01 心配事があるとしたら
文字数 1,751文字
風はすっかり夏の色を運びはじめていた。
温暖な気候のアーレイドでは、酷暑とまでは行かぬものの、真夏となれば強い陽射しも続く。
とは言え、それはまだもう少し先のことだ。
たいていは白の月がいちばん暑さが厳しいとされるが、今年は〈変異〉の年である。つまり、十三番目の月があるのだ。普段は天候を気にしない街びと──晴れれば晴だし、雨なら、雨だ──も、この年の終盤ばかりは気候のことをよく口にした。
「何だかだいぶん、暑くなったもんだね」
アニーナはそう言うと立ち上がって、窓を開けた。
「こうすれば少しは、いいだろう」
日の当たらない南区は、ほかの街区に比べると熱の影響を受けにくかったが、それでも閉め切っていれば空気はこもるし、温度も上がる。
「言っておくけれど、何度きたって同じだよ」
振り返ったアニーナは、ぎろりと客を睨みつけた。青年は首をすくめる。
「どうか頼みますよ、アニーナ」
「あんたが困るのはあんたの勝手だ。どうしてあたしが面倒を見てやらにゃならない?」
青年はまた、首をすくめると困って笑うようにした。アニーナは表情をやわらげる。
「あんたには悪いと思ってるよ、ザック。エイルを気遣ってくれる、あの子の貴重な友人なんだからね」
そう言って籠編みの女は木の杯に水を汲んでザック青年の前に置いた。
「でもそれとこれとは別。あたしはあたしの稼ぎで充分にやっていけるんだ。お情けなんかにすがらないよ」
「頼みますよ……」
青年はまた言った。
「近衛隊長の命令をこなせなかったなんて言ったらクビですよ、クビ」
「それさ」
アニーナはザックに指を突きつけるようにした。
「あの旦那らしく、ないじゃないか? あたしが金を受け取らないことは知ってるはずだし、だいたいあたしの怪我は旦那のせいでも馬鹿息子のせいでもないのに」
まさしくその通りであることは彼女は知らず、該当者が聞けば苦い顔を見せるであろう台詞を吐いた。
「近衛隊長 はエイルが心配なんですよ。だからアニーナのことも心配するんです。俺と一緒だ」
「有難い話さ」
アニーナは肩をすくめる。
「けどね、旦那らしくない。あんたからならあたしが受け取るって思ったにしたって、その前にもう一度、自分で再挑戦するだろうと思うね」
「忙しいんですよ」
青年は、城の誰もがファドック・ソレスに対して評するように言った。だがアニーナは首を振る。
「それでも」
呟くように言った。
「旦那らしくないね」
ザックはもう何も言わなかった。彼はアニーナほどファドックと話をしたことはないし、年を重ねた彼女のような目を持っている訳でもないのだ。
「怪我は、どうなんです」
その代わり、彼はそう話を続けた。アニーナは肩をすくめる。
「すっかりいいようだよ。冬場にゃ痛むかもしれないって言われたけれど、幸いにしてこれから夏だしね」
怪我をした肩を軽く叩いてそう言った。ザックは少し沈黙したあとで、至らなくて済みません、などと言った。アニーナは面白そうに眉を上げて息子の友を見る。
「あの事件は町憲兵さん のせいでもないだろう?」
「でも犯人を捕らえられなかったのは俺たちの落ち度です」
翌日に港に上がった無法者の死体と、エイルの母の事件とは何も結びつけて考えられていなかった。
「いいさ。もうどうでも」
アニーナは気軽に言った。
「どうしてあんな目に遭ったのかは判らないけれど、あたしはこうして生きてて、息子のいい友だちと話をしてる。騎士の旦那のことはちょっとばかり心配だけど、あの人なら何があっても大丈夫さ。あたしに心配事があるとしたら……」
「エイル……ですか」
ザックは小柄な――と言えば、ザックがでかいだけだ、と少年は抗議をするだろう――友人を思い出して言った。アニーナはにっと笑う。
「エイルが帰ってきたときにこの傷のことを知ったら、どう説明をしたらいいかってことくらいさ」
ただの事故みたいなもんなんだから、などと言って母は笑った。
ザック青年はあまり鋭いとは言えなかったが、それでも気づいた。
彼の友人の母は、息子が無事に帰ってくることを疑っていない――エイルを信じているのだと。
温暖な気候のアーレイドでは、酷暑とまでは行かぬものの、真夏となれば強い陽射しも続く。
とは言え、それはまだもう少し先のことだ。
たいていは白の月がいちばん暑さが厳しいとされるが、今年は〈変異〉の年である。つまり、十三番目の月があるのだ。普段は天候を気にしない街びと──晴れれば晴だし、雨なら、雨だ──も、この年の終盤ばかりは気候のことをよく口にした。
「何だかだいぶん、暑くなったもんだね」
アニーナはそう言うと立ち上がって、窓を開けた。
「こうすれば少しは、いいだろう」
日の当たらない南区は、ほかの街区に比べると熱の影響を受けにくかったが、それでも閉め切っていれば空気はこもるし、温度も上がる。
「言っておくけれど、何度きたって同じだよ」
振り返ったアニーナは、ぎろりと客を睨みつけた。青年は首をすくめる。
「どうか頼みますよ、アニーナ」
「あんたが困るのはあんたの勝手だ。どうしてあたしが面倒を見てやらにゃならない?」
青年はまた、首をすくめると困って笑うようにした。アニーナは表情をやわらげる。
「あんたには悪いと思ってるよ、ザック。エイルを気遣ってくれる、あの子の貴重な友人なんだからね」
そう言って籠編みの女は木の杯に水を汲んでザック青年の前に置いた。
「でもそれとこれとは別。あたしはあたしの稼ぎで充分にやっていけるんだ。お情けなんかにすがらないよ」
「頼みますよ……」
青年はまた言った。
「近衛隊長の命令をこなせなかったなんて言ったらクビですよ、クビ」
「それさ」
アニーナはザックに指を突きつけるようにした。
「あの旦那らしく、ないじゃないか? あたしが金を受け取らないことは知ってるはずだし、だいたいあたしの怪我は旦那のせいでも馬鹿息子のせいでもないのに」
まさしくその通りであることは彼女は知らず、該当者が聞けば苦い顔を見せるであろう台詞を吐いた。
「
「有難い話さ」
アニーナは肩をすくめる。
「けどね、旦那らしくない。あんたからならあたしが受け取るって思ったにしたって、その前にもう一度、自分で再挑戦するだろうと思うね」
「忙しいんですよ」
青年は、城の誰もがファドック・ソレスに対して評するように言った。だがアニーナは首を振る。
「それでも」
呟くように言った。
「旦那らしくないね」
ザックはもう何も言わなかった。彼はアニーナほどファドックと話をしたことはないし、年を重ねた彼女のような目を持っている訳でもないのだ。
「怪我は、どうなんです」
その代わり、彼はそう話を続けた。アニーナは肩をすくめる。
「すっかりいいようだよ。冬場にゃ痛むかもしれないって言われたけれど、幸いにしてこれから夏だしね」
怪我をした肩を軽く叩いてそう言った。ザックは少し沈黙したあとで、至らなくて済みません、などと言った。アニーナは面白そうに眉を上げて息子の友を見る。
「あの事件は
「でも犯人を捕らえられなかったのは俺たちの落ち度です」
翌日に港に上がった無法者の死体と、エイルの母の事件とは何も結びつけて考えられていなかった。
「いいさ。もうどうでも」
アニーナは気軽に言った。
「どうしてあんな目に遭ったのかは判らないけれど、あたしはこうして生きてて、息子のいい友だちと話をしてる。騎士の旦那のことはちょっとばかり心配だけど、あの人なら何があっても大丈夫さ。あたしに心配事があるとしたら……」
「エイル……ですか」
ザックは小柄な――と言えば、ザックがでかいだけだ、と少年は抗議をするだろう――友人を思い出して言った。アニーナはにっと笑う。
「エイルが帰ってきたときにこの傷のことを知ったら、どう説明をしたらいいかってことくらいさ」
ただの事故みたいなもんなんだから、などと言って母は笑った。
ザック青年はあまり鋭いとは言えなかったが、それでも気づいた。
彼の友人の母は、息子が無事に帰ってくることを疑っていない――エイルを信じているのだと。