03 それを愚者と言う
文字数 3,401文字
心臓を直接に掴まれたって、これほどの痛みはないのではないかと思った。
と言っても、この瞬間にはそんなことを考える余裕など、無論ない。
ただ、息の全てを吐き出し、斜めに倒れ込むようにして赤茶く塗り込まれた重厚な卓に小さな頭を打ち付けるところだったのを――シーヴに救われたのみである。
「どうした、エイラ!?」
娘の蒼白な顔にただならぬことが起きたと悟りながら、青年は彼女を抱くように支えた。エイラはそれに抗議する余裕がなく、息を荒くしてシーヴの腕にすがりつくことになる。
「シー……」
声を出そうとして、それがかすれていることに気づいた。頭を振って意味のない努力を放棄する。彼女の身に起きたことを説明しても何にもならない。
「お前は――ここにいろ!」
そう叫ぶとエイラはシーヴの手を振り払うようにした。
「待て!」
それを逃す一歩手前で、砂漠の王子は彼女を捕まえ直すことに成功する。
「お前が行くのならば俺もだ」
何があっただの、どこへ行くだの、そう言った段階を思い切りよく省いてシーヴは言った。エイラの瞳にわずかに逡巡が浮かび、彼女はシーヴの腕を取りかけて――泣きそうにすら見える複雑な表情をすると、再び青年の腕を払った。
「エイ」
シーヴがその呼びかけを終える前に、エイラは彼を客間にひとり残して――「消えた」。
「クソッ」
魔力を持たぬ王子は口汚く罵った。その相手はエイラであったか自分であったか、それとも運命という類のものか。
しかしいつまでもそのような恨み言を言っていても埒が明かぬことは百も承知である。
彼は自身の装備を確認し直すと、彼に唯一できる生産的なことを開始した。即ち、戸に向かった。
エイラは何処へ行った?
彼女がああして強烈な反応をするのなら、それは翡翠に関わることに決まっている。
アーレイドの翡翠か、カーディルのものか、それともそれらの〈守護者〉のどちらかいずれに関わるにせよ。
カーディルの方であれば、彼にはどうしようもない。では、いまはファドック・ソレスのもとだ。こちらの〈守護者〉も何かを感じ取りはしなかったか、それとも――彼に何かあったのではないかと確かめるべきだ。
一瞬 で心が決まれば、動くのもまた一瞬 だった。
だがそれだけ早くとも、間に合わぬこともある。見張られていれば。
回そうとした取っ手が錠によって閉ざされているのならともかく、まるで空 を掴んでいるように回すことができない、と言うのはいささか奇妙な感覚だった。
「あちらはあちらに任せておけ。お前は、黙って大人しく待っているように言われたのだろう――殿下 」
「よくもまあ」
それにいちいち驚いてやるのも癪に障るので、シーヴは呆れたような声を出してみせた。
「あちらへこちらへ、俺を追ってくるもんだな。しつこい男だ。惚れられるのはミオノールだけで充分だがね」
スケイズは陰気な瞳で見るだけで、青年の言葉に面白がる様子もない。
「今日の用件は何だ」
シーヴが言うと、黒いローブからのっそりと骨張った手が伸びた。
「それ をお返しいただこう」
魔術師 はそう言った。シーヴは片眉を上げる。
「俺はお前から借りてるもんなぞ、ないが」
「力ずくでも、私はかまわん。どちらであろうと、結果は同じだ。だが穏便に済むのならその方が、お前の右手にはよかろうな」
「はっ」
シーヴは笑うと、スケイズに魔術で二度ひねり上げられたその腕をひらひらと振ってみせた。
「脅しにはもう飽き飽きしたぞ、魔術師」
「そうか」
スケイズは言った。
「それならば、もう少し趣向を凝らしてやろうか」
「何だか知らんが、遠慮しておく」
シーヴは笑ったままで言った。
「あちらからもこちらからも、馬鹿だと罵られるのに閉口してきたんでね」
「少しは学ぶか」
スケイズは相変わらず感情の出ない声と目で言った。
「では、渡せ」
「渡さんよ」
シーヴは肩をすくめる。
「やはり、何も学んでおらんな」
「何の」
青年は気軽く言った。
「売られた喧嘩を買わないように学んでいるところだが、自分から売るのはどうにも性分だ」
「私がお前を殺さぬとでも思っているのか?」
言葉を濁すことのなかった問いは一瞬 シーヴを怯ませた。
「お前たちが」
しかしそんな様子など見せてやるかとばかりに青年は続ける。学んだことはどうやら活かされていないな、という思いが頭をかすめた。
「翡翠 を操りたいと言うなら、俺を殺すのは得策じゃなかろうな」
「そうかもしれぬ。だがそれはつまり、翡翠などからラインの興味が外れれば、いつでもお前を殺してよいということになる」
「よく言うもんだ」
シーヴは掌がじっとりと嫌な汗をかくのを感じながら、だが意地で続けていく。
「興味を失ったのなら、そのまま放っておけばよいだろう。わざわざ俺にかまいにくると言うことは、そちらの王子様はまだまだ翡翠にご執心と言うことだ」
「その通り 」
スケイズは短く言った。
「判っているのならば、それを渡せ」
「アスレンには言ったが、お前にも言おうか?」
シーヴは肩をすくめた。
「翡翠はリ・ガンに属する。それが〈鍵〉の意志だ。俺をたぶらかそうとしても無駄と知れ、ダイア」
「成程」
スケイズはその言葉に心を動かされたふうもなく言った。
「魔術は知らずとも理を多少は覚えたか。だがやはり愚かなことに変わりはない。決心などは簡単に翻り、口にした言葉をすぐに否定するようになる。人間と言うのはそうしたものだ」
「知ったような口を利くのだな」
砂漠の王子は言った。
「決心を翻しそうになっても踏みとどまり、口にした言葉を否定したくなっても堪える、そういうこともあるとは判らないのか?」
「判るとも」
スケイズは両手を拡げた。
「それを愚者と言う」
何度も言わせるな、とレンの王子の側近は言った。
「言わずとも知っておろう。殺さずとも痛めつける方法はある。お前をでも、他者をでもよい」
「もうひとつ、アスレンには言っていないこともある」
スケイズの脅しなど聞こえなかったように、シーヴはにやりとして言った。
「ふたりの〈守護者〉にひとりの〈鍵〉。翡翠も同じだ。ふたつの大きな玉に、ひとつの小さな玉。前者は力を持ち、動かず、後者はその逆。判るか、ダイア。エイラが俺に託したそれは――リ・ガンに属すると同時に、俺に属するんだ」
スケイズの目にゆっくりと理解が浮かんだ。
「成程」
男はまた言った。
「それ故、三つ目は常にお前の元に行こうとしていたと言うことか。ならば」
ほんの微かに、その口元が上がった。
「お前とともに三つ目を押さえておけば最上と言うことではないか」
「そう、きたか」
シーヴはこともなげに言った。
「少し嬉しいよ、お前に向かってこう言えるとは思わなかった」
彼は黒髪をかき上げて言った。
「お前は、愚か者だな」
「――何」
スケイズの目が細められた。
「そうだろう。彼女が俺にこの玉を渡した意味を知らぬ」
「意味だと」
「何でも、たいそう『歪めて』くれたらしいじゃないか。エイラはそれを戻すのに苦労したぞ」
「確かに、きれいに拭われているようだ」
それがスケイズの感想だった。
「玉 へのラーミフ様の御術も……お前への我が術も」
「よく見える もんだな」
一方でシーヴの感想はこうである。
「人のもんだと思って好き勝手に汚 すんじゃない。それとも、まさか自分のものだとでも思っているか?」
「私の?」
スケイズは、下らぬことを聞いたとでも言うように繰り返した。
「私はそのようなものは望まぬ。力を望まれるはライン。玉を望まれるは王女」
「ほう?」
シーヴは目をすくめた。
「困った兄妹のようだな? お前も大変だろう」
「私は、彼らの下僕。ラインのお望みは我が望みとなる」
エイラがこれを聞けば複雑なものを覚えたかもしれない。その言葉は、シュアラ王女に対するファドック・ソレスのものと、同じであった。そこに何の温かみもなく、間にあるのが魔力と恐怖だったとしても、その言葉は――同じであった。
と言っても、この瞬間にはそんなことを考える余裕など、無論ない。
ただ、息の全てを吐き出し、斜めに倒れ込むようにして赤茶く塗り込まれた重厚な卓に小さな頭を打ち付けるところだったのを――シーヴに救われたのみである。
「どうした、エイラ!?」
娘の蒼白な顔にただならぬことが起きたと悟りながら、青年は彼女を抱くように支えた。エイラはそれに抗議する余裕がなく、息を荒くしてシーヴの腕にすがりつくことになる。
「シー……」
声を出そうとして、それがかすれていることに気づいた。頭を振って意味のない努力を放棄する。彼女の身に起きたことを説明しても何にもならない。
「お前は――ここにいろ!」
そう叫ぶとエイラはシーヴの手を振り払うようにした。
「待て!」
それを逃す一歩手前で、砂漠の王子は彼女を捕まえ直すことに成功する。
「お前が行くのならば俺もだ」
何があっただの、どこへ行くだの、そう言った段階を思い切りよく省いてシーヴは言った。エイラの瞳にわずかに逡巡が浮かび、彼女はシーヴの腕を取りかけて――泣きそうにすら見える複雑な表情をすると、再び青年の腕を払った。
「エイ」
シーヴがその呼びかけを終える前に、エイラは彼を客間にひとり残して――「消えた」。
「クソッ」
魔力を持たぬ王子は口汚く罵った。その相手はエイラであったか自分であったか、それとも運命という類のものか。
しかしいつまでもそのような恨み言を言っていても埒が明かぬことは百も承知である。
彼は自身の装備を確認し直すと、彼に唯一できる生産的なことを開始した。即ち、戸に向かった。
エイラは何処へ行った?
彼女がああして強烈な反応をするのなら、それは翡翠に関わることに決まっている。
アーレイドの翡翠か、カーディルのものか、それともそれらの〈守護者〉のどちらかいずれに関わるにせよ。
カーディルの方であれば、彼にはどうしようもない。では、いまはファドック・ソレスのもとだ。こちらの〈守護者〉も何かを感じ取りはしなかったか、それとも――彼に何かあったのではないかと確かめるべきだ。
一
だがそれだけ早くとも、間に合わぬこともある。見張られていれば。
回そうとした取っ手が錠によって閉ざされているのならともかく、まるで
「あちらはあちらに任せておけ。お前は、黙って大人しく待っているように言われたのだろう――
「よくもまあ」
それにいちいち驚いてやるのも癪に障るので、シーヴは呆れたような声を出してみせた。
「あちらへこちらへ、俺を追ってくるもんだな。しつこい男だ。惚れられるのはミオノールだけで充分だがね」
スケイズは陰気な瞳で見るだけで、青年の言葉に面白がる様子もない。
「今日の用件は何だ」
シーヴが言うと、黒いローブからのっそりと骨張った手が伸びた。
「
「俺はお前から借りてるもんなぞ、ないが」
「力ずくでも、私はかまわん。どちらであろうと、結果は同じだ。だが穏便に済むのならその方が、お前の右手にはよかろうな」
「はっ」
シーヴは笑うと、スケイズに魔術で二度ひねり上げられたその腕をひらひらと振ってみせた。
「脅しにはもう飽き飽きしたぞ、魔術師」
「そうか」
スケイズは言った。
「それならば、もう少し趣向を凝らしてやろうか」
「何だか知らんが、遠慮しておく」
シーヴは笑ったままで言った。
「あちらからもこちらからも、馬鹿だと罵られるのに閉口してきたんでね」
「少しは学ぶか」
スケイズは相変わらず感情の出ない声と目で言った。
「では、渡せ」
「渡さんよ」
シーヴは肩をすくめる。
「やはり、何も学んでおらんな」
「何の」
青年は気軽く言った。
「売られた喧嘩を買わないように学んでいるところだが、自分から売るのはどうにも性分だ」
「私がお前を殺さぬとでも思っているのか?」
言葉を濁すことのなかった問いは一
「お前たちが」
しかしそんな様子など見せてやるかとばかりに青年は続ける。学んだことはどうやら活かされていないな、という思いが頭をかすめた。
「
「そうかもしれぬ。だがそれはつまり、翡翠などからラインの興味が外れれば、いつでもお前を殺してよいということになる」
「よく言うもんだ」
シーヴは掌がじっとりと嫌な汗をかくのを感じながら、だが意地で続けていく。
「興味を失ったのなら、そのまま放っておけばよいだろう。わざわざ俺にかまいにくると言うことは、そちらの王子様はまだまだ翡翠にご執心と言うことだ」
「
スケイズは短く言った。
「判っているのならば、それを渡せ」
「アスレンには言ったが、お前にも言おうか?」
シーヴは肩をすくめた。
「翡翠はリ・ガンに属する。それが〈鍵〉の意志だ。俺をたぶらかそうとしても無駄と知れ、ダイア」
「成程」
スケイズはその言葉に心を動かされたふうもなく言った。
「魔術は知らずとも理を多少は覚えたか。だがやはり愚かなことに変わりはない。決心などは簡単に翻り、口にした言葉をすぐに否定するようになる。人間と言うのはそうしたものだ」
「知ったような口を利くのだな」
砂漠の王子は言った。
「決心を翻しそうになっても踏みとどまり、口にした言葉を否定したくなっても堪える、そういうこともあるとは判らないのか?」
「判るとも」
スケイズは両手を拡げた。
「それを愚者と言う」
何度も言わせるな、とレンの王子の側近は言った。
「言わずとも知っておろう。殺さずとも痛めつける方法はある。お前をでも、他者をでもよい」
「もうひとつ、アスレンには言っていないこともある」
スケイズの脅しなど聞こえなかったように、シーヴはにやりとして言った。
「ふたりの〈守護者〉にひとりの〈鍵〉。翡翠も同じだ。ふたつの大きな玉に、ひとつの小さな玉。前者は力を持ち、動かず、後者はその逆。判るか、ダイア。エイラが俺に託したそれは――リ・ガンに属すると同時に、俺に属するんだ」
スケイズの目にゆっくりと理解が浮かんだ。
「成程」
男はまた言った。
「それ故、三つ目は常にお前の元に行こうとしていたと言うことか。ならば」
ほんの微かに、その口元が上がった。
「お前とともに三つ目を押さえておけば最上と言うことではないか」
「そう、きたか」
シーヴはこともなげに言った。
「少し嬉しいよ、お前に向かってこう言えるとは思わなかった」
彼は黒髪をかき上げて言った。
「お前は、愚か者だな」
「――何」
スケイズの目が細められた。
「そうだろう。彼女が俺にこの玉を渡した意味を知らぬ」
「意味だと」
「何でも、たいそう『歪めて』くれたらしいじゃないか。エイラはそれを戻すのに苦労したぞ」
「確かに、きれいに拭われているようだ」
それがスケイズの感想だった。
「
「よく
一方でシーヴの感想はこうである。
「人のもんだと思って好き勝手に
「私の?」
スケイズは、下らぬことを聞いたとでも言うように繰り返した。
「私はそのようなものは望まぬ。力を望まれるはライン。玉を望まれるは王女」
「ほう?」
シーヴは目をすくめた。
「困った兄妹のようだな? お前も大変だろう」
「私は、彼らの下僕。ラインのお望みは我が望みとなる」
エイラがこれを聞けば複雑なものを覚えたかもしれない。その言葉は、シュアラ王女に対するファドック・ソレスのものと、同じであった。そこに何の温かみもなく、間にあるのが魔力と恐怖だったとしても、その言葉は――同じであった。