てほしいと頼み込まれれば邪険にはできなくなりました。時間がなくなって困ってるんですよ」
「何だ。任せてくれと言ったのはお前だろう。不満なのか」
「不満じゃないですよ。ただ、これまでファドック様がどこから時間をひねり出してたのか不思議に思ってるだけです」
イージェン・キットがむっつりとした顔でそう言うと、ファドック・ソレスは笑いながら剣を引いた。
「いまに慣れる」
「二言目にはそれですね」
イージェンは近衛の制服の乱れを直すようにしながらファドックを見た。
「そうやって、慣れてきたんですかね、ファドック様は」
「何だって?」
「いろんなことに。城の暮らしに。不思議と言えば、ときどき俺は、どうしてファドック様が姫様の隣にいるのか不思議に思うんですが」
「それは質問か? 答えが要るのか?」
近衛隊長であるアルドゥイスあたりにそのようなことを言われれば、イージェンは敬礼をして、余計なことを言いました、申し訳ありません、と叫んで踵を返すところだ。
だがファドックは彼の上官ではなかったし、それに滅多なことでは彼を――彼に限らず、誰をも――怒鳴りつけるようなことはせず、自らは平民であるという態度を崩さない。
「ええ、まあ」
曖昧にそう言うと、ファドックは珍しく困ったような顔をする。
「私がキド伯爵のもとにいる経緯は知っているのだろう?」
「別に秘密じゃないですからね」
イージェンは言った。
「何でも……賊 に襲われた隊商 の」
そこで近衛の青年は口ごもった。唯一の生き残り、という言い方は、その当人を前にしては少し強い言葉のような気がした。ファドックはイージェンの躊躇を見て取ってうなずく。
「そう 。私だけが生き延びた。キド伯爵閣下は当時、アーレイドで暮らす商人 たちの陳情を受けてその賊を始末する任を負っていらしたから、間に合わなかったことに責任を感じられたのだ。目の前で家族を亡くした子供への同情もおありだっただろう」
キドは若い内に妻を亡くし、子供もなかった。拾った子供を使用人にでもするならともかく、親身に世話をし、学問や剣まで教え出したというのは、当時の宮廷ではかなり話題になったらしい。その当時のことはイージェンはもちろんファドックも知らず、のちに風聞で耳にした程度だった。
「閣下にはご恩がある。閣下がアーレイドに仕えよと仰るなら、私はそれに従うだけだ」
「それは……ご立派ですけど」
イージェンは気に入らないと言うように首を振った。
「それは、姫さん の隣にいる理由にはならないでしょう。ファドック様は俺みたいなアーレイドを守る兵士じゃなくて、殿下の護衛騎士 なんですから」
「閣下が仰ったのだ。姫様をお守りするように」
「じゃあ、何ですか。キド伯爵が王陛下に反旗でも翻したら、ファドック様は従うんですか」
イージェンが尋ねるのはもちろん本気ではない。ファドックは苦笑した。
ここに、リ・ガンと呼ばれる存在がいれば「守る」という言葉に反応し、それは彼の芯に〈守護者〉としての本能とでも言うべきものがあるからだ、というような評をしたかもしれない。だが、アーレイド城のなかにはにはリ・ガンも下町育ちの少年もおらず、話題がアーレイド城の宝庫に眠る翡翠に行くことも、当然なかった。
「お前がどんな答えを期待しているのか判らんな」
「期待される答えばっか用意しようなんて卑怯ですよ」
「まさか。そのようなことはしないさ。偽りを述べても何にもならないのだからな。ただ、お前の聞きたいことが判らなければ、それはお前の思う通りに白だとも、いや違う、黒なのだとも言えない」
「何かごまかされてる気もしますけど、まあいいや。俺はただ、ファドック様が黙って姫さんの言いなりになることに疑問はないのかと思ってただけで、その答えは『ない』なんでしょうから」
そんなのずっと判りきってることです、などとイージェンは続けた。
「気持ちは判りませんけどね」
かつてイージェン青年は、ファドックの前でシュアラについてどうこう言うエイル少年を「勇気ある」と評したものだが、今日の彼はその位置にいた。
「最近の殿下は、ずいぶんお静かだそうですが」
「お忙しいのだ。これまで手をつけられなかった分野の勉学に励まれている」
「ああ。俺なんかは、悪いことじゃないと思うんですけど、そうじゃないって向きもあるみたいですね」
シュアラが最近、これまで嫌がっていた政治だの、近隣諸都市との関わりだのに興味を持ち出したらしい、という話は親しい侍女たちから聞いていた。イージェンの言う通りにそれをよい傾向だと見なす声もあれば、そのようなことは未来の夫に任せておけばいいのだ、との声もあるようだった。
「そんなことより、お相手を決めることの方が先だろうって声も大きいですけど」
イージェンはちろりとファドックを見た。
「どうなんですか、その辺の話は」
「今年中にご婚礼と言うことはないだろうが、ご婚約はされるであろうな。私から何を聞き出したいのだ? みなが噂している以上のことは私も知らぬぞ」
にやりとするファドックにイージェンは嘆息する。
「ヴィオ男爵のご令息にダルハ伯爵の甥御さん、ファイ=フーの第四王子にワルファスの何とか公爵の血筋、噂だって、どれも決め手に欠けますね。ああ、東国の第三王子はどうしたんです」
一陣の旋風のようにアーレイドを駆け抜けていったシャムレイの第三王子の話題は、公的な場ではあまり歓迎されなかったが、城で過ごす者たちの間では一種の冗談のようになっていた。
「東の王様から、挨拶がきたんでしょう」
「そのようだな」
「ご存知ないんですか」
「私はただの護衛騎士だよ、イージェン」
ファドックは肩をすくめる。
「陛下の元に届けられた書状の内容など、知るはずもないだろう」
「俺は、人様の警護の網をくぐってきれいに消え失せたあの王子殿下がここにきたら、面白いことになるんじゃないかと思ってるんですよ」
「あのときは怒っていたのに、今度は面白がるのか?」
それこそ面白そうに、ファドックはイージェンを見た。
「そりゃ、腹くらい立ちます。こちとら、侵入者の警戒はするけど、まさか賓客が逃げ出すとは思いませんからね。怒ったのは自分の迂闊さにです」
「いいぞ」
ファドックはそう言うと、イージェンが放りっぱなしでいた剣を拾った。
「自分の失敗だったと思えるのなら上等だ。自らの失態を見たくないばかりに、王子殿下を責めるようでは何の発展もないだろうからな」
「そうやってまとめちまうんですね。知ってるんですぜ、ナヴァスに聞いたんです、あの夜ファドック様があの殿下と対峙して――」
剣を受け取りながら話していたイージェンは、びくりとして言葉をとめた。ファドックの目が警戒するように細められたかと思うと、騎士がとうに鞘に収めていた剣を音もなく抜いたからだ。
すうっ――と冷たい風が通った。
「……ファドック様?」
「いま」
騎士は呟くように言った。
「誰かが、闇の中にいるような気がしたのだが、気のせいか」
無駄のない動きでファドックは武器をまた収める。
「ファドック様でもそんなこと、あるんですね」
驚いた顔のままでイージェンは言った。
「私は万能ではないよ、そうあれたらいいとは思うがね」
青年の言葉に軽い調子で返しながら、しかしファドックは薄闇から現れて消えていった奇妙な風のことを――考えていた。
吹く風に人々は身を縮め、外にいることが仕事でさえなければ、外衣の前を合わせてとっとと壁のなかへと戻ろうとする。
昼間でもそうなのだから、
かと言って物騒になるかと言えばそうでもない。
だが、なかには物好きに、この寒空の下で剣を合わせている者たちもいた。
実のところを言うなら、彼らは好きこのんでその時間帯を選んだのではない。都合のいい時間がそのときしかなかったというだけである。ただ、身体を動かしていれば寒さは感じなかった。
まして、南に比べたらここは温暖な地である。
この街では雪など滅多に降らぬし、ここの城壁は雪嵐など経験したこともないのではないだろうか。
カン、と剣を弾き飛ばされて青年は顔をしかめた。
「どうした、不調か」
「ちょっと、手がかじかんでるんですよ」
「そういう言い訳は、開始して数
男は青年ののど元に剣を突きつけたままでそう言った。
「少し訓練を怠ったのではないか、イージェン?」
「何言われるんです、俺に新兵の訓練を押しつけておいて。おかげで俺は訓練項目を考えなきゃならないし、ちょっと真面目な奴がいて、見てほしいと頼み込まれれば邪険にはできなくなりました。時間がなくなって困ってるんですよ」
「何だ。任せてくれと言ったのはお前だろう。不満なのか」
「不満じゃないですよ。ただ、これまでファドック様がどこから時間をひねり出してたのか不思議に思ってるだけです」
イージェン・キットがむっつりとした顔でそう言うと、ファドック・ソレスは笑いながら剣を引いた。
「いまに慣れる」
「二言目にはそれですね」
イージェンは近衛の制服の乱れを直すようにしながらファドックを見た。
「そうやって、慣れてきたんですかね、ファドック様は」
「何だって?」
「いろんなことに。城の暮らしに。不思議と言えば、ときどき俺は、どうしてファドック様が姫様の隣にいるのか不思議に思うんですが」
「それは質問か? 答えが要るのか?」
近衛隊長であるアルドゥイスあたりにそのようなことを言われれば、イージェンは敬礼をして、余計なことを言いました、申し訳ありません、と叫んで踵を返すところだ。
だがファドックは彼の上官ではなかったし、それに滅多なことでは彼を――彼に限らず、誰をも――怒鳴りつけるようなことはせず、自らは平民であるという態度を崩さない。
「ええ、まあ」
曖昧にそう言うと、ファドックは珍しく困ったような顔をする。
「私がキド伯爵のもとにいる経緯は知っているのだろう?」
「別に秘密じゃないですからね」
イージェンは言った。
「何でも……
そこで近衛の青年は口ごもった。唯一の生き残り、という言い方は、その当人を前にしては少し強い言葉のような気がした。ファドックはイージェンの躊躇を見て取ってうなずく。
「
キドは若い内に妻を亡くし、子供もなかった。拾った子供を使用人にでもするならともかく、親身に世話をし、学問や剣まで教え出したというのは、当時の宮廷ではかなり話題になったらしい。その当時のことはイージェンはもちろんファドックも知らず、のちに風聞で耳にした程度だった。
「閣下にはご恩がある。閣下がアーレイドに仕えよと仰るなら、私はそれに従うだけだ」
「それは……ご立派ですけど」
イージェンは気に入らないと言うように首を振った。
「それは、
「閣下が仰ったのだ。姫様をお守りするように」
「じゃあ、何ですか。キド伯爵が王陛下に反旗でも翻したら、ファドック様は従うんですか」
イージェンが尋ねるのはもちろん本気ではない。ファドックは苦笑した。
ここに、リ・ガンと呼ばれる存在がいれば「守る」という言葉に反応し、それは彼の芯に〈守護者〉としての本能とでも言うべきものがあるからだ、というような評をしたかもしれない。だが、アーレイド城のなかにはにはリ・ガンも下町育ちの少年もおらず、話題がアーレイド城の宝庫に眠る翡翠に行くことも、当然なかった。
「お前がどんな答えを期待しているのか判らんな」
「期待される答えばっか用意しようなんて卑怯ですよ」
「まさか。そのようなことはしないさ。偽りを述べても何にもならないのだからな。ただ、お前の聞きたいことが判らなければ、それはお前の思う通りに白だとも、いや違う、黒なのだとも言えない」
「何かごまかされてる気もしますけど、まあいいや。俺はただ、ファドック様が黙って姫さんの言いなりになることに疑問はないのかと思ってただけで、その答えは『ない』なんでしょうから」
そんなのずっと判りきってることです、などとイージェンは続けた。
「気持ちは判りませんけどね」
かつてイージェン青年は、ファドックの前でシュアラについてどうこう言うエイル少年を「勇気ある」と評したものだが、今日の彼はその位置にいた。
「最近の殿下は、ずいぶんお静かだそうですが」
「お忙しいのだ。これまで手をつけられなかった分野の勉学に励まれている」
「ああ。俺なんかは、悪いことじゃないと思うんですけど、そうじゃないって向きもあるみたいですね」
シュアラが最近、これまで嫌がっていた政治だの、近隣諸都市との関わりだのに興味を持ち出したらしい、という話は親しい侍女たちから聞いていた。イージェンの言う通りにそれをよい傾向だと見なす声もあれば、そのようなことは未来の夫に任せておけばいいのだ、との声もあるようだった。
「そんなことより、お相手を決めることの方が先だろうって声も大きいですけど」
イージェンはちろりとファドックを見た。
「どうなんですか、その辺の話は」
「今年中にご婚礼と言うことはないだろうが、ご婚約はされるであろうな。私から何を聞き出したいのだ? みなが噂している以上のことは私も知らぬぞ」
にやりとするファドックにイージェンは嘆息する。
「ヴィオ男爵のご令息にダルハ伯爵の甥御さん、ファイ=フーの第四王子にワルファスの何とか公爵の血筋、噂だって、どれも決め手に欠けますね。ああ、東国の第三王子はどうしたんです」
一陣の旋風のようにアーレイドを駆け抜けていったシャムレイの第三王子の話題は、公的な場ではあまり歓迎されなかったが、城で過ごす者たちの間では一種の冗談のようになっていた。
「東の王様から、挨拶がきたんでしょう」
「そのようだな」
「ご存知ないんですか」
「私はただの護衛騎士だよ、イージェン」
ファドックは肩をすくめる。
「陛下の元に届けられた書状の内容など、知るはずもないだろう」
「俺は、人様の警護の網をくぐってきれいに消え失せたあの王子殿下がここにきたら、面白いことになるんじゃないかと思ってるんですよ」
「あのときは怒っていたのに、今度は面白がるのか?」
それこそ面白そうに、ファドックはイージェンを見た。
「そりゃ、腹くらい立ちます。こちとら、侵入者の警戒はするけど、まさか賓客が逃げ出すとは思いませんからね。怒ったのは自分の迂闊さにです」
「いいぞ」
ファドックはそう言うと、イージェンが放りっぱなしでいた剣を拾った。
「自分の失敗だったと思えるのなら上等だ。自らの失態を見たくないばかりに、王子殿下を責めるようでは何の発展もないだろうからな」
「そうやってまとめちまうんですね。知ってるんですぜ、ナヴァスに聞いたんです、あの夜ファドック様があの殿下と対峙して――」
剣を受け取りながら話していたイージェンは、びくりとして言葉をとめた。ファドックの目が警戒するように細められたかと思うと、騎士がとうに鞘に収めていた剣を音もなく抜いたからだ。
すうっ――と冷たい風が通った。
「……ファドック様?」
「いま」
騎士は呟くように言った。
「誰かが、闇の中にいるような気がしたのだが、気のせいか」
無駄のない動きでファドックは武器をまた収める。
「ファドック様でもそんなこと、あるんですね」
驚いた顔のままでイージェンは言った。
「私は万能ではないよ、そうあれたらいいとは思うがね」
青年の言葉に軽い調子で返しながら、しかしファドックは薄闇から現れて消えていった奇妙な風のことを――考えていた。