06 息抜きが必要な人
文字数 3,094文字
侍女はぽかんと口を開けて、それからそんな自分に気づいたようにそれを閉じると、聞いた言葉を繰り返した。
「魔術師協会 ?」
「そうよ」
「あなた、せっかくの休日にそんなところへ行ってきたって言うの? しかも、ひとりで?」
「そうよ」
レイジュは繰り返した。
「だって、イージェンは捕まらなかったし、そもそも近衛隊員 に護衛の真似を何度もさせるのも悪いじゃない」
「だからってどうして、協会なの」
カリアは問うた。
「ひとりで南区なんかに踏み込まなかったのは賢明だと思うけれど……魔術師協会? あなたに必要なのは恋の女神 の助けか、母なる女神 の癒しか、そうでなければどこか路地裏の占い師 の怪しい呪 いなんじゃなくて」
「呪 い」
レイジュはカリアの言葉を繰り返すとうなずいた。
「そう言ったものをかけられたら、人は違ったように見えると思う、カリア?」
年上の侍女は友人の言いたいことが判った。
「……ちょっとそれは、想像力が豊かすぎるんじゃないかしら、レイジュ」
ついそう返したカリアは、レイジュの表情が沈痛なものになるのを目にして、しまった、と思った。
以前のレイジュならば、そんなことはない、ファドック様は何か魔法でもかけられてるに決まってるとばかりに──何とも見事な真実を──叫び返してでもくるだろう。それが、カリアの前で本物の涙を見せかけた頃から、ふとした言葉に弱気な顔を見せ、涙が浮かびそうになるのを必死でこらえる様子があった。幾度かは、こらえることに失敗もしている。
その姿が余りにも痛々しくて、カリアは、テリスンがキド伯爵と親しいガルス男爵の落とし子かもしれない、という話を友人にするのを避けていた。キド伯爵が、養い子に友人の娘を娶らせるのも悪くないと判断するかもしれない――というのは、突飛な考えでもない。
だが、それからしばらくレイジュの口からファドックの名を聞かなかった彼女は、レイジュがかの騎士 を――そう簡単に諦めるとは思えないが、何かしらの結論に落ち着いて思い悩むのをやめたのかも知れないと思っていた。彼女が主張するほど「おかしい」と思っている者はほとんどいないことに気づいたのだと、そう考えていた。
しかし彼女の友人は、口に出さないままで思い詰めていただけだった。カリアはようやくそのことに気づき、気づかなかった自分を叱咤した。
彼女と同じかそれ以上の懸念を持って近衛隊長を見つめるのは、シュアラと、ほかにいるとしたらテリスンくらいだっただろう。だが王女のそれには自責が混じり、掃除女の方はどうであるのかカリアには判らなかったが、テリスンがどんな形の感情を覚えていようと、レイジュがあの娘とファドックについて語り合うことはあるまい。レイジュが悩みを相談できる人間は、いなかったのだ。
「だからって」
それらの思いを振り払うように、カリアは息を吐きながら言った。
「魔術師協会」
侍女はまた繰り返した。
「うん」
友人が何をそんなに呆れているのか――とレイジュには見えた――よく掴めないままレイジュはうなずいた。
「……それで、何か判ったの」
仕方なくカリアは尋ねた。王宮の侍女がそのような場所へ行くべきではないと判る程度にはレイジュも侍女として自覚があるはずだったが、いつかカリアが言ったように、〈恋の女神 の力は絶対〉と言うところか。
「具体的なことは、何も」
「……まさか、ファドック様の名は出してないでしょうね」
思わずと言った調子でカリアが言うと、レイジュは少し傷ついた顔をした。
「そこまで、考えなしじゃないわ」
言われたカリアは友人に謝罪の仕草をしたものの、それはどうだろうかとこっそり考えていた。
魔術師協会は誰がどのような依頼にきてもそれを――滅多なことでは――余所に洩らさないとは言え、王女付きの侍女が近衛隊長を案じて呪いについて尋ねたなどという話は、どうにもよろしくない。
「ただ」
「ただ?」
「そういうことも有り得るって」
「それくらいなら、私にも言えるわね」
レイジュがまた肩を落とす前に、カリアはきっぱりと言った。
「あまり気を回しすぎないことよ、レイジュ。たとえ、どんなにお変わりになったように見えても、ファドック様は……ファドック様だわ」
「もちろんそうだわ」
レイジュは言った。カリアの言うことは判る。
「でも違うの」
そしてそうつけ加えた。
憧れのあまり相手を理想化して、相手が理想と違う行動を取れば幻滅すると言ったような、そんな経験がレイジュにもない訳ではない。ファドックに対するものがそれとどこか違うかと言われれば、同じような気もする。彼女は、トルスやイージェンのようには、ファドック・ソレスを知らぬのだ。そのことは彼女自身、判っている。
それでも――違うと、思った。
本当を言えば彼女も、魔法などが働いているとは――真実であるのに――考えてはいなかった。これは、そうであればよい、という願望であった。カリアはそれを見抜いており、レイジュが気づいていることも、知っていた。
「少し、息抜きが必要なんじゃないの」
カリアは友人に言った。
「思い詰めすぎよ」
「そんなこと」
「あなた自身は平気でも、見てる方がつらくなってくるの」
ずばりとカリアは言った。レイジュは言葉に詰まる。カリアは、侍女としてシュアラに仕えるときは物柔らかな言い様と態度を崩さぬが、何かを言おうと思えば遠慮はなかった。
「いまこのアーレイド城で三本の指に入るわね」
「何がよ」
「息抜きが必要な人。あなたとシュアラ様とファドック様だわ」
カリアは指を折りながら言って、肩をすくめた。
「そうだ、レイジュ、あなたファドック様をお誘いして街にでも行ってみたら?」
友人の悲鳴または怒声が返ってくると思いながらそう言ったカリアは、沈黙に迎えられて少し驚いた。
「――レイジュ?」
「やって……みようかな」
呟くように言った声はますますカリアを驚かせる。
「……本気?」
「何よ、焚きつけておいて」
レイジュはむっとしたように言ったが、それはカリアに怒ったと言うよりは、自分でも口にした言葉に少し動揺していたせいだった。
「……本気なら、協力するわよ」
カリアの声に茶化した様子はなく、レイジュは曖昧にうなずいた。
「レイジュ、あなた」
年上の侍女の台詞は、ばたんと扉の開く音に遮られた。
「ここにいたのね、ふたりとも!」
「どうしたの、メイ=リス」
息を切らせた若い侍女の姿を見て、ふたりは目を見開く。
「どこを走り回ってきた訳? ヴァリンさんに見つかったらまたお小言」
「だって、早く伝えたかったんだもの」
「――何かあったの?」
レイジュは何故かどきりとして少女を見やった。メイ=リスは大いにうなずいたが――しかしそこに、レイジュが案じる暗いものはなかった。
「小耳に挟んだだけなんだけど、不確かな噂なんかじゃないわ、本当よ」
「だから、何が?」
カリアは眉をひそめて尋ねた。メイ=リスはにっこりと笑う。
「帰ってきたんですって――エイルよ」
レイジュはどきりとするものを覚えた。同時に拡がる、安堵感。彼なら助けになってくれるのではないかと考えたことを思い出した。
「……エイルが」
繰り返したレイジュの顔に、このところ絶えて久しかった笑顔が浮かんだ。
「
「そうよ」
「あなた、せっかくの休日にそんなところへ行ってきたって言うの? しかも、ひとりで?」
「そうよ」
レイジュは繰り返した。
「だって、イージェンは捕まらなかったし、そもそも
「だからってどうして、協会なの」
カリアは問うた。
「ひとりで南区なんかに踏み込まなかったのは賢明だと思うけれど……魔術師協会? あなたに必要なのは
「
レイジュはカリアの言葉を繰り返すとうなずいた。
「そう言ったものをかけられたら、人は違ったように見えると思う、カリア?」
年上の侍女は友人の言いたいことが判った。
「……ちょっとそれは、想像力が豊かすぎるんじゃないかしら、レイジュ」
ついそう返したカリアは、レイジュの表情が沈痛なものになるのを目にして、しまった、と思った。
以前のレイジュならば、そんなことはない、ファドック様は何か魔法でもかけられてるに決まってるとばかりに──何とも見事な真実を──叫び返してでもくるだろう。それが、カリアの前で本物の涙を見せかけた頃から、ふとした言葉に弱気な顔を見せ、涙が浮かびそうになるのを必死でこらえる様子があった。幾度かは、こらえることに失敗もしている。
その姿が余りにも痛々しくて、カリアは、テリスンがキド伯爵と親しいガルス男爵の落とし子かもしれない、という話を友人にするのを避けていた。キド伯爵が、養い子に友人の娘を娶らせるのも悪くないと判断するかもしれない――というのは、突飛な考えでもない。
だが、それからしばらくレイジュの口からファドックの名を聞かなかった彼女は、レイジュがかの
しかし彼女の友人は、口に出さないままで思い詰めていただけだった。カリアはようやくそのことに気づき、気づかなかった自分を叱咤した。
彼女と同じかそれ以上の懸念を持って近衛隊長を見つめるのは、シュアラと、ほかにいるとしたらテリスンくらいだっただろう。だが王女のそれには自責が混じり、掃除女の方はどうであるのかカリアには判らなかったが、テリスンがどんな形の感情を覚えていようと、レイジュがあの娘とファドックについて語り合うことはあるまい。レイジュが悩みを相談できる人間は、いなかったのだ。
「だからって」
それらの思いを振り払うように、カリアは息を吐きながら言った。
「魔術師協会」
侍女はまた繰り返した。
「うん」
友人が何をそんなに呆れているのか――とレイジュには見えた――よく掴めないままレイジュはうなずいた。
「……それで、何か判ったの」
仕方なくカリアは尋ねた。王宮の侍女がそのような場所へ行くべきではないと判る程度にはレイジュも侍女として自覚があるはずだったが、いつかカリアが言ったように、〈
「具体的なことは、何も」
「……まさか、ファドック様の名は出してないでしょうね」
思わずと言った調子でカリアが言うと、レイジュは少し傷ついた顔をした。
「そこまで、考えなしじゃないわ」
言われたカリアは友人に謝罪の仕草をしたものの、それはどうだろうかとこっそり考えていた。
魔術師協会は誰がどのような依頼にきてもそれを――滅多なことでは――余所に洩らさないとは言え、王女付きの侍女が近衛隊長を案じて呪いについて尋ねたなどという話は、どうにもよろしくない。
「ただ」
「ただ?」
「そういうことも有り得るって」
「それくらいなら、私にも言えるわね」
レイジュがまた肩を落とす前に、カリアはきっぱりと言った。
「あまり気を回しすぎないことよ、レイジュ。たとえ、どんなにお変わりになったように見えても、ファドック様は……ファドック様だわ」
「もちろんそうだわ」
レイジュは言った。カリアの言うことは判る。
「でも違うの」
そしてそうつけ加えた。
憧れのあまり相手を理想化して、相手が理想と違う行動を取れば幻滅すると言ったような、そんな経験がレイジュにもない訳ではない。ファドックに対するものがそれとどこか違うかと言われれば、同じような気もする。彼女は、トルスやイージェンのようには、ファドック・ソレスを知らぬのだ。そのことは彼女自身、判っている。
それでも――違うと、思った。
本当を言えば彼女も、魔法などが働いているとは――真実であるのに――考えてはいなかった。これは、そうであればよい、という願望であった。カリアはそれを見抜いており、レイジュが気づいていることも、知っていた。
「少し、息抜きが必要なんじゃないの」
カリアは友人に言った。
「思い詰めすぎよ」
「そんなこと」
「あなた自身は平気でも、見てる方がつらくなってくるの」
ずばりとカリアは言った。レイジュは言葉に詰まる。カリアは、侍女としてシュアラに仕えるときは物柔らかな言い様と態度を崩さぬが、何かを言おうと思えば遠慮はなかった。
「いまこのアーレイド城で三本の指に入るわね」
「何がよ」
「息抜きが必要な人。あなたとシュアラ様とファドック様だわ」
カリアは指を折りながら言って、肩をすくめた。
「そうだ、レイジュ、あなたファドック様をお誘いして街にでも行ってみたら?」
友人の悲鳴または怒声が返ってくると思いながらそう言ったカリアは、沈黙に迎えられて少し驚いた。
「――レイジュ?」
「やって……みようかな」
呟くように言った声はますますカリアを驚かせる。
「……本気?」
「何よ、焚きつけておいて」
レイジュはむっとしたように言ったが、それはカリアに怒ったと言うよりは、自分でも口にした言葉に少し動揺していたせいだった。
「……本気なら、協力するわよ」
カリアの声に茶化した様子はなく、レイジュは曖昧にうなずいた。
「レイジュ、あなた」
年上の侍女の台詞は、ばたんと扉の開く音に遮られた。
「ここにいたのね、ふたりとも!」
「どうしたの、メイ=リス」
息を切らせた若い侍女の姿を見て、ふたりは目を見開く。
「どこを走り回ってきた訳? ヴァリンさんに見つかったらまたお小言」
「だって、早く伝えたかったんだもの」
「――何かあったの?」
レイジュは何故かどきりとして少女を見やった。メイ=リスは大いにうなずいたが――しかしそこに、レイジュが案じる暗いものはなかった。
「小耳に挟んだだけなんだけど、不確かな噂なんかじゃないわ、本当よ」
「だから、何が?」
カリアは眉をひそめて尋ねた。メイ=リスはにっこりと笑う。
「帰ってきたんですって――エイルよ」
レイジュはどきりとするものを覚えた。同時に拡がる、安堵感。彼なら助けになってくれるのではないかと考えたことを思い出した。
「……エイルが」
繰り返したレイジュの顔に、このところ絶えて久しかった笑顔が浮かんだ。