8 罪悪だな
文字数 3,160文字
「まあ、それじゃそちらが噂の子ね」
聞こえてきた声に視線を移すと、そこには美女が立っていた。
胸元まで大きく開いた赤いドレスが、まず目に飛び込んできた。灯りにキラキラときらめくのは飾り玉だろう。肩まで流れる白金髪はきれいに波立っており、化粧は少年の基準から言えばいささか派手だったが、どう描けば自分が美しく見えるか完璧に理解していることは間違いなかった。灰色がかった目は細く、少年を品定めるかのようにじっと見ている。
(それじゃこれが)
(ゼレット様のお気に入りのひとりか)
髪はかつらか、それとも染めているのだろうな、などと下町の少年は少し意地悪く考えながらその凝視に耐える。
「そうだ、これがエイル。頑なな少年で、私の求愛になかなかうんと言わない」
「ちょいっ、ゼレット様っ」
「何を慌てる。本当のことだろう。エイル、こちらはルア=ヴィート。サリタール娼館いちばんの女だ」
「まあ、お上手。それならどうして、私よりシャーラばかりお呼びになりますの?」
「お前を独占する訳にはいかないだろう?」
ゼレットはそんなことを言うとルア=ヴィートの頬に口づけた。
「はじめまして、エイル」
「どうも……セリ」
どう呼びかけたらいいか判らなくてそう言うと、女はころころと笑った。
「春女にそんな丁寧な口を利いて下さるなんて紳士ね、エイル。私のことはルアでよろしいのよ」
「あの、ゼレット様。吟遊詩人 はどうしたんです」
ゼレットが彼女をエイルに「あてがおう」としていることは疑いの余地もなく、少年は女のからみつくような視線を避けてそう問うた。ゼレットは、何だ、気づいたか、とでも言うような顔をして口を曲げると広間の奥を指さす。
「女たちに受けとるようだな。俺の地位が心配だ」
示された先を見ると、成程、なかなかきれいな若者が着飾った娘たちに囲まれて楽しそうに喋っていた。
「ああいうのは、お好みじゃないんですか」
「何だ、男を連れてきたから妬いとるのか」
「馬鹿なこと言わんでくださいっ」
「冗談だ。まあ、美形と言っていいと思うが、俺が取ったら女たちに恨まれるだろう」
お前で充分、恨まれとるのにな、とゼレットは言い、エイルを吹き出させる。
「何を笑う。これは冗談ではないぞ。天から降ってきた謎の少年。若い娘が夢想するには絶好の相手だろうが」
「……そんな気配、ありませんぜ」
エイルはむっつりと言う。アーレイドの侍女だって、彼にもっと好意を見せた。ここの娘たちは、遠巻きにするばかりだ。自然、彼は厨房の野郎どもや獣くさい馬丁たちと仲良くなることになる。「エイラ」でいるときのことを思えば、誰かと仲良くなれるだけ上等であったが、どうせなら女の子と仲良くしたいと思うくらいには彼も「健全」だ。
「からかうのはやめてくださいよ、ファドック様」
すっと出た名前が間違っていたことには気づかなかった。ゼレットが何とも奇妙な顔をして彼をのぞき込んでいると判ったのは、少年の言葉に対する返答がなかったからだ。
「……どうしたんですか?」
「いや」
ゼレットは首を振った。
「暗闇であろうと女の名を呼び間違えるのは礼儀にもとる思って気をつけておったが……ふむ。考えを改めよう。礼儀どころではない、罪悪だな。こんなに傷つくものとは」
言われて、ようやく自身の声が蘇る。
「あっ、いや、その、すみません。俺、その……ゼレット様と似てる人、なんで、つい」
彼らを似ていると思うのは、世界 中を見回してもエイルだけに違いないが。
「約束とやらをした相手か? ううむ参ったな、妬けるぞ」
「あの……すみませんとしか言えませんけど……ファドック様とはそんなんじゃないですから」
どうしてこんな言い訳をしなければならないのだろう、と思いながらもエイルは言った。答えは歴然としている。自分が名前を間違えたからだ。
「どんな男だ。聞かせろ」
「い、いまですか?」
「そうだ。それが気になって、今宵、女を抱けなかったらどうしてくれる。責任を取らせるぞ」
「意味が判りませんっ」
エイルは抗議するが、ゼレットは少年の両肩を掴んで自身に向き直らせた。
「どんな男だ」
「ええと」
仕方なく、エイルは声を出した。どうしてもゼレットが「恋敵」について知りたいと言うのなら、それは性別としてもエイル自身の気持ちとしても、シュアラの方が相応しかった。だがそんなことを言えば余計にややこしくなることは目に見えていたので、エイルは渋々とファドックのことを話す。
「その人は……北西にある街で、お姫様の護衛騎士 をしていて」
「騎士 。悪くないな、気に入らん」
むすっと言うゼレットに、困ったような視線を向けた。
「そんなふうに言わないでくださいよ。その人は、あなたと同じ」
(あなたと同じ――)
(〈守護者〉です)
「同じ、いい男か」
エイルが浮かんだ言葉を言おうか迷っている間に、ゼレットが茶化す。それとも、本気かもしれない。
「まあ、女性に人気があることは確かですけど、ゼレット様みたいに毎日とっかえひっかえってことはなかったです」
冗談にもそんなことを言えば、ファドックに惚れ込んでいるレイジュに殴られでもするに違いない。可愛い侍女を思い出しながら、エイルは〈守護者〉の言葉を脇に置いた。
「それではその男は人生を半分損しとるな」
「じゃ、ゼレット様は俺にも半分、損させる気ですか?」
無理矢理話題を戻そうと試みる。
「何?」
「だって、女の子たちが俺を見てるってんなら、何でそれが俺に伝わらないと思うんです」
「それは、私がこうしてお前にひっついとるからだな」
にやりとしてゼレットは言った。
「ゼレット様は、俺に女を作らせたいのか作らせたくないのかどっちなんですか」
どうやらファドックのことから気がそれたようだと安心しながら、エイルは言った。
あの日、厳しい顔をしてエイルを「客人ではなく虜だ」などと言ったゼレットは、しかし結局はずっとこの調子であった。翡翠に関する彼の動向を見極めるためではなく、陥とすために見張ると言ったのだろうか、と首をかしげる日々だ。もちろん、ゼレットがからかい以上の行為に出ることはなかったが。
「お前が健全な青少年だと判れば、俺も諦めがつく」
「……そう言ってるじゃないですか」
「言葉だけでは不充分だ。行動で示せ」
まるでそれは暴君の命令のようであったが、その命令の内容を考えれば肩の力が抜ける。
「言っときますけど、ゼレット様」
ちょいちょい、とゼレットを手招いた。伯爵が顔を寄せると――余計な真似はされないように警戒は、しておいた――小声で言う。
「あの金髪狐 はお断りですからね」
その表現に伯爵は、エイルに悪戯することも忘れて笑った。金髪狐とは、美女に化けて旅人をたぶらかす妖怪の呼称だ。
「気に召さないか。もっと若い方がよかったか?」
「俺が誰かと寝たとして、それがゼレット様に逐一報告されるなんて考えたくないだけですよっ」
「何だそんなことか。高級娼館の女は教育が行き届いているから、客が上手かろうが下手だろうが、それを他者にもらしたりせんぞ」
「最初からそういう依頼なら、別でしょう」
「おお、なかなか鋭いな、少年」
悪びれもせずに伯爵は言い、エイルはうめき声を上げた。
「頼みますから俺のことは放っといてください。俺が密かに人気があるってんなら、誰かに声をかけさせてもらいますよ」
「それはけっこう。楽しみにしとるよ、エイル。但し」
ほかの女の方が口が軽いかもしれんぞ、と伯爵は笑うのだった。
聞こえてきた声に視線を移すと、そこには美女が立っていた。
胸元まで大きく開いた赤いドレスが、まず目に飛び込んできた。灯りにキラキラときらめくのは飾り玉だろう。肩まで流れる白金髪はきれいに波立っており、化粧は少年の基準から言えばいささか派手だったが、どう描けば自分が美しく見えるか完璧に理解していることは間違いなかった。灰色がかった目は細く、少年を品定めるかのようにじっと見ている。
(それじゃこれが)
(ゼレット様のお気に入りのひとりか)
髪はかつらか、それとも染めているのだろうな、などと下町の少年は少し意地悪く考えながらその凝視に耐える。
「そうだ、これがエイル。頑なな少年で、私の求愛になかなかうんと言わない」
「ちょいっ、ゼレット様っ」
「何を慌てる。本当のことだろう。エイル、こちらはルア=ヴィート。サリタール娼館いちばんの女だ」
「まあ、お上手。それならどうして、私よりシャーラばかりお呼びになりますの?」
「お前を独占する訳にはいかないだろう?」
ゼレットはそんなことを言うとルア=ヴィートの頬に口づけた。
「はじめまして、エイル」
「どうも……セリ」
どう呼びかけたらいいか判らなくてそう言うと、女はころころと笑った。
「春女にそんな丁寧な口を利いて下さるなんて紳士ね、エイル。私のことはルアでよろしいのよ」
「あの、ゼレット様。
ゼレットが彼女をエイルに「あてがおう」としていることは疑いの余地もなく、少年は女のからみつくような視線を避けてそう問うた。ゼレットは、何だ、気づいたか、とでも言うような顔をして口を曲げると広間の奥を指さす。
「女たちに受けとるようだな。俺の地位が心配だ」
示された先を見ると、成程、なかなかきれいな若者が着飾った娘たちに囲まれて楽しそうに喋っていた。
「ああいうのは、お好みじゃないんですか」
「何だ、男を連れてきたから妬いとるのか」
「馬鹿なこと言わんでくださいっ」
「冗談だ。まあ、美形と言っていいと思うが、俺が取ったら女たちに恨まれるだろう」
お前で充分、恨まれとるのにな、とゼレットは言い、エイルを吹き出させる。
「何を笑う。これは冗談ではないぞ。天から降ってきた謎の少年。若い娘が夢想するには絶好の相手だろうが」
「……そんな気配、ありませんぜ」
エイルはむっつりと言う。アーレイドの侍女だって、彼にもっと好意を見せた。ここの娘たちは、遠巻きにするばかりだ。自然、彼は厨房の野郎どもや獣くさい馬丁たちと仲良くなることになる。「エイラ」でいるときのことを思えば、誰かと仲良くなれるだけ上等であったが、どうせなら女の子と仲良くしたいと思うくらいには彼も「健全」だ。
「からかうのはやめてくださいよ、ファドック様」
すっと出た名前が間違っていたことには気づかなかった。ゼレットが何とも奇妙な顔をして彼をのぞき込んでいると判ったのは、少年の言葉に対する返答がなかったからだ。
「……どうしたんですか?」
「いや」
ゼレットは首を振った。
「暗闇であろうと女の名を呼び間違えるのは礼儀にもとる思って気をつけておったが……ふむ。考えを改めよう。礼儀どころではない、罪悪だな。こんなに傷つくものとは」
言われて、ようやく自身の声が蘇る。
「あっ、いや、その、すみません。俺、その……ゼレット様と似てる人、なんで、つい」
彼らを似ていると思うのは、
「約束とやらをした相手か? ううむ参ったな、妬けるぞ」
「あの……すみませんとしか言えませんけど……ファドック様とはそんなんじゃないですから」
どうしてこんな言い訳をしなければならないのだろう、と思いながらもエイルは言った。答えは歴然としている。自分が名前を間違えたからだ。
「どんな男だ。聞かせろ」
「い、いまですか?」
「そうだ。それが気になって、今宵、女を抱けなかったらどうしてくれる。責任を取らせるぞ」
「意味が判りませんっ」
エイルは抗議するが、ゼレットは少年の両肩を掴んで自身に向き直らせた。
「どんな男だ」
「ええと」
仕方なく、エイルは声を出した。どうしてもゼレットが「恋敵」について知りたいと言うのなら、それは性別としてもエイル自身の気持ちとしても、シュアラの方が相応しかった。だがそんなことを言えば余計にややこしくなることは目に見えていたので、エイルは渋々とファドックのことを話す。
「その人は……北西にある街で、お姫様の
「
むすっと言うゼレットに、困ったような視線を向けた。
「そんなふうに言わないでくださいよ。その人は、あなたと同じ」
(あなたと同じ――)
(〈守護者〉です)
「同じ、いい男か」
エイルが浮かんだ言葉を言おうか迷っている間に、ゼレットが茶化す。それとも、本気かもしれない。
「まあ、女性に人気があることは確かですけど、ゼレット様みたいに毎日とっかえひっかえってことはなかったです」
冗談にもそんなことを言えば、ファドックに惚れ込んでいるレイジュに殴られでもするに違いない。可愛い侍女を思い出しながら、エイルは〈守護者〉の言葉を脇に置いた。
「それではその男は人生を半分損しとるな」
「じゃ、ゼレット様は俺にも半分、損させる気ですか?」
無理矢理話題を戻そうと試みる。
「何?」
「だって、女の子たちが俺を見てるってんなら、何でそれが俺に伝わらないと思うんです」
「それは、私がこうしてお前にひっついとるからだな」
にやりとしてゼレットは言った。
「ゼレット様は、俺に女を作らせたいのか作らせたくないのかどっちなんですか」
どうやらファドックのことから気がそれたようだと安心しながら、エイルは言った。
あの日、厳しい顔をしてエイルを「客人ではなく虜だ」などと言ったゼレットは、しかし結局はずっとこの調子であった。翡翠に関する彼の動向を見極めるためではなく、陥とすために見張ると言ったのだろうか、と首をかしげる日々だ。もちろん、ゼレットがからかい以上の行為に出ることはなかったが。
「お前が健全な青少年だと判れば、俺も諦めがつく」
「……そう言ってるじゃないですか」
「言葉だけでは不充分だ。行動で示せ」
まるでそれは暴君の命令のようであったが、その命令の内容を考えれば肩の力が抜ける。
「言っときますけど、ゼレット様」
ちょいちょい、とゼレットを手招いた。伯爵が顔を寄せると――余計な真似はされないように警戒は、しておいた――小声で言う。
「あの
その表現に伯爵は、エイルに悪戯することも忘れて笑った。金髪狐とは、美女に化けて旅人をたぶらかす妖怪の呼称だ。
「気に召さないか。もっと若い方がよかったか?」
「俺が誰かと寝たとして、それがゼレット様に逐一報告されるなんて考えたくないだけですよっ」
「何だそんなことか。高級娼館の女は教育が行き届いているから、客が上手かろうが下手だろうが、それを他者にもらしたりせんぞ」
「最初からそういう依頼なら、別でしょう」
「おお、なかなか鋭いな、少年」
悪びれもせずに伯爵は言い、エイルはうめき声を上げた。
「頼みますから俺のことは放っといてください。俺が密かに人気があるってんなら、誰かに声をかけさせてもらいますよ」
「それはけっこう。楽しみにしとるよ、エイル。但し」
ほかの女の方が口が軽いかもしれんぞ、と伯爵は笑うのだった。