2 どのように守るというのか
文字数 3,371文字
その話を聞いたとき、彼は驚いた。
いや、彼のなかで何かが繋がったのかも、しれない。だが彼は、まだそのことには気づかなかった。
「あら嫌だ。それじゃあの子ったら、旦那 にご挨拶に行かなかったのねえ」
すみませんね、馬鹿息子で――と言って首を振るアニーナに、ファドックはかまわないと答えた。
「エイルはもう、城に義務を負っていないのですから」
「城には義務がなくたって、旦那にはあるでしょうよ。こうしてときどきあの子の消息を聞きにきてくれる人は、あの子の友人がひとりばかりと、旦那だけなんですから」
アニーナは肩をすくめ、あの子ったら友人が少なかったのねえ、などと言った。
「彼は、いつ頃戻ってきていたのです?」
「ええと……冬至祭 の終わり頃だったかしら。そうそう、レンの王子様の話をしたら仰天していたっけ」
その話にファドックは少しだけ目を細めたが、何に引っかかったのかはやはりまだ、判らなかった。
「……ねえ、旦那。王女様の護衛騎士様 に訊くのもあれですけれど、あの子ったら、まさか王女様に惚れてるんじゃないでしょうね?」
「それは、エイル自身に尋ねてみなくては」
ファドックは脳裏をかすめた何かを脇に置いて、苦笑した。
冬至祭のあと、アーレイド城は息を呑んでレンの出方を窺っていたが、第一王子の訪問などまるで――悪い――夢であったかのように、かの都市からはぱたりと音沙汰がなかった。シュアラに求婚をしないならしないで、儀礼的には何らかの書状があるべきだ。だが城内では、このまま忘れてしまいたい、と言うよりも忘れてくれればいいとばかりに、誰もその話をしなかった。
予定よりはひと月ほど遅れたが、近いうちにクライン侯爵の甥であるロジェス・クライン次期侯爵がシュアラの婚約者、ひいてはアーレイドの次代の王として公式に発表されるだろうことは、城内でも城下でも、決定事項として語られていた。ロジェスは形の上だけクライン侯爵を継ぎ、青年がアーレイド王の冠を戴くときには前クライン侯爵の息子がその地位を継ぐことになるのだなどと、具体的な話も上がっている。
「エイルは賢い少年ですから、シュアラ様に恋心を抱いても叶わぬと判っているでしょう。もしそのような思いを抱いていれば、悩んでいることでしょうが」
「あれは馬鹿ですよ、旦那」
アニーナは不味いものでも食べたような顔をしたが、不意に悪戯っぽい光を瞳に浮かべた。
「そういうセラスは、どう なんです」
ファドックは一瞬 何を訊かれたのか判らない顔をして――恍けたのではなく、本当に一瞬、判らなかったのである――意味に気づくと微苦笑した。
「ごまかしっこ、なしですよ。セラスはいっつも姫様を守ることを考えてるんでしょう。下々じゃ、そういうのはぞっこん だって言いますね」
ちょっとばかり年が離れてるくらい、気にすることはないですよ、などとアニーナ言った。
「私は殿下にお仕えしているのですよ、アニーナ殿」
護衛騎士は、戸惑ったり腹を立てたりするような様子は見せず、ただ面白そうにそう言った。彼がシュアラに仕えて十五年以上が経つ。そのように思われることは皆無ではなかったが、正面切ってはっきり尋ねられたのは初めてであった。
「そんなの、惚れない 理由にはなりませんよ、旦那」
「ご期待に添えなくて申し訳ないが」
彼は真面目な顔をしようとしたが、この騎士にしては珍しくも、それに失敗した。
「そのような心得違いをするようなら、騎士 の称号は返上すべきでしょうね」
その答えにごまかしや躊躇いがないことを見て取ったアニーナは、何だ、つまらない――などと言った。
「そうですか……エイルは、冬至祭の終わり頃に」
ファドックがまた少年のことを思い出すようにして言うと、アニーナはうなずいた。
「そう。ちょっと話をして、また行っちゃいましたよ。魔術師協会 の」
またも、エイルの母は顔をしかめる。
「仕事だそうで」
「魔術師協会の」
「らしいですよ。いったい何をやらされてるんだかねえ」
ファドックが繰り返すと、アニーナは嘆息した。
「ねえ、旦那。協会ってのは、そうやってしょっちゅう魔術師に旅を命じるもんなんですか? あたしは別にあの子がここにいなくたってかまわないけれど、あの子がいたいところにいられないならちょっとだけ、可哀相だと思うんですよ」
「生憎と協会の仕組みには詳しくありませんが、尋ねておきましょう」
「すみませんねえ、偉い人にお使いをさせるみたいで」
「申し上げました通り、アニーナ殿 。私はあなたと同じ平民ですよ」
ファドックは笑って言い、アニーナは首を振る。
「それでも騎士様でしょう。城に上がって、王女様の隣にいて……まあ、あの馬鹿息子が城に上がって王女様とお話をしても偉いとは思いませんから、これは旦那の人柄ですかねえ」
ファドックがエイルの母を訪れるのは月に一、二度だったが、彼女から出てくる話題はほぼエイルのことに終始し、それはファドックに、アニーナが口調とは裏腹にずいぶん息子を心配し、かつ愛していることを知らしめた。
いまは亡き彼の母も威勢のよい女性だったが、生きていれば息子が城に上がったことをどう思っただろう――エイルの家をあとにしたファドックは不意にそんなことを考え、だが、家族が生きていれば彼は城になど上がらなかったのだと思い直した。
(あなたは何故、ここにいるんですか)
そう考えると浮かんできたのは、半年以上前に耳にした――少年の言葉。
(この――〈変異〉の年を迎える時期)
(あなたがこの城にいるのは――何故ですか)
その言葉を耳にしたときは、ファドックはもちろん、エイル自身も何を言っているのか判らなかったようだった。
だが、いまにして思えばそれは彼が〈守護者〉だからということになる。ならば、家族の死という痛ましい事件がなくても彼は城に近しい場所にいることになったのだろうか。
それは――判らない。運命だと思って割り切るには悲痛な出来事であり、彼はそれほど「守り手」として悟りきっている訳ではないのだ。
第一、〈守護者〉という言葉が表す意味を彼自身、自分が本当に掴んでいるとは思えなかった。
エイルと出会うまで、彼は「自分でも判らない」ような感情や感覚を覚えたことはなく、アーレイド城に翡翠があることを知っていても特別な意識を抱いたことはなかった。
それがいまでは、どうだろう。
彼はシュアラを守ることはもちろん、翡翠を守ることにも異議や躊躇いはない。だが、それを守るという意味が自分でも判らなかった。盗賊 の類から守るというのは護衛騎士の仕事ではないにしても、城に仕える者ならば当然のことだ。だが、相手が盗賊などでないことは判っている。
しかし――どのように守るというのか。
単純に「奪われてはならない」という意味だけでは、ないような。
ファドックは首を振った。
エイルは、ファドックという存在が自分に与えた影響の強さを常々感じ取っているが、ファドックの方でもエイルに対して同様だった。
エイルだけではない。
彼に影響を与えているのは、もうひとり。
それを知りたくて、魔術師協会 を訪れるつもりでいたのだが、雑事に追われて今日まで延びてしまった。
アニーナとの約束もあると考えたファドックは、その日に協会を訪れる。
「これは、ソレス様」
レンの件で幾度か訪れるうち、特に城の制服を着ていなくても彼は術師たちに知れる顔となっていた。
「ご依頼をされていた件がありましたでしょうか?」
受付の術師は少し慌てたように目録を探る。ファドックはそれを留めた。
「いや、今日は別な用件だ」
「伺いましょう」
術師は姿勢を正した。
「それとも、誰か導師をお呼びする方がよろしいですか」
「いや……」
ファドックは考えた。
「私は、協会 の人々が何をどう担当しているのか知らない。あなたに答えてもらえるのならそれでかまわないのだが」
いや、彼のなかで何かが繋がったのかも、しれない。だが彼は、まだそのことには気づかなかった。
「あら嫌だ。それじゃあの子ったら、
すみませんね、馬鹿息子で――と言って首を振るアニーナに、ファドックはかまわないと答えた。
「エイルはもう、城に義務を負っていないのですから」
「城には義務がなくたって、旦那にはあるでしょうよ。こうしてときどきあの子の消息を聞きにきてくれる人は、あの子の友人がひとりばかりと、旦那だけなんですから」
アニーナは肩をすくめ、あの子ったら友人が少なかったのねえ、などと言った。
「彼は、いつ頃戻ってきていたのです?」
「ええと……
その話にファドックは少しだけ目を細めたが、何に引っかかったのかはやはりまだ、判らなかった。
「……ねえ、旦那。王女様の
「それは、エイル自身に尋ねてみなくては」
ファドックは脳裏をかすめた何かを脇に置いて、苦笑した。
冬至祭のあと、アーレイド城は息を呑んでレンの出方を窺っていたが、第一王子の訪問などまるで――悪い――夢であったかのように、かの都市からはぱたりと音沙汰がなかった。シュアラに求婚をしないならしないで、儀礼的には何らかの書状があるべきだ。だが城内では、このまま忘れてしまいたい、と言うよりも忘れてくれればいいとばかりに、誰もその話をしなかった。
予定よりはひと月ほど遅れたが、近いうちにクライン侯爵の甥であるロジェス・クライン次期侯爵がシュアラの婚約者、ひいてはアーレイドの次代の王として公式に発表されるだろうことは、城内でも城下でも、決定事項として語られていた。ロジェスは形の上だけクライン侯爵を継ぎ、青年がアーレイド王の冠を戴くときには前クライン侯爵の息子がその地位を継ぐことになるのだなどと、具体的な話も上がっている。
「エイルは賢い少年ですから、シュアラ様に恋心を抱いても叶わぬと判っているでしょう。もしそのような思いを抱いていれば、悩んでいることでしょうが」
「あれは馬鹿ですよ、旦那」
アニーナは不味いものでも食べたような顔をしたが、不意に悪戯っぽい光を瞳に浮かべた。
「そういうセラスは、
ファドックは一
「ごまかしっこ、なしですよ。セラスはいっつも姫様を守ることを考えてるんでしょう。下々じゃ、そういうのは
ちょっとばかり年が離れてるくらい、気にすることはないですよ、などとアニーナ言った。
「私は殿下にお仕えしているのですよ、アニーナ殿」
護衛騎士は、戸惑ったり腹を立てたりするような様子は見せず、ただ面白そうにそう言った。彼がシュアラに仕えて十五年以上が経つ。そのように思われることは皆無ではなかったが、正面切ってはっきり尋ねられたのは初めてであった。
「そんなの、惚れ
「ご期待に添えなくて申し訳ないが」
彼は真面目な顔をしようとしたが、この騎士にしては珍しくも、それに失敗した。
「そのような心得違いをするようなら、
その答えにごまかしや躊躇いがないことを見て取ったアニーナは、何だ、つまらない――などと言った。
「そうですか……エイルは、冬至祭の終わり頃に」
ファドックがまた少年のことを思い出すようにして言うと、アニーナはうなずいた。
「そう。ちょっと話をして、また行っちゃいましたよ。
またも、エイルの母は顔をしかめる。
「仕事だそうで」
「魔術師協会の」
「らしいですよ。いったい何をやらされてるんだかねえ」
ファドックが繰り返すと、アニーナは嘆息した。
「ねえ、旦那。協会ってのは、そうやってしょっちゅう魔術師に旅を命じるもんなんですか? あたしは別にあの子がここにいなくたってかまわないけれど、あの子がいたいところにいられないならちょっとだけ、可哀相だと思うんですよ」
「生憎と協会の仕組みには詳しくありませんが、尋ねておきましょう」
「すみませんねえ、偉い人にお使いをさせるみたいで」
「申し上げました通り、
ファドックは笑って言い、アニーナは首を振る。
「それでも騎士様でしょう。城に上がって、王女様の隣にいて……まあ、あの馬鹿息子が城に上がって王女様とお話をしても偉いとは思いませんから、これは旦那の人柄ですかねえ」
ファドックがエイルの母を訪れるのは月に一、二度だったが、彼女から出てくる話題はほぼエイルのことに終始し、それはファドックに、アニーナが口調とは裏腹にずいぶん息子を心配し、かつ愛していることを知らしめた。
いまは亡き彼の母も威勢のよい女性だったが、生きていれば息子が城に上がったことをどう思っただろう――エイルの家をあとにしたファドックは不意にそんなことを考え、だが、家族が生きていれば彼は城になど上がらなかったのだと思い直した。
(あなたは何故、ここにいるんですか)
そう考えると浮かんできたのは、半年以上前に耳にした――少年の言葉。
(この――〈変異〉の年を迎える時期)
(あなたがこの城にいるのは――何故ですか)
その言葉を耳にしたときは、ファドックはもちろん、エイル自身も何を言っているのか判らなかったようだった。
だが、いまにして思えばそれは彼が〈守護者〉だからということになる。ならば、家族の死という痛ましい事件がなくても彼は城に近しい場所にいることになったのだろうか。
それは――判らない。運命だと思って割り切るには悲痛な出来事であり、彼はそれほど「守り手」として悟りきっている訳ではないのだ。
第一、〈守護者〉という言葉が表す意味を彼自身、自分が本当に掴んでいるとは思えなかった。
エイルと出会うまで、彼は「自分でも判らない」ような感情や感覚を覚えたことはなく、アーレイド城に翡翠があることを知っていても特別な意識を抱いたことはなかった。
それがいまでは、どうだろう。
彼はシュアラを守ることはもちろん、翡翠を守ることにも異議や躊躇いはない。だが、それを守るという意味が自分でも判らなかった。
しかし――どのように守るというのか。
単純に「奪われてはならない」という意味だけでは、ないような。
ファドックは首を振った。
エイルは、ファドックという存在が自分に与えた影響の強さを常々感じ取っているが、ファドックの方でもエイルに対して同様だった。
エイルだけではない。
彼に影響を与えているのは、もうひとり。
それを知りたくて、
アニーナとの約束もあると考えたファドックは、その日に協会を訪れる。
「これは、ソレス様」
レンの件で幾度か訪れるうち、特に城の制服を着ていなくても彼は術師たちに知れる顔となっていた。
「ご依頼をされていた件がありましたでしょうか?」
受付の術師は少し慌てたように目録を探る。ファドックはそれを留めた。
「いや、今日は別な用件だ」
「伺いましょう」
術師は姿勢を正した。
「それとも、誰か導師をお呼びする方がよろしいですか」
「いや……」
ファドックは考えた。
「私は、