07 客人
文字数 3,621文字
その黒い瞳は、長いこと、曇ったような、鈍い色だけを宿らせていた。
それがゆっくりと、だが確実に激しい色を取り戻して行くのを――彼は、まるで興味深い見世物であるかのように見守った。
「どうだ。調子は、よかろう」
薄灰色の瞳の美しい王子は椅子に腰掛け、騎士の黒い眼に視線をじっと合わせると、そう言った。
「俺は親切だろう。俺に刃を向けたお前を――そうして、日常の苦しみから救ってやったのだ」
ファドックの目に強いものが灯っていくのをじっと見つめながら、アスレンは続けた。
「よい、目だ」
王子は呟くように言った。
「そうしてお前が灼熱の怒りを覚えるのは俺の前だけでいい、ソレス」
「――何故だ」
低い声が、男の口から発せられた。彼を知るほかの誰も、ファドック・ソレスがこれほどの黒い負をその声ににじませることがあろうとは思わぬであろう。
「何のために、このような形で私を縛る」
「言っただろう、獄界を見せてやると」
アスレンは自身の身体の前で、白手袋をはめた両掌を上に向けた。それはまるで、ファドックには見えぬ獄界への入り口を示そうとしているかのようだった。
「何の感情も持たず、ただ判断だけをするお前の前で――お前が守ると誓った者たちを殺して見せても、お前はただ、彼らが死んだと判断するだけだろうな。そのあとでこうして心を戻してやる日が俺はとても楽しみだ」
ファドックの手が剣にかかった。王子はため息をついて首を振る。
「同じことを繰り返すか? それは大して、面白くないな」
アスレンが上を向けていた掌をすっと返すと、ファドックの右手はその左腰から離れた。ファドックは歯噛みをする。心はこれほどに、目前の王子を叩き斬ってしまいたいと考えているのに、アスレンは剣すら抜かせない。
そして術をかけられればファドックは、これまでのような強制的な忠誠心とはまた異なり、「レンの第一王子を傷つけるなどあってはならない」と「判断」をするのだろう。もちろん、魔術をかけられているのだ。だが、その判断は外から被せられるのではなく、彼自身の内から湧くものである。その捻れた事実が苦い。
だがそのような思いは口に出さず、ファドックは首を振った。
「巫山戯 るな」
それが、彼の言葉だった。
「アスレン、お前のそれは何の答えにもなっていない」
「その通り 」
騎士の台詞に王子は軽く返した。
「ではどのような答えを望んでいる? 以前にも言った。俺の望みは〈守護者〉だ。だがお前の身体に流れる血脈は、リ・ガン以外にものには決して翡翠の力を渡そうとしないだろう。魔術で無理矢理に言うことを聞かせたとて、それは〈守護者〉の本能を制することにはならぬ。我が望むのは」
アスレンは質のいい布張りの椅子に座ったままで、手招くようにした。ファドックはそれに従う足をとどめることができない。
「こうしてお前を意のままに操るも楽しいが、それでは我が望みは叶えられぬ。我が望みはお前の忠誠か、または命だと言ったことが……あったかな? だがあれは嘘だ。お前の命など奪ったところで、何にもならぬ」
「――そう聞いて私が喜ぶとは思うまいな」
ファドックはアスレンのごく近くに立って――立たされて――言った。
「無論。それどころかお前はいまに、これを続けるくらいなら殺してくれと我に嘆願するやもしれぬな」
「そのようなことを……するものか」
ファドックは息を吐き出しながら言った。
「全く以て、進歩のない愚か者よ」
アスレンの目が、少しだけ苛立ちのようなものを帯びた。
「お前がこれまでの我への非礼を心から詫び、強制も儀礼もないままで心の底から我に跪きたいと思うようになればよい――言うなればそれが我が望みだな、ソレス」
「言葉を……返そう」
そのとき、ここしばらくぶりで、ファドック・ソレスの唇が――笑みの形を作った。
「そのようなことがあると思っているのなら、お前こそが愚か者だ――アスレン」
王子の目が怒りに燃えた。その瞬間、ふたりの立場はほんの数分 前と入れ替わったかのようだった。
だが、それはわずか一瞬 のことに過ぎなかった。
アスレンは瞬時にいつもの顔を取り戻し、その白い頬を赤く染めたことなどなかったように、冷たい声を出した。
「我にそのような口を利く者はお前だけだ、ソレス」
ファドックはその声に、怒りも喜びも聞き取ることができなかった。
「俺はそのままのお前が欲しいのか、それともお前を屈服させたいのか。どちらを望んでいるのだろうな」
「どちらも、私の望みからは遠く離れているようだ」
ファドックはそのようなことを答えながら、奇妙に思っていた。アスレンは何故――こうして彼に好きなことを言わせるのだろう。この王子はいくらでも、自身の耳に心地よいことを言わせることができるはずである。
「そうしていつも、お前は我の手を振り払う。我が申し出をそうして拒絶したのは、これで何度目になるか」
アスレンはゆっくりと首を振った。
「お前はまだ俺に怒る『余裕』があるようだ。それを挫き、絶望と怖れで満たしてやろう。そうすれば」
「させぬ」
どうするつもりだ――などとはファドックは問わず、ただ反駁した。〈魔術都市〉の王子の笑みを誘いそうなその反論は、しかしこのとき、アスレンの表情を変えさせることはなかった。
「いいや」
王子はそう答えた。
「まだ時間はひと月以上ある。我は急がぬよ、ソレス。ゆっくりと――お前のために時間をかけてやろう」
ファドックは目を細めた。ひと月以上。ではこの王子の目当ては〈時〉の月にある。だが彼は、何かに気づいたような風情は見せずにいた。
「楽しみにしておけ」
アスレンの様子もまた、〈守護者〉の内心に気づくとも気づかぬとも判らなかった。王子は続ける。
「非の打ち所のない近衛隊長を続けるがいい。そうして、お前を信頼している者たちがお前に不審の目を向けるようになる日を待つがいい。判るか」
ファドックは強制の力を感じた。彼の中からすっと――まるで、冬の朝に結露した窓の水滴をふき取るかのように、怒りや憤り、ありとあらゆる強いものが消えていく。
「お前は俺の前でだけファドック・ソレスでいられる、というのはどうだ? なかなかに、面白かろう?」
王子が立ち上がると、騎士はすっと一歩を引いて膝をついた。アスレンはそれを数秒 に渡って見つめ、何か言おうと口を開きかけて――言いやめると、笑った。
「客人だぞ、近衛隊長 」
アスレンが言い終えるのと、彫刻のされた木の扉が叩かれ、失礼します、というような言葉が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「――ファドック様?」
戸の向こうから姿を現した侍女は、予測した卓の向こうに人の姿がなく、来客用の卓の脇でファドックがさっと立ち上がるのを少し驚いたように見やった。――もちろん、そこにはどんな客の姿もない。
「失礼いたします、ファドック様」
レイジュは再びそう言ってきれいな礼をした。
「ブロックはいないんですか? もし、あの子の仕事ぶりに問題があるようなら、私が責任持って言い聞かせますけど」
もしブロック少年が勝手に持ち場を離れているのなら、という意味だが、もちろんと言おうか、レイジュにそんな責任はない。
「いや、不要だ」
普段の――或いは、以前の――彼ならば侍女の言いように笑う。だがいま、その目に笑みはもとより、侍女の訪問の直前までその場にいた存在へのどんな思いも――怒りも、動揺も、敬意も、浮かんでいない。ただ、彼は答えるべきことを答えただけだ。
「何か、用件か」
「シュアラ王女殿下からのお手紙をお持ちいたしました。必ず、直接お渡しするようにと」
レイジュは仕方なく、すぐ本題に入った。しばらくぶりだなとか、元気かとか、そんな個人的で親しげな挨拶を期待していた訳ではないが、名前のひとつくらい呼んでもらえるのではないかという、何ともささやかな期待ならしていた。
しかしファドックの方には、特に一侍女と言葉を交わす用意はないらしい。レイジュは落胆を表さないようにしながら――久しぶりにごく近くで顔を見られただけでも上等ではないか!――銀色の縁取りで装飾されている王女の封筒をファドックに差し出した。
「確かに受け取った。帰っていいぞ」
ファドックはレイジュの差し出したそれを受け取ると、あっさりとそう返した。レイジュは胸がずきんとした。――ファドックの様子がおかしいと彼女が考えてから、直接に言葉を交わしたのは初めてである。
確信した。おかしいどころではない。
「あの、ファドック様!」
レイジュは思い切って声を出した。近衛隊長の視線がようやく彼女と合ったように思った。
それがゆっくりと、だが確実に激しい色を取り戻して行くのを――彼は、まるで興味深い見世物であるかのように見守った。
「どうだ。調子は、よかろう」
薄灰色の瞳の美しい王子は椅子に腰掛け、騎士の黒い眼に視線をじっと合わせると、そう言った。
「俺は親切だろう。俺に刃を向けたお前を――そうして、日常の苦しみから救ってやったのだ」
ファドックの目に強いものが灯っていくのをじっと見つめながら、アスレンは続けた。
「よい、目だ」
王子は呟くように言った。
「そうしてお前が灼熱の怒りを覚えるのは俺の前だけでいい、ソレス」
「――何故だ」
低い声が、男の口から発せられた。彼を知るほかの誰も、ファドック・ソレスがこれほどの黒い負をその声ににじませることがあろうとは思わぬであろう。
「何のために、このような形で私を縛る」
「言っただろう、獄界を見せてやると」
アスレンは自身の身体の前で、白手袋をはめた両掌を上に向けた。それはまるで、ファドックには見えぬ獄界への入り口を示そうとしているかのようだった。
「何の感情も持たず、ただ判断だけをするお前の前で――お前が守ると誓った者たちを殺して見せても、お前はただ、彼らが死んだと判断するだけだろうな。そのあとでこうして心を戻してやる日が俺はとても楽しみだ」
ファドックの手が剣にかかった。王子はため息をついて首を振る。
「同じことを繰り返すか? それは大して、面白くないな」
アスレンが上を向けていた掌をすっと返すと、ファドックの右手はその左腰から離れた。ファドックは歯噛みをする。心はこれほどに、目前の王子を叩き斬ってしまいたいと考えているのに、アスレンは剣すら抜かせない。
そして術をかけられればファドックは、これまでのような強制的な忠誠心とはまた異なり、「レンの第一王子を傷つけるなどあってはならない」と「判断」をするのだろう。もちろん、魔術をかけられているのだ。だが、その判断は外から被せられるのではなく、彼自身の内から湧くものである。その捻れた事実が苦い。
だがそのような思いは口に出さず、ファドックは首を振った。
「
それが、彼の言葉だった。
「アスレン、お前のそれは何の答えにもなっていない」
「
騎士の台詞に王子は軽く返した。
「ではどのような答えを望んでいる? 以前にも言った。俺の望みは〈守護者〉だ。だがお前の身体に流れる血脈は、リ・ガン以外にものには決して翡翠の力を渡そうとしないだろう。魔術で無理矢理に言うことを聞かせたとて、それは〈守護者〉の本能を制することにはならぬ。我が望むのは」
アスレンは質のいい布張りの椅子に座ったままで、手招くようにした。ファドックはそれに従う足をとどめることができない。
「こうしてお前を意のままに操るも楽しいが、それでは我が望みは叶えられぬ。我が望みはお前の忠誠か、または命だと言ったことが……あったかな? だがあれは嘘だ。お前の命など奪ったところで、何にもならぬ」
「――そう聞いて私が喜ぶとは思うまいな」
ファドックはアスレンのごく近くに立って――立たされて――言った。
「無論。それどころかお前はいまに、これを続けるくらいなら殺してくれと我に嘆願するやもしれぬな」
「そのようなことを……するものか」
ファドックは息を吐き出しながら言った。
「全く以て、進歩のない愚か者よ」
アスレンの目が、少しだけ苛立ちのようなものを帯びた。
「お前がこれまでの我への非礼を心から詫び、強制も儀礼もないままで心の底から我に跪きたいと思うようになればよい――言うなればそれが我が望みだな、ソレス」
「言葉を……返そう」
そのとき、ここしばらくぶりで、ファドック・ソレスの唇が――笑みの形を作った。
「そのようなことがあると思っているのなら、お前こそが愚か者だ――アスレン」
王子の目が怒りに燃えた。その瞬間、ふたりの立場はほんの数
だが、それはわずか一
アスレンは瞬時にいつもの顔を取り戻し、その白い頬を赤く染めたことなどなかったように、冷たい声を出した。
「我にそのような口を利く者はお前だけだ、ソレス」
ファドックはその声に、怒りも喜びも聞き取ることができなかった。
「俺はそのままのお前が欲しいのか、それともお前を屈服させたいのか。どちらを望んでいるのだろうな」
「どちらも、私の望みからは遠く離れているようだ」
ファドックはそのようなことを答えながら、奇妙に思っていた。アスレンは何故――こうして彼に好きなことを言わせるのだろう。この王子はいくらでも、自身の耳に心地よいことを言わせることができるはずである。
「そうしていつも、お前は我の手を振り払う。我が申し出をそうして拒絶したのは、これで何度目になるか」
アスレンはゆっくりと首を振った。
「お前はまだ俺に怒る『余裕』があるようだ。それを挫き、絶望と怖れで満たしてやろう。そうすれば」
「させぬ」
どうするつもりだ――などとはファドックは問わず、ただ反駁した。〈魔術都市〉の王子の笑みを誘いそうなその反論は、しかしこのとき、アスレンの表情を変えさせることはなかった。
「いいや」
王子はそう答えた。
「まだ時間はひと月以上ある。我は急がぬよ、ソレス。ゆっくりと――お前のために時間をかけてやろう」
ファドックは目を細めた。ひと月以上。ではこの王子の目当ては〈時〉の月にある。だが彼は、何かに気づいたような風情は見せずにいた。
「楽しみにしておけ」
アスレンの様子もまた、〈守護者〉の内心に気づくとも気づかぬとも判らなかった。王子は続ける。
「非の打ち所のない近衛隊長を続けるがいい。そうして、お前を信頼している者たちがお前に不審の目を向けるようになる日を待つがいい。判るか」
ファドックは強制の力を感じた。彼の中からすっと――まるで、冬の朝に結露した窓の水滴をふき取るかのように、怒りや憤り、ありとあらゆる強いものが消えていく。
「お前は俺の前でだけファドック・ソレスでいられる、というのはどうだ? なかなかに、面白かろう?」
王子が立ち上がると、騎士はすっと一歩を引いて膝をついた。アスレンはそれを数
「客人だぞ、
アスレンが言い終えるのと、彫刻のされた木の扉が叩かれ、失礼します、というような言葉が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「――ファドック様?」
戸の向こうから姿を現した侍女は、予測した卓の向こうに人の姿がなく、来客用の卓の脇でファドックがさっと立ち上がるのを少し驚いたように見やった。――もちろん、そこにはどんな客の姿もない。
「失礼いたします、ファドック様」
レイジュは再びそう言ってきれいな礼をした。
「ブロックはいないんですか? もし、あの子の仕事ぶりに問題があるようなら、私が責任持って言い聞かせますけど」
もしブロック少年が勝手に持ち場を離れているのなら、という意味だが、もちろんと言おうか、レイジュにそんな責任はない。
「いや、不要だ」
普段の――或いは、以前の――彼ならば侍女の言いように笑う。だがいま、その目に笑みはもとより、侍女の訪問の直前までその場にいた存在へのどんな思いも――怒りも、動揺も、敬意も、浮かんでいない。ただ、彼は答えるべきことを答えただけだ。
「何か、用件か」
「シュアラ王女殿下からのお手紙をお持ちいたしました。必ず、直接お渡しするようにと」
レイジュは仕方なく、すぐ本題に入った。しばらくぶりだなとか、元気かとか、そんな個人的で親しげな挨拶を期待していた訳ではないが、名前のひとつくらい呼んでもらえるのではないかという、何ともささやかな期待ならしていた。
しかしファドックの方には、特に一侍女と言葉を交わす用意はないらしい。レイジュは落胆を表さないようにしながら――久しぶりにごく近くで顔を見られただけでも上等ではないか!――銀色の縁取りで装飾されている王女の封筒をファドックに差し出した。
「確かに受け取った。帰っていいぞ」
ファドックはレイジュの差し出したそれを受け取ると、あっさりとそう返した。レイジュは胸がずきんとした。――ファドックの様子がおかしいと彼女が考えてから、直接に言葉を交わしたのは初めてである。
確信した。おかしいどころではない。
「あの、ファドック様!」
レイジュは思い切って声を出した。近衛隊長の視線がようやく彼女と合ったように思った。