2 三つの場所に、三つの存在
文字数 2,844文字
話をする内、エイラが覚えていない部分が限定されることに気づいた。
彼女は、彼が隣にいたときの会話については全て覚えていない。
それ以外は、シーヴが尋ねることでふと彼女の脳裏に蘇るかのようだった。エイラの言葉を借りるならば、目隠しが外されたというところだろう。
だが彼に告げた言葉は必ずしも彼女の内にとどまらない。自身がした説明を忘れ、シーヴに何故そんなことを知るのかと不審な目つきをしたことも幾たびかあったくらいだ。
リ・ガンは翡翠の子だとあの宮殿の声は言った。リ・ガンは〈鍵〉の望むようにするが、それがかの声――「女王陛下」のお気に召さないこともあるのだろう。青年はそんなふうに理解していた。というよりは、自らに説明を付けていた、という辺りだろうか。
「呼ぶ と言ったな」
シーヴは繰り返した。
「翡翠が呼ぶのか。何故、呼ぶ。何のために。起こしてくれとでも言うのか?」
「……それよりは、むしろ」
茶化すようなシーヴの台詞に、しかしエイラはじっと考え込む。
「『助けてくれ』」
「何だって?」
「悪夢に……苦しんでいるかのように。穢れを感じて。それを払うために目覚めさせてくれ、と」
「穢れ、か」
クラーナもそう言っていた。そして、覚えていないようだが、宮殿でエイラも。ならばそれは――限りなく真実に近いのではないだろうか?
「覚えているか、シーヴ。〈塔〉での声を」
「俺たちを呼んだ声か」
「そう。そして、『ふたつの名を持つ者』という言葉」
エイラの言葉にうなずいた。あのときはエイラが消えたことの方が衝撃で、声が残した言葉についてあまり考えなかったが、記憶には確かにある。そしてそれは、シーヴが宮殿でも聞いた台詞だった。
「女王も言っていた」
「女王だって?」
エイラは聞き返した。シーヴは、かの宮殿で聞いた声の主について、そのように感じたのだと説明した。言われたエイラは唇を歪める。
〈翡翠の宮殿〉は自分が探していたもののはずなのに自分の記憶は曖昧で、シーヴの方はしっかり覚えているらしいことが少し、気に入らない。
「拗ねるなよ」
娘のそんな気分を読みとって、シーヴは苦笑する。覚えていないことの方がいいこともある、と青年は考えただろうか。リ・ガンは──エイラは人ではない、と声が彼に告げたこともエイラは知らぬのだ。
「俺たちはふたつの名を持つから、そのせいで……何と言ったかな、そうだ、〈徴 〉。それが徴となっている。ふたつの名を名乗るものは翡翠に関わる、と女王はそんなことを言ったんだ」
「ふたつの名……」
エイラはぼんやりと繰り返した。
「俺はシーヴとリャカラーダ、ということだろうな。お前はエイラと、リ・ガンか?」
もちろん、エイラにはもうひとつの名がある。というより本当の名はエイルである。だがそれを言い出す気にはなれず、エイラは曖昧にうなずいた。
「あんたを『見つけた』風のことが気になってるんだ」
彼女は話題を変えるように言った。
「私は、見つかっていないのだと思う。そうである以上、〈鍵〉を狙う意味はまだない。それに第一、ふたつの翡翠は動かないから」
「狙いがつけやすい」
「そう 」
たぶん、と曖昧な言葉も続く。
「例の風を起こしたのが〈魔術都市〉だとしてもそうじゃないにしても、あんたは見つかって、私は逃れたんだと思う。なら、奴だか奴らだかが網を張ってるだか投げるだかする先は翡翠。そこに飛び込むのは馬鹿げてるかもしれないけど、行くしかない。もちろん、警戒を忘れちゃいけない。そいつだか、そいつらだか知らないけど、どんな力を持ってるのかさっぱりなんだから」
「豪胆なようで、慎重だな」
前日のエイラの台詞を今度はシーヴが返した。
「今後もそうあってほしいもんだ」
「どういう意味だよ」
何となく馬鹿にされたような気になって、エイラは口を尖らせる。と、シーヴは肩をすくめた。
「砂漠で突っ立ってる石でできた爺さんに約束したのさ。あんたの主 を守るとね」
シーヴは少し面白そうに言った。
「俺……私は守ってもらう必要なんか」
言い返そうとして、やめた。そうすればシーヴがますます面白がるような気がしたのだ。
「いいや、それなら逆だ、シーヴ。私があんたを守るんだ。あんたは私の舵なんだから」
気持ちを切り替え、にやりとしてそう言う。目論見通りシーヴが嫌そうな顔をした。「女のように守られる」ことがエイラの気に入らないのと同様、「女に守られる」というのはきっと王子様の自尊心を傷つけるのだ。
「まあ、いいさ。行く当てがあるならさっさと動こう。時間は、ないんだからな」
白銀に包まれた〈翡翠の宮殿〉を訪れたいま、もはやこの地に用はない。彼らは出発を決めた。
しかし話の違うことに、エイラが指したのは南東ではなく、北西であった。
「寒いのを嫌がってるんじゃないぜ」
〈鍵〉が風邪をひかないようにという配慮でもないからな、などとつけ加える。
北西。
アーレイドという町の名を告げても、シーヴは特に驚きはしなかった。
そう、エイラの心は固まっていた。
距離としては、間違いなくカーディルの方が近い。だが、カーディルのそれは「隠されている」。相手がエイラ――リ・ガンでなければその姿を容易には見せぬだろう。
一方で、翡翠のなかの翡翠 は、エイルのような一少年にこそ知られていなかったが、儀式として玉 に祈るだのと言うのは秘密ではない。王女が「下町の少年」や「異国の王子」に気軽に話をするくらいである。
そして〈魔術都市〉レン。街の具体的な場所は知らなかったが、中心部 の西方というのならばカーディルよりもアーレイドが近い。
狙われるのはアーレイドではないか、と思った。
南から伝わったと言う、かの地の翡翠。
エイラはふと、シュアラが語った話を思い出した。
それもまた秘密ではないだろう。エイラは知らぬ東の第二王女辺りが少し書物を探れば、南から翡翠が伝わってきたという話もすぐに知れる。エイラはそれをめくらなかったが、事実、アーレイド魔術師協会 の本棚にはそのような書があった。
(南か)
リダエの湖に浮かんだ――いや、かの湖は入り口にすぎないが――〈翡翠の宮殿〉。エイラの記憶にはほとんど残らぬそれ。だが、それでも彼女を変えた場所。目覚めさせたのだ、と言うべきだろうか?
アーレイドの南という語に、記憶にはおぼろげな白い世界――無にして全、彼女にとって完璧な場所――を思い出さずにはいられなかった。
アーレイド。カーディル。〈翡翠の宮殿〉。
リ・ガン。〈鍵〉。〈守護者〉。
翡翠がつなぐ三つの場所に、三つの存在に、〈魔術都市〉はどう関わってくるつもりなのか。
旅路は、はじまったばかりだ。
彼女は、彼が隣にいたときの会話については全て覚えていない。
それ以外は、シーヴが尋ねることでふと彼女の脳裏に蘇るかのようだった。エイラの言葉を借りるならば、目隠しが外されたというところだろう。
だが彼に告げた言葉は必ずしも彼女の内にとどまらない。自身がした説明を忘れ、シーヴに何故そんなことを知るのかと不審な目つきをしたことも幾たびかあったくらいだ。
リ・ガンは翡翠の子だとあの宮殿の声は言った。リ・ガンは〈鍵〉の望むようにするが、それがかの声――「女王陛下」のお気に召さないこともあるのだろう。青年はそんなふうに理解していた。というよりは、自らに説明を付けていた、という辺りだろうか。
「
シーヴは繰り返した。
「翡翠が呼ぶのか。何故、呼ぶ。何のために。起こしてくれとでも言うのか?」
「……それよりは、むしろ」
茶化すようなシーヴの台詞に、しかしエイラはじっと考え込む。
「『助けてくれ』」
「何だって?」
「悪夢に……苦しんでいるかのように。穢れを感じて。それを払うために目覚めさせてくれ、と」
「穢れ、か」
クラーナもそう言っていた。そして、覚えていないようだが、宮殿でエイラも。ならばそれは――限りなく真実に近いのではないだろうか?
「覚えているか、シーヴ。〈塔〉での声を」
「俺たちを呼んだ声か」
「そう。そして、『ふたつの名を持つ者』という言葉」
エイラの言葉にうなずいた。あのときはエイラが消えたことの方が衝撃で、声が残した言葉についてあまり考えなかったが、記憶には確かにある。そしてそれは、シーヴが宮殿でも聞いた台詞だった。
「女王も言っていた」
「女王だって?」
エイラは聞き返した。シーヴは、かの宮殿で聞いた声の主について、そのように感じたのだと説明した。言われたエイラは唇を歪める。
〈翡翠の宮殿〉は自分が探していたもののはずなのに自分の記憶は曖昧で、シーヴの方はしっかり覚えているらしいことが少し、気に入らない。
「拗ねるなよ」
娘のそんな気分を読みとって、シーヴは苦笑する。覚えていないことの方がいいこともある、と青年は考えただろうか。リ・ガンは──エイラは人ではない、と声が彼に告げたこともエイラは知らぬのだ。
「俺たちはふたつの名を持つから、そのせいで……何と言ったかな、そうだ、〈
「ふたつの名……」
エイラはぼんやりと繰り返した。
「俺はシーヴとリャカラーダ、ということだろうな。お前はエイラと、リ・ガンか?」
もちろん、エイラにはもうひとつの名がある。というより本当の名はエイルである。だがそれを言い出す気にはなれず、エイラは曖昧にうなずいた。
「あんたを『見つけた』風のことが気になってるんだ」
彼女は話題を変えるように言った。
「私は、見つかっていないのだと思う。そうである以上、〈鍵〉を狙う意味はまだない。それに第一、ふたつの翡翠は動かないから」
「狙いがつけやすい」
「
たぶん、と曖昧な言葉も続く。
「例の風を起こしたのが〈魔術都市〉だとしてもそうじゃないにしても、あんたは見つかって、私は逃れたんだと思う。なら、奴だか奴らだかが網を張ってるだか投げるだかする先は翡翠。そこに飛び込むのは馬鹿げてるかもしれないけど、行くしかない。もちろん、警戒を忘れちゃいけない。そいつだか、そいつらだか知らないけど、どんな力を持ってるのかさっぱりなんだから」
「豪胆なようで、慎重だな」
前日のエイラの台詞を今度はシーヴが返した。
「今後もそうあってほしいもんだ」
「どういう意味だよ」
何となく馬鹿にされたような気になって、エイラは口を尖らせる。と、シーヴは肩をすくめた。
「砂漠で突っ立ってる石でできた爺さんに約束したのさ。あんたの
シーヴは少し面白そうに言った。
「俺……私は守ってもらう必要なんか」
言い返そうとして、やめた。そうすればシーヴがますます面白がるような気がしたのだ。
「いいや、それなら逆だ、シーヴ。私があんたを守るんだ。あんたは私の舵なんだから」
気持ちを切り替え、にやりとしてそう言う。目論見通りシーヴが嫌そうな顔をした。「女のように守られる」ことがエイラの気に入らないのと同様、「女に守られる」というのはきっと王子様の自尊心を傷つけるのだ。
「まあ、いいさ。行く当てがあるならさっさと動こう。時間は、ないんだからな」
白銀に包まれた〈翡翠の宮殿〉を訪れたいま、もはやこの地に用はない。彼らは出発を決めた。
しかし話の違うことに、エイラが指したのは南東ではなく、北西であった。
「寒いのを嫌がってるんじゃないぜ」
〈鍵〉が風邪をひかないようにという配慮でもないからな、などとつけ加える。
北西。
アーレイドという町の名を告げても、シーヴは特に驚きはしなかった。
そう、エイラの心は固まっていた。
距離としては、間違いなくカーディルの方が近い。だが、カーディルのそれは「隠されている」。相手がエイラ――リ・ガンでなければその姿を容易には見せぬだろう。
一方で、
そして〈魔術都市〉レン。街の具体的な場所は知らなかったが、
狙われるのはアーレイドではないか、と思った。
南から伝わったと言う、かの地の翡翠。
エイラはふと、シュアラが語った話を思い出した。
それもまた秘密ではないだろう。エイラは知らぬ東の第二王女辺りが少し書物を探れば、南から翡翠が伝わってきたという話もすぐに知れる。エイラはそれをめくらなかったが、事実、アーレイド
(南か)
リダエの湖に浮かんだ――いや、かの湖は入り口にすぎないが――〈翡翠の宮殿〉。エイラの記憶にはほとんど残らぬそれ。だが、それでも彼女を変えた場所。目覚めさせたのだ、と言うべきだろうか?
アーレイドの南という語に、記憶にはおぼろげな白い世界――無にして全、彼女にとって完璧な場所――を思い出さずにはいられなかった。
アーレイド。カーディル。〈翡翠の宮殿〉。
リ・ガン。〈鍵〉。〈守護者〉。
翡翠がつなぐ三つの場所に、三つの存在に、〈魔術都市〉はどう関わってくるつもりなのか。
旅路は、はじまったばかりだ。