4 手がかり
文字数 3,190文字
そんなふうにして、カーディル伯爵の元での日々は続いていた。
ゼレットに連れ立ってカーディルの町に出れば懐かしい活気に触れることもあり、働いているのだからと給金ももらったエイルはちょっとした衣服を買ったり、〈塔〉にあらかた置いてきてしまったものを少し買い直したり――何でも買ってやる、というゼレットの言葉は丁重に断ったり――していた。薬草を作る器具などはゼレットに見られれば奇妙に思われただろうが、幸か不幸か、冬枯れの小さな町でそのような特殊なものが手に入ることはなかった。
そう、あらかた置いてきてしまった。
手元に残っていたのは、身につけていたささやかな金 やわずかな薬草が入った小袋と、ファドックから受け取った短剣だけ。
これは大きな幸運と言わねばならなかった。もし、その短剣を置いてきてしまったら、少年は危険――かの青年に、遠く砂漠への旅など――を承知であの場所へ戻る決意をしていただろう。
これを振るう機会などそうそうなかったし、短剣の使い方自体ろくに判らない。
(守りになるか判らぬが)
(持っていけ)
ファドックの言葉が蘇る。このような小さな武器を扱う訓練は少年にしなかった、と思っての言葉だったのだろうか。
(充分です、ファドック様)
これは身の守りにはならなかったかもしれないが、心の守りには充分、十二分だった。これに触れると、必ずアーレイドに戻ろうという気持ちになれるのだ。心の道に迷っても、実際の路地裏に迷っても、これはいまでは少年の勇気のもとだった。
城内では普通、武器など身につけない。ゼレットやタルカスは細身の剣を持っていることもあるが、常時身につけなければならない危険はこの城にはない。だから本来ならば当然、客人だろうと使用人だろうと、エイルがそんなものを持つ必要性はないし、ゼレットのような鷹揚な城主でなければ武器の携帯など禁じられてもおかしくない。
しかし少年は、小さなそれが目立たぬのをいいことに、ずっと身につけていた。〈塔〉の件で懲りたのだ。いつ何時、身ひとつで旅立つ――或いは、考えたくないが逃げ出す――ことになるかも判らない。
「これをお前が作ったと?」
ゼレットはたいてい、自身の執務室で簡単な食事を取っていたが、時間が空くと食堂に降りてきては使用人たちと食卓をともにした。城の主が使用人たちと同じものを同じ場所で食べるなどアーレイドでは考えられないことだが、ゼレットが仕えるレンディアル王の城でも有り得ないことは同じだろう。ゼレットは単に、この小さな伯爵領のなかで威張る気がないだけなのだ。
「作ったって言っても」
エイルは肩をすくめた。
「刻んで、鍋に入れて、煮込んだだけです」
「立派なもんじゃないか。俺にはできんよ」
ここの厨房では賄い食を用意することはなく、食堂が混んでいないときに勝手に料理を大鍋からすくって、休憩していいことになっていた。食事をする人数が判っているからできることである。そうして彼がささやかな昼飯を楽しんでいるときに、ゼレットがそう言いながら隣に座ったという訳だ。
「簡単ですよ」
「それじゃ今度ひとつ、教えてもらうとするか」
「……冗談ですよね」
「何をびびっとる。寝室で料理を教えろなどとは言っておらんぞ」
そんな話題がはじまると、近くにいた使用人たちがすすっと席から去っていく。彼らはこのような話を忌むのではなく――またはじまった、それなら気を利かせよう、とばかりにそこを離れるのだ。つまり、伯爵の好みが両性に及ぶこともまた、秘密でも何でもないということだ。
「ゼレット様、やめましょうよ、それ」
「何故だ」
不思議そうな顔をして、ゼレットは問う。
「俺がお前を口説いたらいかんか。女を陥とす手管はいろいろ身につけたが、男はこの年になっても難しいな」
「こう言っても閣下は怒らないから何度でも言いますが、俺にはクジナの趣味はないんですってば」
「お前はそう言うが」
伯爵はエイルの作った煮込み料理に口をつけ、美味い、と呟いてから続けた。
「それでもこうして我が客人のままでいるからには、悪い気はしておらんのだろう?」
「……ええとですね」
ゼレットがどこまで本気で言っているのか判らない。
「俺、ゼレット様に聞きたいことがあるんです」
「何だ。女の陥とし方か」
「どっちかっていうと、陥とされるよりはそっちの方が興味ありますけどね」
そう言う話じゃありません、とエイルが言うと、ゼレットはあからさまにがっかりした顔をした。
「あの」
何となく声を潜め、その流れでゼレットの方に顔を寄せると、伯爵は一気に嬉しそうな顔になって少年の肩など抱き寄せたりする。そのようなことをされると、軽い雷神の子 の衝撃が走るのだが、それに顔をしかめても伯爵の行為に困っているとしか見えない。
「内緒話か。なかなかよいな」
「ええとですね」
調子が狂う。ゼレットのそばにいると安定のようなものを覚えるのはファドックと同じだったが、それでもこのような会話は「調子が狂う」としか表現できなかった。
「聞きたいのは」
腕を払おうかと思ったが、力強い手でかっちり掴まれていては簡単には敵わない。仕方なく、エイルはそのままの姿勢で続けた。
「翡翠 」
その単語を口にすると、楽しそうにしていた伯爵の表情がふと変わった。軽く眉根をひそめ、エイルを抱いていた腕がゆるむ。チャンスとばかりにそれから逃げだしつつ、少年は伯爵を見た。
「翡翠、だと?」
「そうです 」
「どこで聞いた?」
その反応にどきりとする。「何のことだ」という答えではない。当たり 、と心が叫んだ。
「ここに……あるんですか?」
「――いや」
伯爵はエイルを解放するというように両手をぱっとあげた。
「ここにはない。失われた」
「失われた?」
「隠されていると言ってもいい。……カーディル家の伝承など知っているのは、ミレインくらいか。いつの間にあの女と仲良くなった。興味のないようなことを言っておきながら、隅に置けんな」
「違いますよ、そんな女性 は知りません」
「そうか? なら誰に聞いた」
「……誰にも」
エイルが呟くと、ゼレットはますます眉をひそめる。
「誰にも聞いていないと言うのか? なら、何故知っている。まさかお前は天が俺の遊び相手に寄越したのではなく、〈翡翠〉の使いだなどと言い出すまいな」
「使いって……何です。そんな伝承があるんですか」
「ない。出任せだ」
伯爵は気軽く言うが、その目にはこれまでなかったものが宿っていた。これは――不審だろうか。
エイルは胸が痛むのを覚える。たとえ困った方向からであってもゼレットに好かれるのは安心材料であるのに、家宝の宝玉――だか何だか知らないが――を狙っているとでも思われたのなら、心外だ。
「ゼレット様。あなたは……」
どう言おうか、迷った。だが迷っている内に言葉が滑り出た。
「〈守護者〉でしょう」
「――ディーグ!」
耳元で叫ばれる形となって、エイルは反射的に耳を塞ぐ。
「何でしょう、閣下」
前掛け手を拭きながら、料理長が厨房から顔を出す。
「エイルを借り受けるぞ」
「どうぞどうぞ、好きにお持ちください」
もともと閣下の客人です、と料理長は有能な調理人を簡単に雇い主に引き渡し、さっさと彼の仕事場に戻っていった。エイル少年は意外と簡単に陥ちたな、などと思われているかもしれない。
だが料理長をはじめ、食堂にいた人間にその誤解を解いて回る気にはならなかった。彼はもしかしたら、これまででいちばん、翡翠の宮殿 への手がかりに近づいているのかもしれないのだから。
ゼレットに連れ立ってカーディルの町に出れば懐かしい活気に触れることもあり、働いているのだからと給金ももらったエイルはちょっとした衣服を買ったり、〈塔〉にあらかた置いてきてしまったものを少し買い直したり――何でも買ってやる、というゼレットの言葉は丁重に断ったり――していた。薬草を作る器具などはゼレットに見られれば奇妙に思われただろうが、幸か不幸か、冬枯れの小さな町でそのような特殊なものが手に入ることはなかった。
そう、あらかた置いてきてしまった。
手元に残っていたのは、身につけていたささやかな
これは大きな幸運と言わねばならなかった。もし、その短剣を置いてきてしまったら、少年は危険――かの青年に、遠く砂漠への旅など――を承知であの場所へ戻る決意をしていただろう。
これを振るう機会などそうそうなかったし、短剣の使い方自体ろくに判らない。
(守りになるか判らぬが)
(持っていけ)
ファドックの言葉が蘇る。このような小さな武器を扱う訓練は少年にしなかった、と思っての言葉だったのだろうか。
(充分です、ファドック様)
これは身の守りにはならなかったかもしれないが、心の守りには充分、十二分だった。これに触れると、必ずアーレイドに戻ろうという気持ちになれるのだ。心の道に迷っても、実際の路地裏に迷っても、これはいまでは少年の勇気のもとだった。
城内では普通、武器など身につけない。ゼレットやタルカスは細身の剣を持っていることもあるが、常時身につけなければならない危険はこの城にはない。だから本来ならば当然、客人だろうと使用人だろうと、エイルがそんなものを持つ必要性はないし、ゼレットのような鷹揚な城主でなければ武器の携帯など禁じられてもおかしくない。
しかし少年は、小さなそれが目立たぬのをいいことに、ずっと身につけていた。〈塔〉の件で懲りたのだ。いつ何時、身ひとつで旅立つ――或いは、考えたくないが逃げ出す――ことになるかも判らない。
「これをお前が作ったと?」
ゼレットはたいてい、自身の執務室で簡単な食事を取っていたが、時間が空くと食堂に降りてきては使用人たちと食卓をともにした。城の主が使用人たちと同じものを同じ場所で食べるなどアーレイドでは考えられないことだが、ゼレットが仕えるレンディアル王の城でも有り得ないことは同じだろう。ゼレットは単に、この小さな伯爵領のなかで威張る気がないだけなのだ。
「作ったって言っても」
エイルは肩をすくめた。
「刻んで、鍋に入れて、煮込んだだけです」
「立派なもんじゃないか。俺にはできんよ」
ここの厨房では賄い食を用意することはなく、食堂が混んでいないときに勝手に料理を大鍋からすくって、休憩していいことになっていた。食事をする人数が判っているからできることである。そうして彼がささやかな昼飯を楽しんでいるときに、ゼレットがそう言いながら隣に座ったという訳だ。
「簡単ですよ」
「それじゃ今度ひとつ、教えてもらうとするか」
「……冗談ですよね」
「何をびびっとる。寝室で料理を教えろなどとは言っておらんぞ」
そんな話題がはじまると、近くにいた使用人たちがすすっと席から去っていく。彼らはこのような話を忌むのではなく――またはじまった、それなら気を利かせよう、とばかりにそこを離れるのだ。つまり、伯爵の好みが両性に及ぶこともまた、秘密でも何でもないということだ。
「ゼレット様、やめましょうよ、それ」
「何故だ」
不思議そうな顔をして、ゼレットは問う。
「俺がお前を口説いたらいかんか。女を陥とす手管はいろいろ身につけたが、男はこの年になっても難しいな」
「こう言っても閣下は怒らないから何度でも言いますが、俺にはクジナの趣味はないんですってば」
「お前はそう言うが」
伯爵はエイルの作った煮込み料理に口をつけ、美味い、と呟いてから続けた。
「それでもこうして我が客人のままでいるからには、悪い気はしておらんのだろう?」
「……ええとですね」
ゼレットがどこまで本気で言っているのか判らない。
「俺、ゼレット様に聞きたいことがあるんです」
「何だ。女の陥とし方か」
「どっちかっていうと、陥とされるよりはそっちの方が興味ありますけどね」
そう言う話じゃありません、とエイルが言うと、ゼレットはあからさまにがっかりした顔をした。
「あの」
何となく声を潜め、その流れでゼレットの方に顔を寄せると、伯爵は一気に嬉しそうな顔になって少年の肩など抱き寄せたりする。そのようなことをされると、軽い
「内緒話か。なかなかよいな」
「ええとですね」
調子が狂う。ゼレットのそばにいると安定のようなものを覚えるのはファドックと同じだったが、それでもこのような会話は「調子が狂う」としか表現できなかった。
「聞きたいのは」
腕を払おうかと思ったが、力強い手でかっちり掴まれていては簡単には敵わない。仕方なく、エイルはそのままの姿勢で続けた。
「
その単語を口にすると、楽しそうにしていた伯爵の表情がふと変わった。軽く眉根をひそめ、エイルを抱いていた腕がゆるむ。チャンスとばかりにそれから逃げだしつつ、少年は伯爵を見た。
「翡翠、だと?」
「
「どこで聞いた?」
その反応にどきりとする。「何のことだ」という答えではない。
「ここに……あるんですか?」
「――いや」
伯爵はエイルを解放するというように両手をぱっとあげた。
「ここにはない。失われた」
「失われた?」
「隠されていると言ってもいい。……カーディル家の伝承など知っているのは、ミレインくらいか。いつの間にあの女と仲良くなった。興味のないようなことを言っておきながら、隅に置けんな」
「違いますよ、そんな
「そうか? なら誰に聞いた」
「……誰にも」
エイルが呟くと、ゼレットはますます眉をひそめる。
「誰にも聞いていないと言うのか? なら、何故知っている。まさかお前は天が俺の遊び相手に寄越したのではなく、〈翡翠〉の使いだなどと言い出すまいな」
「使いって……何です。そんな伝承があるんですか」
「ない。出任せだ」
伯爵は気軽く言うが、その目にはこれまでなかったものが宿っていた。これは――不審だろうか。
エイルは胸が痛むのを覚える。たとえ困った方向からであってもゼレットに好かれるのは安心材料であるのに、家宝の宝玉――だか何だか知らないが――を狙っているとでも思われたのなら、心外だ。
「ゼレット様。あなたは……」
どう言おうか、迷った。だが迷っている内に言葉が滑り出た。
「〈守護者〉でしょう」
「――ディーグ!」
耳元で叫ばれる形となって、エイルは反射的に耳を塞ぐ。
「何でしょう、閣下」
前掛け手を拭きながら、料理長が厨房から顔を出す。
「エイルを借り受けるぞ」
「どうぞどうぞ、好きにお持ちください」
もともと閣下の客人です、と料理長は有能な調理人を簡単に雇い主に引き渡し、さっさと彼の仕事場に戻っていった。エイル少年は意外と簡単に陥ちたな、などと思われているかもしれない。
だが料理長をはじめ、食堂にいた人間にその誤解を解いて回る気にはならなかった。彼はもしかしたら、これまででいちばん、