5 惑われましたか
文字数 3,417文字
「――シーヴ様」
はっと、彼は目を開けた。
太陽 の沈んだばかりのその地にはまだ熱が残っていたが、あと半刻もしないうちに気温はすうっと下がっていくだろう。彼はこの空気を知っていた。
「シーヴ様……本物の、シーヴ様? それともミンの夢が形になって現れたの? あなたは砂漠の、夢魔?」
「――ミン」
彼は両手で顔を覆った。幻ではない。目の前で呆然と彼を見つめるのは、繰り返し心に思いだした彼の砂漠の娘。
「……俺だ」
「シーヴ様!」
深く息をつき終えた青年が手を下ろしてそう言うと、ウーレの娘はもはや一瞬 も躊躇わなかった。手にしていた布を落としたことにも気づかぬようにシーヴの腕に飛び込む。
「シーヴ様、シーヴ様だ! ミンのシーヴ様! 本物のシーヴ様だ、シーヴ様の匂いがする!」
娘は彼の胸に顔を埋めると何度も何度も、繰り返し名前を呼んだ。どうして、だの、どうやって、だのという台詞は砂漠の娘には必要なかった。ただ、青年がそこにいてその手が彼女に触れる、それだけでよかった。シーヴの心には考えていた以上の愛おしさが湧き上がり、彼は力強く娘を抱いた。
「ミン。……会いたかったぞ」
「そんなの、ミンの方が上よ。毎日毎日、シーヴ様を思ってた。早くシーヴ様に会わせてって砂神 にお祈りしたけど、こんなふうに叶うなんて」
青年は娘を抱く手をゆるめた。
少女の願いを叶えたのは、砂の神ではない。
「帰ってきてくれたのね、シーヴ様を待つあたしの……みんなのところに」
「ミン」
違うのだ、そうではないのだ――との即答はできなかった。
熱い空気。風の音。踏みしめる砂の感触。彼の全身、髪の毛一筋までもがそれを感じる喜びに満ちた。
ああ、そうだ、彼はこんなにもこの地を愛おしく思っている!
「シーヴ様が帰ってきたって知ったら、みんな喜ぶ!」
ミンは顔を上げ、目を輝かせて言ったが、考え直したように首を振った。
「でも、まだ駄目。もう少し、ミンだけのシーヴ様でいて」
娘はそう言うとシーヴの頬に両手で触れ、背伸びをするとその唇に初めは優しく、次第に激しく口づけた。シーヴはミンの思いと自身の思いに心と身体が熱くなるのを覚えながら、しかしそっと唇を離した。
「すまない、ミン。俺は……帰ってきた訳じゃないんだ」
その言葉に、ミンの目が翳る。
「そう。……そうね。シーヴ様は運命の女を探しに行ったんだものね。見つけたんでしょう? そして、シーヴ様のなかの『いちばん』はもう、ミンじゃない」
「違う」
これには即答ができた。
「そうじゃない、違うんだ。俺は変わらずお前を愛している、ミン。〈翡翠の娘〉は俺の心を揺さぶるが、お前への気持ちとは……違う」
言いながら既視感を覚えた。彼は夢のなかで、彼女にこのような言葉を告げたことがあった。夢のなかのミンは、彼の言葉を「運命の女には本気で、自分に対するものはそうではないのだ」と取った。
「……そうやって否定するのは、認めたくないからよ、シーヴ様」
現実のミンはそんなふうに言った。
「予言の女だから恋をするなんて自分の心じゃないみたいで嫌だと、シーヴ様はそう思っているだけ。でも違うのよ、順番は逆。シーヴ様が恋をするから、その相手が予言されたんだもの」
彼のラッチィはそう言って首を振った。
「違うんだ、ミン。お前のことは愛しているとはっきり言える。だが、エイラに対してはそうじゃないんだ。俺と彼女のつながりはそういうものじゃない」
「エイラ、と言うのね。きれいな人?」
ミンはシーヴの言葉にまた首を振って、そう尋ねた。
「まあ、な」
仕方なしにシーヴはそう答えた。
絶世の美女と言うのではないし、目鼻立ちを言えばミンの方がはっきりしているくらいだ。だが、リ・ガンと〈鍵〉と言うつながりはエイラをシーヴに強く印象づける。
たとえそうでなかったとしても彼女を美人だと聞いて笑う者はいないだろう。エイラ自身は、苦い顔をするとしても。
「よかった」
ミンは笑った。
「覚えてる、シーヴ様? いつだったかあたし、その運命の女が美人じゃなくてシーヴ様ががっかりするといい、って言ったわ。でも嘘よ、シーヴ様の心の椅子にあたしの代わりに座る女性 なら、きれいな人の方が嬉しいもの」
「俺の心の椅子、か」
そこに座っているのは誰なのだろう。ずっと、そこにいるのはミンだと思っていたが、娘はそれを否定して――座っていたのだとしても自ら立ち上がろうとしている。
だがいまでも、それに代わるのがエイラだという意識はない。
「いいの、シーヴ様。ミンはいいの。『リャカラーダ様』が結婚しても、ミンのなかではずっとシーヴ様がいちばんだって決めてるんだから。それにシーヴ様が結婚すれば、ミンもウーレの誰かの妻になるわ」
「俺のラッチィであることをやめるというのか?」
「そうよ。シーヴ様が結婚するってことはそういうことだもの」
彼女は判っている。もちろん、彼も判っている。
「それでも、ミンの『いちばん』はシーヴ様だって認めてくれる男じゃなければ結婚はしない」
そう言って笑う砂漠の娘を愛しく思う、この気持ちに偽りはない。それどころか、以前よりも強くなっているように――思うのに。
「聞け、ミン。俺はまたお前のところに帰ってくる。お前が俺のラッチィであるうちに。待っていてくれるか」
「待つわ」
ミンは即答した。彼女は、シーヴがすぐに去ってしまうつもりだと気づいた。だが行かないでほしいとは決して言わなかった。
彼は、帰ってくると言ってこうして帰ってきた。ならば、次も必ず帰ってくる。
「ミンは待ってる。ウーレは待ってる。だから、安心してシーヴ様」
彼女を抱く彼の腕から、不意に――その感触が薄れていった。同時に彼はまた目眩と、全身が総毛立つ感覚を覚える。
シーヴは舌打ちした。いいようにされている、という思いは面白いものではない。
「お帰りなさいませ、殿下」
「……好き勝手に、やってくれたな」
薄暗い部屋でシーヴはミオノールを睨みつけた。砂漠の香りが百合の匂いに打ち消されるようだった。
「殿下のためを思ってのこと。如何でしたか、久しぶりの恋人は」
「どうせ、見ていたのだろう」
シーヴは怒りを覚えながら言った。ミンとの再会に熱くなった心と身体は、まるで魔術でもかけられたかのようにすっと冷めていた。もちろん、ミオノールがかけるのならば逆の魔術であるはずで、これは彼の怒りの大きさを証立てただけだった。
「何のためにこんなことをする。お前は、俺を惑わしなどしないと言ったが。これが『惑わす』でなくて何だというのだ」
「惑われましたか」
ミオノールは肩をすくめた。
「しかし、いまのは夢ではございませんよ。砂漠も、娘も、真実の」
「そんなことは判っている。あれが幻だというのなら、俺はこの剣で自分を刺してもいい」
砂漠の風。ミンの温もり。魔術ごときで見誤るものか、という自負がある。それを聞いたミオノールは濃い青色の瞳で笑った。
「私はますます、殿下に心を奪われそうです」
「黙れ」
ミオノールはまた肩をすくめた。
「では、殿下。お次はどなたにお会いになりたいですか? 第三王子殿下の留守を守っておいでの、侍従殿などいかがです?」
シーヴは、また「黙れ」とは言わずに――刀子を抜いた。ミオノールの眉が上がる。
「お気に召しませんか」
平然と尋ねるミオノールへと向かうシーヴの目には、物騒な光が宿った。
「このようなものが、お前たちに役に立たないだろうとは判っている。だがそれでも、今度、先のような真似をしたら、俺は何とかしてお前の胸にこれを突き立ててやるからな」
「わたくしの心がお判りいただけないとは残念なことです」
「――去れ」
シーヴは短く言った。
「では、今日のところは退散いたしましょう」
ミオノールは優雅な礼をした。
「それと、ご招待の件をお考え下さいませ。お嫌でしょうから、レンに、とは申しません。しかしこのような宿は殿下に相応しくございませんから」
シーヴは刀子をかまえるふりをした。ミオノールもそれが「ふり」にすぎないことは判っているのか、怖れる様子も、そのふりも見せず、ただ目線を下げて――消えた。
はっと、彼は目を開けた。
「シーヴ様……本物の、シーヴ様? それともミンの夢が形になって現れたの? あなたは砂漠の、夢魔?」
「――ミン」
彼は両手で顔を覆った。幻ではない。目の前で呆然と彼を見つめるのは、繰り返し心に思いだした彼の砂漠の娘。
「……俺だ」
「シーヴ様!」
深く息をつき終えた青年が手を下ろしてそう言うと、ウーレの娘はもはや一
「シーヴ様、シーヴ様だ! ミンのシーヴ様! 本物のシーヴ様だ、シーヴ様の匂いがする!」
娘は彼の胸に顔を埋めると何度も何度も、繰り返し名前を呼んだ。どうして、だの、どうやって、だのという台詞は砂漠の娘には必要なかった。ただ、青年がそこにいてその手が彼女に触れる、それだけでよかった。シーヴの心には考えていた以上の愛おしさが湧き上がり、彼は力強く娘を抱いた。
「ミン。……会いたかったぞ」
「そんなの、ミンの方が上よ。毎日毎日、シーヴ様を思ってた。早くシーヴ様に会わせてって
青年は娘を抱く手をゆるめた。
少女の願いを叶えたのは、砂の神ではない。
「帰ってきてくれたのね、シーヴ様を待つあたしの……みんなのところに」
「ミン」
違うのだ、そうではないのだ――との即答はできなかった。
熱い空気。風の音。踏みしめる砂の感触。彼の全身、髪の毛一筋までもがそれを感じる喜びに満ちた。
ああ、そうだ、彼はこんなにもこの地を愛おしく思っている!
「シーヴ様が帰ってきたって知ったら、みんな喜ぶ!」
ミンは顔を上げ、目を輝かせて言ったが、考え直したように首を振った。
「でも、まだ駄目。もう少し、ミンだけのシーヴ様でいて」
娘はそう言うとシーヴの頬に両手で触れ、背伸びをするとその唇に初めは優しく、次第に激しく口づけた。シーヴはミンの思いと自身の思いに心と身体が熱くなるのを覚えながら、しかしそっと唇を離した。
「すまない、ミン。俺は……帰ってきた訳じゃないんだ」
その言葉に、ミンの目が翳る。
「そう。……そうね。シーヴ様は運命の女を探しに行ったんだものね。見つけたんでしょう? そして、シーヴ様のなかの『いちばん』はもう、ミンじゃない」
「違う」
これには即答ができた。
「そうじゃない、違うんだ。俺は変わらずお前を愛している、ミン。〈翡翠の娘〉は俺の心を揺さぶるが、お前への気持ちとは……違う」
言いながら既視感を覚えた。彼は夢のなかで、彼女にこのような言葉を告げたことがあった。夢のなかのミンは、彼の言葉を「運命の女には本気で、自分に対するものはそうではないのだ」と取った。
「……そうやって否定するのは、認めたくないからよ、シーヴ様」
現実のミンはそんなふうに言った。
「予言の女だから恋をするなんて自分の心じゃないみたいで嫌だと、シーヴ様はそう思っているだけ。でも違うのよ、順番は逆。シーヴ様が恋をするから、その相手が予言されたんだもの」
彼のラッチィはそう言って首を振った。
「違うんだ、ミン。お前のことは愛しているとはっきり言える。だが、エイラに対してはそうじゃないんだ。俺と彼女のつながりはそういうものじゃない」
「エイラ、と言うのね。きれいな人?」
ミンはシーヴの言葉にまた首を振って、そう尋ねた。
「まあ、な」
仕方なしにシーヴはそう答えた。
絶世の美女と言うのではないし、目鼻立ちを言えばミンの方がはっきりしているくらいだ。だが、リ・ガンと〈鍵〉と言うつながりはエイラをシーヴに強く印象づける。
たとえそうでなかったとしても彼女を美人だと聞いて笑う者はいないだろう。エイラ自身は、苦い顔をするとしても。
「よかった」
ミンは笑った。
「覚えてる、シーヴ様? いつだったかあたし、その運命の女が美人じゃなくてシーヴ様ががっかりするといい、って言ったわ。でも嘘よ、シーヴ様の心の椅子にあたしの代わりに座る
「俺の心の椅子、か」
そこに座っているのは誰なのだろう。ずっと、そこにいるのはミンだと思っていたが、娘はそれを否定して――座っていたのだとしても自ら立ち上がろうとしている。
だがいまでも、それに代わるのがエイラだという意識はない。
「いいの、シーヴ様。ミンはいいの。『リャカラーダ様』が結婚しても、ミンのなかではずっとシーヴ様がいちばんだって決めてるんだから。それにシーヴ様が結婚すれば、ミンもウーレの誰かの妻になるわ」
「俺のラッチィであることをやめるというのか?」
「そうよ。シーヴ様が結婚するってことはそういうことだもの」
彼女は判っている。もちろん、彼も判っている。
「それでも、ミンの『いちばん』はシーヴ様だって認めてくれる男じゃなければ結婚はしない」
そう言って笑う砂漠の娘を愛しく思う、この気持ちに偽りはない。それどころか、以前よりも強くなっているように――思うのに。
「聞け、ミン。俺はまたお前のところに帰ってくる。お前が俺のラッチィであるうちに。待っていてくれるか」
「待つわ」
ミンは即答した。彼女は、シーヴがすぐに去ってしまうつもりだと気づいた。だが行かないでほしいとは決して言わなかった。
彼は、帰ってくると言ってこうして帰ってきた。ならば、次も必ず帰ってくる。
「ミンは待ってる。ウーレは待ってる。だから、安心してシーヴ様」
彼女を抱く彼の腕から、不意に――その感触が薄れていった。同時に彼はまた目眩と、全身が総毛立つ感覚を覚える。
シーヴは舌打ちした。いいようにされている、という思いは面白いものではない。
「お帰りなさいませ、殿下」
「……好き勝手に、やってくれたな」
薄暗い部屋でシーヴはミオノールを睨みつけた。砂漠の香りが百合の匂いに打ち消されるようだった。
「殿下のためを思ってのこと。如何でしたか、久しぶりの恋人は」
「どうせ、見ていたのだろう」
シーヴは怒りを覚えながら言った。ミンとの再会に熱くなった心と身体は、まるで魔術でもかけられたかのようにすっと冷めていた。もちろん、ミオノールがかけるのならば逆の魔術であるはずで、これは彼の怒りの大きさを証立てただけだった。
「何のためにこんなことをする。お前は、俺を惑わしなどしないと言ったが。これが『惑わす』でなくて何だというのだ」
「惑われましたか」
ミオノールは肩をすくめた。
「しかし、いまのは夢ではございませんよ。砂漠も、娘も、真実の」
「そんなことは判っている。あれが幻だというのなら、俺はこの剣で自分を刺してもいい」
砂漠の風。ミンの温もり。魔術ごときで見誤るものか、という自負がある。それを聞いたミオノールは濃い青色の瞳で笑った。
「私はますます、殿下に心を奪われそうです」
「黙れ」
ミオノールはまた肩をすくめた。
「では、殿下。お次はどなたにお会いになりたいですか? 第三王子殿下の留守を守っておいでの、侍従殿などいかがです?」
シーヴは、また「黙れ」とは言わずに――刀子を抜いた。ミオノールの眉が上がる。
「お気に召しませんか」
平然と尋ねるミオノールへと向かうシーヴの目には、物騒な光が宿った。
「このようなものが、お前たちに役に立たないだろうとは判っている。だがそれでも、今度、先のような真似をしたら、俺は何とかしてお前の胸にこれを突き立ててやるからな」
「わたくしの心がお判りいただけないとは残念なことです」
「――去れ」
シーヴは短く言った。
「では、今日のところは退散いたしましょう」
ミオノールは優雅な礼をした。
「それと、ご招待の件をお考え下さいませ。お嫌でしょうから、レンに、とは申しません。しかしこのような宿は殿下に相応しくございませんから」
シーヴは刀子をかまえるふりをした。ミオノールもそれが「ふり」にすぎないことは判っているのか、怖れる様子も、そのふりも見せず、ただ目線を下げて――消えた。