1 目隠し

文字数 4,907文字

 穏やかなまどろみから離れるのはどうにも苦痛だった。
 このまま、身体が溶けるまで暖かい布団に潜り込んでいられたらどんなにいいだろう。このまま、これから彼に訪れる数々の出来事に目を閉じて。
 だが、健康な若い身体は、主のそんな逃避にはいつまでも付き合ってくれない。
 彼は目を開けると、そこに薄黄茶色の天井を見た。安宿の天井ならばそれはろくに掃除されずに積み重なった汚れ、瓏草(カァジ)の作る染みとでも思うところだが、嫌な臭いのしない清潔な布団と暖炉で火が燃えている気配を思えば、ここがもう少し上等な休憩所であることは明らかだった。
 何度か目をしばたたいて起き上がりながら、何故こんな場所で寝ていたのか、ここはどこなのかと思案し――長椅子に眠る青年の姿を見つけた「彼」はびっくりして再び布団に入り込む。
(や――やばい)
(ま、また、あれが起きたのか……?)
(いや、これは……違うな)
 シーヴが眠り込んでいるのは何とも幸運だったと言わねばなるまい。
 エイルは息をつくが、だがあの夜のように取り乱しはしなかった。深呼吸をして〈調整〉をする。
 この〈変化〉は理解できた。
 よく覚えていないが、何か体力を回復させなければならない事情があったのだ。そしてこの身体が少年の、つまり女よりも男の体力を必要とした。
 先日のカーディル城での突然の変化が、何かしら――〈魔術都市〉であろうとクラーナであろうと他の何かであろうと――他者の影響を受けたのに対し、いまの変化は当人の意思、いや、意識はなかったから防御本能とでもいうのかもしれないが、ともあれ自分自身がなしたことだ。
 思えば、塔でシーヴから逃げるように「跳んだ」ときはエイラの姿でありながら、カーディル領で「拾われた」ときにエイルの姿であったのも同様の理由だろう。極限まで体力をすり減らせば、男の身体の方が必要になるという訳だ。
 ふたつの身体を隠したいのならばこれは危険だな、と冷静に考えた。「やばい」とは思うものの、不安や不審、違和感などを覚えなくなっていることに気づいた。
(何故だろう?)
 答えを模索する前に、長椅子の方で動く気配を感じた。どうやら間一髪だったようだと安堵の息をつき、エイラはそちらに目をやる。〈砂漠の王子〉が、やはり掛布から逃れたくないと言うようにもぞもぞとしているのが見えた。
「起きたのか? 王子様」
「――お前もしつこいな、それは、やめろと」
 機嫌の悪そうな声でシーヴがうなる。アーレイドでは颯爽とリャカラーダ王子を()っていたくせに、「シーヴ」でいるときはそれを思い出したくないとでも言うのだろうか? 彼女は少し可笑しくなった。
(ふたつの姿、か)
 エイラの脳裏にふとそんな言葉が思い浮かぶ。
(ふたつの心)
(ふたつの――名を持つもの)
(そうだ、そうなんだ(・・・・・)
 ぱっと脳裏に閃いたものがあった。
 そして次の瞬間には、捕らえどころなく消えていく。
 しかし奇妙なことは、この感覚に特別、不満を覚えないこと。
 いや、それも不思議ではない。何故なら彼女はもはや全てを知っている、のだから。
「おいシーヴ」
 エイラは声をかけた。
「目を覚ませよ。それから教えてくれ。ここはどこだ? 何で私はこんなところで寝てる」
「ここはラ・ザイン神殿だ」
 仕方ないといった様子でシーヴが掛布から顔を出す。
「凍死しかけたお前を救ってくれた有難い坊さんがいるぞ」
 感謝しておけよ、と欠伸混じりでシーヴは言った。
「凍死? 何でまた」
「そいつは俺の聞きたいことだ、愛しき翡翠の姫君よ」
 エイラは顔をしかめた。「愛しき」の部分は冗談だろう。そうあってほしい。
「お前はあの宮殿で何を見た? お前には全てが判ったんだろう、いったい――」
「いったい、何の話だ」
 エイラはシーヴの言葉を先取ったのではなかった。自身が思う言葉を発したのだった。
宮殿だって(・・・・・)?」
「……おいおい」
 シーヴは何とも不審そうな目つきをする。
「昨夜の呟きは疲れてるせいかと思ったが、まさか本気で覚えてないなんて言い出すんじゃないだろうな!?
「だから、何をだよ」
 少しむっとしてエイラは返す。
「夜明け前の湖畔にいたはずなのに、どうして神殿なんかで目が覚める? ものすごく身体が重いけれど、どうしてだろう」
 考えるように頭に手を当てながらエイラは言い、シーヴが何か言おうと口を開き、だが声ひとつ出せないままでまた口を閉じるのを見ていた。
 皮肉めいた台詞をぽんぽん飛ばす王子殿下のそんな呆気にとられた表情を見るのは初めてだった。彼女は意味もなく、満足したものを覚える。
「おい、シーヴ。何とか言えよ。まさか〈翡翠の宮殿〉に行ったのに、私はそれを忘れてしまったんだなんて、言わないよな?」
 ――まさしくその通りなのだとシーヴが言ったときは、今度はエイラが口を開けて呆然とした。
性質(たち)の悪い冗談は、やめろよな」
「俺がそのまま、返したい台詞だよ。あの声によれば、お前は全てを知ったというんだぞ」
 本当に覚えていないのか、とシーヴはいい、そんな嘘をついてどうするんだよ、とエイラは返した。
 いや――。
 「覚えていない」というのとは、正確には少し異なったかもしれない。
 シーヴの話を聞く内、思い出すものはあるのだ。
 彼女は全てを見て、全てを知った。その感覚は残る。じっと心を探れば、少しだけ見えるものがある。だが大半は、まるで悪戯な子供に背後から目隠しでもされているかのように、見ることができない。
「知っているんだと思う。でも見えないんだ。必要になるまで」
 その感覚を語った。シーヴはうなる。
「ずいぶん、都合のいいことだ」
 シーヴの台詞は皮肉めいている――と言うよりははっきり皮肉だったが、それは彼女に向けたものではないようだった。ならば、誰に向けたものなのか? それは誰に、都合がいいと?
「何だ?」
 エイラがじっと見ているのに気づいたのか、シーヴは問うた。エイラは不満そうに言う。
「あんたは、私が覚えていない宮殿での出来事を覚えてるんだろう。何だか悔しいな」
「あのな」
 シーヴは息をついた。エイラが嘘をついているとは思わないのだろうが、「全てを知った」と言うのに、翌朝には「全部忘れた」では話にならないどころか、振り出しだ。いや、シーヴだけがエイラよりも数歩を進んだのだろうか?
「それじゃ……あれも覚えていないんだな」
「何だよ」
「いや、いい」
 緑色の瞳をして、お前が望むならシャムレイをやろうといったリ・ガンの姿をシーヴが思い出していたことなど、彼女は知らぬ。無論と言おうか、覚えてもいない。
「それで、その目隠しから見えるところにあるものは何だ? お前はこれから、どうする」
「どうもこうも、翡翠を探すのさ」
 エイラはシーヴが当然のことを尋ねるので戸惑った。
「それがリ・ガンの役目。もし、強く引き止められでもしたらこの絶対の使命にも揺らぎが生じるけど、でも、あんたは望まないのなら行かなくてもいいんだ」
 そんな言葉は何とも自然に出てきた。疑問も違和感もなく。シーヴが奇妙な表情をするのをそれこそ奇妙に思って見やる。
「どうかしたか?」
「……〈鍵〉はどれだけリ・ガンに影響力を持ってるんだ?」
「そりゃ」
 エイラは肩をすくめた。
 「覚えていない」「目隠しをされている」状態でも、問われるとすっと答えが引き出されるように感じる。答える瞬間までは確かに知らないことを語る自分に、しかし驚きはしない。ただ、そういうものなのだと思うだけ。
 確かに――彼女のなかで変わったものがある。
「言うことを何でも聞くって訳じゃない」
 有難いことにね、とエイラもたまには皮肉を返した。
「ただ、リ・ガンは〈鍵〉の行動、考え、感性に引きずられるんだ。あんたは〈翡翠の娘〉として私を探すことが目的だっただろう。それはこうして〈鍵〉としての運命のはじまりなのに、あんたはそれを終わりだと勘違いしていた。だから、まだ道の先が見えてないね。翡翠をどうしたいのかなんて、考えたこともないだろう」
 そんな台詞がすらすらと出てくる自分が不思議でありながら不思議でなかった。シーヴはしげしげと彼女を見ている。
「私には翡翠の呼び声も聞こえる。そしてそれが役目だから、翡翠のもとへ行く。でもこの旅にあんたがついてくる必要はないんだ。隣にいなくても、〈鍵〉は〈鍵〉だから」
「ついてくるなと言うのか?」
「まさか」
 エイラはびっくりした。
「あんたは自由にしていいんだ。私と一緒に翡翠を探そうと、あんたの街に帰ろうと」
「……大した運命だな」
 シーヴは嘆息した。
「選択の幅が広いこった。〈名なき運命の女神〉がこんなに寛容だとは知らなかったよ」
 ラ・ザイン神官に礼を言って神殿をあとにし――礼儀以上の喜捨をしてきた――慣れ出した〈聖なる槍〉亭に戻った彼らは、温かい食事に再びありつけることを感謝した。
「翡翠の呼び声だと言ったな? あの〈宮殿〉以外からか?」
 きしむような音を立てる安っぽい椅子の上で、青年は言う。
「生憎と宮殿の記憶はおぼろげだけど」
 エイラは言った。
「そう、あれ以外にさ。大きな力を奮う翡翠はふたつ。それがどこにあるのかは判っている」
 言ってエイラはこっそり、苦笑した。何という回り道!
「ふたつ、か」
「〈守護者〉まで従えた堂々たるやつは、ね」
 肩をすくめてエイラは言った。
「守護者、だと?」
 シーヴがまた不思議そうな顔をするのにエイラは驚く。
「ふたつの翡翠には守り手がいる。知らないのか」
「初耳だ」
 シーヴがその説明を聞いたことは確かになかった。一度だけ、西の町に暮らす男に覚えたその言葉のことは、このときのシーヴは思い出さなかった。
「そうか、そうだな、すまん」
 エイラは謝った。
 〈鍵〉がつながるのはリ・ガンだけだ。〈守護者〉は翡翠とリ・ガンにつながる。全てを結び合わせるのはリ・ガンだけなのだから、シーヴが知らなくても不思議ではない。
 そのようなことが簡単に判る自分については、もはや不思議ではなかった。
「守り手は、リ・ガンがくるまで翡翠を守っている存在だ。〈変異〉の年に向けて翡翠の傍で、その眠りを守る。リ・ガン以外の者の手に翡翠が渡らぬよう」
「渡れば、どうなる」
「……さあ」
 エイラは首をひねった。ごまかすのではない。これは本当に判らない。
「例の『風』とやらは、あんたを――〈鍵〉を見たんだろう。となると、〈守護者〉と翡翠も見つけているかもしれない」
「なら、早くそれらをどうにかしないといけないということか?」
「もちろん、心配なことは心配だけど」
 エイラは言った。
「彼らなら、翡翠を守ってくれる」
 ファドック。ゼレット。「エイル」は彼らを信じている。
「……ふん」
 シーヴは〈守護者〉を知らぬ。知らぬと思っている。だからエイラが「彼ら」に寄せる信頼の意味も、リ・ガンが〈守護者〉と言うものを信じるのだろうと思うだけだ。
 何となく気に(・・)入らない(・・・・)、とでも言う思いが浮かんだことは気に留めずにいた。
「どこだ? ふたつの、どちらに行く」
「……まあ、近い方から行くのが妥当だろうなあ」
 エイラはつい数日前に逃げ出してきた城を思い返した。
「この町から見ると、南東だ」
 彼女は地理など知らないし地図を見たことなどもなかったから、前日に「跳んで」きたときはこことカーディルの位置関係など判らなかった。だがいまは違う。
 はっきりと見えるように感じられるこれは翡翠の気配か、それとも〈守護者〉の?
「南東、ねえ」
 シーヴが、うっすら髭の生えた下顎をさすりながら言う。
「参ったな、もっと寒いのか」
 そんな言葉で青年は〈翡翠〉道中の連れとして旅を続ける気でいることを示した。
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登場人物紹介

エイル

下町で生まれ育った少年。ふとしたことからアーレイドの王城に上がることとなり、王女シュアラの「話し相手」をすることになる。

(イラスト:桐島和人)

ファドック・ソレス
王女シュアラの護衛騎士。王女はもとより、城の人々からの信頼も篤い。身分は平民で、決して出過ぎないことを心がけている。

シュアラ・アーレイド
アーレイドの第一王女。王位継承権を持つが、女王ではなく王妃となる教育を受けている。父王が甘やかしており、わがままなところも。

レイジュ・フューリエル
シュアラの気に入りの侍女。王女に忠誠心があると言うより、ファドックの近くにいられるという理由で、侍女業に精を出している。

クラーナ
アーレイドを訪れた吟遊詩人。神秘的な歌を得意とすると言う。エイルに思わせぶりな言葉を残した。

リャカラーダ・コム・シャムレイ
東国にある街シャムレイの第三王子。義務を嫌い、かつて与えられた予言の娘を探して故郷を離れ、砂漠の民たちと旅をしている。

シーヴ
リャカラーダの幼名。王子として対応する必要がなければ、こちらを名乗る。

エイラ
六十年に一度ある〈変異〉の年に、特殊な翡翠と関わることを定められた存在。魔術師のような力を持つが、厳密には魔術師ではない。

ゼレット・カーディル
ウェレス王に仕える伯爵。威張ったところがなく、平民たちとの距離も近いカーディル領主。その好みは幅広い。

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