08 簡単な話
文字数 3,400文字
「ひとつ、気になることがある」
そう言うとゼレットは扉を閉めるように促し、エイルを手招いた。少年は首をかしげてそれに従い、何ですか、と繰り返した。
「カティーラのことだ」
「そりゃ、俺も気になってますけど」
「サズは言った――俺が隠し ている 、と。無論、あやつに教えてやる気などなかったが、あやつが言ったのは、俺が口にしないということだけではなかったのかもしれん」
「……どういうことですか」
少年は問い返した。ゼレットはじっと彼を見る。
「俺は、お前からも翡翠を隠しているか、エイル?」
「まさか」
エイルの返答は、早かった。
「そんなこと、ないですよ。有り得ない。ゼレット様は〈守護者〉で翡翠を守る存在だけど、それは――リ・ガン以外から守る、そう言う理屈のはずです」
「『理屈』か」
ゼレットは嘆息した。彼のこのような態度は珍しかった。
「お前は疑っておらんのか」
「疑うですって?」
少年は驚いて言った。
「俺は疑い出しておる。自分ではそのようなつもりは無論ない。だが翡翠が見つかり、お前はリ・ガンとしてやることを済ませればここから去る、俺はそれを厭うて……お前の目的のものを隠しているのだろうか?」
「まさか」
少年は繰り返す。
淡々としたゼレットの口調に、冗談めかしたところはなかった。不安、または躊躇いと言った、この伯爵に似合わないものに驚きながらも、茶化すつもりにはならなかった。ただ、それを否定した。
「ゼレット様は『判らない』って言うんでしょうけど、同じくらい、俺にも判らないんですよ。翡翠はここにある。俺を呼んでる。なのに姿は見えない。隠されている。誰にですか」
「俺に、か?」
「違います」
今度もはっきりと、エイルは否定した。
「いまの話じゃない。いったい、最初に翡 翠を隠し たのは 誰ですか 」
「最初に……だと」
しかめ面で繰り返したゼレットに、エイルはうなずく。
「俺、覚えてますよ、ゼレット様が最初に言ったこと。翡翠は失われた。隠されていると言ってもいい。そう言ったんです。失われたことと隠されていることは同じ意味じゃないけど、同じ意味であるように使った」
「確かに、俺はそう言ったな。忘れてはおらんぞ」
ゼレットはうなずいた。
「かつては……カーディル城に、翡翠は翡翠という形で置かれていたのだ。だが、俺の爺様の代にはリ・ガンはやってこず……待てよ」
「そうです」
エイルは言った。
「そのときは、どうだったんです。……六十年前」
ゼレットは記憶を呼び起こすように目を細め、手を額に当てた。
「爺様は、俺にその話をした。次の〈変異〉の年になれば、俺が〈守護者〉だからと」
そう言ってからゼレットはしばし沈黙し、小さく呪いの言葉を吐いた。
「俺は子供の時分からその手の不確かな話は嫌いでな。爺様の言葉も話半分にしか聞いておらんかった。家系に伝わる話くらいは覚えておけと親父に叱られたせいでリ・ガンだのという言葉は覚えておったが、爺様は俺に……何を話したのか」
「覚えてないんですか」
エイルは問うたが、特に咎めた訳ではなかった。
「昔の話だ。待て。思い出す」
伯爵は苛々と頭を抱えた。再び沈黙が降りる。
「……ああ、思い出せん」
「でしょうね」
エイルは言った。「覚えていたことを忘れてしまった」のならともかく、「ろくに聞いていなかったことを思い出す」のは不可能に近いだろう。
「思い出してもらいたいですけど、期待はしませんよ」
「エイル、お前」
伯爵は苦々しい顔をした。
「ミレインと仲が良くなっただろう」
「……何です、それ」
「あやつの言い方にそっくりだ」
「知りませんよ、そんなこと」
エイルは天を仰いだ。
「カティーラは何故、お前を避けるのだろうな。あのときは、足元にすり寄りまでしたというのに」
あの猫 が「女」にそんなことをするのは見たことがなかった、とゼレットは言った。エイルは苦笑する。伯爵の前でカティーラに「エイラ」の正体を見抜かれたと感じて焦ったことを思い出した。
「俺もあのときは驚きましたよ。猫の本能で何か気づいたのかと思いましたけど……別な理由だったのかもしれませんね」
リ・ガン。隠されし翡翠。
「でも俺は彼女に好かれてるって訳じゃないんでしょうね。彼女が俺の近くに寄ってきたのは、あれを入れて二度だけですし」
エイルは思い出すように言った。
「最初にここへきたとき、俺はカティーラの眼中になかった」
「恋敵」とは認められなかったんですね、などと言ってゼレットの苦笑を買う。
「でも、その……出るときには」
ちらりと伯爵を見た。ゼレットは片眉を上げる。
「彼女、見送り にきてくれましたよ」
「そう言えばあの朝、お前の寝台を占領しておったな」
思いだしたように言ったゼレットはエイルを凝視した。
「お前の逃亡 とカティーラに、何か関わりがあるのか?」
「……人聞きの悪い言い方しないで下さい」
エイルはそう言うものの、一言もなしに出ていった事実を思えば、分が悪い。
「あのとき、レンが俺を……いや、俺だけじゃないのかな。翡翠に関わる者たちを探していたんです」
「何だと」
ゼレットは驚いたように言った。そのことはもういいんです、とエイルは手を振る。
「ちょっとした手助けがあって俺は見つからずに済んだけど、影響は受けた。自分でそうしようとしなかったのに、『エイラ』になっちまったんです。俺は驚いて慌てて、こんな姿を見られる訳にいかないと思った」
少年はその話をクラーナから聞いていた。魔術の風――レンがはじめて直接彼らに向けた、長い腕のこと。
「それで、出ていったのか」
ゼレットは口を歪めた。
「それは無用な心配だったな」
「まあ、まさかゼレット様があんなに簡単に受け入れるとは思いませんでしたから」
「〈守護者〉はリ・ガンを見分ける。確かそう言ったな」
ゼレットの言葉にエイルはうなずいた。
「そして、俺 はお前 を見分けるのだ。簡単なことだろう」
そう言うとゼレットはにやりとした。エイルは唇を歪める。
「……それは口説いてるんですか」
「そうだ」
「遠慮します」
エイルは切り捨てた。これにつき合っていたらきりがない。
「あのときカティーラが俺のところにきたのは、レンの気配を感じたためかもしれませんし……ただの偶然かも。正直、判らないとしか言いようがないですけど」
「何だ。ならば簡単な話ではないか」
ゼレットは呆れたように言った。
「簡単、ですか?」
エイルは意味が判らなくて目をぱちくりとさせる。
「カティーラが近づいたのは、エイラ だろう」
エイルはもう一度――目をしばたたかせた。
「そ、そうなります……か、ね」
「それが正解かどうかは判らんがな。手がかりくらいにはなるのではないか」
「た、確かに」
少年は呟くように言った。
「カティーラが近寄ってきたのは、言われてみれば、俺が『エイラ』だったときだけです。少なくとも、これまではそうでした。あの格好の方が翡翠に近しくなれると感じているのは、確かなんです。でもいまの状況と俺の気持ちとしては、このままの方がよかったんで」
少し言い訳するかのようにエイルは言ったが、ゼレットはもちろんそれを咎めたりはせずにこんなことを言った。
「『エイラ』の前になら姿を現すかもしれんと言うことか。ならば、俺がお前を失うことに反発して、気づかぬ内にお前からカティーラを遠ざけているのではないな」
「まだ、そんなこと言うんですか」
今度はエイルが呆れたように言った。
「ゼレット様がご自分をどう思ってるのか知りませんけど、そんな繊細なところがあったら俺は驚きます」
「……お前、タルカスとも仲良くなっただろう」
言われたエイルは再び天を仰いだが、別にゼレットのそれは問いではなかったので、答えずに続ける。
「城のみんなに『エイラ』を見られるとややこしいですね。今夜にでも……部屋で試してみますよ」
そう簡単にいけばいいですけど、などと言って少年は、幸を呼ぶ呪 いの仕草をした。
そう言うとゼレットは扉を閉めるように促し、エイルを手招いた。少年は首をかしげてそれに従い、何ですか、と繰り返した。
「カティーラのことだ」
「そりゃ、俺も気になってますけど」
「サズは言った――
「……どういうことですか」
少年は問い返した。ゼレットはじっと彼を見る。
「俺は、お前からも翡翠を隠しているか、エイル?」
「まさか」
エイルの返答は、早かった。
「そんなこと、ないですよ。有り得ない。ゼレット様は〈守護者〉で翡翠を守る存在だけど、それは――リ・ガン以外から守る、そう言う理屈のはずです」
「『理屈』か」
ゼレットは嘆息した。彼のこのような態度は珍しかった。
「お前は疑っておらんのか」
「疑うですって?」
少年は驚いて言った。
「俺は疑い出しておる。自分ではそのようなつもりは無論ない。だが翡翠が見つかり、お前はリ・ガンとしてやることを済ませればここから去る、俺はそれを厭うて……お前の目的のものを隠しているのだろうか?」
「まさか」
少年は繰り返す。
淡々としたゼレットの口調に、冗談めかしたところはなかった。不安、または躊躇いと言った、この伯爵に似合わないものに驚きながらも、茶化すつもりにはならなかった。ただ、それを否定した。
「ゼレット様は『判らない』って言うんでしょうけど、同じくらい、俺にも判らないんですよ。翡翠はここにある。俺を呼んでる。なのに姿は見えない。隠されている。誰にですか」
「俺に、か?」
「違います」
今度もはっきりと、エイルは否定した。
「いまの話じゃない。いったい、
「最初に……だと」
しかめ面で繰り返したゼレットに、エイルはうなずく。
「俺、覚えてますよ、ゼレット様が最初に言ったこと。翡翠は失われた。隠されていると言ってもいい。そう言ったんです。失われたことと隠されていることは同じ意味じゃないけど、同じ意味であるように使った」
「確かに、俺はそう言ったな。忘れてはおらんぞ」
ゼレットはうなずいた。
「かつては……カーディル城に、翡翠は翡翠という形で置かれていたのだ。だが、俺の爺様の代にはリ・ガンはやってこず……待てよ」
「そうです」
エイルは言った。
「そのときは、どうだったんです。……六十年前」
ゼレットは記憶を呼び起こすように目を細め、手を額に当てた。
「爺様は、俺にその話をした。次の〈変異〉の年になれば、俺が〈守護者〉だからと」
そう言ってからゼレットはしばし沈黙し、小さく呪いの言葉を吐いた。
「俺は子供の時分からその手の不確かな話は嫌いでな。爺様の言葉も話半分にしか聞いておらんかった。家系に伝わる話くらいは覚えておけと親父に叱られたせいでリ・ガンだのという言葉は覚えておったが、爺様は俺に……何を話したのか」
「覚えてないんですか」
エイルは問うたが、特に咎めた訳ではなかった。
「昔の話だ。待て。思い出す」
伯爵は苛々と頭を抱えた。再び沈黙が降りる。
「……ああ、思い出せん」
「でしょうね」
エイルは言った。「覚えていたことを忘れてしまった」のならともかく、「ろくに聞いていなかったことを思い出す」のは不可能に近いだろう。
「思い出してもらいたいですけど、期待はしませんよ」
「エイル、お前」
伯爵は苦々しい顔をした。
「ミレインと仲が良くなっただろう」
「……何です、それ」
「あやつの言い方にそっくりだ」
「知りませんよ、そんなこと」
エイルは天を仰いだ。
「カティーラは何故、お前を避けるのだろうな。あのときは、足元にすり寄りまでしたというのに」
あの
「俺もあのときは驚きましたよ。猫の本能で何か気づいたのかと思いましたけど……別な理由だったのかもしれませんね」
リ・ガン。隠されし翡翠。
「でも俺は彼女に好かれてるって訳じゃないんでしょうね。彼女が俺の近くに寄ってきたのは、あれを入れて二度だけですし」
エイルは思い出すように言った。
「最初にここへきたとき、俺はカティーラの眼中になかった」
「恋敵」とは認められなかったんですね、などと言ってゼレットの苦笑を買う。
「でも、その……出るときには」
ちらりと伯爵を見た。ゼレットは片眉を上げる。
「彼女、
「そう言えばあの朝、お前の寝台を占領しておったな」
思いだしたように言ったゼレットはエイルを凝視した。
「お前の
「……人聞きの悪い言い方しないで下さい」
エイルはそう言うものの、一言もなしに出ていった事実を思えば、分が悪い。
「あのとき、レンが俺を……いや、俺だけじゃないのかな。翡翠に関わる者たちを探していたんです」
「何だと」
ゼレットは驚いたように言った。そのことはもういいんです、とエイルは手を振る。
「ちょっとした手助けがあって俺は見つからずに済んだけど、影響は受けた。自分でそうしようとしなかったのに、『エイラ』になっちまったんです。俺は驚いて慌てて、こんな姿を見られる訳にいかないと思った」
少年はその話をクラーナから聞いていた。魔術の風――レンがはじめて直接彼らに向けた、長い腕のこと。
「それで、出ていったのか」
ゼレットは口を歪めた。
「それは無用な心配だったな」
「まあ、まさかゼレット様があんなに簡単に受け入れるとは思いませんでしたから」
「〈守護者〉はリ・ガンを見分ける。確かそう言ったな」
ゼレットの言葉にエイルはうなずいた。
「そして、
そう言うとゼレットはにやりとした。エイルは唇を歪める。
「……それは口説いてるんですか」
「そうだ」
「遠慮します」
エイルは切り捨てた。これにつき合っていたらきりがない。
「あのときカティーラが俺のところにきたのは、レンの気配を感じたためかもしれませんし……ただの偶然かも。正直、判らないとしか言いようがないですけど」
「何だ。ならば簡単な話ではないか」
ゼレットは呆れたように言った。
「簡単、ですか?」
エイルは意味が判らなくて目をぱちくりとさせる。
「カティーラが近づいたのは、
エイルはもう一度――目をしばたたかせた。
「そ、そうなります……か、ね」
「それが正解かどうかは判らんがな。手がかりくらいにはなるのではないか」
「た、確かに」
少年は呟くように言った。
「カティーラが近寄ってきたのは、言われてみれば、俺が『エイラ』だったときだけです。少なくとも、これまではそうでした。あの格好の方が翡翠に近しくなれると感じているのは、確かなんです。でもいまの状況と俺の気持ちとしては、このままの方がよかったんで」
少し言い訳するかのようにエイルは言ったが、ゼレットはもちろんそれを咎めたりはせずにこんなことを言った。
「『エイラ』の前になら姿を現すかもしれんと言うことか。ならば、俺がお前を失うことに反発して、気づかぬ内にお前からカティーラを遠ざけているのではないな」
「まだ、そんなこと言うんですか」
今度はエイルが呆れたように言った。
「ゼレット様がご自分をどう思ってるのか知りませんけど、そんな繊細なところがあったら俺は驚きます」
「……お前、タルカスとも仲良くなっただろう」
言われたエイルは再び天を仰いだが、別にゼレットのそれは問いではなかったので、答えずに続ける。
「城のみんなに『エイラ』を見られるとややこしいですね。今夜にでも……部屋で試してみますよ」
そう簡単にいけばいいですけど、などと言って少年は、幸を呼ぶ