04 寝台の上で
文字数 3,496文字
これまでに、それを試したことはなかった。
だが、疑いは持っていなかった。
〈守護者〉にさえ声を送れるのだ。〈鍵〉に送れないことなどあろうか?
クラーナは、フラスに行くと言った。確かに距離は隔たっている。だがそれでもだいたいの目標が定められれば、〈鍵〉のことは判る。
そのことにも疑いは持っていなかった。
だから──戸惑った。その気配を感じ取れないことに。
(……ああ、もしかして)
しばらく、何かやり方が違うのかと模索したあとで、少年は考えた。
(「エイル」じゃ駄目なのかな)
そんなふうに思って、この日二度目となる娘の姿を取り、同じことを試みた。そこで彼女は同じ結果が出たことに不安を覚える。
(何で……判らないんだ?)
エイラは、何だかとても嫌な気持ちになった。
まさか、シーヴに何かあったはずもない。クラーナが一緒なのだし、万一のことでもあればそれがリ・ガンに判らないはずがないではないか。単に、フラスから移動しているだけかもしれない。
(彼は)
ふと――ゼレットの言葉が耳に蘇った。
(レンに 行ったのか )
「冗談……」
ここまで笑えない冗談もない。エイラは首を振った。
(クラーナがいて、んなことさせるはずが)
(いや……でもシーヴの奴、こうすると決めたら忠告なんて聞く耳を持たない)
だが、フラスから離れたかもしれないと言って、その心配までするのは気が早いだろうと思った。
クラーナが何か読み違って、動玉はフラスではない別の場所にあったのかもしれない。それを知って移動をしているのかもしれない。エイラに知らせるべきことがあれば、クラーナはきっとどうにかして――〈宮殿 〉の力でも何でも頼って、彼女にそれを伝えようとするはずだ。
クラーナは、リ・ガンが〈鍵〉を失うことの怖ろしさを知っている。エイラが、いや、これまでどんなリ・ガンも経験したことのない、数奇なる定め。
そのようなことは、しかしエイラの身には起きていない。少なくとも――まだ。
「エイル、よいか」
そう言って許しを待たずに戸を開けられるのは無論、このカーディル城の主だけだった。
「ちょ……」
焦ったのはエイラである。
「三秒 っ、待ってくださいゼレット様っ」
その高い声――女のものにしては低めながら、間違っても男のものではない――に伯爵はにやりとすると、するりと戸の内側に入ってそれを後ろ手で閉めた。
「ごきげんよう、エイラ嬢」
「……やめてくださいよ」
エイラはげんなりとして言った。
「探し人と探し猫は見つかったのか。――寝台の上で、そのようなそそる 格好をして」
エイラはその言葉に、何を言っているのかと顔をしかめ――少年の身体に合わせたままの上衣が肩から半ば落ちていることに気づくと、慌ててそれを直した。
「お前でなければ、誘っていると思うところだな」
伯爵は若い娘の姿をじろじろと見やった。
「それとも、思ってもよいのか?」
「いい訳、ないでしょうがっ」
「ふむ」
ゼレットはそのまますたすたと寝台へ歩み寄ると、思わず身を引くエイラの前に腰掛けた。
「俺はお前がどんな姿でも好ましいが、こうして男女がひとつの寝台の上に隣り合っておれば、やることはひとつと思わんか?」
「座ってきたのはゼレット様ですっ」
「ふむ」
娘の抗議にゼレットはしばし考えるようにしたが、不意に右腕を伸ばすとエイラの右手首を取った。引き寄せられまいと後方に力を入れたエイラは、しかし伯爵が彼自身の方にではなく、横に向かってその手を引いたために均衡を崩してやわらかい布団の上に倒れ込むことになる。ゼレットは軽やかに寝台の上に乗ると、自由になる片手だけで彼女の両手首を掴むと簡単に娘を組み敷いた。
「……冗談、ですよね」
両手首を左腰の辺りで押さえられたエイラの顔に、引きつった笑いが浮かんだ。
「誘惑をしておいて何を言う」
「してませんっ」
「その気もないのに、あんな格好で男を寝台に誘う女がおるか」
「してませんって言ってるでしょうが! 殴りますよっ」
「ほう」
ゼレットはまたにやりとした。
「激しいのがお望みか。ご期待に添えるよう、努力しよう」
「どこをどうしたらそういう解釈になるんですかーっ!」
伯爵が「冗談だ」と言って身を起こすのを期待したエイラは、しかしそのままゼレットの口づけを受ける羽目になる。
「エイラ」
その囁きに血の気が引くのを覚えた。このままでは本当に貞操を奪われかねない。
「ちょいっ、ゼレット様、気を確かにっ。俺はエイルですっ」
「一向に、かまわんが」
「俺がかまうって言ってるんです!」
「吝嗇なことを言うな」
ゼレットの唇が首筋に落ちた。その長い髪から瓏草の香りがする。エイラは焦った。伯爵の気が済むのを待っていたら――考えたくない結論が出ることは、考えるまでもない。
「いい加減に」
「おっと」
ゼレットは自身の右手から獲物の手首が離れたことに気づいた。その前に――少年の声と肌にも、気づいていたが。
「してください」
ようやく自由になった手で、エイルは伯爵の肩に両手を置いてその身体を押しやった。遠慮会釈なく、負傷した左肩も押してやる。
「ふむ。女の手首なら片手でどうにかなるが、男となると難しいな」
伯爵は押しのけられた分は身を引いたが、それでもエイル少年の上にのしかかったままで言った。
「両手が使えればこう簡単には逃がさんのだが」
「……永遠に使えなくていいです」
「酷いことを言う」
ゼレットは眉をひそめると、エイルが手を放した隙に再び素早く唇を重ねた。
「仕置きだ」
にやりとして言う。
「殴りますよ、ほんとに」
どうにもゼレットがどこうとしないので、エイルはその身体の下からはい出してそう言った。伯爵の髭の感触と瓏草の香りに慣れ出した自分を怖ろしく思いながら、何はともあれ寝台から降りる。
「俺はもう二度と、ゼレット様の前で寝台を椅子代わりにしないことを誓いますね」
「椅子だの卓だのの上でも、俺はかまわんぞ」
「……お断りします」
エイルは天を仰いだ。
いまのが行き過ぎた冗談なのは判っているが――それくらいは信用している――、生憎なことに笑えないと言おうか、接触が過剰なこの交流をほぼ受け入れている自分に対しても肩を落とす思いだった。
「だいたい、何なんですかいきなり。こんなことするためにきたんじゃないでしょう?」
「うん? どうだったかな?」
ゼレットは首をかしげた。
「おお、そうだった。お前があまりに色っぽいので忘れておった」
伯爵は、ぽん、と手を打ちつける。それはあまりにもわざとらしかったので、エイルは嘆息した。
「話はふたつある。まずは、サズのことだ」
その名にエイルははっとなり、真剣な顔つきをした。見れば、ゼレットも悪戯めいた笑いを消して真顔になっている。
「俺も少し町で聞いてきた話があるのだ、エイル」
「何ですって?」
エイルは驚いたように眉を上げた。
「仕事で城下に行ったんじゃなかったんですか?」
「執務官どものようなことを言うな」
ゼレットは肩をすくめ、視察のついでだ、と言った。
「第一、お前を手伝ってカーディルを守れるのならば、立派な仕事だぞ」
「……俺はミレインやセル・マルドに『閣下をたぶらかすな』と怒られたくはないですよ」
少年が言うのは半分は冗談であった。彼らもまた、翡翠とレンにまつわる忌むべき出来事を片づけたいという気持ちはあるはずだ。たとえ、その出来事自体や――エイル自身に対して半信半疑ではあっても。
「お前が先のようにたぶらかしてくれるのならば俺は嬉しいが」
「はい、はい」
エイルはその言葉を聞き流し、ゼレットに話を促した。たぶらかしてなどいないと言ったところで、どうせ同じ応酬を繰り返すことになるに決まっている。
「サズだがな、あやつは、父親がカーディルの人間であると言った」
少年はうなずいた。その話は聞いていた。
「見つけたぞ。と言っても当の本人には会わなかったが」
流行り病の影響で寝たり起きたりだそうだ、とゼレットは言った。
「流行り病?」
彼が聞き返すと、ゼレットは苦い顔をした。
「十年ほど前に死んだ家畜から病が出てな。酷いもんだった。俺の親父もそれで逝ったんだ」
「そう……でしたか」
エイルはどう言っていいか判らず、哀悼の仕草をした。ゼレットも返礼をする。
だが、疑いは持っていなかった。
〈守護者〉にさえ声を送れるのだ。〈鍵〉に送れないことなどあろうか?
クラーナは、フラスに行くと言った。確かに距離は隔たっている。だがそれでもだいたいの目標が定められれば、〈鍵〉のことは判る。
そのことにも疑いは持っていなかった。
だから──戸惑った。その気配を感じ取れないことに。
(……ああ、もしかして)
しばらく、何かやり方が違うのかと模索したあとで、少年は考えた。
(「エイル」じゃ駄目なのかな)
そんなふうに思って、この日二度目となる娘の姿を取り、同じことを試みた。そこで彼女は同じ結果が出たことに不安を覚える。
(何で……判らないんだ?)
エイラは、何だかとても嫌な気持ちになった。
まさか、シーヴに何かあったはずもない。クラーナが一緒なのだし、万一のことでもあればそれがリ・ガンに判らないはずがないではないか。単に、フラスから移動しているだけかもしれない。
(彼は)
ふと――ゼレットの言葉が耳に蘇った。
(
「冗談……」
ここまで笑えない冗談もない。エイラは首を振った。
(クラーナがいて、んなことさせるはずが)
(いや……でもシーヴの奴、こうすると決めたら忠告なんて聞く耳を持たない)
だが、フラスから離れたかもしれないと言って、その心配までするのは気が早いだろうと思った。
クラーナが何か読み違って、動玉はフラスではない別の場所にあったのかもしれない。それを知って移動をしているのかもしれない。エイラに知らせるべきことがあれば、クラーナはきっとどうにかして――〈
クラーナは、リ・ガンが〈鍵〉を失うことの怖ろしさを知っている。エイラが、いや、これまでどんなリ・ガンも経験したことのない、数奇なる定め。
そのようなことは、しかしエイラの身には起きていない。少なくとも――まだ。
「エイル、よいか」
そう言って許しを待たずに戸を開けられるのは無論、このカーディル城の主だけだった。
「ちょ……」
焦ったのはエイラである。
「三
その高い声――女のものにしては低めながら、間違っても男のものではない――に伯爵はにやりとすると、するりと戸の内側に入ってそれを後ろ手で閉めた。
「ごきげんよう、エイラ嬢」
「……やめてくださいよ」
エイラはげんなりとして言った。
「探し人と探し猫は見つかったのか。――寝台の上で、そのような
エイラはその言葉に、何を言っているのかと顔をしかめ――少年の身体に合わせたままの上衣が肩から半ば落ちていることに気づくと、慌ててそれを直した。
「お前でなければ、誘っていると思うところだな」
伯爵は若い娘の姿をじろじろと見やった。
「それとも、思ってもよいのか?」
「いい訳、ないでしょうがっ」
「ふむ」
ゼレットはそのまますたすたと寝台へ歩み寄ると、思わず身を引くエイラの前に腰掛けた。
「俺はお前がどんな姿でも好ましいが、こうして男女がひとつの寝台の上に隣り合っておれば、やることはひとつと思わんか?」
「座ってきたのはゼレット様ですっ」
「ふむ」
娘の抗議にゼレットはしばし考えるようにしたが、不意に右腕を伸ばすとエイラの右手首を取った。引き寄せられまいと後方に力を入れたエイラは、しかし伯爵が彼自身の方にではなく、横に向かってその手を引いたために均衡を崩してやわらかい布団の上に倒れ込むことになる。ゼレットは軽やかに寝台の上に乗ると、自由になる片手だけで彼女の両手首を掴むと簡単に娘を組み敷いた。
「……冗談、ですよね」
両手首を左腰の辺りで押さえられたエイラの顔に、引きつった笑いが浮かんだ。
「誘惑をしておいて何を言う」
「してませんっ」
「その気もないのに、あんな格好で男を寝台に誘う女がおるか」
「してませんって言ってるでしょうが! 殴りますよっ」
「ほう」
ゼレットはまたにやりとした。
「激しいのがお望みか。ご期待に添えるよう、努力しよう」
「どこをどうしたらそういう解釈になるんですかーっ!」
伯爵が「冗談だ」と言って身を起こすのを期待したエイラは、しかしそのままゼレットの口づけを受ける羽目になる。
「エイラ」
その囁きに血の気が引くのを覚えた。このままでは本当に貞操を奪われかねない。
「ちょいっ、ゼレット様、気を確かにっ。俺はエイルですっ」
「一向に、かまわんが」
「俺がかまうって言ってるんです!」
「吝嗇なことを言うな」
ゼレットの唇が首筋に落ちた。その長い髪から瓏草の香りがする。エイラは焦った。伯爵の気が済むのを待っていたら――考えたくない結論が出ることは、考えるまでもない。
「いい加減に」
「おっと」
ゼレットは自身の右手から獲物の手首が離れたことに気づいた。その前に――少年の声と肌にも、気づいていたが。
「してください」
ようやく自由になった手で、エイルは伯爵の肩に両手を置いてその身体を押しやった。遠慮会釈なく、負傷した左肩も押してやる。
「ふむ。女の手首なら片手でどうにかなるが、男となると難しいな」
伯爵は押しのけられた分は身を引いたが、それでもエイル少年の上にのしかかったままで言った。
「両手が使えればこう簡単には逃がさんのだが」
「……永遠に使えなくていいです」
「酷いことを言う」
ゼレットは眉をひそめると、エイルが手を放した隙に再び素早く唇を重ねた。
「仕置きだ」
にやりとして言う。
「殴りますよ、ほんとに」
どうにもゼレットがどこうとしないので、エイルはその身体の下からはい出してそう言った。伯爵の髭の感触と瓏草の香りに慣れ出した自分を怖ろしく思いながら、何はともあれ寝台から降りる。
「俺はもう二度と、ゼレット様の前で寝台を椅子代わりにしないことを誓いますね」
「椅子だの卓だのの上でも、俺はかまわんぞ」
「……お断りします」
エイルは天を仰いだ。
いまのが行き過ぎた冗談なのは判っているが――それくらいは信用している――、生憎なことに笑えないと言おうか、接触が過剰なこの交流をほぼ受け入れている自分に対しても肩を落とす思いだった。
「だいたい、何なんですかいきなり。こんなことするためにきたんじゃないでしょう?」
「うん? どうだったかな?」
ゼレットは首をかしげた。
「おお、そうだった。お前があまりに色っぽいので忘れておった」
伯爵は、ぽん、と手を打ちつける。それはあまりにもわざとらしかったので、エイルは嘆息した。
「話はふたつある。まずは、サズのことだ」
その名にエイルははっとなり、真剣な顔つきをした。見れば、ゼレットも悪戯めいた笑いを消して真顔になっている。
「俺も少し町で聞いてきた話があるのだ、エイル」
「何ですって?」
エイルは驚いたように眉を上げた。
「仕事で城下に行ったんじゃなかったんですか?」
「執務官どものようなことを言うな」
ゼレットは肩をすくめ、視察のついでだ、と言った。
「第一、お前を手伝ってカーディルを守れるのならば、立派な仕事だぞ」
「……俺はミレインやセル・マルドに『閣下をたぶらかすな』と怒られたくはないですよ」
少年が言うのは半分は冗談であった。彼らもまた、翡翠とレンにまつわる忌むべき出来事を片づけたいという気持ちはあるはずだ。たとえ、その出来事自体や――エイル自身に対して半信半疑ではあっても。
「お前が先のようにたぶらかしてくれるのならば俺は嬉しいが」
「はい、はい」
エイルはその言葉を聞き流し、ゼレットに話を促した。たぶらかしてなどいないと言ったところで、どうせ同じ応酬を繰り返すことになるに決まっている。
「サズだがな、あやつは、父親がカーディルの人間であると言った」
少年はうなずいた。その話は聞いていた。
「見つけたぞ。と言っても当の本人には会わなかったが」
流行り病の影響で寝たり起きたりだそうだ、とゼレットは言った。
「流行り病?」
彼が聞き返すと、ゼレットは苦い顔をした。
「十年ほど前に死んだ家畜から病が出てな。酷いもんだった。俺の親父もそれで逝ったんだ」
「そう……でしたか」
エイルはどう言っていいか判らず、哀悼の仕草をした。ゼレットも返礼をする。