11 逃げるように
文字数 3,063文字
謁見を終えた王が退出し、担当の兵がそれを警護しながら下がるのを見届ければ、少しは自由になる時間があった。
だが詰め所へ行けばイージェンが彼を待ちかまえていることは判っている。彼を案じる近衛の青年と話をする気分にはなれなかった。
周囲の視線は、全て億劫だった。
彼に憧れるものも、失望するものも、期待するものも、案じるものも。
近衛隊長としての評価が上がる一方で、ファドック・ソレス個人への評価が下がっていることも知っていた。
だが――それが何だと言うのだろう?
「隊長 」
ファドックの帰室に、ブロック少年は緊張たっぷりの敬礼で出迎えた。彼はそれに視線も向けぬまま、出てよいと身振りで示した。
使用人を部屋に置いておく者も外に門番のように立たせきりの者もいたが、ファドックはこのところ、たいていにおいて後者であった。人の気配はいまの彼には煩わしかったからだ。これは、ブロックにとっても安堵できる選択であった。少年は、護衛騎士の笑顔を知らぬ。
少年が整えておいた封書や文書をめくり、重要と思われるものに素早く目を通して必要な対応を取る。手慣れてきた処理を済ませてしまうと、やはり――時間ができた。
ファドックは無意識のうちに制服の襟をゆるめた。ふうっとため息が洩れる。
苛ついていると言うのではなかった。感じるものはなく――いや、感じるものはあった。
虚無感。
疲れているのだろう、と彼は自身を「判断」した。以前には、どれだけ忙しくてもそれを認めず、少なくとも周囲にはそんな様子を見せなかったことは、思い出さなかった。
戸を叩く軽い音がして、静かにそれが開かれた。いつものようにブロックが茶でも運んできたのだろうと思った彼は、現れた姿に片眉を上げた。
「失礼いたします」
盆とその上の陶杯は彼の予想通りのものだったが、それを手にするのは彼に怯える少年ではなかった。
「ここで、何をしている」
叱責ではなく、ただの疑問であった。一瞬 それに怯みかけたレイジュは、しかし気持ちを奮い立てる。
「ブロックを責めないでくださいね、ファドック様。私が無理矢理、彼からこれを取り上げたんです」
「あなたにそのような権限はない」
「……判ってます」
レイジュはそう答えると盆を片手に持ったままで上手に戸を閉め、近衛隊長 の前に進むと湯気の立った杯を卓の上に置いた。
「ファドック様。お話があります」
彼は──娘の言いように奇妙なものを覚えた。それは、苛立ちだっただろうか。
「あなたと話をする時間はない」
その返答は娘の顔を曇らせたが、去る決意をさせるには及ばなかったようだ。
「嘘です。書類もお読みになっていなければ、筆も持っていらっしゃらないじゃないですか」
「時間がないとは言っていない。あなたと 話をする時間はないと言ったのだ」
この言葉にはレイジュははっきりと怯んだが、深呼吸のようなものをするとそのまま続けた。
「聞いて下さい。ブロックから伝わっているかもしれませんけれど……エイルが帰ってきました」
「エイル」
ファドックは目を細めるようにした。ちくりと針が刺さったかのような、奇妙な痛みを──どこか判然としない場所に覚えた。それは脳裏か、それとも心と呼ぶものだったろうか。
「彼が」
下町の少年。厨房で働き、王女と語らった。彼に不思議な感覚を呼び起こし、彼を──と呼んだ。
すっと手足が冷たくなった。頭痛を覚えてファドックは右手で額を押さえるようにする。
それを思 い出しては 、いけない 。
「ファドック様?」
レイジュが驚いたような声を出した。
「大丈夫……ですか?」
応えはなかった。ファドックの頭を支える手は両手になっている。苦痛のうめきのようなものがその口からもれた。
「ファドック様っ」
レイジュは何か考えるよりも先にその卓を回り込んでファドックのすぐ脇に寄り、そこで躊躇った。だがファドックが彼女の移動に気づくことすらなく、ますます苦しそうに頭を抱え、肩を震わす様子を見て、おずおずと左手をその右肩に伸ばした。
「どう……され」
案じる言葉は最後まで発せられなかった。ファドックがぱっと振り向き、娘の手首を素早く掴んだためである。
彼女がこれを史上最大の幸運と考えるには、騎士の様子はただごとではなかった。レイジュは目を見張り、ブロックがこの近衛隊長を怖れていることを思い出したのみである。
「ファドック……様」
「そのように」
声は、静かだった。しかし、そこには彼女が聞いたことのない色があった。
「私に触れようなどと、するな」
「も、申し訳ありません」
ようよう、そんな謝罪が出た。彼女はこのとき、彼を怖れたのではない。確かに、この行為は侍女にあるまじきことだったのだ。
「でも……ご様子が」
「言い訳は要らん。私を」
ぐいっと手首が引かれた。レイジュはファドックにまるで抱き寄せられたかのような形になり、彼女と騎士の距離はこれまでレイジュが経験したどの状況よりも近しくなった。
だがやはり彼女がそれに喜ぶには──ファドックの目は暗い闇をたたえたままだった。
「苛つかせるな」
発せられた低い声。レイジュの鼓動が跳ね上がる。
これが、喜びのためであればどんなにいいか。
だがこの瞬間、彼女は初めて、ファドック・ソレスを怖れた。
「ファドックさ……」
「黙れ」
震える声は鋭く制された。
ファドックはレイジュの左手首を右手で押さえたまま、左手で侍女の襟首を掴んだ。レイジュは恐怖を覚え――そんな自身を叱咤した。違う、ファドックは侍女を――彼女を傷つけるような人間ではない。
だがそれと同時に、この男はそうも なれるのだ 、という、この状況にあるまじき冷静な思考が脳裏をかすめた。
「余計な……口を利くな」
ファドックの目に奇妙な光が浮かんだ。震えそうになる身体を懸命に抑えながら、レイジュは目を閉じまいとその瞳をじっと見た。
「無駄なことを……話せば、それはお前の――」
その目に宿るものは何だったであろう。怒りか、苛立ちか、衝動か、焦燥か、それとも――同じように恐怖だったろうか。
侍女の襟元を掴む左手に力が込められた。レイジュの目は抗う気持ちと裏腹に、きつく閉じられた。彼女を殴る? まさか、彼はそのような人間では、ない!
その確信――それとも、信じたいと願うこと――が覆されずに済んだのは、しかし決してレイジュの安心材料とはならなかった。
扉が叩かれる音とともに、レイジュはいちばん聞きたくない声がその向こうから聞こえてきたからである。
「ファドック様。テリスンです」
掃除娘が仕事にきたのではなく名を名乗って部屋を訪れる理由について考え、心を痛める余裕はいまのレイジュにはなかった。
ただ、安堵した。
そして、安堵した自分を叱った。
ファドックは一秒 ののちにレイジュから両手を放し、身振りだけで彼女に乱れた制服を直すよう、促した。娘は震えてしまう手でそれに従い、侍女として培われた条件反射めいた行動で、叩かれた戸を開けに行った。
扉を開けた相手を見て掃除娘は驚いた顔をしたが、何も言わなかった。レイジュは何も考えられぬまま、やはり反射的に退出の礼をして、逃げるように部屋を立ち去った。
だが詰め所へ行けばイージェンが彼を待ちかまえていることは判っている。彼を案じる近衛の青年と話をする気分にはなれなかった。
周囲の視線は、全て億劫だった。
彼に憧れるものも、失望するものも、期待するものも、案じるものも。
近衛隊長としての評価が上がる一方で、ファドック・ソレス個人への評価が下がっていることも知っていた。
だが――それが何だと言うのだろう?
「
ファドックの帰室に、ブロック少年は緊張たっぷりの敬礼で出迎えた。彼はそれに視線も向けぬまま、出てよいと身振りで示した。
使用人を部屋に置いておく者も外に門番のように立たせきりの者もいたが、ファドックはこのところ、たいていにおいて後者であった。人の気配はいまの彼には煩わしかったからだ。これは、ブロックにとっても安堵できる選択であった。少年は、護衛騎士の笑顔を知らぬ。
少年が整えておいた封書や文書をめくり、重要と思われるものに素早く目を通して必要な対応を取る。手慣れてきた処理を済ませてしまうと、やはり――時間ができた。
ファドックは無意識のうちに制服の襟をゆるめた。ふうっとため息が洩れる。
苛ついていると言うのではなかった。感じるものはなく――いや、感じるものはあった。
虚無感。
疲れているのだろう、と彼は自身を「判断」した。以前には、どれだけ忙しくてもそれを認めず、少なくとも周囲にはそんな様子を見せなかったことは、思い出さなかった。
戸を叩く軽い音がして、静かにそれが開かれた。いつものようにブロックが茶でも運んできたのだろうと思った彼は、現れた姿に片眉を上げた。
「失礼いたします」
盆とその上の陶杯は彼の予想通りのものだったが、それを手にするのは彼に怯える少年ではなかった。
「ここで、何をしている」
叱責ではなく、ただの疑問であった。一
「ブロックを責めないでくださいね、ファドック様。私が無理矢理、彼からこれを取り上げたんです」
「あなたにそのような権限はない」
「……判ってます」
レイジュはそう答えると盆を片手に持ったままで上手に戸を閉め、
「ファドック様。お話があります」
彼は──娘の言いように奇妙なものを覚えた。それは、苛立ちだっただろうか。
「あなたと話をする時間はない」
その返答は娘の顔を曇らせたが、去る決意をさせるには及ばなかったようだ。
「嘘です。書類もお読みになっていなければ、筆も持っていらっしゃらないじゃないですか」
「時間がないとは言っていない。
この言葉にはレイジュははっきりと怯んだが、深呼吸のようなものをするとそのまま続けた。
「聞いて下さい。ブロックから伝わっているかもしれませんけれど……エイルが帰ってきました」
「エイル」
ファドックは目を細めるようにした。ちくりと針が刺さったかのような、奇妙な痛みを──どこか判然としない場所に覚えた。それは脳裏か、それとも心と呼ぶものだったろうか。
「彼が」
下町の少年。厨房で働き、王女と語らった。彼に不思議な感覚を呼び起こし、彼を──と呼んだ。
すっと手足が冷たくなった。頭痛を覚えてファドックは右手で額を押さえるようにする。
「ファドック様?」
レイジュが驚いたような声を出した。
「大丈夫……ですか?」
応えはなかった。ファドックの頭を支える手は両手になっている。苦痛のうめきのようなものがその口からもれた。
「ファドック様っ」
レイジュは何か考えるよりも先にその卓を回り込んでファドックのすぐ脇に寄り、そこで躊躇った。だがファドックが彼女の移動に気づくことすらなく、ますます苦しそうに頭を抱え、肩を震わす様子を見て、おずおずと左手をその右肩に伸ばした。
「どう……され」
案じる言葉は最後まで発せられなかった。ファドックがぱっと振り向き、娘の手首を素早く掴んだためである。
彼女がこれを史上最大の幸運と考えるには、騎士の様子はただごとではなかった。レイジュは目を見張り、ブロックがこの近衛隊長を怖れていることを思い出したのみである。
「ファドック……様」
「そのように」
声は、静かだった。しかし、そこには彼女が聞いたことのない色があった。
「私に触れようなどと、するな」
「も、申し訳ありません」
ようよう、そんな謝罪が出た。彼女はこのとき、彼を怖れたのではない。確かに、この行為は侍女にあるまじきことだったのだ。
「でも……ご様子が」
「言い訳は要らん。私を」
ぐいっと手首が引かれた。レイジュはファドックにまるで抱き寄せられたかのような形になり、彼女と騎士の距離はこれまでレイジュが経験したどの状況よりも近しくなった。
だがやはり彼女がそれに喜ぶには──ファドックの目は暗い闇をたたえたままだった。
「苛つかせるな」
発せられた低い声。レイジュの鼓動が跳ね上がる。
これが、喜びのためであればどんなにいいか。
だがこの瞬間、彼女は初めて、ファドック・ソレスを怖れた。
「ファドックさ……」
「黙れ」
震える声は鋭く制された。
ファドックはレイジュの左手首を右手で押さえたまま、左手で侍女の襟首を掴んだ。レイジュは恐怖を覚え――そんな自身を叱咤した。違う、ファドックは侍女を――彼女を傷つけるような人間ではない。
だがそれと同時に、この男は
「余計な……口を利くな」
ファドックの目に奇妙な光が浮かんだ。震えそうになる身体を懸命に抑えながら、レイジュは目を閉じまいとその瞳をじっと見た。
「無駄なことを……話せば、それはお前の――」
その目に宿るものは何だったであろう。怒りか、苛立ちか、衝動か、焦燥か、それとも――同じように恐怖だったろうか。
侍女の襟元を掴む左手に力が込められた。レイジュの目は抗う気持ちと裏腹に、きつく閉じられた。彼女を殴る? まさか、彼はそのような人間では、ない!
その確信――それとも、信じたいと願うこと――が覆されずに済んだのは、しかし決してレイジュの安心材料とはならなかった。
扉が叩かれる音とともに、レイジュはいちばん聞きたくない声がその向こうから聞こえてきたからである。
「ファドック様。テリスンです」
掃除娘が仕事にきたのではなく名を名乗って部屋を訪れる理由について考え、心を痛める余裕はいまのレイジュにはなかった。
ただ、安堵した。
そして、安堵した自分を叱った。
ファドックは一
扉を開けた相手を見て掃除娘は驚いた顔をしたが、何も言わなかった。レイジュは何も考えられぬまま、やはり反射的に退出の礼をして、逃げるように部屋を立ち去った。