08 すまなかった
文字数 3,075文字
ファドック様に抱きかかえられるなんてずるい、という何とも理不尽な台詞を耳にしながら、しかしエイルは黙っておくことにした。
彼女を魔術の力で追い払ったことをどうにか許してもらったところなのだ。下手な反論をして、許したことを忘れられても困る。
「事情は話せないって言うのね」
レイジュは両手を腰に当ててエイルを睨んだ。
「……レイジュ」
「何よ」
「そうすると、ヴァリンに似て」
言い終えぬ内に少年は、レイジュの手元にあった替えの枕で殴られた。
「それはっないんじゃないのっ」
「悪かったっ、冗談っ、似てたのは姿勢だけっ」
面白そうに笑う声がして、ふたりは動きをとめた。
「だいぶよいようだな、エイル」
「おかげさまで」
アスレンとの対峙は彼の体力を相当に奪ったが、前回のように真っ向から全部を受け止めた訳ではなかった。そのため、〈翡翠の宮殿〉の力を借りずとも回復することができていた。
「レイジュ」
その声に、枕を元通りに直すふりをしていた侍女は身を固くした。
「――すまなかったな」
「いえっ、そんな、私っ」
レイジュは文章にならない言葉を並べ、口をつぐんでうつむいた。
「私……」
「すまなかった」
ファドックは繰り返した。
「私はあなたに、酷いことを言った。酷い態度も」
「いいんです、そんなこと。もう、いいんです。だって」
彼女は言いかけた言葉を飲み込むようにして、少し不自然な間のあとに続けた。
「だって、おかしな魔術を……かけられていたんだって、エイルが」
それくらいのことは真実を明かしてやらないとあまりにもレイジュに悪いと思った少年は、詳細は一切省いてそんな説明をしていた。
「だが、それは言い訳にならない」
「なりますよっ」
レイジュは言った。
「ファドック様は……やっぱりファドック様だって判ったんですから、いいんです」
「そうか」
騎士は言った。
「有難う」
その言葉とともに肩にそっと手を置かれたレイジュは、以前ならば嬉しさのあまり倒れそうになるところであったが、このときは――こみ上げそうな涙を必死で堪えた。
「私、行きますね。仕事に戻らなくちゃ」
ファドック様の笑顔がまた見られただけでいいんです、というような言葉は口にしないまま、王女の侍女は医務室をあとにするのだった。
アスレンが翡翠と〈守護者〉を簡単に諦めるとも思えなかったが、ファドックは一度その術を破り、暗雲はいまや彼の内にはない。これまでのこととこの先のことはどうあれ、いまのファドックはエイルのよく知るファドックであった。そこに、少年の知らない影はない。
「……待ってたんですよ、ファドック様」
エイルは護衛騎士を見上げた。
「シーヴは。あいつ、どうしたんです」
「それだが」
ファドックは椅子を持ってくるとエイルの寝台の横に置いて腰かけた。
「リャカラーダ様であろうとシーヴ殿であろうと、城にこのままご滞在というのはお好みでないようだ。キド閣下の館にご案内した」
「そうですか」
エイルは息をつき、首を振った。
「いや、俺が訊きたいのはそうじゃなくて。だいたい、何であいつがここにいたかって」
「それはご本人にお訊きした方がよいのではないか」
言われたエイルは口をつぐみ、数秒 してからまた開いた。
「あいつ、俺のこと、何か言ってましたか」
ファドックはその問いを考えるように少年を見て、それから答えた。
「安心しろ。お気づきにはなっていない」
その返答にエイルは安堵してから、はたと思った。
「……ファドック様は」
「何だ」
「どうして……その、気づいたんですか」
「何を言う」
ファドックは笑った。その笑みには――エイルは知らないながらも――しばし見られなかった、少し悪戯っぽいものが混じった。
「忘れたのか。私はいつぞやの夜会で、唯一エイラ嬢の手を取った男だぞ」
この言葉にエイルはむせかけ、どうにかそれから立ち直ると曖昧な笑みを返した。
「魔術師協会で『リティアエラ』姫が『エイラ』の名を持つことを知ったのだ。リック師に師事していたことも。そして考え、姫君を思い返すうち」
ファドックはエイルを見た。
「何故、気づかなかったのかが不思議なくらいになった」
「……不気味だとか、思わないんですか」
「何がだ」
騎士は肩をすくめた。
「どんな姿でもお前はお前だろう」
エイルは息をついた。ゼレットもファドックも、簡単にそう言ってそれを受け入れる。それは彼らが〈守護者〉である故なのか、その人となりなのか、どちらにしても――何とも有難く、涙が出そうになるくらい嬉しいことだった。
「しかし不思議に思うが」
「……何がです」
エイルは、安堵と感動をどうにか隠して、問い返した。ファドックの前で涙などは見せたくない。
「何故、お前はそれをシーヴ殿に話していないのだ」
ファドックの問いに、少年はつい沈黙し、少ししてからようやく声を出した。
「どうして、言ってないって判るんです。それに、知られたくないと思ってることも」
「簡単だ。シーヴ殿は倒れているお前を見ても誰だかお判りにならなかった。何か疑問には思われたとて、『エイル』のことはご存知でないと判った。それはお前が話していないからで……話していないのは、知られたくないためだろう」
「その通りです 」
エイルは嘆息した。
「あの……あそこで倒れてた俺の説明は、どういうふうに」
「いささか苦しい話しかできていないな」
それがファドックの答えだった。
「シーヴ殿のいた場所からは、お前が何か術を使っていたことはお判りにならなかった。だから、お前はあの場にたまたま現れた少年だということになっている。おそらく、納得はされていらっしゃらないだろうが」
あの混乱のなかでシーヴがどこまで覚えているか判らないが、あのときエイルはアスレンの名を叫び、シーヴに驚き、アスレンを討つようファドックに――シーヴと同時に、促したのだ。
「何故、言わぬ。何を怖れる」
「怖れてる……ように見えますか」
エイルは弱々しく言った。
ゼレットにも指摘されたことだった。ゼレットの出した回答は彼の気に入らぬものだった――「エイラ」として王子に想われたい気持ちがあるなど、冗談ではない!――が、かと言ってそれでは何故なのだと問われれば、答えは出ない。
「判りません」
エイルは正直に答えた。
「あいつは……きっと、ファドック様が俺は俺だと言ってくれるように、どんな姿でも俺と認めてくれると思います。でも……そうですね。俺はたぶん、怖いんだ」
「……そうか」
ファドックはそれ以上、追及しようとはしなかった。エイルはほっとする。
「だが、ひとつ気になることがある」
「何ですか」
安心したのもつかの間、エイルは不安そうに顔を上げた。
「シーヴ殿は、一度もお前の名を呼ばなかった」
「俺の? え、でもそれは」
「違う 」
ファドックはエイルが戸惑った理由に気づいて首を振った。
「そうではない。『エイル』と言わないのは――お前が教えていないのならば当然だろう。だが彼は、『エイラ』とも『リティアエラ』とも」
「どういう、意味です」
「――私にお前のことを思い出させたかったのなら、その名を口にせぬのは……不自然だな」
「どういう……意味です」
エイルは繰り返した。
「確か、私にこう、尋ねられた。『お前も記憶を乱されたか』――と」
彼女を魔術の力で追い払ったことをどうにか許してもらったところなのだ。下手な反論をして、許したことを忘れられても困る。
「事情は話せないって言うのね」
レイジュは両手を腰に当ててエイルを睨んだ。
「……レイジュ」
「何よ」
「そうすると、ヴァリンに似て」
言い終えぬ内に少年は、レイジュの手元にあった替えの枕で殴られた。
「それはっないんじゃないのっ」
「悪かったっ、冗談っ、似てたのは姿勢だけっ」
面白そうに笑う声がして、ふたりは動きをとめた。
「だいぶよいようだな、エイル」
「おかげさまで」
アスレンとの対峙は彼の体力を相当に奪ったが、前回のように真っ向から全部を受け止めた訳ではなかった。そのため、〈翡翠の宮殿〉の力を借りずとも回復することができていた。
「レイジュ」
その声に、枕を元通りに直すふりをしていた侍女は身を固くした。
「――すまなかったな」
「いえっ、そんな、私っ」
レイジュは文章にならない言葉を並べ、口をつぐんでうつむいた。
「私……」
「すまなかった」
ファドックは繰り返した。
「私はあなたに、酷いことを言った。酷い態度も」
「いいんです、そんなこと。もう、いいんです。だって」
彼女は言いかけた言葉を飲み込むようにして、少し不自然な間のあとに続けた。
「だって、おかしな魔術を……かけられていたんだって、エイルが」
それくらいのことは真実を明かしてやらないとあまりにもレイジュに悪いと思った少年は、詳細は一切省いてそんな説明をしていた。
「だが、それは言い訳にならない」
「なりますよっ」
レイジュは言った。
「ファドック様は……やっぱりファドック様だって判ったんですから、いいんです」
「そうか」
騎士は言った。
「有難う」
その言葉とともに肩にそっと手を置かれたレイジュは、以前ならば嬉しさのあまり倒れそうになるところであったが、このときは――こみ上げそうな涙を必死で堪えた。
「私、行きますね。仕事に戻らなくちゃ」
ファドック様の笑顔がまた見られただけでいいんです、というような言葉は口にしないまま、王女の侍女は医務室をあとにするのだった。
アスレンが翡翠と〈守護者〉を簡単に諦めるとも思えなかったが、ファドックは一度その術を破り、暗雲はいまや彼の内にはない。これまでのこととこの先のことはどうあれ、いまのファドックはエイルのよく知るファドックであった。そこに、少年の知らない影はない。
「……待ってたんですよ、ファドック様」
エイルは護衛騎士を見上げた。
「シーヴは。あいつ、どうしたんです」
「それだが」
ファドックは椅子を持ってくるとエイルの寝台の横に置いて腰かけた。
「リャカラーダ様であろうとシーヴ殿であろうと、城にこのままご滞在というのはお好みでないようだ。キド閣下の館にご案内した」
「そうですか」
エイルは息をつき、首を振った。
「いや、俺が訊きたいのはそうじゃなくて。だいたい、何であいつがここにいたかって」
「それはご本人にお訊きした方がよいのではないか」
言われたエイルは口をつぐみ、数
「あいつ、俺のこと、何か言ってましたか」
ファドックはその問いを考えるように少年を見て、それから答えた。
「安心しろ。お気づきにはなっていない」
その返答にエイルは安堵してから、はたと思った。
「……ファドック様は」
「何だ」
「どうして……その、気づいたんですか」
「何を言う」
ファドックは笑った。その笑みには――エイルは知らないながらも――しばし見られなかった、少し悪戯っぽいものが混じった。
「忘れたのか。私はいつぞやの夜会で、唯一エイラ嬢の手を取った男だぞ」
この言葉にエイルはむせかけ、どうにかそれから立ち直ると曖昧な笑みを返した。
「魔術師協会で『リティアエラ』姫が『エイラ』の名を持つことを知ったのだ。リック師に師事していたことも。そして考え、姫君を思い返すうち」
ファドックはエイルを見た。
「何故、気づかなかったのかが不思議なくらいになった」
「……不気味だとか、思わないんですか」
「何がだ」
騎士は肩をすくめた。
「どんな姿でもお前はお前だろう」
エイルは息をついた。ゼレットもファドックも、簡単にそう言ってそれを受け入れる。それは彼らが〈守護者〉である故なのか、その人となりなのか、どちらにしても――何とも有難く、涙が出そうになるくらい嬉しいことだった。
「しかし不思議に思うが」
「……何がです」
エイルは、安堵と感動をどうにか隠して、問い返した。ファドックの前で涙などは見せたくない。
「何故、お前はそれをシーヴ殿に話していないのだ」
ファドックの問いに、少年はつい沈黙し、少ししてからようやく声を出した。
「どうして、言ってないって判るんです。それに、知られたくないと思ってることも」
「簡単だ。シーヴ殿は倒れているお前を見ても誰だかお判りにならなかった。何か疑問には思われたとて、『エイル』のことはご存知でないと判った。それはお前が話していないからで……話していないのは、知られたくないためだろう」
「
エイルは嘆息した。
「あの……あそこで倒れてた俺の説明は、どういうふうに」
「いささか苦しい話しかできていないな」
それがファドックの答えだった。
「シーヴ殿のいた場所からは、お前が何か術を使っていたことはお判りにならなかった。だから、お前はあの場にたまたま現れた少年だということになっている。おそらく、納得はされていらっしゃらないだろうが」
あの混乱のなかでシーヴがどこまで覚えているか判らないが、あのときエイルはアスレンの名を叫び、シーヴに驚き、アスレンを討つようファドックに――シーヴと同時に、促したのだ。
「何故、言わぬ。何を怖れる」
「怖れてる……ように見えますか」
エイルは弱々しく言った。
ゼレットにも指摘されたことだった。ゼレットの出した回答は彼の気に入らぬものだった――「エイラ」として王子に想われたい気持ちがあるなど、冗談ではない!――が、かと言ってそれでは何故なのだと問われれば、答えは出ない。
「判りません」
エイルは正直に答えた。
「あいつは……きっと、ファドック様が俺は俺だと言ってくれるように、どんな姿でも俺と認めてくれると思います。でも……そうですね。俺はたぶん、怖いんだ」
「……そうか」
ファドックはそれ以上、追及しようとはしなかった。エイルはほっとする。
「だが、ひとつ気になることがある」
「何ですか」
安心したのもつかの間、エイルは不安そうに顔を上げた。
「シーヴ殿は、一度もお前の名を呼ばなかった」
「俺の? え、でもそれは」
「
ファドックはエイルが戸惑った理由に気づいて首を振った。
「そうではない。『エイル』と言わないのは――お前が教えていないのならば当然だろう。だが彼は、『エイラ』とも『リティアエラ』とも」
「どういう、意味です」
「――私にお前のことを思い出させたかったのなら、その名を口にせぬのは……不自然だな」
「どういう……意味です」
エイルは繰り返した。
「確か、私にこう、尋ねられた。『お前も記憶を乱されたか』――と」