9 緑色の瞳
文字数 2,932文字
凍える身体を少しでも温めようとぎゅっと身を縮ませた。
だが、そんな動作がほんの少しでも役に立ったとは感じられない。空気は冷え行き、このままこうしていれば起きようという気持ちもいずれなくなって、意識を失えば死ぬだけの話だ。
そうと気づいてばっと身を起こした。彼は瞬時に、自分の身に起きようとしていたことが判ったのだ。
寒さで縮まっていた心臓が突然の動きに抗議するかのように、大きな音を立て始める。同時にくらりとした。細々と身体中に血を送っていた血管が、やはり突然の動作に不満を申し立てたのだろう。
「――エイラ!」
シーヴは彼の脇に同じように倒れ込んでいる彼女を抱え起こした。
「起きろ!」
彼のものに比べればずっと白い肌は、しかし尋常でないほどに白くなっている。シーヴの冷え切った指で触れても、まだ冷たい。
「起きろ!」
シーヴは繰り返し、彼女の頬を軽く叩いた。だが〈翡翠の娘〉が目を覚ます気配はなく、シーヴはますます自身の動悸が激しくなるのを覚える。
「おい! 全てが判ったんだろう、こんなところで凍死したら馬鹿だぞっ」
そう叫ぶとエイラを抱え上げ、寒さに耐えている馬のもとへと走った。エイラを傍らに下ろすと、くくりつけた荷から急いでキイリア酒の小瓶を出す。震える手で――寒さのためか、動悸のためかは判然としなかった――蓋を開けて娘の口につけるが、こぼれるままだ。シーヴは逡巡せずそれを自身の口に含むと、口移しでエイラに強い酒を与えた。そうすれば娘は軽くむせ、うっすらと目を開けた。
「――シーヴ」
エイラは掠れる声で青年を呼んだ。彼女にとっては幸いなことに、またも男に口づけられたと言うことには気づいていない。
「……寒い」
「俺もだ」
そう返すとシーヴはエイラを強く抱き締め、今度は自身が酒を飲んだ。冷え切って、なおかつ乾いた身体には、砂漠で太陽 に苛められたときの水分と同様、或いはそれ以上に効き目がある。
(夜明けだと思ったのに――何てこった)
暗い世界を見やり、天を見やって呆然とした。星は、夕刻過ぎを示している。
いったいどれだけをかの白き宮殿で過ごし、どれだけこの湖の畔に倒れていたものか判らない。だがそれを教えてくれる者などいないし、いまはそんなことを知りたい訳でもなかった。冷たい空気は外からも中からも心臓を刺激して、胸をむかむかとさせた。
それを振り払うようにシーヴは再びエイラを抱き上げると馬に乗せ、〈砂漠の民〉の急ぎごともかくやとばかりにバイアーサラの町へ、一気に駆け戻ったのだ。
「……もう大丈夫でしょう」
神官 の言葉に、シーヴはほっと息をついた。
戦いの神ラ・ザインに癒し手を求める信者は少ないが、バイアーサラにある神殿のうちでいちばんリダエ湖に近かったのがその神殿 だったのだ。
シーヴは自身の防寒着まで着せたエイラを抱えてそこに飛び込み、助けを求めた。そこで彼は、戦士 の守護神である故に戦場に出ることもあるというラ・ザイン神官は、一般に思われているより癒しの技に長けているという事実を知る。この程度の町の小さな神殿にいる神官でも、癒しの手を持っているのだ。
「有難う、神官殿 」
「御礼はまだですよ、セル。次はあなたの番です」
感謝の印を切ろうとするシーヴを遮って、初老の神官は言った。
「いくら天気がいいと言っても、真冬の野原で昼寝は感心できません。ほら、恋人の心配もいいですが、あなただって酷いものだ。彼女が無事だと判って安心したいま、あと一分 も経たずに倒れますね。その前に手をお出しなさい」
昼寝もしなければ恋人でもないのだが、そんなことを言っても仕方がない。シーヴは素直に言われた通りにした。両掌を優しく掴まれ、何やら知らぬ祈祷の言葉を耳と身体に受け入れると、冷気に強張っていた筋肉がほぐれていく。心臓も血管も、ゆっくりと本来の動きを取り戻していった。
「たいへん、素直でけっこうです。神術の受け入れ方をご存知ですね。こちらも助かります。下手に抵抗をされると面倒で仕様がない」
ラ・ザインの神官は他の七大神殿と比べてぱきぱきと物を言う傾向があるが、この神官 はそれに輪をかけている。シーヴは苦笑し、改めて礼を言った。
「娘さんは一晩預かりましょう。温かくしていれば、若いのですから明日には回復します。あなたは好きにして構いませんが、一緒にいたいでしょうね?」
「ラ・ザインがお許しになれば」
シーヴは素早く返した。こう言うときに咄嗟に出てくるのは王族流の飾り立てた礼儀より、砂漠の民の簡素な言葉だったが、神官は満足したようだ。
「礼儀も心得ていますね、いいでしょう。そこの長椅子をお使いなさい。言っておきますが、彼女が目を覚ましても今宵はおかしな真似をしてはなりませんよ」
いくら若いからと言って、という神官にまたも苦笑をさせられたシーヴは、湖で経験した神秘的な出来事が幻のように感じられた。
ここが聖域であるにも関わらずそんなふうに思えるのは、あれがあまりにも彼の常識を超越した出来事だったせいか、それともこの神官 の口調のせいだったのかも、しれないが。
暖炉の備え付けてあるその部屋は、久しぶりに寒さに震えぬ夜を青年に提供した。
しかし、決して幻ではなかったかの宮殿での出来事とエイラへの心配はその眠りを浅くし、薪のはぜる音でもはっと目が開く。身体は、神秘と寒さと受けた神術と、思い出せば昨夜もろくに寝ていなかったことなどのためにすっかり疲れ切っているはずだが、青年はどうにも寝付かれず、自棄気味に長椅子から身を起こした。
「――シーヴ」
その気配を感じ取ったのか、簡素な寝台から小さな声がする。
「エイラ」
ふらつきかける足元に思わず呪いの言葉を吐き、神域であることを思い出して神への謝罪の仕草をしながら、シーヴはエイラのもとへと歩み寄った。
「どうだ」
不安を声ににじませぬようにしながら、言葉をかける。
「もう、寒くはないだろう?」
「……ああ」
エイラはつらそうに目を開けた。その目の色は――いままでと同じように、明るい茶色だ。
「何が……あった?……俺、よく覚えて……ないんだけど」
「おいおい」
シーヴは笑った。エイラが使った「少年」の一人称には気づかなかったか、或いは、気にしなかった。
「全て判ったんだそうだぞ、でもいまはいい、休め。明日になって元気になってたらそれ、からいろいろ、聞かせてもらうさ」
「何……俺の方こそ……聞きたいよ――」
ほとんど囁きのような声でそう言うと、また瞳が閉じられる。すうっとエイラは再び眠りの世界へと落ちていき、シーヴは何となくその布団をかけ直してやると彼の寝台である長椅子へと戻った。
「よく覚えてない、か」
彼も忘れてしまえたらいい、とふと思った。
砂漠を離れた遠いこの地、彼の力では変えられぬ運命の流れ、緑色の瞳をした超然とした姿。
そして何よりも、リ・ガンは人ではない――などということを。
だが、そんな動作がほんの少しでも役に立ったとは感じられない。空気は冷え行き、このままこうしていれば起きようという気持ちもいずれなくなって、意識を失えば死ぬだけの話だ。
そうと気づいてばっと身を起こした。彼は瞬時に、自分の身に起きようとしていたことが判ったのだ。
寒さで縮まっていた心臓が突然の動きに抗議するかのように、大きな音を立て始める。同時にくらりとした。細々と身体中に血を送っていた血管が、やはり突然の動作に不満を申し立てたのだろう。
「――エイラ!」
シーヴは彼の脇に同じように倒れ込んでいる彼女を抱え起こした。
「起きろ!」
彼のものに比べればずっと白い肌は、しかし尋常でないほどに白くなっている。シーヴの冷え切った指で触れても、まだ冷たい。
「起きろ!」
シーヴは繰り返し、彼女の頬を軽く叩いた。だが〈翡翠の娘〉が目を覚ます気配はなく、シーヴはますます自身の動悸が激しくなるのを覚える。
「おい! 全てが判ったんだろう、こんなところで凍死したら馬鹿だぞっ」
そう叫ぶとエイラを抱え上げ、寒さに耐えている馬のもとへと走った。エイラを傍らに下ろすと、くくりつけた荷から急いでキイリア酒の小瓶を出す。震える手で――寒さのためか、動悸のためかは判然としなかった――蓋を開けて娘の口につけるが、こぼれるままだ。シーヴは逡巡せずそれを自身の口に含むと、口移しでエイラに強い酒を与えた。そうすれば娘は軽くむせ、うっすらと目を開けた。
「――シーヴ」
エイラは掠れる声で青年を呼んだ。彼女にとっては幸いなことに、またも男に口づけられたと言うことには気づいていない。
「……寒い」
「俺もだ」
そう返すとシーヴはエイラを強く抱き締め、今度は自身が酒を飲んだ。冷え切って、なおかつ乾いた身体には、砂漠で
(夜明けだと思ったのに――何てこった)
暗い世界を見やり、天を見やって呆然とした。星は、夕刻過ぎを示している。
いったいどれだけをかの白き宮殿で過ごし、どれだけこの湖の畔に倒れていたものか判らない。だがそれを教えてくれる者などいないし、いまはそんなことを知りたい訳でもなかった。冷たい空気は外からも中からも心臓を刺激して、胸をむかむかとさせた。
それを振り払うようにシーヴは再びエイラを抱き上げると馬に乗せ、〈砂漠の民〉の急ぎごともかくやとばかりにバイアーサラの町へ、一気に駆け戻ったのだ。
「……もう大丈夫でしょう」
戦いの神ラ・ザインに癒し手を求める信者は少ないが、バイアーサラにある神殿のうちでいちばんリダエ湖に近かったのがその
シーヴは自身の防寒着まで着せたエイラを抱えてそこに飛び込み、助けを求めた。そこで彼は、
「有難う、
「御礼はまだですよ、セル。次はあなたの番です」
感謝の印を切ろうとするシーヴを遮って、初老の神官は言った。
「いくら天気がいいと言っても、真冬の野原で昼寝は感心できません。ほら、恋人の心配もいいですが、あなただって酷いものだ。彼女が無事だと判って安心したいま、あと一
昼寝もしなければ恋人でもないのだが、そんなことを言っても仕方がない。シーヴは素直に言われた通りにした。両掌を優しく掴まれ、何やら知らぬ祈祷の言葉を耳と身体に受け入れると、冷気に強張っていた筋肉がほぐれていく。心臓も血管も、ゆっくりと本来の動きを取り戻していった。
「たいへん、素直でけっこうです。神術の受け入れ方をご存知ですね。こちらも助かります。下手に抵抗をされると面倒で仕様がない」
ラ・ザインの神官は他の七大神殿と比べてぱきぱきと物を言う傾向があるが、この
「娘さんは一晩預かりましょう。温かくしていれば、若いのですから明日には回復します。あなたは好きにして構いませんが、一緒にいたいでしょうね?」
「ラ・ザインがお許しになれば」
シーヴは素早く返した。こう言うときに咄嗟に出てくるのは王族流の飾り立てた礼儀より、砂漠の民の簡素な言葉だったが、神官は満足したようだ。
「礼儀も心得ていますね、いいでしょう。そこの長椅子をお使いなさい。言っておきますが、彼女が目を覚ましても今宵はおかしな真似をしてはなりませんよ」
いくら若いからと言って、という神官にまたも苦笑をさせられたシーヴは、湖で経験した神秘的な出来事が幻のように感じられた。
ここが聖域であるにも関わらずそんなふうに思えるのは、あれがあまりにも彼の常識を超越した出来事だったせいか、それともこの
暖炉の備え付けてあるその部屋は、久しぶりに寒さに震えぬ夜を青年に提供した。
しかし、決して幻ではなかったかの宮殿での出来事とエイラへの心配はその眠りを浅くし、薪のはぜる音でもはっと目が開く。身体は、神秘と寒さと受けた神術と、思い出せば昨夜もろくに寝ていなかったことなどのためにすっかり疲れ切っているはずだが、青年はどうにも寝付かれず、自棄気味に長椅子から身を起こした。
「――シーヴ」
その気配を感じ取ったのか、簡素な寝台から小さな声がする。
「エイラ」
ふらつきかける足元に思わず呪いの言葉を吐き、神域であることを思い出して神への謝罪の仕草をしながら、シーヴはエイラのもとへと歩み寄った。
「どうだ」
不安を声ににじませぬようにしながら、言葉をかける。
「もう、寒くはないだろう?」
「……ああ」
エイラはつらそうに目を開けた。その目の色は――いままでと同じように、明るい茶色だ。
「何が……あった?……俺、よく覚えて……ないんだけど」
「おいおい」
シーヴは笑った。エイラが使った「少年」の一人称には気づかなかったか、或いは、気にしなかった。
「全て判ったんだそうだぞ、でもいまはいい、休め。明日になって元気になってたらそれ、からいろいろ、聞かせてもらうさ」
「何……俺の方こそ……聞きたいよ――」
ほとんど囁きのような声でそう言うと、また瞳が閉じられる。すうっとエイラは再び眠りの世界へと落ちていき、シーヴは何となくその布団をかけ直してやると彼の寝台である長椅子へと戻った。
「よく覚えてない、か」
彼も忘れてしまえたらいい、とふと思った。
砂漠を離れた遠いこの地、彼の力では変えられぬ運命の流れ、緑色の瞳をした超然とした姿。
そして何よりも、リ・ガンは人ではない――などということを。