06 覚えていてね
文字数 4,174文字
いや、ほかの客にしてみればそこはいつもと変わり得ぬ静かな食事処で、その衝撃を知ったのは隅の卓につく三人だけということになった。
「……どういう、ことだ」
たっぷり三十
「お前の、仕業か」
「……判りません」
クラーナの返答はそれだった。
「確かに――僕は閣下を守ろうとした。……不満そうな顔をしないでくださいよ。逆なら、あなただってそうしたでしょう。お互い、自分にそんな力はないと思っていてもね」
「だが」
ゼレットは痺れの残る右腕をさすりながら言った。
「お前にはその力があったのだろう」
「判りません」
クラーナはまた言った。
「僕は、僕に写されたオルエンの力を全て把握しているとは言えない。こうして、六十年が経っても、未だに。でも」
吟遊詩人は両の手を握った。
「僕がやったのでは、ないように思う」
「では」
ゼレットはじっとクラーナを見た。
「――オルエンか」
「まさか、と言うべきか、有り得ます、と言うべきか……これも判りませんね」
「いまのは、あれか、その……何と言ったか」
「〈呪返し〉」
クラーナは呟くように言った。
「それ、なのかな……オルエンが放った術を『フェルン』とか言うあの魔術師が返したって言う……」
「そのまま、返すのか」
「何ですって?」
意味が判らないと言うように、クラーナはゼレットを見た。伯爵は肩をすくめる。
「相手の術を同じように返すのか。俺はその辺りのことはよく判らんのだが」
「たいていは、もともとの術より弱く返るようです。そもそも成功率のとても低い術で、失敗すればただ直撃を食らうだけですから、それを試すよりは魔力の盾のようなものを張るのが普通らしいですけれど……成功すれば、上位の術師であればあるほど、完璧に返すと聞きますね」
「ふむ」
ゼレットは立ち上がると、卓の向こうに回った。
そこには、卓に突っ伏したままぴくりとも動かないサズの姿があった。
おそらくレンの王甥は、今度こそ本当にゼレットを殺す気でいた。クラーナについては判らない。話させることがあると考え、レンへの拉致でも目論んでいたかもしれない。
だがそれは成されなかった。
サズの魔力は、その強力なる攻撃術は、彼自身を撃ったのだ。
「――死んだか」
「どうでしょう」
判らないと言うクラーナを横目に、伯爵はそっと動かない身体に触れた。それでも魔術師が跳ね起きないことを確認すると、その白い首筋に手を当てる。しばらくじっと黙って、息をついた。
「ふむ」
彼はぐったりとした魔術師の身体を起こすと、椅子に座るような形を取らせた。
「こうなっておれば、なかなかに可愛らしいのにな。ふむ。惜しいことだ」
「……どうするんです」
クラーナは言った。
「彼の魔力の場はまだ残っていますけれど、僕たちもすぐに、普段の酒場に戻りますよ」
「そうか」
ゼレットは口髭を撫でた。
「不要な騒ぎを起こしても仕方がないな。あまり気に入らんが」
言いながら彼はサズの脇に腕を差し込んだ。
「その、場とやらが残っている内に、こやつを
「……それで」
白髪の男は嘆息をした。
「どうして、私のところに
「どうせ寝台は余っておるのだろう」
ゼレットは平然と言った。
「うちは診療所であって、遺体安置所じゃないんですがね、閣下」
「何を言う。まだ息があるだろうが」
サズの脈はごく弱いながらも打っていたし、術者が生きているから「場」も残っていた。もしサズが即死していれば縛られた魔術の場は解けて、いささか面倒なことになっただろう。如何にこの町の領主たる伯爵であっても、酒場で死人を出したことについて全く釈明をしない訳にはいかない。
「手の施しようがあるもんですか。すぐに遺体の仲間入りです」
もっとも、カーディル家付きの
「それで、誰なんですか、この美人は。ああ、けっこうです。あなたが美人を抱きかかえていて、誰ですかもないもんだ」
「その結論でかまわんよ」
ゼレットは肩をすくめた。
「それでそっちの、正常に呼吸している方の美人は?」
「……僕のこと?」
「美人」呼ばわりされたクラーナは面白そうに答えた。
「クラーナ。見ての通り、吟遊詩人。念のために言っておくけれど、この困った閣下の愛人じゃないからね」
「そりゃあんたのためにいいことだ。私はグウェス・ムート。この困った一家の医師を代々任されて、困っている」
どちらにも貶められた形になったゼレットは天を仰いだ。
「手の施しようがないと言ったか?」
「そうですね、こう言うのは俗に、瀕死、と言います」
高尚に言えばどうなのだろう、とクラーナは思ったが口は挟まなかった。
「外傷はないし、病に苦しんでいるようにも見えない健康な肌だ。この坊やがこんな状態になる何をしたんですか、あなたは」
「おかしな想像をしていないか、グウェス」
「あなたに関しちゃ、何もおかしくない想像ですがね」
「馬鹿を言うな。こやつは俺が何をしたところで一度も惑うことなくついてきたぞ。詳細に聞きたいか」
「いずれ酒のつまみにでも、お願いしましょう」
「それは」
クラーナは片手を上げて言った。
「『瀕死』の怪我人だか病人だかを前にしてする話なのかな?」
「どんな話をしたって、彼が息を引き取る原因にも、奇跡的に回復する原因にもならないよ、
「……なかなかいいお医者様なんだね」
「身内でもいるんだったら、神妙な顔をするとも。だが君らは彼を救いたくて私のところに運び込んだという様子じゃない。瀕死と言っても顔色ひとつ変えないだろう。だから本当を言えば、この坊やが閣下の愛人だとも思ってない」
医師はあっさりとしたものだった。
「
「ほう。思っていたより情が薄いんですな、閣下」
「何の。知っておるのはその身体だけで」
「その辺にしといたらどうですか」
ぴしゃりとクラーナが言うと、ふたりの四十男は咳払いなどした。
「伺っておきましょうか、閣下。あなたはこの『元愛人』殿をどうしたいので?」
「どう、とは?」
ゼレットは首をかしげた。
「生かしたいのか、殺したいのか。どちらも私にはできませんけれど」
「それを聞いてどうする」
「どうもしませんよ。ただの興味です」
「ふむ」
ゼレットはじっとサズを見た。
「正直に言えば、死んでいてくれればよかったと思う。あまり生き延びてほしいとも思わん。だが、この状態にとどめを刺そうという気には……なれんようだ」
うなるように伯爵は言った。
情がある、と言うのではないし、命を奪うことに抵抗があると言うのでもない。〈守護者〉として、と言うより、エイル少年を守ることを考えるなら、「これ」は取り除くべき危険な障害だ。
(これが死んだところで、次が送られてくるだけやもしれんが)
(それを防ぐためには、ごまかしの延命でもした方がよいのか)
「何やら複雑なものがおありのようですね」
翡翠やレンとの事情など何も知らぬグウェスは、冷たいことを言っても結局は情が残っているのだとでも思ったか、そんなことを言った。
「それなら最上の状態でしょう。放っておけば、死にます」
肩をすくめて医師は、医療の神ティリクールの印を切った。
「可哀想な、サズ」
そのとき、鈴を転がすようなきれいな声がした。三人の男ははっとなる。
「私の可愛い人。死んでしまったら、少し寂しいわ」
輝くような銀の髪をした娘が、確かに先程まで誰もいなかったサズの隣に――立っていた。
「――何者だ」
誰何しようとするグウェスを抑え、ゼレットは低い声で言った。
「ふうん」
娘はサズの顔から視線を外して、問うたゼレットを見た。
「あなたが、サズの恋人ね」
「もしや私は、お嬢さんの恋敵かな?」
ゼレットは両掌を上に向けて首をかしげた。娘はそれには答えず、すっとゼレットの方に歩を進める。
「……思ったより、年上ね。でも思っていたよりもすてきだわ」
「それには礼を言った方が、よいのかな」
「――閣下」
クラーナが警戒するように声を出した。判っているというようにゼレットは小さくうなずく。
「ゼレット・カーディル」
娘は何が楽しいのかくすくすと笑うと、伯爵の前までたどり着いた。ゼレットは身動きせぬまま、それを見ている。
「いつか」
美しい手指で娘はゼレットの胸を撫でるようにした。
「私にも、サズに教えたことを教えて頂戴」
「……それは、また積極的なお誘いもあったものだ」
触れられた瞬時に全身を駆け抜けた甘い欲望を無視して、ゼレットは淡々と言った。
「サズは返してもらうわ」
娘はそう言うとゼレットに背を向ける。
「生き延びれば、運がよいと言うこと。――サズにも、あなたにも」
「何」
ゼレットは眉をひそめた。
「そう」
娘は極上の笑みを浮かべて、振り向いた。
「サズが死ねば、私が仇を取りにくるわ。覚えていてね、ゼレット」
ゼレットは冷たいものを覚え、きゅっと目を細める。――その次の瞬間には、娘の姿もサズの身体も、その診療所からは消えていた。
「……魔術、ですか」
しばらくの沈黙ののち、浮かんだ冷や汗を拭うようにしながらグウェスが呟いた。
「厄介なものに関わられましたね、閣下」
「仕方ない」
ゼレットは娘の消えた場所に目を留めたまま、言った。
「これが、俺の定めのようだからな」
「閣下」
クラーナもまた、呟くような声で言う。
「いまのは……彼女はサズよりも、危ないですよ。どうか……」
気をつけて、などという台詞には何の意味もないような気がして、クラーナは首を振った。
南にも暖かい夏の空気が、その部屋では急に冷え込んできたかのようだった。