02 互いの最大の懸念
文字数 4,974文字
安宿にひとりで泊まるのは久しぶり――本当に、何とも久しぶりのことであったが、横になれば疲労感を感じた。
眠りを必要としないリ・ガンでも、疲れない訳ではないのだ。人外に近い身体は確かに人間よりもずっと強いのだが、不安や懸念に満たされる心が、彼を大きく消耗させる。
エイルはごろりと寝返りを打って寝台をきしませながら考えた。
トルスの言葉にふと引っかかったのは何だったのだろうと思い返してみた。
(近衛隊長に)
(伝言を送っておこう)
それだ、とエイルは思った。
伝言。
(準備ができるまで戻ってくるな)
ファドックは彼にそう伝えた。それがファドックの危難を暗示するのではないかとようやく気づき、彼は慌ててこのアーレイドに帰ってきたのである。
新近衛隊長の様子を聞けば、なかなかにその危惧は当たっているような気がした。
だが、問題がひとつ、ある。
(俺には……準備ができたのだろうか?)
時の月にアーレイド城の翡翠を再び眠らせる――かどうかはともかく、どうあれ、翡翠のためにアーレイドを訪れるという誓い。
そのときにリ・ガンとして何をするべきなのかは判らない。悩んでみたところで、どうせ「目隠し」が外れて判るようになるのだ、という諦観めいた自嘲が浮かぶだけだ。
ごろり、とまた寝返りを打つ。
準備とは何だろう。
ファドックが何か具体的なことを示してそう言ったのかは判らない。だが、リ・ガンとして〈変異〉の年に翡翠を呼び起こし、穢れを払い、そして時の月に眠らせる、という単純な輪のなかに何か見落としていることはないだろうか。やり損なっていることは、ないだろうか。
リ・ガンとして〈翡翠の女神〉の意志に従っている以上──エイル自身にはあまりそういう自覚はないが──「うっかり忘れる」ようなことは有り得ないとも思う。
だがクラーナの言うところの「狂った歯車」とレンの存在は、リ・ガンのささやかな使命に大きな波紋を投げかけている。
リ・ガンの目覚めは遅れ、〈鍵〉との遭遇も遅れた。〈守護者〉の血筋は彼らを翡翠から離しはしなかったが、レンの手出しは彼ら自身を危うくする。
シーヴを思った。生きていることは判る。〈鍵〉が危難にあるという感覚はなかったが、同時に安全であるとの感覚がかけらもないことを思えば、危難に近 いところ にあるのではないかという「解釈」ができた。
だがそれがリ・ガンに伝わってこないと言うのは何とも奇妙なことで、思いは全て不吉な方向に行った。
リ・ガンと〈鍵〉の間を遮っているのはレンである。
それには確信があった。
ほかに何があろう?
だが、彼には何も判らない。広い大陸のどこにシーヴがいるものか、それを示す啓示は全くないのだ。
となれば、彼にできることは、レンの手出しを無意味にすること。
レンは〈鍵〉と言う「安全装置」を壊すことはしないだろうとクラーナは言った。それを全面的に信じて警戒をしないと言うのではなかったが、一理はある。だから、シーヴはたとえレンに捕らわれていたとしても――その通りであったが――無事なのだ。
そして〈鍵〉が無事に存在する限り、たとえ世界の端と端に分かたれたとしてもリ・ガンの力は変わらない。予定された輪の通りに翡翠を操って、彼らが〈鍵〉を持つ意味を失わせればいい。
ただ、これには時機の見極めが必要だった。
もし本当に〈鍵〉に意味がなくなれば、彼らはシーヴを解放するよりも、その命を奪う方を採るやもしれぬから。
エイルは嘆息した。
全ては、時の月に終わる。
〈変異〉の年が十三番目の月を迎えたあとに。
この年が終わったとき、翡翠は、彼らは、リ・ガン自身はどうなっているのだろう。
この年が、終わるとき。
笑っているのは――誰なのだろう。
少年は眠りにつかぬ瞳を閉じて、疑問と不安を繰り返した。
そうして夜が白みはじめると、エイルはのっそりと身を起こした。
かつての──城に上がる前の「ただのエイル少年」であれば、朝市に仕事をもらいに行くところだ。「城の厨房の少年」ならば、朝市から届けられた食材を運んだり、簡単な掃除をしたりしてから、仕込みを開始するところである。
そのどちらでもないいまのエイルは、何をするべきか。
答えは夜の間に出していた。
「伝言」の返答が少しでも早くほしいのなら、それが発せられる場所に近くいることだ。
即ち、魔術師協会で「エイラ」への伝言がないかを確認したあとは、アーレイド城に向かうのである。
何もせずにただ待っていることが落ち着かない性分は変わらない。トルスに頼み込んで厨房を手伝わせてもらうことにしたエイルは――戻れないことは判っていながら――「厨房の少年」が帰ってくる気持ちを覚えていた。
知った顔がいなくなり、初めての顔に出会いもしたが、それでもこの城の下厨房は少年が初めて経験した「職場」であり、料理人――見習い、の段階だが――と言うのはいまやすっかり彼の根幹となった職種だ。
根菜の皮をむき、菜草を刻み、肉を下拵えして、焼き、煮込み、揚げる。「魔術師」となったはずの少年が調理の基本を忘れぬどころか、腕を上げて帰ってきたことは厨房の仲間たちを大いに喜ばせた。魔術師であるはずの少年を怖れたり厭うたりする者はいなかった。それはエイルを安心させ、不安を少しだけ鎮めた。
時間がかかるぞ、とトルスは言い、エイルもそれに覚悟はしていたが、一日、二日とファドックから何の返答もなく過ぎていけば苛立ちと不安とが募った。
武官の棟の場所は判っていたし、近衛隊長の部屋などその辺の使用人に少しかまをかければすぐに判るだろう。エイルはトルスにその案を話したが、それは難しい顔でとめられた。
「以前ならそりゃいい案だと焚きつけるところだが」
料理長は顎をなでながら言った。
「いまのあいつじゃ、お前さんの侵入を面白く思う前に、とっ捕まえるかもしれんぞ」
少年は、まさか、と返したものの、確かにいまの彼には城内をうろつき回る権利はない。トルスの客人――仕事を手伝っているのだから、個人的な助手と言ったところか――であるエイルの行動範囲は、料理長の監督責任の及ぶところまでとなる。
「ところでエイル」
トルスの口調が変わったに気づいたエイルは、麺麭 をちぎる手をとめて――久しぶりのここの飯も、沈みがちな少年の心をわずかなりとも慰めていた――料理長を見やった。
「何」
「お前、ファドックファドックって、姫さんには会いたくないのか」
少年は咳き込んだ。
「何だよ、近衛隊長 に会うより殿下 にお目にかかる方が簡単だとでも?」
彼はそんなふうに言って自身の動揺をごまかした。
「そうは言わんが」
トルスはそのごまかしに気づいたかどうか、ただ両腕を組んだ。
「この一年でシュアラ様はずいぶんとおきれいになられてな。子供じみたところもなくなってきたし、ご婚約もされ、すっかりご立派になったと評判ではあるが、このところ……まあ、護衛騎士 がそばにいないからなあ、お可哀想だという、声もある」
「……俺にシュアラを慰めろと言うんじゃあるまいな」
「阿呆。俺にそんな権限も責任もあるもんか」
トルスはそう言いながら、しかしにやりとした。
「だがお前さんが会いたいというのなら、殿下は一も二もなく、お会いくださるんじゃないかと思うがね」
「まさか」
エイルは、トルスとのやり取りで何度使ったか判らなくなってきたその返答をまたも口にした。
「まさか?」
トルスは繰り返した。
「俺は、あの姫さんがわざわざお前に会いにこの厨房の裏まで降りてきたことを忘れてないぞ」
「あれは」
エイルは思い出した。王女と隣り合って座って、シュアラにとっては粗末な、エイルにとっては何とも贅沢な煮込み料理の皿を前にしながら、言葉を交わしたこと。あのときから彼のシュアラに対する気持ちが優しく変わっていったこと。
「あれはただの、お姫様の気紛れだろ。それに、シュアラにはそういうところがなくなったって、トルス、あんたが言ったばっかじゃないか」
だいたい、とエイルは続けた。
「王妃様になろうって人だろ。俺みたいな下町のガキと話をするなんて、おかしいよ」
「……それは、そうかもしれんな」
トルスはエイルをじろじろと見た。
「おかしいと言うより、拙 いやもしれん」
「拙い?」
意味が判らないと言うように少年は眉をひそめた。
「お前さんにも、長い一年だったようだな。そろそろ、ガキと言い張るにゃつらくなってきたぞ」
料理長がにやりとして言うと、エイルは目をしばたたかせた。
「『坊ず』ってのも似合わなくなってきたなあ」
「まあ、そりゃ」
エイルは頭をかいた。
「いろいろあったし」
もごもごと口の中で呟くようにするのは、照れ隠しの意図もあったかもしれない。彼は「大人になったな」と――言われたのだ。
「とにかくもう一度ブロックを捕まえて、あの馬鹿に話を伝えたか確認しよう。それでも反応がないようなら、強硬手段に協力してもいい」
不意にトルスが真顔になって言った。
「それと、こいつはあまりやりたくなかったが……あいつに声をかけさせるならテリスンにさせた方がいいのかもしれんな」
「誰だって?」
またも聞きなれぬ名にエイルは問い返し、トルスは複雑なものが入り交じった奇妙な顔をした。
「……いまやシュアラ様よりもあの馬鹿に近いんじゃないかと言われる、掃除婦だ」
「掃除婦?」
どきり、とした。その女の話は、母から聞いた。
(ありゃあ)
(できてるね)
アニーナの言葉が蘇る。
「まさか」
またもエイルは言った。トルスは天を仰ぐ。
「俺も同じ思いだがな、噂はいろいろだ」
料理長は肩をすくめ、エイルは首を振った。
「トルス」
「何だ」
「使用人の制服、手に入んない?」
「……やるのか」
「やるよ」
エイルはきっぱりと言った。トルスはうなる。
「もう少し、待ったらどうだ。あと一日くらい」
「そうやって、みんな待って、ここまできたんだろ」
エイルは指を突きつけた。
「俺はもう待たない」
「……そうか」
トルスはうなずいた。
「お前さんならどうにかできるかもしれん、と言ったのは俺だったな。それじゃエイ」
「エイル!」
ばたん、と開けられた扉にふたりの男はびっくりして、更にエイルはもっとびっくりさせられることになる。彼の顔を見た娘は明らかに安堵したような表情を浮かべ――涙さえ浮かべそうになるのを堪えたかと思うと、勢いよく彼に抱きついたからだ。
「エイル! 本当に、帰ってきてたのね、よかった!」
「レ……レイジュ!?」
少年は泡を食ってその感動の再会に手をばたつかせた。
「なっ、何だよ!?」
どうにか身を引き離して――少し顔は赤くなっていたが、どこぞの閣下にされるよりはずっとよいものだ、などという思いも浮かんでいた――エイルは友人の顔を見た。はっとする。何だかずいぶんと、痩せたように思えた。
「何だじゃないわ!」
しかしそこから出てきた声は彼の記憶にある通りの元気よいものである。
「話はたくさんあるけど、差し迫ってる問題はひとつなの!」
「ファドック様……だよな?」
彼の懸念であることももちろんだが、レイジュが息せき切って叫ぶ原因ならば間違いはない。
「そうよ、そうなの、ファドック様のことに決まってるわ」
「聞かせてくれ」
再会の挨拶もろくにしていないことなどは、互いの最大の懸念の前ではどうでもいいこととなった。トルスが降参するように両手をあげて部屋から出ていくと、レイジュはこれまでの経緯をとくとくと語りはじめた。
その様子をカリアなどが見れば、驚いただろう。このレイジュには、彼女がこのところ見せていた悲壮な感じはなかった。
ファドックを怖ろしく思ってしまったという衝撃が彼女を却って強くしたのかもしれず――それとも、頼れる存在が帰還したという安堵によるものだったのだろうか。
眠りを必要としないリ・ガンでも、疲れない訳ではないのだ。人外に近い身体は確かに人間よりもずっと強いのだが、不安や懸念に満たされる心が、彼を大きく消耗させる。
エイルはごろりと寝返りを打って寝台をきしませながら考えた。
トルスの言葉にふと引っかかったのは何だったのだろうと思い返してみた。
(近衛隊長に)
(伝言を送っておこう)
それだ、とエイルは思った。
伝言。
(準備ができるまで戻ってくるな)
ファドックは彼にそう伝えた。それがファドックの危難を暗示するのではないかとようやく気づき、彼は慌ててこのアーレイドに帰ってきたのである。
新近衛隊長の様子を聞けば、なかなかにその危惧は当たっているような気がした。
だが、問題がひとつ、ある。
(俺には……準備ができたのだろうか?)
時の月にアーレイド城の翡翠を再び眠らせる――かどうかはともかく、どうあれ、翡翠のためにアーレイドを訪れるという誓い。
そのときにリ・ガンとして何をするべきなのかは判らない。悩んでみたところで、どうせ「目隠し」が外れて判るようになるのだ、という諦観めいた自嘲が浮かぶだけだ。
ごろり、とまた寝返りを打つ。
準備とは何だろう。
ファドックが何か具体的なことを示してそう言ったのかは判らない。だが、リ・ガンとして〈変異〉の年に翡翠を呼び起こし、穢れを払い、そして時の月に眠らせる、という単純な輪のなかに何か見落としていることはないだろうか。やり損なっていることは、ないだろうか。
リ・ガンとして〈翡翠の女神〉の意志に従っている以上──エイル自身にはあまりそういう自覚はないが──「うっかり忘れる」ようなことは有り得ないとも思う。
だがクラーナの言うところの「狂った歯車」とレンの存在は、リ・ガンのささやかな使命に大きな波紋を投げかけている。
リ・ガンの目覚めは遅れ、〈鍵〉との遭遇も遅れた。〈守護者〉の血筋は彼らを翡翠から離しはしなかったが、レンの手出しは彼ら自身を危うくする。
シーヴを思った。生きていることは判る。〈鍵〉が危難にあるという感覚はなかったが、同時に安全であるとの感覚がかけらもないことを思えば、
だがそれがリ・ガンに伝わってこないと言うのは何とも奇妙なことで、思いは全て不吉な方向に行った。
リ・ガンと〈鍵〉の間を遮っているのはレンである。
それには確信があった。
ほかに何があろう?
だが、彼には何も判らない。広い大陸のどこにシーヴがいるものか、それを示す啓示は全くないのだ。
となれば、彼にできることは、レンの手出しを無意味にすること。
レンは〈鍵〉と言う「安全装置」を壊すことはしないだろうとクラーナは言った。それを全面的に信じて警戒をしないと言うのではなかったが、一理はある。だから、シーヴはたとえレンに捕らわれていたとしても――その通りであったが――無事なのだ。
そして〈鍵〉が無事に存在する限り、たとえ世界の端と端に分かたれたとしてもリ・ガンの力は変わらない。予定された輪の通りに翡翠を操って、彼らが〈鍵〉を持つ意味を失わせればいい。
ただ、これには時機の見極めが必要だった。
もし本当に〈鍵〉に意味がなくなれば、彼らはシーヴを解放するよりも、その命を奪う方を採るやもしれぬから。
エイルは嘆息した。
全ては、時の月に終わる。
〈変異〉の年が十三番目の月を迎えたあとに。
この年が終わったとき、翡翠は、彼らは、リ・ガン自身はどうなっているのだろう。
この年が、終わるとき。
笑っているのは――誰なのだろう。
少年は眠りにつかぬ瞳を閉じて、疑問と不安を繰り返した。
そうして夜が白みはじめると、エイルはのっそりと身を起こした。
かつての──城に上がる前の「ただのエイル少年」であれば、朝市に仕事をもらいに行くところだ。「城の厨房の少年」ならば、朝市から届けられた食材を運んだり、簡単な掃除をしたりしてから、仕込みを開始するところである。
そのどちらでもないいまのエイルは、何をするべきか。
答えは夜の間に出していた。
「伝言」の返答が少しでも早くほしいのなら、それが発せられる場所に近くいることだ。
即ち、魔術師協会で「エイラ」への伝言がないかを確認したあとは、アーレイド城に向かうのである。
何もせずにただ待っていることが落ち着かない性分は変わらない。トルスに頼み込んで厨房を手伝わせてもらうことにしたエイルは――戻れないことは判っていながら――「厨房の少年」が帰ってくる気持ちを覚えていた。
知った顔がいなくなり、初めての顔に出会いもしたが、それでもこの城の下厨房は少年が初めて経験した「職場」であり、料理人――見習い、の段階だが――と言うのはいまやすっかり彼の根幹となった職種だ。
根菜の皮をむき、菜草を刻み、肉を下拵えして、焼き、煮込み、揚げる。「魔術師」となったはずの少年が調理の基本を忘れぬどころか、腕を上げて帰ってきたことは厨房の仲間たちを大いに喜ばせた。魔術師であるはずの少年を怖れたり厭うたりする者はいなかった。それはエイルを安心させ、不安を少しだけ鎮めた。
時間がかかるぞ、とトルスは言い、エイルもそれに覚悟はしていたが、一日、二日とファドックから何の返答もなく過ぎていけば苛立ちと不安とが募った。
武官の棟の場所は判っていたし、近衛隊長の部屋などその辺の使用人に少しかまをかければすぐに判るだろう。エイルはトルスにその案を話したが、それは難しい顔でとめられた。
「以前ならそりゃいい案だと焚きつけるところだが」
料理長は顎をなでながら言った。
「いまのあいつじゃ、お前さんの侵入を面白く思う前に、とっ捕まえるかもしれんぞ」
少年は、まさか、と返したものの、確かにいまの彼には城内をうろつき回る権利はない。トルスの客人――仕事を手伝っているのだから、個人的な助手と言ったところか――であるエイルの行動範囲は、料理長の監督責任の及ぶところまでとなる。
「ところでエイル」
トルスの口調が変わったに気づいたエイルは、
「何」
「お前、ファドックファドックって、姫さんには会いたくないのか」
少年は咳き込んだ。
「何だよ、
彼はそんなふうに言って自身の動揺をごまかした。
「そうは言わんが」
トルスはそのごまかしに気づいたかどうか、ただ両腕を組んだ。
「この一年でシュアラ様はずいぶんとおきれいになられてな。子供じみたところもなくなってきたし、ご婚約もされ、すっかりご立派になったと評判ではあるが、このところ……まあ、
「……俺にシュアラを慰めろと言うんじゃあるまいな」
「阿呆。俺にそんな権限も責任もあるもんか」
トルスはそう言いながら、しかしにやりとした。
「だがお前さんが会いたいというのなら、殿下は一も二もなく、お会いくださるんじゃないかと思うがね」
「まさか」
エイルは、トルスとのやり取りで何度使ったか判らなくなってきたその返答をまたも口にした。
「まさか?」
トルスは繰り返した。
「俺は、あの姫さんがわざわざお前に会いにこの厨房の裏まで降りてきたことを忘れてないぞ」
「あれは」
エイルは思い出した。王女と隣り合って座って、シュアラにとっては粗末な、エイルにとっては何とも贅沢な煮込み料理の皿を前にしながら、言葉を交わしたこと。あのときから彼のシュアラに対する気持ちが優しく変わっていったこと。
「あれはただの、お姫様の気紛れだろ。それに、シュアラにはそういうところがなくなったって、トルス、あんたが言ったばっかじゃないか」
だいたい、とエイルは続けた。
「王妃様になろうって人だろ。俺みたいな下町のガキと話をするなんて、おかしいよ」
「……それは、そうかもしれんな」
トルスはエイルをじろじろと見た。
「おかしいと言うより、
「拙い?」
意味が判らないと言うように少年は眉をひそめた。
「お前さんにも、長い一年だったようだな。そろそろ、ガキと言い張るにゃつらくなってきたぞ」
料理長がにやりとして言うと、エイルは目をしばたたかせた。
「『坊ず』ってのも似合わなくなってきたなあ」
「まあ、そりゃ」
エイルは頭をかいた。
「いろいろあったし」
もごもごと口の中で呟くようにするのは、照れ隠しの意図もあったかもしれない。彼は「大人になったな」と――言われたのだ。
「とにかくもう一度ブロックを捕まえて、あの馬鹿に話を伝えたか確認しよう。それでも反応がないようなら、強硬手段に協力してもいい」
不意にトルスが真顔になって言った。
「それと、こいつはあまりやりたくなかったが……あいつに声をかけさせるならテリスンにさせた方がいいのかもしれんな」
「誰だって?」
またも聞きなれぬ名にエイルは問い返し、トルスは複雑なものが入り交じった奇妙な顔をした。
「……いまやシュアラ様よりもあの馬鹿に近いんじゃないかと言われる、掃除婦だ」
「掃除婦?」
どきり、とした。その女の話は、母から聞いた。
(ありゃあ)
(できてるね)
アニーナの言葉が蘇る。
「まさか」
またもエイルは言った。トルスは天を仰ぐ。
「俺も同じ思いだがな、噂はいろいろだ」
料理長は肩をすくめ、エイルは首を振った。
「トルス」
「何だ」
「使用人の制服、手に入んない?」
「……やるのか」
「やるよ」
エイルはきっぱりと言った。トルスはうなる。
「もう少し、待ったらどうだ。あと一日くらい」
「そうやって、みんな待って、ここまできたんだろ」
エイルは指を突きつけた。
「俺はもう待たない」
「……そうか」
トルスはうなずいた。
「お前さんならどうにかできるかもしれん、と言ったのは俺だったな。それじゃエイ」
「エイル!」
ばたん、と開けられた扉にふたりの男はびっくりして、更にエイルはもっとびっくりさせられることになる。彼の顔を見た娘は明らかに安堵したような表情を浮かべ――涙さえ浮かべそうになるのを堪えたかと思うと、勢いよく彼に抱きついたからだ。
「エイル! 本当に、帰ってきてたのね、よかった!」
「レ……レイジュ!?」
少年は泡を食ってその感動の再会に手をばたつかせた。
「なっ、何だよ!?」
どうにか身を引き離して――少し顔は赤くなっていたが、どこぞの閣下にされるよりはずっとよいものだ、などという思いも浮かんでいた――エイルは友人の顔を見た。はっとする。何だかずいぶんと、痩せたように思えた。
「何だじゃないわ!」
しかしそこから出てきた声は彼の記憶にある通りの元気よいものである。
「話はたくさんあるけど、差し迫ってる問題はひとつなの!」
「ファドック様……だよな?」
彼の懸念であることももちろんだが、レイジュが息せき切って叫ぶ原因ならば間違いはない。
「そうよ、そうなの、ファドック様のことに決まってるわ」
「聞かせてくれ」
再会の挨拶もろくにしていないことなどは、互いの最大の懸念の前ではどうでもいいこととなった。トルスが降参するように両手をあげて部屋から出ていくと、レイジュはこれまでの経緯をとくとくと語りはじめた。
その様子をカリアなどが見れば、驚いただろう。このレイジュには、彼女がこのところ見せていた悲壮な感じはなかった。
ファドックを怖ろしく思ってしまったという衝撃が彼女を却って強くしたのかもしれず――それとも、頼れる存在が帰還したという安堵によるものだったのだろうか。