01 勘繰った話
文字数 2,736文字
ぱたん、と扉を閉めると彼女は深いため息をついた。
ヴァリンに呼び出しを受けて長々と説教などを食らったのは、もう何年ぶりだろうか。
確かにこのところの彼女の失態は目に余るものがあり、新人であれば解雇を言い渡されていても不思議ではない。自分でもそれはよく判っていた。
彼女には何もできなかった。
できるのは、カリアやメイ=リスに泣きつくことくらいで、彼女らも同情してはくれるものの、何もできないという意味では彼女と変わりない。
同じように沈んでいるのはシュアラであろうが、王女はその思いを「王女殿下」の仮面の下に隠している。ファドックを案じ、近衛隊長に推した自身の言葉を悔やんでも、それを侍女と語り合うことはなかった。
レイジュはとぼとぼと廊下を歩いた。何だか、酷く、エイルが懐かしい。
エイル少年ならば、彼女の話を親身になって聞いただろう。そしておそらく彼自身もファドックの様子がおかしいことに気づき、まっすぐに護衛騎士に疑問をぶつけ、その影に隠されたものを知ろうとしただろう。
だが彼女の友人が突然にアーレイド城を去ってから、もう一年近くになろうとしている。
毎朝のように彼と雑談をした日々が不意にレイジュの内に蘇った。
エイルがいてくれたなら、と思う。
だが少年はいない。
彼女は、独りだった。
「――あ」
微かな声に、レイジュは知らずうつむいていた顔を上げた。
「レイジュさん 」
「……テリスン」
見たくない顔を見てしまった、と思った。
「どうしてここへ?」
口調がきつくなりそうなのを抑える。彼女に当たっても、仕方がない。
「ヴァリンさん に……呼ばれたんです」
「そう」
レイジュは短く答えた。別に、掃除女が担当の階以外にいたからと言って、彼女に関わりのあることではない。それどころか、担当の階にいることを想像する方が心に痛い。
それは少しずつ――噂になっていた。
テリスンがファドックの部屋を訪れれば、ブロックが去る。
もうすっかりそれは習わしとなったようだった。
その定着した繰り返しはどうしても少しずつ人目に触れるようになっていた。
下世話な推測などはあまりしない教育の行き届いた王宮の使用人たちであっても、男と女がふたりきりで一部屋にこもる日々が続くとなれば、どうしたって勘繰った話が出てくるものだ。
ファドックに限ってそのような――という声も聞かれたが、以前に比べて温かみの減った近衛隊長には、位がつけば人間も変わるものだ、と言うような、これまでは決してなかった陰口めいたものも聞かれるようになっていた。
レイジュはそう言った声に行き合うたびに否定をし、次第に聞かれなくなったと思っていたが、それは彼女の前でそういう話をする者がいなくなっただけであった。侍女仲間たちから話を聞けば、そう言った声は減ったどころか増えているのだと知るだけだ。
「あの、レイジュさん!」
そのまま娘の横を通り過ぎようとした彼女に、思い切ったような声がかけられる。
「何かしら」
冷たくならないようにしながら、レイジュは返事をした。
「その、少し……お話があるんですけれど、お時間、よろしいでしょうか」
レイジュは目を見開いた。
「私に?……でもあなた、ヴァリンに呼ばれているのでしょう?」
「今日中にくるように言われただけですから、いますぐじゃなくてもいいんです」
「そう」
彼女はまたそう答えて、少し躊躇った。
ヴァリンに叱責を受けた以上はすぐに仕事に戻り、普段以上に励まなくてはと考えていたところだったが、テリスンにそのようなことを言われるとは。
この女と一対一で話すことを思えば気が滅入ったものの、テリスンがレイジュに何か話すとすれば――ファドックのこと以外であるはずもない。
「いいわ。少しだけなら」
侍女はそう言うと、年下の友人が「ぱっとしない」と評した掃除娘を振り返った。
「何かしら?」
「その」
テリスンはうつむき、それから顔を上げて続けた。
「ファドック様の、ことなんですけれど」
「そうでしょうね」
相手が怯むのが判る。レイジュは内心で自分を叱った。いまの言い方には明らかに棘 があった。
「ファドック様が……どうされたの」
いまではあなたの方が詳しいでしょうに、などという台詞が浮かんできてしまう自分が嫌だった。
「あの、ですから」
テリスンは考えるようにしながら言った。
「ご様子が……おかしいんです」
レイジュは眉をひそめた。まさか今頃気づいた訳でもあるまい、と思う。
「どういうふうに?」
「その……変わった話をされるんです」
「変わった、話」
あなたとは 話をする のね 、という台詞はレイジュのなかで苦い痛みとともに発せられたが、彼女は懸命にそれを隠した。
「どんな話を?」
ただ単調にそう返した。娘は視線をさまよわせるようにする。
「……翡翠 」
「翡翠?」
レイジュは繰り返した。意味が判らない。
「それに……エイル」
「何ですって?」
つい先ほど自分が思い返していた少年の名を聞いて、レイジュは目を丸くした。
「ファドック様がエイルのことを?」
「ええ。前にここで働いていた少年だと聞きました。とても……彼のことが心配だと」
「……そう」
レイジュは、安堵すると同時に――複雑だった。
ファドックがエイルを案じているというのならば、それは彼女のよく知るファドックだ。
そして、いまはそんな雑談をしないように見える彼だが、テリスンにはそうするのだ。
同時に――彼のような男がどんなときになら、どんな相手になら不安などを口にするかという想像は、彼女の胸を酷く、痛くした。
「あの、もし……その彼のことを何かご存知だったら、ファドック様に教えて差し上げてください」
視線を落としていった娘は、出過ぎた発言だと怒られはしないかと思うかのように、そっとレイジュを見上げるようにした。
「……そうね。もし、何か判ったらそうするわ」
侍女はゆっくりとそう言ったあと、城下にエイルの母を訪ねてみようか、などとふと思いついた。
テリスンの横をすり抜けながらも、エイルのことを思ったレイジュはふと心が軽くなるのを覚えた。
ではファドックもエイルを思い返しているのだ。あの少年を案じる護衛騎士のままなのだ。
ならばまだ――絶望すべきではない。
(エイルがいてくれたら)
それは彼女にとってただの夢想に過ぎなかったが、その想像は渇く心をほんの少しだけ、癒すようだった。
ヴァリンに呼び出しを受けて長々と説教などを食らったのは、もう何年ぶりだろうか。
確かにこのところの彼女の失態は目に余るものがあり、新人であれば解雇を言い渡されていても不思議ではない。自分でもそれはよく判っていた。
彼女には何もできなかった。
できるのは、カリアやメイ=リスに泣きつくことくらいで、彼女らも同情してはくれるものの、何もできないという意味では彼女と変わりない。
同じように沈んでいるのはシュアラであろうが、王女はその思いを「王女殿下」の仮面の下に隠している。ファドックを案じ、近衛隊長に推した自身の言葉を悔やんでも、それを侍女と語り合うことはなかった。
レイジュはとぼとぼと廊下を歩いた。何だか、酷く、エイルが懐かしい。
エイル少年ならば、彼女の話を親身になって聞いただろう。そしておそらく彼自身もファドックの様子がおかしいことに気づき、まっすぐに護衛騎士に疑問をぶつけ、その影に隠されたものを知ろうとしただろう。
だが彼女の友人が突然にアーレイド城を去ってから、もう一年近くになろうとしている。
毎朝のように彼と雑談をした日々が不意にレイジュの内に蘇った。
エイルがいてくれたなら、と思う。
だが少年はいない。
彼女は、独りだった。
「――あ」
微かな声に、レイジュは知らずうつむいていた顔を上げた。
「
「……テリスン」
見たくない顔を見てしまった、と思った。
「どうしてここへ?」
口調がきつくなりそうなのを抑える。彼女に当たっても、仕方がない。
「
「そう」
レイジュは短く答えた。別に、掃除女が担当の階以外にいたからと言って、彼女に関わりのあることではない。それどころか、担当の階にいることを想像する方が心に痛い。
それは少しずつ――噂になっていた。
テリスンがファドックの部屋を訪れれば、ブロックが去る。
もうすっかりそれは習わしとなったようだった。
その定着した繰り返しはどうしても少しずつ人目に触れるようになっていた。
下世話な推測などはあまりしない教育の行き届いた王宮の使用人たちであっても、男と女がふたりきりで一部屋にこもる日々が続くとなれば、どうしたって勘繰った話が出てくるものだ。
ファドックに限ってそのような――という声も聞かれたが、以前に比べて温かみの減った近衛隊長には、位がつけば人間も変わるものだ、と言うような、これまでは決してなかった陰口めいたものも聞かれるようになっていた。
レイジュはそう言った声に行き合うたびに否定をし、次第に聞かれなくなったと思っていたが、それは彼女の前でそういう話をする者がいなくなっただけであった。侍女仲間たちから話を聞けば、そう言った声は減ったどころか増えているのだと知るだけだ。
「あの、レイジュさん!」
そのまま娘の横を通り過ぎようとした彼女に、思い切ったような声がかけられる。
「何かしら」
冷たくならないようにしながら、レイジュは返事をした。
「その、少し……お話があるんですけれど、お時間、よろしいでしょうか」
レイジュは目を見開いた。
「私に?……でもあなた、ヴァリンに呼ばれているのでしょう?」
「今日中にくるように言われただけですから、いますぐじゃなくてもいいんです」
「そう」
彼女はまたそう答えて、少し躊躇った。
ヴァリンに叱責を受けた以上はすぐに仕事に戻り、普段以上に励まなくてはと考えていたところだったが、テリスンにそのようなことを言われるとは。
この女と一対一で話すことを思えば気が滅入ったものの、テリスンがレイジュに何か話すとすれば――ファドックのこと以外であるはずもない。
「いいわ。少しだけなら」
侍女はそう言うと、年下の友人が「ぱっとしない」と評した掃除娘を振り返った。
「何かしら?」
「その」
テリスンはうつむき、それから顔を上げて続けた。
「ファドック様の、ことなんですけれど」
「そうでしょうね」
相手が怯むのが判る。レイジュは内心で自分を叱った。いまの言い方には明らかに
「ファドック様が……どうされたの」
いまではあなたの方が詳しいでしょうに、などという台詞が浮かんできてしまう自分が嫌だった。
「あの、ですから」
テリスンは考えるようにしながら言った。
「ご様子が……おかしいんです」
レイジュは眉をひそめた。まさか今頃気づいた訳でもあるまい、と思う。
「どういうふうに?」
「その……変わった話をされるんです」
「変わった、話」
「どんな話を?」
ただ単調にそう返した。娘は視線をさまよわせるようにする。
「……
「翡翠?」
レイジュは繰り返した。意味が判らない。
「それに……エイル」
「何ですって?」
つい先ほど自分が思い返していた少年の名を聞いて、レイジュは目を丸くした。
「ファドック様がエイルのことを?」
「ええ。前にここで働いていた少年だと聞きました。とても……彼のことが心配だと」
「……そう」
レイジュは、安堵すると同時に――複雑だった。
ファドックがエイルを案じているというのならば、それは彼女のよく知るファドックだ。
そして、いまはそんな雑談をしないように見える彼だが、テリスンにはそうするのだ。
同時に――彼のような男がどんなときになら、どんな相手になら不安などを口にするかという想像は、彼女の胸を酷く、痛くした。
「あの、もし……その彼のことを何かご存知だったら、ファドック様に教えて差し上げてください」
視線を落としていった娘は、出過ぎた発言だと怒られはしないかと思うかのように、そっとレイジュを見上げるようにした。
「……そうね。もし、何か判ったらそうするわ」
侍女はゆっくりとそう言ったあと、城下にエイルの母を訪ねてみようか、などとふと思いついた。
テリスンの横をすり抜けながらも、エイルのことを思ったレイジュはふと心が軽くなるのを覚えた。
ではファドックもエイルを思い返しているのだ。あの少年を案じる護衛騎士のままなのだ。
ならばまだ――絶望すべきではない。
(エイルがいてくれたら)
それは彼女にとってただの夢想に過ぎなかったが、その想像は渇く心をほんの少しだけ、癒すようだった。