4 珍しい言葉なんかじゃない

文字数 2,711文字

 即興と言うだけあって、それは壮大な叙事詩にはほど遠かった。
 翡翠の宮殿を訪れた男が、そこに住む美しき姫君に心を奪われ、その麗しさを称えるという、何とも至極普通の恋歌だ。
 だが吟遊詩人の美声と織りなす旋律は、宮廷音楽家たちの巧みな演奏に慣れた王や王女、貴族たちの耳をも満足させた。称賛を受けた青年はまたも優雅に礼をするが、今度はエイルはそれに感心している余裕など──ない。
 広間は、彼の前から消えた。歌だけが彼のなかに蘇る。まるで、頭のなかで鐘でも鳴らされているかのような、大きな響きで。

朝を越え 夜を越え
訪れたのは その館
夢に見た 見続けた
求め続けた その宮殿

まばゆいばかりの 翡翠壁
出会いしは その乙女
碧き(ぎょく) 従えし
出会いしは その女神

翡翠の宮殿 夢に見た
忘れえぬ姫の その姿
声も言葉もその髪も
刻印の如く 焼きついた

碧き玉呼ぶ かの館
大地を抱く きらめきよ
身は宮殿を離れても
夢は宮殿を離れない

その全て 翡翠の姫のもの

 ヴィエル・エクス。
 翡翠の宮殿。
 男は確かにそう言い、何度もそう歌った。
 その度にエイルの心臓は跳ね上がり、目は見開かれ、手に汗までかいた。
 だがここで大声を上げることも、それはいったい何なのだと問いつめることも、できなかった。
 仕事や状況を鑑みての判断ではない。
 できなかった。
 ただ、立ちつくすことしか、できなかったのだ。
(翡翠の)
(宮殿)
 エイルは、頭のなかが真っ白になったような、気がしていた。
 いちばん年上の――といっても彼より二つ三つばかり上である程度だが――仕事仲間に脇腹をつつかれてようやく、ぼうっとしていた自分に気づく。
(いまの、歌)
 歌、それ自体はさほど重要ではない。端々に気になる――どきりとするような言い回しはあったけれど、それもまた彼に衝撃をもたらすほどのものではなかった。幾たびか繰り返されたそれを除けば。
(ひすいの)
(宮殿)
 エイルは目立ちすぎぬ程度に頭をふると、どうにかこの思いを忘れようと、振り払おうとした。
(ただの歌だ。ただの……偶然だ)
 それに気を取られて失敗でもすれば、シュアラがどう思うだろう?
 エイルは、ともすればくらくら(・・・・)しそうな頭を心のなかで怒鳴りつけ、何度も深呼吸をした。
 偶然だ。偶然なのだ。懸命に自身に言い聞かせ、器の中身を補充しに行くふりをして部屋から下がる。
(偶然だ。「翡翠」も「宮殿」も、珍しい言葉なんかじゃない)
(そうさ、俺だってちょっと驚いた、だけだ)
「どうした、大丈夫か」
 通路の壁により掛かって息を整えていると、突如、背後から声がかけられる。
「う」
 エイル少年は絶叫しそうになって、慌てて自らの口を両手で押えた。
「お、おどかさないでくださいよ、ファドック様」
 無論、この動悸は突然言葉をかけられて驚いたためだけでは、ない。ファドックの存在自体が、彼の血圧を上げる。
「い、いいんですか、持ち場を離れて」
「お前が顔を青くしてこちらに引っ込むからだ」
 ファドックは肩をすくめる。
 護衛騎士の服装はいつもの簡略化された制服と異なり、準正装に近かった。エイルの母アニーナが見れば「男前があがる」ということになるだろうし、レイジュならば息を呑んで仕事になるまい。幸いにしてエイルの動悸はそう言う方向からは起因していないが、「翡翠の宮殿」の言葉に動じている上に更に新たな動揺がやってくることは避けられなかった。
「姫様がご心配なさっている」
「また、また」
 エイルは弱々しい顔で笑った。少しふらついて、ファドックに支えられそうになるのを――必死で避けた。
「エイル?」
「ほら、その、殿下が俺の心配するなんて、俺は思わないですよ」
 その動作は不自然だっただろう。だがファドックに問われる前にとばかりに、エイルは茶化すように言った。
「具合が悪いのなら、無理をしないで休め。そんな状態で洗いものでもすれば、皿を割るだけだぞ」
「大丈夫です、何も悪いとこなんか」
 エイルはしゃんと身を伸ばしてみせる。ファドックはそれをじろりと眺め、少年の真一文字に結んだ口を見て、よし、と言った。
「仕事を続けると決めたからには、途中でへたばるような真似はするなよ」
「陛下やシュアラや――ファドック様の前で、んなこと、しませんって」
 エイルが意地を張ると、ファドックは面白そうに笑う。それはまるで、彼がエイルに剣技を教え、少年が彼のまだ教えていないことまで応用できたときに見せるような笑顔だった。エイルはファドックが彼の態度を認めたと感じ、動悸を感じると同時に嬉しい気持ちになる。
「私は戻るが、エイル」
「……何ですか」
 行くなら、早く行ってほしい。エイルはそんなことを思った。間近でその笑顔など見せられては、余計な悩みが増える。
「あの吟遊詩人(フィエテ)に何か聞きたいのならば、しばらく待つといい」
「なっ……」
 エイルは目を真ん丸くした。ファドックは、何故そのような?
「そんなに驚くな、私には目があって、お前が何に――かは判らないが、誰の言葉に驚いたのか、見ていたのだからな」
 少年が目を白黒させるのに、騎士は苦笑した。
「事情は聞かぬ、忠告だけしよう。判っているだろうが、クラーナは今日の主役だ。当分、閣下方はお傍から放すまい。だが次第に飽きられて、いつも通りの宮廷話に花を咲かされるだろう」
「そういう、もん?」
「そうだ」
 しばし待てよ、と言うと護衛騎士は踵を返した。エイルは何より、ファドックが離れたことに安堵する。
 先とは違う意味で自らを落ち着かせるために深呼吸をすると、ふと視線を感じた。見ると、ともに給仕をしていた少年たちが尊敬のまなざしで彼を見ている。姫の護衛騎士から直接声をかけられ、親しげに言葉を交わしていた彼は、どうやら初心者の給仕以上の位置付けを彼らから頂戴したようだ。
(それじゃひとつ、今後の振舞い方でも教わるかな)
 諸侯の間を邪魔にならぬように歩きながら、飲み物だのちょっとしたつまみものなどを提供するのだという話だったが、実際にやってみたことはない。
(コツでも教わっておくか)
 そうして、目立たぬように仕事をこなしながら、時間を待つのだ。クラーナと言葉を交わせるときを。
(ちょっと時間がかかるかもしれないな)
 少年は考えた。
(俺みたいに、失礼な(・・・)話し方でもしてくれりゃ、シュアラの方で放り出すだろうけど)
 それは望み薄だな、と思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

エイル

下町で生まれ育った少年。ふとしたことからアーレイドの王城に上がることとなり、王女シュアラの「話し相手」をすることになる。

(イラスト:桐島和人)

ファドック・ソレス
王女シュアラの護衛騎士。王女はもとより、城の人々からの信頼も篤い。身分は平民で、決して出過ぎないことを心がけている。

シュアラ・アーレイド
アーレイドの第一王女。王位継承権を持つが、女王ではなく王妃となる教育を受けている。父王が甘やかしており、わがままなところも。

レイジュ・フューリエル
シュアラの気に入りの侍女。王女に忠誠心があると言うより、ファドックの近くにいられるという理由で、侍女業に精を出している。

クラーナ
アーレイドを訪れた吟遊詩人。神秘的な歌を得意とすると言う。エイルに思わせぶりな言葉を残した。

リャカラーダ・コム・シャムレイ
東国にある街シャムレイの第三王子。義務を嫌い、かつて与えられた予言の娘を探して故郷を離れ、砂漠の民たちと旅をしている。

シーヴ
リャカラーダの幼名。王子として対応する必要がなければ、こちらを名乗る。

エイラ
六十年に一度ある〈変異〉の年に、特殊な翡翠と関わることを定められた存在。魔術師のような力を持つが、厳密には魔術師ではない。

ゼレット・カーディル
ウェレス王に仕える伯爵。威張ったところがなく、平民たちとの距離も近いカーディル領主。その好みは幅広い。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み