12 化け狼
文字数 3,268文字
沈黙が流れた。
〈忘れ草〉亭はいつも静かで、騒ぐ酔漢などはいないが、サズが姿を現したその瞬間から――それともその少し前から、そこは彼のよく知る酒場でありながらそうではなかった。ゼレットはそれが判っており、クラーナも気づいていた。
彼らは本来の酒場から、切り離された世界にいる。
「僕と、オルエン」
吟遊詩人はゆっくりと繰り返した。
「フェルンという人については判らないけれど。それが君に……君たちに、何の関係があるのかな」
「お前に話したところで、何にもならぬ」
「それじゃあ僕もその言葉を返すよ」
クラーナは平然と言った。
「君に話をして、僕に何の得があるって言うのさ」
「命が助かる、と言うのはずいぶんと得ではないかな、吟遊詩人」
「それは魅力的なお話だね」
やはり淡々とクラーナは言った。
「君には僕はどう見えるんだろう、サズ。本当にただの吟遊詩人 に見えるの。それとも魔術師 の一種に? 或いは、何かほかのものに……見えるのかな?」
やめろ、と言うようにゼレットが再びクラーナの腕を掴む。クラーナはそっとその手を外した。サズはすっと目を細める。
「僕を殺したければ、好きにしたら。いまさら僕が死んだって、運命の流れには何も影響しないさ。僕の役割はもう終わってる。だから僕を探るのは無意味だよ、サズ」
クラーナの言葉をサズは――ゼレットも――黙って聞いた。前者は、言葉の裏に隠された意味を探り、後者はその心を案じて。
「なかなか、韜晦がお上手だ」
魔術師はそんなふうに言った。
「だが、生きるの死ぬの、そんな言葉に何の意味があろう? 生きるか死ぬか以外にも選択肢があることを教えてやらねば、ならないか?」
「へえ?」
やはり気のないように詩人は言った。
「そうか。それじゃ痛めつけ、責め苛んで、生きていても死にたくなるくらい苦しめてくれようと言う訳。きっと、君らはそういうのが好きなんだろうね」
「喧嘩を売るのはよせ」
思わずと言った調子でゼレットが言えば、クラーナは呆れて返答をする。
「あなたには言われたくありませんよ、閣下」
言われたゼレットは言葉に詰まったか、奇妙なうなり声を上げた。
「とにかくサズ、僕は君に協力する義理はないどころか、可能な限り君の望みを叶えたくないと考えてることも言わなくちゃならない? それとも、もう判ってるのかな」
「ならば」
サズは応じた。
「お前は邪魔者と言うことになる」
「よせと言っている!」
伯爵が、ばんと卓を叩いた。
「クラーナ、サズを挑発するな、サズ、これ以上、俺を怒らせるな」
言われたふたりはそれぞれ全く異なる色で〈守護者〉を見た。しかしどちらもそれは少し面白がるかのようで――。
「では、決断は閣下に下していただきましょうか」
穏やかな笑みを浮かべてレンの王甥は言った。
「決断だと?」
ゼレットは繰り返す。
「何の決断だ」
「お判りでしょう」
サズはまた言った。
「彼に素直に話をさせるか、苦しませてから話をさせるか」
「ほう」
その脅しに少しも怯む様子は見せず、ゼレットは言った。
「それがお前の提案か。それだけなのか? 忘れ物が、あるんじゃないか?」
サズが片眉をあげた。今度はクラーナが、ゼレットを落ち着かせるようにその手に触れる。それを――どういう意図でか――握り返すようにした伯爵は、言葉を続けた。
「お前は、翡翠 が欲しいのだろうに」
クラーナが瞳を閉ざすのと対をなすかのように、サズの目は見開かれた。
「もちろん、否定はいたしません」
サズはゆっくりと言った。
「まさか守り手殿が、愛人の無事と引き換えに玉 をくださるとは、思いませんが?」
それが否定の形をとった脅迫であることは明らかだった。
「順に行こうか、サズ」
ゼレットの返答はそれだった。
「お前は、クラーナの情報がほしい。そして俺の翡翠もほしい。一方で俺の望みはと言えば、レンが全てを諦めること。俺と、俺に関わりのあるものどもと、翡翠への、な」
「相変わらず」
サズは笑った。
「欲張りでいらっしゃる」
「お前には負ける」
ゼレットは簡単に返した。
「順番に、と言われましたね。互いの望みをはっきりさせた次は、何です」
「フェルン」
伯爵の言葉に、レンの王甥は目を細めた。
「それは何者だ」
サズは薄く笑った。
「ご自分からは何も知らせずに、私の話だけを聞こうと?」
ゼレットはそれには答えず、サズは笑んだ顔のままで、いいでしょう、と言った。
「フェルンとは、基本的には、退位されたサイン、つまり王陛下への敬称となります。と申しましてもたいていの場合はその御崩御を以て退位となられます故、ご存命である御方にその尊称を用いることはない」
「故人か」
「たいていの場合は」
サズは繰り返した。
「わたくしが先に申し上げましたのは、その『たいていの場合』に当てはまりませぬ」
「……では、アスレンの爺様か」
その言いようにサズは少し笑い、首を振った。
「フェルンが何代前になられるものか、正確には存じ上げません」
「それはずいぶん、ご老体だな」
「ええ」
サズはうなずいた。
「それだけの御力がおありになる、と言うことはお判りでしょう」
「――延命の術は非常に困難で、危険だと言うね」
クラーナが呟くように言った。彼はオルエンからそのような話を聞いたことがあった。
「その通り 」
サズはまたうなずき、それだけの力がある、とは繰り返さなかった。
「魔術による若返りや延命なんて、好まない魔術師が多いとも聞くけれど」
「それは成せないことへの言い訳だな」
サズは簡単に返した。
「札を見せるのはここまでとしましょう。お次は閣下の番です。それとも、そちらの詩人殿の」
クラーナは片眉を上げた。
「当たり障りのない札に返せるのは、当たり障りのない話くらいかな」
詩人がそう言うと、サズは話を待つように両の手を組んだ。
「僕とオルエンの関係と言ったね? 少なくとも親子じゃないよ、なんて辺りでどうかな」
「見知って いるのだな」
その言葉にクラーナは肩をすくめた。肯定とも否定とも取れる仕草にサズはじっと考えるようにし、微かにうなずいた。
「成程。見た目以上に、魂は年を経ているようだ」
「老成してるのさ」
詩人は気軽く言った。
「ふむ」
ゼレットは腕を組んだ。
「概要が見えてきたな」
その言葉にクラーナは伯爵を見た。
「……僕には、あまり見えていませんが」
クラーナが顔をしかめると、ゼレットはにやりとした。
「よいな。そうやって戸惑う姿は、誰か に似ていて俺の好みだ」
「……サズ君 の指摘通り、僕は見た目にはずいぶん若く見えますが。閣下もご存知のはずですね。僕を口説くときはどうかそれをお忘れなく」
「何。心と身体が若ければ、実際に何年を過ごしたかなど何の関係があると?」
ゼレットが掴んだままだった彼の手をゆっくり引き戻して、クラーナはちらりとサズを見た。まさかこの若い魔術師が彼に妬きはしないだろうな、と一瞬 心配になったのだが、幸いと言おうか、そのような徴候はレンの王甥には認められなかった。
「何が見えたと言われるのですか、閣下は」
「自分だけ回答を得ようというのは図々しいな」
ゼレットはサズが言った言葉を違う言い方で返すと首をかしげた。サズは笑う。
「まるで、化け狐 に出会ったときのように警戒されるのですね」
「そのようなものだろう。それともお前は化け狼 ……かな」
勝手にそんな言葉を作るゼレットにサズはふっと笑った。
「狼は人を化かしませんよ、閣下。ただ獲物を追い、捕らえ、そして――食らうのみです」
角のある狼を肩に飼う青年は、瞳に妖しい光を宿らせてそう言った。
〈忘れ草〉亭はいつも静かで、騒ぐ酔漢などはいないが、サズが姿を現したその瞬間から――それともその少し前から、そこは彼のよく知る酒場でありながらそうではなかった。ゼレットはそれが判っており、クラーナも気づいていた。
彼らは本来の酒場から、切り離された世界にいる。
「僕と、オルエン」
吟遊詩人はゆっくりと繰り返した。
「フェルンという人については判らないけれど。それが君に……君たちに、何の関係があるのかな」
「お前に話したところで、何にもならぬ」
「それじゃあ僕もその言葉を返すよ」
クラーナは平然と言った。
「君に話をして、僕に何の得があるって言うのさ」
「命が助かる、と言うのはずいぶんと得ではないかな、吟遊詩人」
「それは魅力的なお話だね」
やはり淡々とクラーナは言った。
「君には僕はどう見えるんだろう、サズ。本当にただの
やめろ、と言うようにゼレットが再びクラーナの腕を掴む。クラーナはそっとその手を外した。サズはすっと目を細める。
「僕を殺したければ、好きにしたら。いまさら僕が死んだって、運命の流れには何も影響しないさ。僕の役割はもう終わってる。だから僕を探るのは無意味だよ、サズ」
クラーナの言葉をサズは――ゼレットも――黙って聞いた。前者は、言葉の裏に隠された意味を探り、後者はその心を案じて。
「なかなか、韜晦がお上手だ」
魔術師はそんなふうに言った。
「だが、生きるの死ぬの、そんな言葉に何の意味があろう? 生きるか死ぬか以外にも選択肢があることを教えてやらねば、ならないか?」
「へえ?」
やはり気のないように詩人は言った。
「そうか。それじゃ痛めつけ、責め苛んで、生きていても死にたくなるくらい苦しめてくれようと言う訳。きっと、君らはそういうのが好きなんだろうね」
「喧嘩を売るのはよせ」
思わずと言った調子でゼレットが言えば、クラーナは呆れて返答をする。
「あなたには言われたくありませんよ、閣下」
言われたゼレットは言葉に詰まったか、奇妙なうなり声を上げた。
「とにかくサズ、僕は君に協力する義理はないどころか、可能な限り君の望みを叶えたくないと考えてることも言わなくちゃならない? それとも、もう判ってるのかな」
「ならば」
サズは応じた。
「お前は邪魔者と言うことになる」
「よせと言っている!」
伯爵が、ばんと卓を叩いた。
「クラーナ、サズを挑発するな、サズ、これ以上、俺を怒らせるな」
言われたふたりはそれぞれ全く異なる色で〈守護者〉を見た。しかしどちらもそれは少し面白がるかのようで――。
「では、決断は閣下に下していただきましょうか」
穏やかな笑みを浮かべてレンの王甥は言った。
「決断だと?」
ゼレットは繰り返す。
「何の決断だ」
「お判りでしょう」
サズはまた言った。
「彼に素直に話をさせるか、苦しませてから話をさせるか」
「ほう」
その脅しに少しも怯む様子は見せず、ゼレットは言った。
「それがお前の提案か。それだけなのか? 忘れ物が、あるんじゃないか?」
サズが片眉をあげた。今度はクラーナが、ゼレットを落ち着かせるようにその手に触れる。それを――どういう意図でか――握り返すようにした伯爵は、言葉を続けた。
「お前は、
クラーナが瞳を閉ざすのと対をなすかのように、サズの目は見開かれた。
「もちろん、否定はいたしません」
サズはゆっくりと言った。
「まさか守り手殿が、愛人の無事と引き換えに
それが否定の形をとった脅迫であることは明らかだった。
「順に行こうか、サズ」
ゼレットの返答はそれだった。
「お前は、クラーナの情報がほしい。そして俺の翡翠もほしい。一方で俺の望みはと言えば、レンが全てを諦めること。俺と、俺に関わりのあるものどもと、翡翠への、な」
「相変わらず」
サズは笑った。
「欲張りでいらっしゃる」
「お前には負ける」
ゼレットは簡単に返した。
「順番に、と言われましたね。互いの望みをはっきりさせた次は、何です」
「フェルン」
伯爵の言葉に、レンの王甥は目を細めた。
「それは何者だ」
サズは薄く笑った。
「ご自分からは何も知らせずに、私の話だけを聞こうと?」
ゼレットはそれには答えず、サズは笑んだ顔のままで、いいでしょう、と言った。
「フェルンとは、基本的には、退位されたサイン、つまり王陛下への敬称となります。と申しましてもたいていの場合はその御崩御を以て退位となられます故、ご存命である御方にその尊称を用いることはない」
「故人か」
「たいていの場合は」
サズは繰り返した。
「わたくしが先に申し上げましたのは、その『たいていの場合』に当てはまりませぬ」
「……では、アスレンの爺様か」
その言いようにサズは少し笑い、首を振った。
「フェルンが何代前になられるものか、正確には存じ上げません」
「それはずいぶん、ご老体だな」
「ええ」
サズはうなずいた。
「それだけの御力がおありになる、と言うことはお判りでしょう」
「――延命の術は非常に困難で、危険だと言うね」
クラーナが呟くように言った。彼はオルエンからそのような話を聞いたことがあった。
「
サズはまたうなずき、それだけの力がある、とは繰り返さなかった。
「魔術による若返りや延命なんて、好まない魔術師が多いとも聞くけれど」
「それは成せないことへの言い訳だな」
サズは簡単に返した。
「札を見せるのはここまでとしましょう。お次は閣下の番です。それとも、そちらの詩人殿の」
クラーナは片眉を上げた。
「当たり障りのない札に返せるのは、当たり障りのない話くらいかな」
詩人がそう言うと、サズは話を待つように両の手を組んだ。
「僕とオルエンの関係と言ったね? 少なくとも親子じゃないよ、なんて辺りでどうかな」
「
その言葉にクラーナは肩をすくめた。肯定とも否定とも取れる仕草にサズはじっと考えるようにし、微かにうなずいた。
「成程。見た目以上に、魂は年を経ているようだ」
「老成してるのさ」
詩人は気軽く言った。
「ふむ」
ゼレットは腕を組んだ。
「概要が見えてきたな」
その言葉にクラーナは伯爵を見た。
「……僕には、あまり見えていませんが」
クラーナが顔をしかめると、ゼレットはにやりとした。
「よいな。そうやって戸惑う姿は、
「……
「何。心と身体が若ければ、実際に何年を過ごしたかなど何の関係があると?」
ゼレットが掴んだままだった彼の手をゆっくり引き戻して、クラーナはちらりとサズを見た。まさかこの若い魔術師が彼に妬きはしないだろうな、と一
「何が見えたと言われるのですか、閣下は」
「自分だけ回答を得ようというのは図々しいな」
ゼレットはサズが言った言葉を違う言い方で返すと首をかしげた。サズは笑う。
「まるで、
「そのようなものだろう。それともお前は
勝手にそんな言葉を作るゼレットにサズはふっと笑った。
「狼は人を化かしませんよ、閣下。ただ獲物を追い、捕らえ、そして――食らうのみです」
角のある狼を肩に飼う青年は、瞳に妖しい光を宿らせてそう言った。