10 どんな約束もしない
文字数 3,245文字
確信があった。
旅をはじめたばかりのときも、いつか必ず〈翡翠の娘〉に出会えるだろうと信じていたし、一度出会って見失ったときも、再会を疑ったことはない。
だが、このときほど強い確信はなかった。
エイラが彼を呼んでいる。
それは危機に陥って助けを求めているというような切羽詰まった感じはなく、ただ、彼の迎えを必要としている、そんな感覚。
かの〈宮殿〉から外へ出るとき、彼女が彼の腕を取ったことを不意に思い出した。彼女が「この世界」へ戻ってくるためには彼の力が必要なのだ、そんな気がした。
沈み行く早朝の月の女神 を追って馬 を走らせれば、ほどなくリダエ湖の行き着く。シーヴは馬を下り、ここ数日しているように木に馬をつなぐと、湖の畔でそのときを待った。
(シーヴ)
声が聞こえる。
「俺は、ここにいるぞ。エイラ」
呟いた声は広い湖が作る小さな波の間に消えた。
「帰ってこい」
彼女の〈鍵〉のもとへ。彼のもとへ。
「残念ですこと」
ばっと彼は振り返った。だがそこにミオノールの姿はない。
「砂漠の娘の愛では、殿下のリ・ガンへのつながりを弱めることはできませんでしたか」
声だけが波の合間に響く。シーヴは見えぬ女を睨みつけた。
「それが目的だったか」
言いながら、彼は細剣を抜いた。
「俺はお前にかまっている暇はない。邪魔立てするな」
「冷たい仰せです」
すうっと風が吹いた。
「それでは」
彼の左手の空気が揺らいだ気がした。シーヴはそちらに身体を向けると、油断なく剣をかまえる。
「これでは、いかがです?」
水際に女の姿が現れた。女と――それに肩を抱かれた、子供の。シーヴの目が険しくなる。
「その子に手を出すな」
「もちろん、子供をいたぶって楽しむ趣味などございません」
ミオノールはチェ・ランの頭を撫でた。少年は、何か術にでもかけられているのか、ぼうっとしたままでその愛撫を受けている。
「可愛い子ではありませんか。この子が、殿下を見つめる私を見ていたのは知っていました。しるしを見せれば、きっと殿下に情報を売りに行くだろうと言うことも」
「お見通しという訳か。それで次はどうする。その子を救いたければエイラを渡せとでも言うのか」
「それはいささか、無粋ですね」
ミオノールは肩をすくめた。
「ただ、殿下はこの子を傷つけたくはないでしょう」
「……そう思った。だからお前に近づくなと言ったのだ。だが、ミオノール」
シーヴは女を睨みつけた。
「チェ・ランとエイラを秤にかけてどちらを取るか、俺が迷うと思ったら間違いだぞ」
「そうですか。いいえ、そうでしょう、もちろん殿下はリ・ガンをお選びですね。そして、この子供のことなどはどうでもいいと」
シーヴの台詞に、しかしミオノールは戸惑う様子は見せなかった。
「砂漠の娘よりもこの子供の方が殿下の心を動かすとは思っておりませんが、それでは仕方ありませんね。ここまで連れてきてみましたが、殿下が要らないと仰せならばただの邪魔な荷物です。持って帰る必要は、ありません」
ミオノールの手が少年の首に掛かった。その手は冷たかったのだろうか、少年が反射的にびくりとする。
「よせ!」
思わずシーヴは叫び、ミオノールは笑った。
「非情な振りはおやめください、殿下。あなたはこの子を見捨てることなんてできないのですから」
お優しいところも魅力的です、などと女は言った。
「――望みは何だ」
「あなたの町へお戻りください」
ミオノールの答えは簡単だった。
「殿下はこのような、リ・ガンだの〈鍵〉だのと言った馬鹿げたことにお関わりになる必要はないのです。ここから離れ、もう一度砂漠のことをお考え下さい。殿下の民のことを。そうすれば、殿下が本当に必要とされている場所がどこなのか、お判りになるはずですから」
「……つまり、俺とエイラを会わせたくないのだな」
シーヴは言った。ミオノールは特に返答はしなかったが、それは応と言ったも同じであった。彼は――〈鍵〉はリ・ガンを安定させる。レンはそれを望まないのだ。
「俺をここから去らせたいのならば、先のように魔術で好きにしたらどうだ」
「そのような真似をすれば、またわたくしは殿下に嫌われてしまうではありませんか」
「そう しているだけで十二分だ」
シーヴはチェ・ランに視線をやった。ミオノールは小首をかしげる。その動作は艶めいており、だが却って冷たいものを感じさせた。
「チェ・ランを放せ。そして、去れ」
「そのためにはお約束をいただかなくては」
笑みを浮かべたままでミオノールは言う。
「お前にどんな約束もしない」
シーヴは強く言った。
「それは、ご勝手すぎますね」
女魔術師は笑った。
「何も犠牲を払わずに全てを手に入れようとされるのは無理というものです、リャカラーダ様。あなたがここで踵を返してもリ・ガンは死にませんが、この子はどうでしょう? お答えはひとつと、思いますが」
シーヴは視線でミオノールの息の根を止められるのならそうしてやりたいと言うように女を睨みつける。
「さあ、殿下」
シーヴはうなり声のようなものを上げて――剣を鞘に収めた。ミオノールの目が満足そうに細まる。
「チェ・ランを放せ」
「お望みのままに」
ミオノールが少年の身体から手を放すと、少年は支えを失ったようにくたくたとその場に座り込んだ。シーヴはチェ・ランを助けようと言うようにぱっとそこへ駆け寄り、少年に手を差し伸べようとする右手を――そのまま自身の腰にやった。
刀子を二本引き抜き、素早い動作でミオノールに向けて投げつける。警戒を怠ったミオノールは慌てたように何か印を結ぶが、近距離から放たれたそれらを逸らしきれず、一本を右脇腹に受けることになる。女は悲鳴をあげて、よろめいた。
シーヴはその隙を逃さずに再び細剣を抜くと、女魔術師に向けて鋭い突きを放った。嫌な感触が青年の右手に伝わる。獣や賊の類を斬ったことはあるが――刺し貫いたことは、なかった。
ミオノールが苦痛に呻く。
シーヴは逡巡を捨て、女の腹から一気に剣を引き戻すとその首を狙った。だが今度はそれは叶わず、女がよろめきつつ突きだした右手から放たれた見えない力に衝撃を受け、彼は大きく後方へ跳ばされた。
「くそっ」
右の背から地面に叩きつけられたシーヴは、しかし素早く立ち上がって剣をかまえ直した。だがミオノールとの間に距離ができている。もう、そう簡単には踏み込めない。
「やって……くれました、ね……」
静かな夜明けに苦痛に満ちたミオノールの声がした。赤い血が溢れ出る自身の傷口に手を当て、何かの術を施しているようだが――簡単にはいかぬと見え、肩で息をしている。
「油断を……けれど、このままでは、済ませません、よ、殿下――」
絶え絶えと発せられる声に、しかしシーヴの方は油断することなく、じりじりと再び近づいていった。
「報いは……受けて、いただきます」
蒼白となったミオノールの顔に、再び笑みが浮かんだ。青年は剣を強く握ったが、女の視線が彼ではなくチェ・ランに向いたことに気づく。
「やめろ!」
シーヴが少年とのもとに素早く走り寄ってミオノールから隠すように立ちはだかるのと、ミオノールの、のろのろと半端に上げられた手が振り下ろされたのはほとんど同時だった。
その瞬間、まるで高所から落ちて地面に叩きつけられたかのような衝撃がシーヴを襲った。
全身に、砕けるような痛みが走る。
息ができなかった。
シーヴの視界が、赤黒く歪んでいく。
彼の右手から愛用の剣が落ちたが、その音も聞こえなければそのことにも気づかなかった。堪えきれずに、青年の膝が崩れていく。
彼は必死で意識を保とうとしたが――骨の全てまで砕かれたかのような激痛はそれを許さなかった。
旅をはじめたばかりのときも、いつか必ず〈翡翠の娘〉に出会えるだろうと信じていたし、一度出会って見失ったときも、再会を疑ったことはない。
だが、このときほど強い確信はなかった。
エイラが彼を呼んでいる。
それは危機に陥って助けを求めているというような切羽詰まった感じはなく、ただ、彼の迎えを必要としている、そんな感覚。
かの〈宮殿〉から外へ出るとき、彼女が彼の腕を取ったことを不意に思い出した。彼女が「この世界」へ戻ってくるためには彼の力が必要なのだ、そんな気がした。
沈み行く早朝の
(シーヴ)
声が聞こえる。
「俺は、ここにいるぞ。エイラ」
呟いた声は広い湖が作る小さな波の間に消えた。
「帰ってこい」
彼女の〈鍵〉のもとへ。彼のもとへ。
「残念ですこと」
ばっと彼は振り返った。だがそこにミオノールの姿はない。
「砂漠の娘の愛では、殿下のリ・ガンへのつながりを弱めることはできませんでしたか」
声だけが波の合間に響く。シーヴは見えぬ女を睨みつけた。
「それが目的だったか」
言いながら、彼は細剣を抜いた。
「俺はお前にかまっている暇はない。邪魔立てするな」
「冷たい仰せです」
すうっと風が吹いた。
「それでは」
彼の左手の空気が揺らいだ気がした。シーヴはそちらに身体を向けると、油断なく剣をかまえる。
「これでは、いかがです?」
水際に女の姿が現れた。女と――それに肩を抱かれた、子供の。シーヴの目が険しくなる。
「その子に手を出すな」
「もちろん、子供をいたぶって楽しむ趣味などございません」
ミオノールはチェ・ランの頭を撫でた。少年は、何か術にでもかけられているのか、ぼうっとしたままでその愛撫を受けている。
「可愛い子ではありませんか。この子が、殿下を見つめる私を見ていたのは知っていました。しるしを見せれば、きっと殿下に情報を売りに行くだろうと言うことも」
「お見通しという訳か。それで次はどうする。その子を救いたければエイラを渡せとでも言うのか」
「それはいささか、無粋ですね」
ミオノールは肩をすくめた。
「ただ、殿下はこの子を傷つけたくはないでしょう」
「……そう思った。だからお前に近づくなと言ったのだ。だが、ミオノール」
シーヴは女を睨みつけた。
「チェ・ランとエイラを秤にかけてどちらを取るか、俺が迷うと思ったら間違いだぞ」
「そうですか。いいえ、そうでしょう、もちろん殿下はリ・ガンをお選びですね。そして、この子供のことなどはどうでもいいと」
シーヴの台詞に、しかしミオノールは戸惑う様子は見せなかった。
「砂漠の娘よりもこの子供の方が殿下の心を動かすとは思っておりませんが、それでは仕方ありませんね。ここまで連れてきてみましたが、殿下が要らないと仰せならばただの邪魔な荷物です。持って帰る必要は、ありません」
ミオノールの手が少年の首に掛かった。その手は冷たかったのだろうか、少年が反射的にびくりとする。
「よせ!」
思わずシーヴは叫び、ミオノールは笑った。
「非情な振りはおやめください、殿下。あなたはこの子を見捨てることなんてできないのですから」
お優しいところも魅力的です、などと女は言った。
「――望みは何だ」
「あなたの町へお戻りください」
ミオノールの答えは簡単だった。
「殿下はこのような、リ・ガンだの〈鍵〉だのと言った馬鹿げたことにお関わりになる必要はないのです。ここから離れ、もう一度砂漠のことをお考え下さい。殿下の民のことを。そうすれば、殿下が本当に必要とされている場所がどこなのか、お判りになるはずですから」
「……つまり、俺とエイラを会わせたくないのだな」
シーヴは言った。ミオノールは特に返答はしなかったが、それは応と言ったも同じであった。彼は――〈鍵〉はリ・ガンを安定させる。レンはそれを望まないのだ。
「俺をここから去らせたいのならば、先のように魔術で好きにしたらどうだ」
「そのような真似をすれば、またわたくしは殿下に嫌われてしまうではありませんか」
「
シーヴはチェ・ランに視線をやった。ミオノールは小首をかしげる。その動作は艶めいており、だが却って冷たいものを感じさせた。
「チェ・ランを放せ。そして、去れ」
「そのためにはお約束をいただかなくては」
笑みを浮かべたままでミオノールは言う。
「お前にどんな約束もしない」
シーヴは強く言った。
「それは、ご勝手すぎますね」
女魔術師は笑った。
「何も犠牲を払わずに全てを手に入れようとされるのは無理というものです、リャカラーダ様。あなたがここで踵を返してもリ・ガンは死にませんが、この子はどうでしょう? お答えはひとつと、思いますが」
シーヴは視線でミオノールの息の根を止められるのならそうしてやりたいと言うように女を睨みつける。
「さあ、殿下」
シーヴはうなり声のようなものを上げて――剣を鞘に収めた。ミオノールの目が満足そうに細まる。
「チェ・ランを放せ」
「お望みのままに」
ミオノールが少年の身体から手を放すと、少年は支えを失ったようにくたくたとその場に座り込んだ。シーヴはチェ・ランを助けようと言うようにぱっとそこへ駆け寄り、少年に手を差し伸べようとする右手を――そのまま自身の腰にやった。
刀子を二本引き抜き、素早い動作でミオノールに向けて投げつける。警戒を怠ったミオノールは慌てたように何か印を結ぶが、近距離から放たれたそれらを逸らしきれず、一本を右脇腹に受けることになる。女は悲鳴をあげて、よろめいた。
シーヴはその隙を逃さずに再び細剣を抜くと、女魔術師に向けて鋭い突きを放った。嫌な感触が青年の右手に伝わる。獣や賊の類を斬ったことはあるが――刺し貫いたことは、なかった。
ミオノールが苦痛に呻く。
シーヴは逡巡を捨て、女の腹から一気に剣を引き戻すとその首を狙った。だが今度はそれは叶わず、女がよろめきつつ突きだした右手から放たれた見えない力に衝撃を受け、彼は大きく後方へ跳ばされた。
「くそっ」
右の背から地面に叩きつけられたシーヴは、しかし素早く立ち上がって剣をかまえ直した。だがミオノールとの間に距離ができている。もう、そう簡単には踏み込めない。
「やって……くれました、ね……」
静かな夜明けに苦痛に満ちたミオノールの声がした。赤い血が溢れ出る自身の傷口に手を当て、何かの術を施しているようだが――簡単にはいかぬと見え、肩で息をしている。
「油断を……けれど、このままでは、済ませません、よ、殿下――」
絶え絶えと発せられる声に、しかしシーヴの方は油断することなく、じりじりと再び近づいていった。
「報いは……受けて、いただきます」
蒼白となったミオノールの顔に、再び笑みが浮かんだ。青年は剣を強く握ったが、女の視線が彼ではなくチェ・ランに向いたことに気づく。
「やめろ!」
シーヴが少年とのもとに素早く走り寄ってミオノールから隠すように立ちはだかるのと、ミオノールの、のろのろと半端に上げられた手が振り下ろされたのはほとんど同時だった。
その瞬間、まるで高所から落ちて地面に叩きつけられたかのような衝撃がシーヴを襲った。
全身に、砕けるような痛みが走る。
息ができなかった。
シーヴの視界が、赤黒く歪んでいく。
彼の右手から愛用の剣が落ちたが、その音も聞こえなければそのことにも気づかなかった。堪えきれずに、青年の膝が崩れていく。
彼は必死で意識を保とうとしたが――骨の全てまで砕かれたかのような激痛はそれを許さなかった。