09 真実の側面
文字数 3,723文字
「――エイル ?」
ファドックが目を細くしたのは、その名が懐かしいからでもあれば、二重の意味で危険――であるからだった。
「そうさ。そうは思わなかったか?」
使用人用の下厨房責任者は、受け取った皿を脇に置くとにやりとした。
「あのお嬢ちゃんがいったい誰のためにあんなことを頼んできたのかと思ったが、案の定お前だったか。新人の娘をたぶらかすのもたいがいにしておけよ」
「自分にできないからってひがむんじゃない」
ファドックはしらっとしてそう言うと、トルスから飛んでくる拳を片手で受け止めた。
「テリスンが……彼に似ていると言ったのか、トルス?」
ファドックは警戒しながら繰り返した。エイルの名はあまり口にしない方がいいのではないか、という思いがあったのだ。
「お嬢ちゃんに対して野郎に似てるって言うのも悪いがね、さすがに外見の話じゃないさ。慣れない職場で健気に働いてる様子だの、からかわれたときの反応だの、誰かを思い出す、って厨房で話題になってな。その結論に達したんだ」
「……そう、か……?」
ファドックは自問するように呟いた。確かに、彼もあの掃除女は誰かに似ていると感じ続けてきたが――エイルだと言われてそうだ 、という思いも浮かばない。
「何だ、判らないのか。いちばん似てるのはお前さんへの態度かもしれんのにな」
そう言ってトルスは笑った。ファドックはかすかに顔を曇らせ、もう一度、そうだろうかと考えた。
彼にとってエイル少年は、常に不思議な存在であった。
初めて見たときに「見知っている」との感覚を彼に与え、〈翡翠 〉とのつながりを示し、彼を守り手と呼んだ。少年が城を去ったのは、魔術師としてではなくリ・ガンとしての目覚めに因ったことも、いまでは彼も知っている。
そして「リティアエラ」――エイラのことも。
信じられない思いはいまだにありながら、だがそうであると知っている 。
しかし同時に、エイルが厨房で元気よく働き、彼の王女を怒らせ、彼に剣の指導を受けてその上達を喜んだ「普通の少年」であったこともまた心に強く残っていた。騎士とは違う方法で王女を守りたいと考えていた、少年。
ファドックの内では、トルスたちのようにはテリスンの態度がエイルに似ているとは思えない。少年は彼に〈守護者〉を見、テリスンという娘が見ているのは「騎士 」という曖昧な幻だ。
しかし、「翡翠」のことなど知らぬ目から見たなら、ファドック・ソレスの居所を気にし、気になっているのにそうではないふりをし、時に避け、会えば微笑ましいほど真剣に応対する――というような点で、他者の目からは似て見えるのかもしれない。
「納得してないようだな?」
トルスが言うと、ファドックは肩をすくめた。
「私にはそうは思えんが、私よりもお前たちの方が余程、彼のことを知っていた。お前たちがそう言うのなら、そうなのかもしれんな」
ファドックはそんな言い方をした。
これはごまかしではなく、真実の側面だった。厨房の誰もが翡翠だのリ・ガンだのに関わりはなく、一方でファドックも厨房で忙しく立ち働いていたエイルをよく知っているとは言えない。ファドックが知るのはエイルの一面、それも特殊なものであり、普段のエイルについてはほとんど知らないのかもしれないのだ。
「そんなこともあって、あのお嬢ちゃんはここじゃちょっとした人気者さ。エイルと同じ。打てば響くし、見ているとつい、からかいたくなる」
ファドックも、清掃にきたテリスンと軽い世間話をすることはあったが、確かに反応はよかった。つい本音のようなことを洩らして慌てて謝る様子などは、言われてみればエイルに似ている気もする。
「俺に、例の軽食を作らせたのはな、ロジェス閣下とやり合える かってな賭けだったのさ。エイルもそんなことをやったよ。エイルの相手はシュアラ様じゃなくて、お前だったがな」
トルスはそう言うと笑った。
「さすがにあの娘、閣下には何も言えなかったようだがなあ、努力を買ってやることにしたんだ。誰に持っていく気だと尋ねたら目ぇ泳がせてな。ごまかそうとしてたが、テリスンがどこぞの騎士様の部屋を掃除してるって話くらいは聞いてる」
トルスはにやりとした。
「いや、近衛隊長様だったか、失礼」
ファドックは騎士の位を返上した訳ではなかったが、彼自身が名乗り、または呼ばれるときは自然、新たな官位の方が数多く使われるようになっていた。言う方はたいてい、トルスのようにからかってではなく、尊敬を伴って言ったものだが。
「忙しいんだな? このところは、ちっともここに姿を見せんじゃないか」
「お前の飯に飽きたんだよ」
ファドックはにやりとした。彼のこういう笑いは珍しい上――笑うこと自体、久しぶりだったかもしれない。
「何言いやがる。テリスンが運んでるのは俺様の手製だぞ」
「判ってるさ、あんな酷いものを作るのはお前しかいないからな。添えられた麺麭 くらいはどうにか食えるが」
「よく言うぜ。城下一、評判のいい麺麭職人の品を仕入れてるんだぞ」
相変わらずそれには厳しいな、と言ってトルスは続けた。
「何にしても、俺にはいつもきれいに平らげてるように見えるんだが?」
「彼女が気に病むといかんからな、無理をしているんだ」
トルスは、この野郎、と言って再びファドックに掴みかかり、あっさりと背後を取った新近衛隊長から羽交い絞めを受ける。
「修行が足りんな、トルス」
「痛えぞ、放せ、このクソ騎士兼イカレ近衛隊長がっ」
「聞くに耐えん」
そう言ってファドックはぱっと友人を解放した。
ファドックがこのように「街の青年のような」態度をとるのは、城内ではトルス相手だけであったから、初めて友人同士のじゃれ合いを見るとたいていの者は目を丸くして、いったいトルス料理長は、穏やかな護衛騎士に捕らえられるどんな真似をしたのだろう、と考える。まさかふたり組の片割れがファドック・ソレスであるときに、それが軽口の応酬の結果だとは思わないのだ。
「言っておくがな、ファドック」
トルスはファドックに乱された調理着を直しながら言った。
「こちとら年がら年中、お前に負けず忙しいんだ。新しい職務になんぞさっさと慣れて、時間を作れ。お前が『食事係』に甘えれば、面倒臭いのは俺なんだからな」
もちろん――ファドックの立場、殊にいまとなってはトルスに対し、食事を運べくらいのことは命令できる権限をもっている。しかしもちろんファドックはそのような真似はしないし、料理長もそれを判ってこのようなことを言うのだった。
「俺は、お前の健康を気遣っていちいち献立を考えてやるのはお断りだ。お前さえここへ降りてくるのをさぼらなければ、誰も余計なことをしなくていいし、新近衛隊長が空腹で倒れるなんて馬鹿げた情けない話も起きない。そうだな?」
トルスが両腕を組みながら睨みつけるようにして言うと、ファドックは降参するように両手を挙げた。
「仕方がない」
それから手を下ろすと、肩をすくめてつけ加える。
「努力しよう」
ファドックの「努力」にテリスンはがっかりするだろうな――とトルスは笑ったが、食堂で彼の姿を見つけた娘は、むしろほっとしたようだった。
ファドックはそれを目の端にとめながら、小さくうなずくようにした。それはただの挨拶代わりだったが、娘の頬はばっと赤くなり――口の中で何やら呟くようにすると、踵を返した。
但し、それに行き合った王女付きの侍女はその拳をふるふると震わすことになるが。
「わざわざ下厨房に行って見てきたものが、それ」
カリアは首を振った。彼女たちは、上厨房と下厨房のどちらを使用することも許されている。
「運がないわね、レイジュ」
「いーえ、逆よ」
しかし年下の侍女は今日は泣かなかった。むしろ決意の表情を固めている。
「あれを見たら私、心が決まったの。カリア」
「あら」
友人の変化を見て取ったカリアは、片眉をあげた。
「ついに、その気になったの?」
「なったわ」
レイジュの目は真剣だ。カリアは楽しそうな顔をする。
「そう、いいことだわ。それじゃささやかながら手助けするわよ。いったいどうやってファドック様を陥と」
「馬鹿なこと言わないで!」
それ以上は聞くものか、とばかりに侍女は耳をふさいだ。
「……やる気はどうなったのかしら」
「そういうんじゃないのよ!」
首を振りながら叫ぶ。
「あまりやりたくなかったけれど、こうなったら仕方がないと思うの」
レイジュは真顔のままで言った。
「こうなったら、どうするのかしら」
カリアはきれいな眉をひそめる。
「こうなったら」
レイジュは声をひそめた。
「シュアラ様に、お話しするのよ」
レイジュの言葉に、カリアはいつも上品な口元を曲げた。
「……殿下に、ファドック様につく虫を追い払っていただこうと言うの?」
――情けないわね、と年嵩の侍女は言った。
ファドックが目を細くしたのは、その名が懐かしいからでもあれば、二重の意味で危険――であるからだった。
「そうさ。そうは思わなかったか?」
使用人用の下厨房責任者は、受け取った皿を脇に置くとにやりとした。
「あのお嬢ちゃんがいったい誰のためにあんなことを頼んできたのかと思ったが、案の定お前だったか。新人の娘をたぶらかすのもたいがいにしておけよ」
「自分にできないからってひがむんじゃない」
ファドックはしらっとしてそう言うと、トルスから飛んでくる拳を片手で受け止めた。
「テリスンが……彼に似ていると言ったのか、トルス?」
ファドックは警戒しながら繰り返した。エイルの名はあまり口にしない方がいいのではないか、という思いがあったのだ。
「お嬢ちゃんに対して野郎に似てるって言うのも悪いがね、さすがに外見の話じゃないさ。慣れない職場で健気に働いてる様子だの、からかわれたときの反応だの、誰かを思い出す、って厨房で話題になってな。その結論に達したんだ」
「……そう、か……?」
ファドックは自問するように呟いた。確かに、彼もあの掃除女は誰かに似ていると感じ続けてきたが――エイルだと言われて
「何だ、判らないのか。いちばん似てるのはお前さんへの態度かもしれんのにな」
そう言ってトルスは笑った。ファドックはかすかに顔を曇らせ、もう一度、そうだろうかと考えた。
彼にとってエイル少年は、常に不思議な存在であった。
初めて見たときに「見知っている」との感覚を彼に与え、〈
そして「リティアエラ」――エイラのことも。
信じられない思いはいまだにありながら、だがそうであると
しかし同時に、エイルが厨房で元気よく働き、彼の王女を怒らせ、彼に剣の指導を受けてその上達を喜んだ「普通の少年」であったこともまた心に強く残っていた。騎士とは違う方法で王女を守りたいと考えていた、少年。
ファドックの内では、トルスたちのようにはテリスンの態度がエイルに似ているとは思えない。少年は彼に〈守護者〉を見、テリスンという娘が見ているのは「
しかし、「翡翠」のことなど知らぬ目から見たなら、ファドック・ソレスの居所を気にし、気になっているのにそうではないふりをし、時に避け、会えば微笑ましいほど真剣に応対する――というような点で、他者の目からは似て見えるのかもしれない。
「納得してないようだな?」
トルスが言うと、ファドックは肩をすくめた。
「私にはそうは思えんが、私よりもお前たちの方が余程、彼のことを知っていた。お前たちがそう言うのなら、そうなのかもしれんな」
ファドックはそんな言い方をした。
これはごまかしではなく、真実の側面だった。厨房の誰もが翡翠だのリ・ガンだのに関わりはなく、一方でファドックも厨房で忙しく立ち働いていたエイルをよく知っているとは言えない。ファドックが知るのはエイルの一面、それも特殊なものであり、普段のエイルについてはほとんど知らないのかもしれないのだ。
「そんなこともあって、あのお嬢ちゃんはここじゃちょっとした人気者さ。エイルと同じ。打てば響くし、見ているとつい、からかいたくなる」
ファドックも、清掃にきたテリスンと軽い世間話をすることはあったが、確かに反応はよかった。つい本音のようなことを洩らして慌てて謝る様子などは、言われてみればエイルに似ている気もする。
「俺に、例の軽食を作らせたのはな、ロジェス閣下と
トルスはそう言うと笑った。
「さすがにあの娘、閣下には何も言えなかったようだがなあ、努力を買ってやることにしたんだ。誰に持っていく気だと尋ねたら目ぇ泳がせてな。ごまかそうとしてたが、テリスンがどこぞの騎士様の部屋を掃除してるって話くらいは聞いてる」
トルスはにやりとした。
「いや、近衛隊長様だったか、失礼」
ファドックは騎士の位を返上した訳ではなかったが、彼自身が名乗り、または呼ばれるときは自然、新たな官位の方が数多く使われるようになっていた。言う方はたいてい、トルスのようにからかってではなく、尊敬を伴って言ったものだが。
「忙しいんだな? このところは、ちっともここに姿を見せんじゃないか」
「お前の飯に飽きたんだよ」
ファドックはにやりとした。彼のこういう笑いは珍しい上――笑うこと自体、久しぶりだったかもしれない。
「何言いやがる。テリスンが運んでるのは俺様の手製だぞ」
「判ってるさ、あんな酷いものを作るのはお前しかいないからな。添えられた
「よく言うぜ。城下一、評判のいい麺麭職人の品を仕入れてるんだぞ」
相変わらずそれには厳しいな、と言ってトルスは続けた。
「何にしても、俺にはいつもきれいに平らげてるように見えるんだが?」
「彼女が気に病むといかんからな、無理をしているんだ」
トルスは、この野郎、と言って再びファドックに掴みかかり、あっさりと背後を取った新近衛隊長から羽交い絞めを受ける。
「修行が足りんな、トルス」
「痛えぞ、放せ、このクソ騎士兼イカレ近衛隊長がっ」
「聞くに耐えん」
そう言ってファドックはぱっと友人を解放した。
ファドックがこのように「街の青年のような」態度をとるのは、城内ではトルス相手だけであったから、初めて友人同士のじゃれ合いを見るとたいていの者は目を丸くして、いったいトルス料理長は、穏やかな護衛騎士に捕らえられるどんな真似をしたのだろう、と考える。まさかふたり組の片割れがファドック・ソレスであるときに、それが軽口の応酬の結果だとは思わないのだ。
「言っておくがな、ファドック」
トルスはファドックに乱された調理着を直しながら言った。
「こちとら年がら年中、お前に負けず忙しいんだ。新しい職務になんぞさっさと慣れて、時間を作れ。お前が『食事係』に甘えれば、面倒臭いのは俺なんだからな」
もちろん――ファドックの立場、殊にいまとなってはトルスに対し、食事を運べくらいのことは命令できる権限をもっている。しかしもちろんファドックはそのような真似はしないし、料理長もそれを判ってこのようなことを言うのだった。
「俺は、お前の健康を気遣っていちいち献立を考えてやるのはお断りだ。お前さえここへ降りてくるのをさぼらなければ、誰も余計なことをしなくていいし、新近衛隊長が空腹で倒れるなんて馬鹿げた情けない話も起きない。そうだな?」
トルスが両腕を組みながら睨みつけるようにして言うと、ファドックは降参するように両手を挙げた。
「仕方がない」
それから手を下ろすと、肩をすくめてつけ加える。
「努力しよう」
ファドックの「努力」にテリスンはがっかりするだろうな――とトルスは笑ったが、食堂で彼の姿を見つけた娘は、むしろほっとしたようだった。
ファドックはそれを目の端にとめながら、小さくうなずくようにした。それはただの挨拶代わりだったが、娘の頬はばっと赤くなり――口の中で何やら呟くようにすると、踵を返した。
但し、それに行き合った王女付きの侍女はその拳をふるふると震わすことになるが。
「わざわざ下厨房に行って見てきたものが、それ」
カリアは首を振った。彼女たちは、上厨房と下厨房のどちらを使用することも許されている。
「運がないわね、レイジュ」
「いーえ、逆よ」
しかし年下の侍女は今日は泣かなかった。むしろ決意の表情を固めている。
「あれを見たら私、心が決まったの。カリア」
「あら」
友人の変化を見て取ったカリアは、片眉をあげた。
「ついに、その気になったの?」
「なったわ」
レイジュの目は真剣だ。カリアは楽しそうな顔をする。
「そう、いいことだわ。それじゃささやかながら手助けするわよ。いったいどうやってファドック様を陥と」
「馬鹿なこと言わないで!」
それ以上は聞くものか、とばかりに侍女は耳をふさいだ。
「……やる気はどうなったのかしら」
「そういうんじゃないのよ!」
首を振りながら叫ぶ。
「あまりやりたくなかったけれど、こうなったら仕方がないと思うの」
レイジュは真顔のままで言った。
「こうなったら、どうするのかしら」
カリアはきれいな眉をひそめる。
「こうなったら」
レイジュは声をひそめた。
「シュアラ様に、お話しするのよ」
レイジュの言葉に、カリアはいつも上品な口元を曲げた。
「……殿下に、ファドック様につく虫を追い払っていただこうと言うの?」
――情けないわね、と年嵩の侍女は言った。