01 お帰りになると仰せならば
文字数 3,739文字
監禁はされていない。
もっともそれは、鎖に繋がれているだとか牢に閉じ込められているだとか、そうしたことはない、という程度の意味だ。
示唆されたようにここがレンであるという確証はなかったが、その力が隅々まで行き届いている館であることは間違いがなかった。
だがそれでも、レン――或いはダイア・スケイズにとって、彼はあくまでもシャムレイの第三王子リャカラーダ・コム・シャムレイであると見え、彼は相応の儀礼を以て無口な使用人たちに遇されていた。
用意された東国の衣服は、正式のものでさえなかったが、簡易式の正装としても差し支えのないものであった。だが、慣れた衣装をこの空気のなかでまとうことは、彼の気には入らなかった。
彼が「第三王子リャカラーダ」ではなく、ただの「シーヴ」であればどうだったであろう。
それはあまりしたくない想像であったが、少し不思議でもあった。
その気になればレンは、シーヴであろうとリャカラーダであろうと、その痕跡ひとつ残さず消すことなど容易なはずだ。
彼らがそれをしないと言うことは、言うなればそれでもレンは文明都市であるということで、その考えは却って彼を憂鬱にさせた。それはつまり、彼が使用人を叩き斬って逃亡を図りでもすれば――それが可能だとは思わなかったが――レンとシャムレイの間の問題になると言うことだ。
スケイズは第三王子の右腕を二度に渡って痛めつけたが、それはどうとでも言い訳が通り、何らかの謝罪や賠償で済む話だ。だが、たとえ望まずとも招かれた館で無法を働けば、それはシャムレイ王子である彼の非になる。
もちろん、このまま大人しく捕らえられているつもりなどない。
奴らに彼を殺す気が――少なくともまだ――ないのなら、これは好機だ。どうにかして動玉を取り返し、ここを抜け出す。
(どうにかして、な)
シーヴは嘆息し、そんな自分に首を振った。
やり方が判らないと、できるはずがないと嘆き、諦めるのは簡単だ。だが彼はそうする気はない。もとより、連中の懐に飛び込むつもりでいたのだ。
まだ見えぬものでも、どこかに道はある。獣道よりも見つけ難く、山道のように険しくとも、これみよがしに目前に敷かれた煉瓦の道以外にも、必ず彼の採れる道はある。
そう考えて自身を慰めようと言うのではない。
これは、砂漠の民として生きる青年の確信。
どんなに酷い砂嵐に遭っても、生き延びる術は――ある。
「リャカラーダ様」
癖のある戸を叩く音とともにあまり聞きたくない声がすれば、彼は心を引き締めた。
「お迎えに上がりました」
目を向ければ、そこにはこれまで彼が一度たりとも目にしたことのない、悩殺的な衣装を着た女魔術師が立っている。端々に飾玉がつけられた柑子色の長いドレスは女の動きに合わせてちらちらと光り、大きく開いた胸元と太股まで入った片側の切れ込みは、その気のない男の目をも惹き付ける。剥き出しの右腕の上部から、隻眼の梟が彼を見張っていた。
「迎えだと?」
「はい。夕餉のお誘いに」
シーヴは鼻で笑った。
「虜に対して礼儀正しいことだ」
「まあ、虜など」
ミオノールは口に手を当てて笑うが、それはどうにもわざとらしかった。
「リャカラーダ様は大切なお客人。礼が足りないとの仰せでしたら、改めましょう。気の利かぬ使用人がおれば、処分をいたします」
「馬鹿な真似はするな」
シーヴは苦い顔をして、ほとんど反射的に言った。
「俺を縛り付けたいためにそうやって他人を傷つけるのはよせ。……言っておくが」
ミオノールの目が楽しそうに光ったので、彼はつけ加えた。
「レンの人間がどうなったところで、俺の知ったところではない。ただ、お前たちの好みとは違って、俺にはあまり面白くないと言うだけのことだ」
「順番を間違われましたね、リャカラーダ様。言うのならば、そちらを先に言うべきです」
無論、そのような言い訳でミオノールは気を落としはしなかった。むしろ、喜ばせてしまったらしい自身の発言に彼は呪いの言葉を吐く。
「殿下 はとても魅力的でいらっしゃいます。いかがですか、夕餉の前にひと汗をおかきになると言うのは」
女はなまめかしい目つきで言い、シーヴはまた鼻で笑った。
「ダイア殿 には言ったがな、あの男と兄弟になる気はない」
かつてスケイズやミオノールとしたやりとりや、彼が彼女を刺したこと、あの男が奪っていったものについては思い出せていた。かつてのリ・ガンのことも、〈守護者〉たちのことも、失われた月日は彼の内に戻った。
ただ思い出せぬのは、彼の大事な〈翡翠の娘〉のことばかり。
「残念です」
ミオノールは肩をすくめて言った。
「お気持ちが変わられるときをお待ちすることにしましょう」
「ならば永遠に待つことになるだろう」
「いつもながら、わたくしを切なくさせるお言葉ですね」
もはや彼のこの回答を楽しんでいるかのようなミオノールの様子はやはり彼に気に入らなかったが、かと言って喜ばせる言葉を吐くよりはずっとましである。
ほかの選択肢としては「黙っていればいい」というのがあるのだが、なかなか、彼の気性ではできない。
「傷の具合も、気にしてはいただけないのですか」
「……悪くなっては、いないようだな」
彼はむっつりと言った。
「残念ながら、と仰せですか?」
女は笑んで言った。
「見えぬところは、酷くなる一方でございます。殿下のご状態に心を痛め、愛しく思う気持ちで」
「抜かせ」
ミオノールの繰り返しをシーヴは相手にしない。
「俺を閉じこめてどうする。俺の女を忘れろと言うのか」
実際に〈翡翠の娘〉が彼の恋人でないことは判っていながら、彼はそんな言い方をした。
「それが最上ですが、殿下は肯んじませぬでしょう」
覚えてもいらっしゃらないのに、と続く。彼がどこまで思い出したのかを見抜かれているようで――見抜かれているのだろう――彼は舌打ちした。
「それに、誤解はなりません。私は殿下を閉じこめてなどおりません。ご招待と申し上げましたでしょう。殿下がお帰りになると仰せならば、いつ何時でも」
「ならば、帰ると言おうか」
弁舌を遮ってシーヴは言った。ミオノールの目が光る。
「だが、俺も言おう。誤解はするな。シャムレイに帰るというのではない。俺はアーレイドへ行くぞ」
「行って、どうされるのです」
シーヴの言質を掴めなかったことに対する失望を微かに声ににじませ、ミオノールは問うた。
「リ・ガンが殿下のことなど忘れて、かの街の姫と騎士のために奔走するところをご覧になりたいのですか? 殿下の前では見せなかった姿をご覧になりたいと」
「それが、何だ」
彼は言った。言いながら、知った。――この女はいま、リ・ガンはアーレイドにいると、そう言ったのか。
「……彼女が俺のことを気にしようとしまいとどうでもいい。彼女は俺を救う必要はない」
だがそれに気づいたこと――或いは、それを知らなかったことを気づかせまいと、シーヴは淡々と続けた。ミオノールは首を振る。
「また、誤解をしていらっしゃいます」
女は薄く笑った。
「それも、いくつも」
「何だと」
「殿下がアーレイドへ行かれても、リ・ガンは喜びません。それどころか、嘆くでしょう。見られたくない姿を見られれば」
「何だと」
シーヴはまた言った。
「訳の判らぬことを言うな。彼女がどれだけ、あの騎士のために必死になろうとかまわん。彼女は」
おぼろげな記憶を探る。
「彼を大事に思っていたはずだ。俺はそれを否定はせんし、気にもせん」
気にしないというのは少し嘘だったが、妬いているなどと認めたくもなかった。もっともミオノールが言うのは「エイラがファドックのために奔走する姿」ではなく「少年エイルの姿」であったが、彼は無論そのことを知らない。
「では」
女は事実には触れず、続けた。
「三つ目の翡翠はどうされるのです」
「……三つ目」
動玉のことであると彼は思い至った。
「返してもらおうか」
「殿下のお望みならば叶えて差し上げたいところですが、生憎と、私の権限にはございません」
「よくも言うものだ」
シーヴは口を曲げた。
「権限があったところで、叶える気などないのだろう」
「……そのようにミオノールの心を全てお疑いならば、よろしいでしょう。ダイア様にお願いして、殿下のご希望を幾つか、叶えて差し上げます」
「ほう?」
どんな捻れた叶え方をしてくれるものやら――と思いながらシーヴは片眉を上げた。
「三つ目の、現在の持ち主のところへご案内を……というのはいかがですか?」
シーヴはミオノールの言葉を計るように女を見た。それは、誰だというのか。
「けれどそれはあとのお話にしましょう、リャカラーダ様。殿下に最高級のお食事をご提供しようと、料理人がやきもきしておりますから」
シーヴは黙った。ミオノールが、言うなれば朗読していた本を閉じたのが判った。彼女はもう、この話を続ける気はないのだ。彼女が適当だと思う「あと」になるまで。
もっともそれは、鎖に繋がれているだとか牢に閉じ込められているだとか、そうしたことはない、という程度の意味だ。
示唆されたようにここがレンであるという確証はなかったが、その力が隅々まで行き届いている館であることは間違いがなかった。
だがそれでも、レン――或いはダイア・スケイズにとって、彼はあくまでもシャムレイの第三王子リャカラーダ・コム・シャムレイであると見え、彼は相応の儀礼を以て無口な使用人たちに遇されていた。
用意された東国の衣服は、正式のものでさえなかったが、簡易式の正装としても差し支えのないものであった。だが、慣れた衣装をこの空気のなかでまとうことは、彼の気には入らなかった。
彼が「第三王子リャカラーダ」ではなく、ただの「シーヴ」であればどうだったであろう。
それはあまりしたくない想像であったが、少し不思議でもあった。
その気になればレンは、シーヴであろうとリャカラーダであろうと、その痕跡ひとつ残さず消すことなど容易なはずだ。
彼らがそれをしないと言うことは、言うなればそれでもレンは文明都市であるということで、その考えは却って彼を憂鬱にさせた。それはつまり、彼が使用人を叩き斬って逃亡を図りでもすれば――それが可能だとは思わなかったが――レンとシャムレイの間の問題になると言うことだ。
スケイズは第三王子の右腕を二度に渡って痛めつけたが、それはどうとでも言い訳が通り、何らかの謝罪や賠償で済む話だ。だが、たとえ望まずとも招かれた館で無法を働けば、それはシャムレイ王子である彼の非になる。
もちろん、このまま大人しく捕らえられているつもりなどない。
奴らに彼を殺す気が――少なくともまだ――ないのなら、これは好機だ。どうにかして動玉を取り返し、ここを抜け出す。
(どうにかして、な)
シーヴは嘆息し、そんな自分に首を振った。
やり方が判らないと、できるはずがないと嘆き、諦めるのは簡単だ。だが彼はそうする気はない。もとより、連中の懐に飛び込むつもりでいたのだ。
まだ見えぬものでも、どこかに道はある。獣道よりも見つけ難く、山道のように険しくとも、これみよがしに目前に敷かれた煉瓦の道以外にも、必ず彼の採れる道はある。
そう考えて自身を慰めようと言うのではない。
これは、砂漠の民として生きる青年の確信。
どんなに酷い砂嵐に遭っても、生き延びる術は――ある。
「リャカラーダ様」
癖のある戸を叩く音とともにあまり聞きたくない声がすれば、彼は心を引き締めた。
「お迎えに上がりました」
目を向ければ、そこにはこれまで彼が一度たりとも目にしたことのない、悩殺的な衣装を着た女魔術師が立っている。端々に飾玉がつけられた柑子色の長いドレスは女の動きに合わせてちらちらと光り、大きく開いた胸元と太股まで入った片側の切れ込みは、その気のない男の目をも惹き付ける。剥き出しの右腕の上部から、隻眼の梟が彼を見張っていた。
「迎えだと?」
「はい。夕餉のお誘いに」
シーヴは鼻で笑った。
「虜に対して礼儀正しいことだ」
「まあ、虜など」
ミオノールは口に手を当てて笑うが、それはどうにもわざとらしかった。
「リャカラーダ様は大切なお客人。礼が足りないとの仰せでしたら、改めましょう。気の利かぬ使用人がおれば、処分をいたします」
「馬鹿な真似はするな」
シーヴは苦い顔をして、ほとんど反射的に言った。
「俺を縛り付けたいためにそうやって他人を傷つけるのはよせ。……言っておくが」
ミオノールの目が楽しそうに光ったので、彼はつけ加えた。
「レンの人間がどうなったところで、俺の知ったところではない。ただ、お前たちの好みとは違って、俺にはあまり面白くないと言うだけのことだ」
「順番を間違われましたね、リャカラーダ様。言うのならば、そちらを先に言うべきです」
無論、そのような言い訳でミオノールは気を落としはしなかった。むしろ、喜ばせてしまったらしい自身の発言に彼は呪いの言葉を吐く。
「
女はなまめかしい目つきで言い、シーヴはまた鼻で笑った。
「
かつてスケイズやミオノールとしたやりとりや、彼が彼女を刺したこと、あの男が奪っていったものについては思い出せていた。かつてのリ・ガンのことも、〈守護者〉たちのことも、失われた月日は彼の内に戻った。
ただ思い出せぬのは、彼の大事な〈翡翠の娘〉のことばかり。
「残念です」
ミオノールは肩をすくめて言った。
「お気持ちが変わられるときをお待ちすることにしましょう」
「ならば永遠に待つことになるだろう」
「いつもながら、わたくしを切なくさせるお言葉ですね」
もはや彼のこの回答を楽しんでいるかのようなミオノールの様子はやはり彼に気に入らなかったが、かと言って喜ばせる言葉を吐くよりはずっとましである。
ほかの選択肢としては「黙っていればいい」というのがあるのだが、なかなか、彼の気性ではできない。
「傷の具合も、気にしてはいただけないのですか」
「……悪くなっては、いないようだな」
彼はむっつりと言った。
「残念ながら、と仰せですか?」
女は笑んで言った。
「見えぬところは、酷くなる一方でございます。殿下のご状態に心を痛め、愛しく思う気持ちで」
「抜かせ」
ミオノールの繰り返しをシーヴは相手にしない。
「俺を閉じこめてどうする。俺の女を忘れろと言うのか」
実際に〈翡翠の娘〉が彼の恋人でないことは判っていながら、彼はそんな言い方をした。
「それが最上ですが、殿下は肯んじませぬでしょう」
覚えてもいらっしゃらないのに、と続く。彼がどこまで思い出したのかを見抜かれているようで――見抜かれているのだろう――彼は舌打ちした。
「それに、誤解はなりません。私は殿下を閉じこめてなどおりません。ご招待と申し上げましたでしょう。殿下がお帰りになると仰せならば、いつ何時でも」
「ならば、帰ると言おうか」
弁舌を遮ってシーヴは言った。ミオノールの目が光る。
「だが、俺も言おう。誤解はするな。シャムレイに帰るというのではない。俺はアーレイドへ行くぞ」
「行って、どうされるのです」
シーヴの言質を掴めなかったことに対する失望を微かに声ににじませ、ミオノールは問うた。
「リ・ガンが殿下のことなど忘れて、かの街の姫と騎士のために奔走するところをご覧になりたいのですか? 殿下の前では見せなかった姿をご覧になりたいと」
「それが、何だ」
彼は言った。言いながら、知った。――この女はいま、リ・ガンはアーレイドにいると、そう言ったのか。
「……彼女が俺のことを気にしようとしまいとどうでもいい。彼女は俺を救う必要はない」
だがそれに気づいたこと――或いは、それを知らなかったことを気づかせまいと、シーヴは淡々と続けた。ミオノールは首を振る。
「また、誤解をしていらっしゃいます」
女は薄く笑った。
「それも、いくつも」
「何だと」
「殿下がアーレイドへ行かれても、リ・ガンは喜びません。それどころか、嘆くでしょう。見られたくない姿を見られれば」
「何だと」
シーヴはまた言った。
「訳の判らぬことを言うな。彼女がどれだけ、あの騎士のために必死になろうとかまわん。彼女は」
おぼろげな記憶を探る。
「彼を大事に思っていたはずだ。俺はそれを否定はせんし、気にもせん」
気にしないというのは少し嘘だったが、妬いているなどと認めたくもなかった。もっともミオノールが言うのは「エイラがファドックのために奔走する姿」ではなく「少年エイルの姿」であったが、彼は無論そのことを知らない。
「では」
女は事実には触れず、続けた。
「三つ目の翡翠はどうされるのです」
「……三つ目」
動玉のことであると彼は思い至った。
「返してもらおうか」
「殿下のお望みならば叶えて差し上げたいところですが、生憎と、私の権限にはございません」
「よくも言うものだ」
シーヴは口を曲げた。
「権限があったところで、叶える気などないのだろう」
「……そのようにミオノールの心を全てお疑いならば、よろしいでしょう。ダイア様にお願いして、殿下のご希望を幾つか、叶えて差し上げます」
「ほう?」
どんな捻れた叶え方をしてくれるものやら――と思いながらシーヴは片眉を上げた。
「三つ目の、現在の持ち主のところへご案内を……というのはいかがですか?」
シーヴはミオノールの言葉を計るように女を見た。それは、誰だというのか。
「けれどそれはあとのお話にしましょう、リャカラーダ様。殿下に最高級のお食事をご提供しようと、料理人がやきもきしておりますから」
シーヴは黙った。ミオノールが、言うなれば朗読していた本を閉じたのが判った。彼女はもう、この話を続ける気はないのだ。彼女が適当だと思う「あと」になるまで。