8 城の遣い
文字数 3,673文字
そのエイルの脳裏に浮かんだ砂漠の王子は、ライファム酒の杯を傾けながら考えていた。
どんな形を取るのであれ、〈魔術都市〉レンがアーレイドに求めているのはシュアラ王女や街自体よりも翡翠なのだろう。だから、こんなおかしな真似をするのだ。
おそらく、アーレイドがどう思おうと、彼らはかまわないのではないだろうか。シーヴはふと、そんなふうに思った。
(それにしても)
(動きが早かったな。もうアーレイド城までたどり着いておいでとは)
(おかしな言い方だが翡翠は無事……なんだろう)
(目覚めさせるだか何だかされれば、エイラに判らないはずがない)
あれだけ翡翠が「呼ぶ」と言っているのだ。リ・ガンと翡翠は呼び合っている。〈鍵〉には何も感じられずとも、それが判るくらいにはエイラのことをずっと見てきている。
(先手は向こうさん、てとこか)
そんなふうに考えると嫌な気持ちになった。後手に回るというのは、いい傾向とは言えない。
(……追いつかんとな)
青年は杯の中身を飲み干して立ち上がった。またどうぞ、などとかけられる声に手をあげて店を出る。
(さて、どこへ向かうか)
(中心街区 、だな)
心で呟いた。
食材にしても宝飾品にしても、朝方ならば端々で立つ市場で良質な品が手に入るが、日が高くなれば高級品が集まるのは街の中心と相場が決まっている。
彼は出てきた宿の方向に戻りながら、大通りをざっと通ってめぼしい店を探した。周辺を歩く子供に金 をやって話を聞き、次第に目的の店を知ると、すぐさまそちらへ足を向けた。
――城の遣いの類が城下を訪れるのは、昼前から昼過ぎであることが多いという。
そして祭りのいまなら、毎日のように城から誰かがくるというのだ。
従僕か侍女でも見つけて何とか声をかけ、話を聞く段にでも持っていけたら、程度の考えだった。教育の行き届いた城の侍女が薄汚れた船乗りの誘いに応じるとも思えなかったが、やってみる価値くらいはあるだろう。
細い小路にあるその店の名は〈砂原の煌めき〉と言い、東国の王子に自身の故郷を思い起こさせたが、もちろん彼の知る本当の砂漠をこの地の人間が知るはずもなく、これは単に幻想的で美しい響きを持つだけの、意味などない名だ。
だが店の名前などどうでもいい。重要なのは、そこの仕立屋が姫君の御用達だという一点だけである。
店の前までやってきて、しかしシーヴは困惑した。
いまの自分は、女性用の高級な服飾店に足を踏み入れて、つまみだされないだけの格好をしているとはとても言えない。
実際、その店構えは相当に立派なもので、小貴族の館だと言われても納得してしまいそうだ。彼は、そのような豪華な店には行ったことがなかったから――リャカラーダならば仕立屋の方が城に出向いてくるし、シーヴであればそのような場所には近寄らない――入り口の前に警護兵然とした戦士 ふうの男がどっかりと立っているのを見れば、十段ほどの階段に足をかけるのも躊躇われる。
(こいつは、出直しかな)
そう考えたものの、手持ちの服のなかでいちばん見られるものをきていることを思い出した。残るは東風の衣装しかない。祭りの間ならば、その姿で歩いても普段よりは目立たぬだろうが、あれは上等な服とは言い難い。だがこの地では、そのようなことは誰も知らないだろうとも思いついた。
騒ぎに巻き込まれた前回を思えばそれはあまりいい考えとも言えなかったが、この格好よりはましかもしれないと思案しだした、そのときだった。
〈砂原の煌めき〉店の瀟洒な扉が開かれたのは。
「――から、言ったんですよ、私。そんなことばっかりしてるから、いっつも時間に遅れるんだって。そしたらあの子、何て言ったと思います?」
可愛らしい声に何となく振り返ったシーヴは、目を見開いた。
(これは――吉 か、凶 かね?)
店から出てきた二人の男女は、質のいい仕立て服を着ていた。こんな店に出入りするからには当たり前のことかもしれなかったが、ごく普通の街びとの古びたものばかりを見ていた目には新品のようにさえ見える。シーヴの目を引いたのは、それが明らかに制服と思われるものであったため、だけではない。
シーヴは男を見た。男も彼を見た。男は、隣の娘の喋りを遮るように片手を上げると、素早い歩調でその段を降りる。シーヴは警戒した。これは拙いことに、なるだろうか。
踵を返して逃げるか?
――否。
彼は心を決めた。
男はもう、彼の正面までやってきていた。シーヴは記憶を探る。閃くように、その名は脳裏に蘇った。
「――ソレス」
「殿下」
かつて、シーヴ――いや、リャカラーダの行く手を阻むために立ちはだかったその護衛騎士 は、しかしいまは何の躊躇いも見せずにすっと彼の前にひざまずいた。娘も慌てたように降りてくると、連れの所作に倣う。シーヴ、それともリャカラーダは安堵した。
この男は馬鹿ではない。ここで騒ぎを起こす気はないのだ。
「ご記憶いただけておりましたとは、光栄の至りでございます――リャカラーダ王子殿下」
「――ほう」
王子は驚いたように声を上げた。
「そちこそ、大した記憶力と言わねばなるまいな?」
ファドックは黙ったまま頭を下げ、リャカラーダは立つように合図した。
「供ひとり、お連れになっていらっしゃいませんとは」
立ち上がると正式な礼をし、騎士の背後で驚いた顔を隠しきれない娘もまた倣う。
「何、そのようなものを連れれば面倒……と言いたいところだが」
浅黒い肌の黒髪の青年は、ふっと笑って白い肌の黒髪の男を見た。
「どこぞの第三王子がまた放浪に出ているなどと言う話は、そちならば知っているのではないのか」
「アーレイドがお気に召されましたか」
「ふむ」
リャカラーダはあごに手をやった。
「そうだな。気に入った、と言うのかもしれん。活気があって――平和で」
特に含むところはなかったが、言ってからその皮肉に気づいた。だが騎士は気づいたとしてもそうでないにしても、表情を変えない。
「ああ、そうであった。何でも、姫君にめでたい話が上がっているそうではないか」
王子は、いかにも思い出した、と言うように言った。
「……どこから、そのような」
「庶民の噂話に過ぎぬ。ほんのひと時の邂逅とは言え、見知った仲。祝いでもお贈りせねばと思うてこのような辺りを巡ってみたが、この格好ではな」
「殿下」
押さえた声で、ファドックが言った。
「畏れながら――差し出口は承知で申し上げます。噂はどうあれ、正式な話は何ら上がっておりませぬ。どのような話がお耳に入ったとしましても、所詮はただの噂。簡単にお信じには、なりませぬよう」
「……ほう」
リャカラーダは目を細めた。
「一介の騎士風情が」
ふっと笑った。以前の邂逅でも、彼はこのようなことを言わなかっただろうか?
「大した物言いだな、ソレス?」
皮肉げに唇を歪めた。ファドックは黙ったまま頭を垂れる。
「ふむ。……お前の言葉は心に留め置くとしよう。なれば私がまた、シュアラ殿下にお会いできる日がくるとよいのだが」
言いながら、拙かったかなと思った。これでは、レンではなくシャムレイがその座に名乗りを上げるぞと言わんばかりではないか。
「――殿下は、どちらに宿を」
だがファドックはそう続け、リャカラーダは意外に思って片眉を上げた。連絡をしてくる、気だろうか。
「ソレス。私はいま、忍びの身なのだぞ。判っておるのだろうな」
もちろん、城から招待でもされれば好都合だが、それを見せる訳にもいかない。眉をひそめてそう言った。
「重々、承知にございます。ただ、この娘は我が王女殿下の侍女。王子殿下との偶然の邂逅を我が殿下 に語ることもありますでしょう」
言われたレイジュ――それはもちろん、レイジュであった――もまた慌てて頭を下げた。
「ふむ」
リャカラーダはしばし考えるようにすると、旅籠の名を告げた。高級宿を取った幸運をヘルサラクに感謝しながら。
「それと」
またも思い出したようにリャカラーダは言った。
「部屋は『シーヴ』の名で取っている。連れはご婦人が一人だ。――野暮なことは言わぬようにな」
東国の王子の言葉にアーレイドの護衛騎士はまたも深く頭を下げ、それを少しの間見やってから、会合は終わりだとばかりにリャカラーダは踵を返した。小路を出、大通りを行き、幾つか角を曲がってから――ようやく、息をつく。
大収穫、である。
久しぶりに「リャカラーダ」を演じた 割にはうまくいった、咄嗟に出るものだ、などと妙な感心を自分にしながら、シーヴはにやにや笑いが浮かぶのを押さえられなかった。
これを聞けばエイラがどんなに驚くか、と思うのだが――どんなに 驚くか を彼は知らない。
どんな形を取るのであれ、〈魔術都市〉レンがアーレイドに求めているのはシュアラ王女や街自体よりも翡翠なのだろう。だから、こんなおかしな真似をするのだ。
おそらく、アーレイドがどう思おうと、彼らはかまわないのではないだろうか。シーヴはふと、そんなふうに思った。
(それにしても)
(動きが早かったな。もうアーレイド城までたどり着いておいでとは)
(おかしな言い方だが翡翠は無事……なんだろう)
(目覚めさせるだか何だかされれば、エイラに判らないはずがない)
あれだけ翡翠が「呼ぶ」と言っているのだ。リ・ガンと翡翠は呼び合っている。〈鍵〉には何も感じられずとも、それが判るくらいにはエイラのことをずっと見てきている。
(先手は向こうさん、てとこか)
そんなふうに考えると嫌な気持ちになった。後手に回るというのは、いい傾向とは言えない。
(……追いつかんとな)
青年は杯の中身を飲み干して立ち上がった。またどうぞ、などとかけられる声に手をあげて店を出る。
(さて、どこへ向かうか)
(
心で呟いた。
食材にしても宝飾品にしても、朝方ならば端々で立つ市場で良質な品が手に入るが、日が高くなれば高級品が集まるのは街の中心と相場が決まっている。
彼は出てきた宿の方向に戻りながら、大通りをざっと通ってめぼしい店を探した。周辺を歩く子供に
――城の遣いの類が城下を訪れるのは、昼前から昼過ぎであることが多いという。
そして祭りのいまなら、毎日のように城から誰かがくるというのだ。
従僕か侍女でも見つけて何とか声をかけ、話を聞く段にでも持っていけたら、程度の考えだった。教育の行き届いた城の侍女が薄汚れた船乗りの誘いに応じるとも思えなかったが、やってみる価値くらいはあるだろう。
細い小路にあるその店の名は〈砂原の煌めき〉と言い、東国の王子に自身の故郷を思い起こさせたが、もちろん彼の知る本当の砂漠をこの地の人間が知るはずもなく、これは単に幻想的で美しい響きを持つだけの、意味などない名だ。
だが店の名前などどうでもいい。重要なのは、そこの仕立屋が姫君の御用達だという一点だけである。
店の前までやってきて、しかしシーヴは困惑した。
いまの自分は、女性用の高級な服飾店に足を踏み入れて、つまみだされないだけの格好をしているとはとても言えない。
実際、その店構えは相当に立派なもので、小貴族の館だと言われても納得してしまいそうだ。彼は、そのような豪華な店には行ったことがなかったから――リャカラーダならば仕立屋の方が城に出向いてくるし、シーヴであればそのような場所には近寄らない――入り口の前に警護兵然とした
(こいつは、出直しかな)
そう考えたものの、手持ちの服のなかでいちばん見られるものをきていることを思い出した。残るは東風の衣装しかない。祭りの間ならば、その姿で歩いても普段よりは目立たぬだろうが、あれは上等な服とは言い難い。だがこの地では、そのようなことは誰も知らないだろうとも思いついた。
騒ぎに巻き込まれた前回を思えばそれはあまりいい考えとも言えなかったが、この格好よりはましかもしれないと思案しだした、そのときだった。
〈砂原の煌めき〉店の瀟洒な扉が開かれたのは。
「――から、言ったんですよ、私。そんなことばっかりしてるから、いっつも時間に遅れるんだって。そしたらあの子、何て言ったと思います?」
可愛らしい声に何となく振り返ったシーヴは、目を見開いた。
(これは――
店から出てきた二人の男女は、質のいい仕立て服を着ていた。こんな店に出入りするからには当たり前のことかもしれなかったが、ごく普通の街びとの古びたものばかりを見ていた目には新品のようにさえ見える。シーヴの目を引いたのは、それが明らかに制服と思われるものであったため、だけではない。
シーヴは男を見た。男も彼を見た。男は、隣の娘の喋りを遮るように片手を上げると、素早い歩調でその段を降りる。シーヴは警戒した。これは拙いことに、なるだろうか。
踵を返して逃げるか?
――否。
彼は心を決めた。
男はもう、彼の正面までやってきていた。シーヴは記憶を探る。閃くように、その名は脳裏に蘇った。
「――ソレス」
「殿下」
かつて、シーヴ――いや、リャカラーダの行く手を阻むために立ちはだかったその
この男は馬鹿ではない。ここで騒ぎを起こす気はないのだ。
「ご記憶いただけておりましたとは、光栄の至りでございます――リャカラーダ王子殿下」
「――ほう」
王子は驚いたように声を上げた。
「そちこそ、大した記憶力と言わねばなるまいな?」
ファドックは黙ったまま頭を下げ、リャカラーダは立つように合図した。
「供ひとり、お連れになっていらっしゃいませんとは」
立ち上がると正式な礼をし、騎士の背後で驚いた顔を隠しきれない娘もまた倣う。
「何、そのようなものを連れれば面倒……と言いたいところだが」
浅黒い肌の黒髪の青年は、ふっと笑って白い肌の黒髪の男を見た。
「どこぞの第三王子がまた放浪に出ているなどと言う話は、そちならば知っているのではないのか」
「アーレイドがお気に召されましたか」
「ふむ」
リャカラーダはあごに手をやった。
「そうだな。気に入った、と言うのかもしれん。活気があって――平和で」
特に含むところはなかったが、言ってからその皮肉に気づいた。だが騎士は気づいたとしてもそうでないにしても、表情を変えない。
「ああ、そうであった。何でも、姫君にめでたい話が上がっているそうではないか」
王子は、いかにも思い出した、と言うように言った。
「……どこから、そのような」
「庶民の噂話に過ぎぬ。ほんのひと時の邂逅とは言え、見知った仲。祝いでもお贈りせねばと思うてこのような辺りを巡ってみたが、この格好ではな」
「殿下」
押さえた声で、ファドックが言った。
「畏れながら――差し出口は承知で申し上げます。噂はどうあれ、正式な話は何ら上がっておりませぬ。どのような話がお耳に入ったとしましても、所詮はただの噂。簡単にお信じには、なりませぬよう」
「……ほう」
リャカラーダは目を細めた。
「一介の騎士風情が」
ふっと笑った。以前の邂逅でも、彼はこのようなことを言わなかっただろうか?
「大した物言いだな、ソレス?」
皮肉げに唇を歪めた。ファドックは黙ったまま頭を垂れる。
「ふむ。……お前の言葉は心に留め置くとしよう。なれば私がまた、シュアラ殿下にお会いできる日がくるとよいのだが」
言いながら、拙かったかなと思った。これでは、レンではなくシャムレイがその座に名乗りを上げるぞと言わんばかりではないか。
「――殿下は、どちらに宿を」
だがファドックはそう続け、リャカラーダは意外に思って片眉を上げた。連絡をしてくる、気だろうか。
「ソレス。私はいま、忍びの身なのだぞ。判っておるのだろうな」
もちろん、城から招待でもされれば好都合だが、それを見せる訳にもいかない。眉をひそめてそう言った。
「重々、承知にございます。ただ、この娘は我が王女殿下の侍女。王子殿下との偶然の邂逅を我が
言われたレイジュ――それはもちろん、レイジュであった――もまた慌てて頭を下げた。
「ふむ」
リャカラーダはしばし考えるようにすると、旅籠の名を告げた。高級宿を取った幸運をヘルサラクに感謝しながら。
「それと」
またも思い出したようにリャカラーダは言った。
「部屋は『シーヴ』の名で取っている。連れはご婦人が一人だ。――野暮なことは言わぬようにな」
東国の王子の言葉にアーレイドの護衛騎士はまたも深く頭を下げ、それを少しの間見やってから、会合は終わりだとばかりにリャカラーダは踵を返した。小路を出、大通りを行き、幾つか角を曲がってから――ようやく、息をつく。
大収穫、である。
久しぶりに「リャカラーダ」を
これを聞けばエイラがどんなに驚くか、と思うのだが――