9 年寄りの戯言
文字数 2,777文字
(哀しみに――)
その言葉が不意に気になった。彼は思いついたことを口にする。
「まさか」
シーヴは言った。
「スラッセン。あれも……オルエンとやらの『作品』か」
よく似た石壁。外から見える姿こそ隠されないものの、町の本当の姿は噂で隠され、世界から隔離されている。魔術というならば、入り口の戸をくぐった先で出会った幻想は魔術ではないのか。そして。
「奇妙に思っていたんだ。あの町は東を向いている」
何もないはずの大砂漠に向けて。
「なかなか鋭いな」
〈塔〉は感心したように言った。
「そう。あれはかつての主が造りし町。そしてその保護は、主がいなくなっても続いている。人間が自らかけ合う魔法、『噂』によって」
「成程」
青年は呟くように言った。魔術師もまた、よく町を訪れたのだろう。門が東を向いているのは、そのためか。
「ならば」
声を出す。
「これも尋ねておこう。クア=ニルドとは?」
「ニルド? 子供が、どうした」
「……知らないのか」
シーヴは少し拍子抜けした。
「知らぬ」
〈塔〉は、言えぬことは言えぬと――どうせ彼には通じまいという理由であっても――告げてきた。ならばあの子供のことは知らぬのだ。もし〈塔〉が老獪で――年寄り、であることは間違いない――彼が巧みにその目を鈍らされているのでなければ、だが。
「俺が、どうやってここにたどり着いたか不思議には思わないのか」
一日と保たない装備で、とつけ加えると、〈塔〉は、その台詞を根に持つな、と言った。
「シーヴ、私は動くことができない分、多くを見ている。ぬしがスラッセンから、何かの力を借りてやってきたことは判っていた。だがそれ以上のことは知らぬ」
「スラッセンにいた、クア=ニルドと呼ばれる子供が……俺の〈翡翠〉があるからと言ってこちらの方へ俺を」
送ってくれた、とはあまり言いたくない仕打ちであったことを思いだし、シーヴは「放り出しやがった」などと言った。
「あれは、スラッセンの権力者か何かか」
「知らぬ。だがあの町は支配者など持たない。あれはただ、安らかに終わりを待つだけの地。夢の地だと言ってもいい」
「夢、か」
「そうだ。入ったのなら見たのだろう。心安らぐ穏やかな風景を」
言われるまでもなく、青年は思い出していた。絵に描いたような、平和な村。
「ああ。だが俺と相方は、それを拒絶した」
「その強さを持たぬ者があの町を訪れるのだ」
「あれを受け入れていたら、どうなった?」
「安らぐことができただろう」
「偽りのなかで?」
「それでも、安らげる者もいるのだ」
〈塔〉は言った。
「それを心弱いとか、不健全だとか思うのならば……それもよい。そのことに嫌悪を感じるのならば、あの町はぬしの行くべき地ではない、それだけだ」
「判らんよ」
シーヴは肩をすくめた。
「嫌悪を覚えはしない。それどころか、誘惑も覚える。だが、俺があんな安らぎをほしいと思うようになるまではまだかかるだろう」
「それもよい」
〈塔〉はまた言った。
「だが、幻影に身を委ねるだけでは、生きていけないだろう。実際に、あの町のなかでは人々が暮らしている。俺は、何の変哲もない砂漠の町を見た。あれがスラッセンの真の姿なのだろう? いったい、どんな魔法なんだ?」
「スラッセンに呼ばれれば、知ることになろう」
そんな答えでシーヴは満足しなければならなかった。〈塔〉はそれについて詳しく語るつもりはないらしい。
「……聞いてくれるか、シーヴ」
「何だ」
「私はときどき、オルエンはスラッセンへ行ったのではないかと思うことがある。終わることない哀しみに飽いて」
「自分で造った、幻影の場所へ?」
「皮肉か?」
「まあな」
「ぬしはそれでよい。いまのお前に哀しみの影はないのだから。いつかそれを負ったとき、ぬしはいまの、若さ故の自分の言葉に痛みを覚えるか、それとも寂寥を覚えるか」
「それは」
シーヴは言った。
「〈予言〉かな、塔殿」
「年寄りの戯言だ、聞き流せ」
〈塔〉は澄まして――顔などもちろん見えなかったが、そうしたように感じられた――言う。
「だが、そうだな。ぬしの言う通りだシーヴ。自らの作り出した安らぎの地になど、オルエンは行かないだろう。訪れたとしても、住まうことはないだろう。彼は他者のためにあの町を作り、自身のために私を造った。自分自身に幻を見せようとするほど彼は堕ちてはいなかった。偽りの幸せよりも真実と苦しみを選び取ったはずなのだから」
その言葉は、魔術師のこともその男の過去のことも知らぬシーヴには意味が通らない。哲学めいた話としての理解ならばできるものの、実感は湧かなかった。
(俺には関わりのないこと、でもある)
そう考えて、苦笑が浮かんだ。
(まあ、俺に関わりがないという予測は数々と裏切られてきちゃいるがな)
〈塔〉が黙ってしまったので、彼はそれ以上、クア=ニルドやスラッセン、オルエンについて尋ねることをやめた。
「――だが、ぬしは」
少しすると、不意に〈塔〉の方から話し始めた。
「問わぬな。主のことを」
「……ああ」
まるでいま気づいた、と言うようにシーヴは杯に酒を注ぐ手をとめた。
「知りたいことは山のようだが、お前の伝聞と推測は要らん」
「ほう、これはまた思い切ったことだ」
「俺は俺の目で彼女を見つけ、俺の耳で彼女の話を聞く。それでいい」
きっぱりとした青年の言葉に〈塔〉は感心もふざけもせず、そうか、とだけ言った。
話題を変えようとばかりに砂漠のことなど語り出した〈塔〉の話はシーヴの興味をそそることもあれば、面白いがやはり彼に関わりはないだろうと思わせるものもあった。
何気ない、馬鹿げた雑談をしながら食事を終えたあとは書の部屋へ行き、判らないながらに魔術の本などを手に取ったが――もちろん、「魔術書」ではなく――砂漠にこんな石の塔などを建てられる魔術師の書棚に、基礎を学ぶための解説本などあるはずもない。彼は嘆息すると、少なくとも読めば判るような、薬草事典などを眺めて過ごした。
〈塔〉が準備ができたと言えば、いつでもすぐ駆けつけられる――どこにだろう?――ようにはしておいた。即ち、水はもちろん、食料の補給――エイラが保存していたものを分けてもらうことにした――に、にわか仕込みの薬草学で知った魔除けや傷薬などになる乾葉なども魔術用らしい部屋から見つけ、礼を言って拝借しておく。
「薬を作って、町に売りにでも行ってたのか」
彼女が魔除けを必要とするとも思えず、シーヴはそんなことを呟いた。問うた訳ではなかったが、〈塔〉はお決まりのように、その通り と答え、それは彼女の二重生活だったのだ、と奇妙なことを言った。
その言葉が不意に気になった。彼は思いついたことを口にする。
「まさか」
シーヴは言った。
「スラッセン。あれも……オルエンとやらの『作品』か」
よく似た石壁。外から見える姿こそ隠されないものの、町の本当の姿は噂で隠され、世界から隔離されている。魔術というならば、入り口の戸をくぐった先で出会った幻想は魔術ではないのか。そして。
「奇妙に思っていたんだ。あの町は東を向いている」
何もないはずの大砂漠に向けて。
「なかなか鋭いな」
〈塔〉は感心したように言った。
「そう。あれはかつての主が造りし町。そしてその保護は、主がいなくなっても続いている。人間が自らかけ合う魔法、『噂』によって」
「成程」
青年は呟くように言った。魔術師もまた、よく町を訪れたのだろう。門が東を向いているのは、そのためか。
「ならば」
声を出す。
「これも尋ねておこう。クア=ニルドとは?」
「ニルド? 子供が、どうした」
「……知らないのか」
シーヴは少し拍子抜けした。
「知らぬ」
〈塔〉は、言えぬことは言えぬと――どうせ彼には通じまいという理由であっても――告げてきた。ならばあの子供のことは知らぬのだ。もし〈塔〉が老獪で――年寄り、であることは間違いない――彼が巧みにその目を鈍らされているのでなければ、だが。
「俺が、どうやってここにたどり着いたか不思議には思わないのか」
一日と保たない装備で、とつけ加えると、〈塔〉は、その台詞を根に持つな、と言った。
「シーヴ、私は動くことができない分、多くを見ている。ぬしがスラッセンから、何かの力を借りてやってきたことは判っていた。だがそれ以上のことは知らぬ」
「スラッセンにいた、クア=ニルドと呼ばれる子供が……俺の〈翡翠〉があるからと言ってこちらの方へ俺を」
送ってくれた、とはあまり言いたくない仕打ちであったことを思いだし、シーヴは「放り出しやがった」などと言った。
「あれは、スラッセンの権力者か何かか」
「知らぬ。だがあの町は支配者など持たない。あれはただ、安らかに終わりを待つだけの地。夢の地だと言ってもいい」
「夢、か」
「そうだ。入ったのなら見たのだろう。心安らぐ穏やかな風景を」
言われるまでもなく、青年は思い出していた。絵に描いたような、平和な村。
「ああ。だが俺と相方は、それを拒絶した」
「その強さを持たぬ者があの町を訪れるのだ」
「あれを受け入れていたら、どうなった?」
「安らぐことができただろう」
「偽りのなかで?」
「それでも、安らげる者もいるのだ」
〈塔〉は言った。
「それを心弱いとか、不健全だとか思うのならば……それもよい。そのことに嫌悪を感じるのならば、あの町はぬしの行くべき地ではない、それだけだ」
「判らんよ」
シーヴは肩をすくめた。
「嫌悪を覚えはしない。それどころか、誘惑も覚える。だが、俺があんな安らぎをほしいと思うようになるまではまだかかるだろう」
「それもよい」
〈塔〉はまた言った。
「だが、幻影に身を委ねるだけでは、生きていけないだろう。実際に、あの町のなかでは人々が暮らしている。俺は、何の変哲もない砂漠の町を見た。あれがスラッセンの真の姿なのだろう? いったい、どんな魔法なんだ?」
「スラッセンに呼ばれれば、知ることになろう」
そんな答えでシーヴは満足しなければならなかった。〈塔〉はそれについて詳しく語るつもりはないらしい。
「……聞いてくれるか、シーヴ」
「何だ」
「私はときどき、オルエンはスラッセンへ行ったのではないかと思うことがある。終わることない哀しみに飽いて」
「自分で造った、幻影の場所へ?」
「皮肉か?」
「まあな」
「ぬしはそれでよい。いまのお前に哀しみの影はないのだから。いつかそれを負ったとき、ぬしはいまの、若さ故の自分の言葉に痛みを覚えるか、それとも寂寥を覚えるか」
「それは」
シーヴは言った。
「〈予言〉かな、塔殿」
「年寄りの戯言だ、聞き流せ」
〈塔〉は澄まして――顔などもちろん見えなかったが、そうしたように感じられた――言う。
「だが、そうだな。ぬしの言う通りだシーヴ。自らの作り出した安らぎの地になど、オルエンは行かないだろう。訪れたとしても、住まうことはないだろう。彼は他者のためにあの町を作り、自身のために私を造った。自分自身に幻を見せようとするほど彼は堕ちてはいなかった。偽りの幸せよりも真実と苦しみを選び取ったはずなのだから」
その言葉は、魔術師のこともその男の過去のことも知らぬシーヴには意味が通らない。哲学めいた話としての理解ならばできるものの、実感は湧かなかった。
(俺には関わりのないこと、でもある)
そう考えて、苦笑が浮かんだ。
(まあ、俺に関わりがないという予測は数々と裏切られてきちゃいるがな)
〈塔〉が黙ってしまったので、彼はそれ以上、クア=ニルドやスラッセン、オルエンについて尋ねることをやめた。
「――だが、ぬしは」
少しすると、不意に〈塔〉の方から話し始めた。
「問わぬな。主のことを」
「……ああ」
まるでいま気づいた、と言うようにシーヴは杯に酒を注ぐ手をとめた。
「知りたいことは山のようだが、お前の伝聞と推測は要らん」
「ほう、これはまた思い切ったことだ」
「俺は俺の目で彼女を見つけ、俺の耳で彼女の話を聞く。それでいい」
きっぱりとした青年の言葉に〈塔〉は感心もふざけもせず、そうか、とだけ言った。
話題を変えようとばかりに砂漠のことなど語り出した〈塔〉の話はシーヴの興味をそそることもあれば、面白いがやはり彼に関わりはないだろうと思わせるものもあった。
何気ない、馬鹿げた雑談をしながら食事を終えたあとは書の部屋へ行き、判らないながらに魔術の本などを手に取ったが――もちろん、「魔術書」ではなく――砂漠にこんな石の塔などを建てられる魔術師の書棚に、基礎を学ぶための解説本などあるはずもない。彼は嘆息すると、少なくとも読めば判るような、薬草事典などを眺めて過ごした。
〈塔〉が準備ができたと言えば、いつでもすぐ駆けつけられる――どこにだろう?――ようにはしておいた。即ち、水はもちろん、食料の補給――エイラが保存していたものを分けてもらうことにした――に、にわか仕込みの薬草学で知った魔除けや傷薬などになる乾葉なども魔術用らしい部屋から見つけ、礼を言って拝借しておく。
「薬を作って、町に売りにでも行ってたのか」
彼女が魔除けを必要とするとも思えず、シーヴはそんなことを呟いた。問うた訳ではなかったが、〈塔〉はお決まりのように、