1 忘れ物
文字数 2,560文字
青年は、不機嫌な顔で馬 の手綱を取っていた。
街道は夏の終わりを迎えようとしている。これくらいになれば、昼日中に旅を進めても太陽 の熱に倒れるようなこともない。
だがいまの彼ならば、たとえ夏の真っ盛りであったとしてもかまわずに馬を進めたかもしれない。じっとしていたくなかったのだ。
探しものが見つからなかったのは、いまにはじまったことではない。もしやと期待しては外れ籤 だった、そんなことは幾たびも繰り返している。
今度こそ、と思ったのだ。なのに、違った。
いや、そうではない。間違いはなかった。
そこに、いたのだ。
なのに――見失ったのだ。
自らの力が至らなかったことがもどかしいのだろうか。彼は自問したが答えは出なかった。そんな自身に苛ついているのだろうか。そうかもしれない。答えは出ない。
周囲の者たちは、彼が何を考えているのかなどは知らなかった。
ただ、もともと決して無口な方ではないこの青年がすっかり言葉少なになり、必要最低限のやりとりしかしないようになっていることを思えば、とにかく「機嫌が悪い」であろうことは窺えた。
小さな隊商 くらいの一行は、この若き隊商主 の気性をよく知っていたから、こんなときに彼に近づいたり、声をかけたりは決してしない。
青年の従僕のように付き添うまだ幼い少年も、青年の気に入りである可憐な娘も、それは同様だ。彼らはただ心配そうに青年を見守り、背後から黙って馬を進めていた。
実際のところ、青年は自らの考えに沈み込んでいるだけであり、彼らが思うほどには不興だと言うことはなかった。
ただ彼はすっきりしなかったのだ。
どこか苛々とするような、この気持ち。
こうして旅に戻ることを決めたのは彼自身だ。それしかないと思い、間違っていたとは思わない。
なのに、もやもやする。
何か忘れ物でもしたように思って持ち物を見返したのに、何ひとつ足りないものはなく、それでもどうしても安心できないような奇妙な思い。
これは何なのだろう。
彼が見失ったものは何だったのだろう。
何を――忘れたというのだろう。
彼は知らぬ。同時に、知っている。
彼は、いまだ持っていないものを──忘れたのだ。
青年がそれに真の意味で気づくのは、まだ先の話になる。
果てのなき広大なる世界、フォアライア。
三つの大陸のうち、世界の南に位置するファランシア大陸は、大きく二つに区分されていた。即ち、灼熱の大砂漠 が広がる東のファランシア地方と、人間がそれよりは楽に暮らすことのできる西のビナレス地方である。
大きな都市には領主、多くは王と呼ばれる存在がいて、周辺の街町を取り仕切っていた。その形は都市ごとにそれぞれであり、たとえば北東にあるシーアタルと南西にあるマフィーシアでは、政の仕組みも人々の暮らしも、人々の王家への敬意も王家の人々への課税も、全く似たところがない。だがそれぞれの街に生きる人々は、王族だの貴族だのと呼ばれる人間も含めて、自身の環境が全てだと思っている。
些細な行き違いや醜い欲望から起こる紛争もところどころでは絶えなかったが、平和な街はそのようなものに巻き込まれることなく何十年何百年と平和のままで、自身の生活を守り通していた。
ビナレスを旅すれば、何とも様々な文化を見ることができる。どの大陸を旅したとしてもそれなりに違う世界に触れることができるだろうが、この地方の多様さは三大陸のなかでも群を抜いていたかもしれない。
彼が旅をしたのは、そんな場所だった。
と言っても彼はファランシア大陸を出ないのだから――大陸から大陸へ旅などするのは、野望を持つ商人 か、奇妙な考えを持つ魔術師 か、怖れ知らずの冒険家か、そうでなければただの愚か者だ――そのような特殊性は知らない。ただ、様々な街があるものだな、と思うだけだ。
「――気に入らないな」
「はっ、何がですか」
「これだ」
男はふん、とばかりに自身の周囲を大雑把に示す。
「海、ですか?」
「船、だ」
そう言うと男は船首の柵に寄りかかる。年の頃は二十を少し越したくらいであろうか。海風に乱される黒い髪に、ずいぶんと日に灼けて見える濃い色の肌、動きやすそうな簡素な服装は航海に適しているようで、船に文句など言い出さなければまるで生粋の海の男のようにも見える。
「ずいぶんご立派なことだ」
「そりゃあ、ファイ=フーの王陛下の贈り物ですから」
「それが気に入らん」
「何でですか。シーヴ様だって、にこにこ笑ってたじゃないですか」
「あんなのは外交用に決まってるだろう」
シーヴと呼ばれた男は面白くなさそうに答え、隣の少年を睨んだ。十五になるならずの少年は同じように浅黒い色の首をすくめる。
「あの領主が気に入らんと言うんだ。俺を利用して、東方への足がかりにしようとしている。あれは領主というより――商人 だな」
「何言ってるんですか。シーヴ様が思わせぶりなことを言うからですよ」
「俺が何を言った?」
シーヴは心外だというように少年を見た。
「野心のあるような口振りだったじゃありませんか。いつまでも第三王子ではいない、と言うような」
「そりゃそうだ。俺はとっとと、こんな身分は捨てたい」
「もちろん僕たちはシーヴ様がどういうつもりでそう言ったのか知っていますけれど、あの人は逆に思ったんですよ。普通は、そう思います」
「ほう? 普通だと? 普通とは何だ、スル」
シーヴはスルと呼んだ少年をまた睨んだ。快活に笑えばその周囲までも陽気にしてしまえる黒い眼がそうしてきゅっと細められると、何とも厳しく見えた。
「第三王子が権力を欲して、父王に反逆を成すのが普通か? 異国での利益を求めて、親切づらして豪華な船を贈るのが普通なのか?」
「あの……ぼ、僕はそんなつもりじゃ」
きつい目に見つめられてスルはますます身を縮み込ませた。
「駄目よ、シーヴ様。そんなふうにスルをいじめては」
不意に笑うような声が二人の間を通った。シーヴはにやりとして振り返る。
「ミンか」
街道は夏の終わりを迎えようとしている。これくらいになれば、昼日中に旅を進めても
だがいまの彼ならば、たとえ夏の真っ盛りであったとしてもかまわずに馬を進めたかもしれない。じっとしていたくなかったのだ。
探しものが見つからなかったのは、いまにはじまったことではない。もしやと期待しては
今度こそ、と思ったのだ。なのに、違った。
いや、そうではない。間違いはなかった。
そこに、いたのだ。
なのに――見失ったのだ。
自らの力が至らなかったことがもどかしいのだろうか。彼は自問したが答えは出なかった。そんな自身に苛ついているのだろうか。そうかもしれない。答えは出ない。
周囲の者たちは、彼が何を考えているのかなどは知らなかった。
ただ、もともと決して無口な方ではないこの青年がすっかり言葉少なになり、必要最低限のやりとりしかしないようになっていることを思えば、とにかく「機嫌が悪い」であろうことは窺えた。
小さな
青年の従僕のように付き添うまだ幼い少年も、青年の気に入りである可憐な娘も、それは同様だ。彼らはただ心配そうに青年を見守り、背後から黙って馬を進めていた。
実際のところ、青年は自らの考えに沈み込んでいるだけであり、彼らが思うほどには不興だと言うことはなかった。
ただ彼はすっきりしなかったのだ。
どこか苛々とするような、この気持ち。
こうして旅に戻ることを決めたのは彼自身だ。それしかないと思い、間違っていたとは思わない。
なのに、もやもやする。
何か忘れ物でもしたように思って持ち物を見返したのに、何ひとつ足りないものはなく、それでもどうしても安心できないような奇妙な思い。
これは何なのだろう。
彼が見失ったものは何だったのだろう。
何を――忘れたというのだろう。
彼は知らぬ。同時に、知っている。
彼は、いまだ持っていないものを──忘れたのだ。
青年がそれに真の意味で気づくのは、まだ先の話になる。
果てのなき広大なる世界、フォアライア。
三つの大陸のうち、世界の南に位置するファランシア大陸は、大きく二つに区分されていた。即ち、灼熱の
大きな都市には領主、多くは王と呼ばれる存在がいて、周辺の街町を取り仕切っていた。その形は都市ごとにそれぞれであり、たとえば北東にあるシーアタルと南西にあるマフィーシアでは、政の仕組みも人々の暮らしも、人々の王家への敬意も王家の人々への課税も、全く似たところがない。だがそれぞれの街に生きる人々は、王族だの貴族だのと呼ばれる人間も含めて、自身の環境が全てだと思っている。
些細な行き違いや醜い欲望から起こる紛争もところどころでは絶えなかったが、平和な街はそのようなものに巻き込まれることなく何十年何百年と平和のままで、自身の生活を守り通していた。
ビナレスを旅すれば、何とも様々な文化を見ることができる。どの大陸を旅したとしてもそれなりに違う世界に触れることができるだろうが、この地方の多様さは三大陸のなかでも群を抜いていたかもしれない。
彼が旅をしたのは、そんな場所だった。
と言っても彼はファランシア大陸を出ないのだから――大陸から大陸へ旅などするのは、野望を持つ
「――気に入らないな」
「はっ、何がですか」
「これだ」
男はふん、とばかりに自身の周囲を大雑把に示す。
「海、ですか?」
「船、だ」
そう言うと男は船首の柵に寄りかかる。年の頃は二十を少し越したくらいであろうか。海風に乱される黒い髪に、ずいぶんと日に灼けて見える濃い色の肌、動きやすそうな簡素な服装は航海に適しているようで、船に文句など言い出さなければまるで生粋の海の男のようにも見える。
「ずいぶんご立派なことだ」
「そりゃあ、ファイ=フーの王陛下の贈り物ですから」
「それが気に入らん」
「何でですか。シーヴ様だって、にこにこ笑ってたじゃないですか」
「あんなのは外交用に決まってるだろう」
シーヴと呼ばれた男は面白くなさそうに答え、隣の少年を睨んだ。十五になるならずの少年は同じように浅黒い色の首をすくめる。
「あの領主が気に入らんと言うんだ。俺を利用して、東方への足がかりにしようとしている。あれは領主というより――
「何言ってるんですか。シーヴ様が思わせぶりなことを言うからですよ」
「俺が何を言った?」
シーヴは心外だというように少年を見た。
「野心のあるような口振りだったじゃありませんか。いつまでも第三王子ではいない、と言うような」
「そりゃそうだ。俺はとっとと、こんな身分は捨てたい」
「もちろん僕たちはシーヴ様がどういうつもりでそう言ったのか知っていますけれど、あの人は逆に思ったんですよ。普通は、そう思います」
「ほう? 普通だと? 普通とは何だ、スル」
シーヴはスルと呼んだ少年をまた睨んだ。快活に笑えばその周囲までも陽気にしてしまえる黒い眼がそうしてきゅっと細められると、何とも厳しく見えた。
「第三王子が権力を欲して、父王に反逆を成すのが普通か? 異国での利益を求めて、親切づらして豪華な船を贈るのが普通なのか?」
「あの……ぼ、僕はそんなつもりじゃ」
きつい目に見つめられてスルはますます身を縮み込ませた。
「駄目よ、シーヴ様。そんなふうにスルをいじめては」
不意に笑うような声が二人の間を通った。シーヴはにやりとして振り返る。
「ミンか」