7 貴女は何者ですか
文字数 3,715文字
「こちらへお座り下さいな。本当はキド伯爵がいらっしゃるはずでしたのですけれど、体調を崩されて。それでも列席すると言って聞かなかったのですが、休むように申しつけました。突然に欠席をしてもリャカラーダ様は何もご不快になどお思いにならないはずだから、と」
「ああ、私のことなど気にされる必要はございませんのに。こうして殿下にお招きいただくだけで望外の喜びなのですから」
エイラが、しゃあしゃあと言う王子殿下に吹き出さずに済んだのは、シュアラの台詞が気にかかったためもあった。キド伯爵と言えば忘れもしない、シュアラとは別の意味で、ファドックの主である。シュアラが本当にキドを招待していたのか、それとも名を使ったに過ぎぬのかは判らないが、別に伯爵が体調を崩してなどはいないだろうということに、エイラはルイエ金貨を賭けてもよかった。
ともあれ――。
シュアラ王女とリャカラーダ王子の見合い ははじまり、豪勢すぎない食事――というのは王族の観点であって、エイラにしてみれば人生でいちばん豪華な宴であったが――の皿を侍女たちが運んできた。
通常ならば彼女たちは給仕などしないが、「あくまでも王女の私的な席である」との主張でもあるのだろう。
女たちのなかにレイジュやメイ=リスの姿があったことはエイラの動揺のもとではあったが、彼女らも客の顔をじろじろとのぞき込むようなことは当然しないので、目を合わせることもせずに済んだ。
出てきた皿に手をつければそれは何とも絶品で、エイラははじめてアーレイドの上厨房の食事にありついたことになる。料理長ミーリの腕は確かに一流だと、いささか場違いな感想を抱いた。
リャカラーダはシュアラが望む異国のことを――珍しくもあまり誇張を混ぜずに――語り、彼が半年前にここを飛び出さなければその翌日にはシュアラが聞いていたであろう話を彼女に聞かせた。こうなると「リティアエラ」は何故ついてきたのかも判らないくらいで、シュアラと一緒になって彼女の知らないことに感心するしかない。
とは言え、もちろん、彼女にはほかに気になることもあった。
そう、もちろん、この部屋に入ったとき、いやその前から気づいている。
シュアラは王子殿下に紹介などしないし、一緒に席に着くこともなくても、最初からずっと王女の斜め後方に立っている、護衛騎士 。
いることは判っている。
だが、どうしてもそこに目を向けることができなかった。
目が合えば、全て見抜かれてしまいそうだ。
常識で考えれば、有り得ないと思う。ファドックがエイラを見て、エイル少年だと思うはずなどがない。
だが〈守護者〉がリ・ガンを見れば判るのではないだろうか。
そこにいるのが「エイル」であるとは思わなくとも、下働きの少年と同じ何かを持っていることが判るのではないだろうか。
もう、判っているのではないだろうかと思うから、ファドックを見ることができないのだ。
その瞳にまさかという驚愕や――理解 でも見て取ったら、自分がどう取り乱すか判らない。
「――どうされた、姫」
シーヴの声にはっとなった。
「気分でもお悪いのか」
「まあ、お口に合いませんでしたかしら?」
エイルとエイラ、両方の動悸、或いは動揺の原因となるふたりに同時に見つめられ、リティアエラは顔を赤くした。
「いえ、そのような……とても素晴らしいお料理ですけれど」
気がつくと、その手はとまっていた。厨房の少年の心は、ミーリに申し訳ない、と思う。料理は間違いなく最高級だが、食欲はいつの間にか減退していた。もしかしたら眠りと同様に、食事も必要としなくなっているのではないか、と言う思いがふと浮かび――それは打ち消した。
いまはそんなことを考えて不安に思っている場合ではない。
「旅の疲れでも、出たのかもしれませんな。殿下、もしよろしければリティアエラ姫を少し休ませていただけまいか」
「ええ、もちろんですわ。レイジュ、カリアを呼ん――」
「よろしければ」
無礼を承知で、リャカラーダは遮った。
「そちらの騎士殿に彼女をお任せしたいのですが」
エイラは呪いの言葉を吐きかけたが、思いとどまった。何もそれは、この場所とこの格好に相応しくないと思ったからだけでは、ない。
シーヴは、何も彼女に意地悪をしている訳ではないのだ。エイラが抱くファドックへの複雑な心境など知らぬのだから、皮肉や嫌味のつもりもないだろう。
いまのシーヴの判断は、的確なのだ。
何のためにエイラがここにいる? 考えるまでもない。〈翡翠〉のため。とっとと〈守護者〉と話をつけろと、そう言うのだろう。
リャカラーダの言葉にシュアラは意外そうに目を瞠った。エイラが見ていれば、ファドックも同じようにするのに気づいただろう。シュアラは戸惑うようにファドックを振り返り、護衛騎士が小さくうなずくのを見た。
「そうですわね。侍女では、リティアエラ様がお倒れにでもなってしまったら、支え切れませんものね。……私の騎士をご信頼いただけて光栄ですわ」
通常で考えれば、保護すべき姫君をほかの男に預けたいなどと言い出すのは、相手が騎士だろうと滅多にないことだ。男の手が必要な状況であっても、侍女を頼むと言い張る男ならばいるだろうが。
ファドックはシュアラとリャカラーダ、そしてエイラにも正式の礼をすると、何も言わずに「リティアエラ姫」の隣による。
「姫」
囁くように出された声にどきりとした。差し出された手にも逡巡する。
「リティアエラ」
促すようなシーヴの声に、エイラは深々と息を吐き出し、震える手で――演技ではなかったが、それはいかにも、気分が悪そうに見えた――自身の手をファドックの掌に合わせた。
以前に感じた、ガラシアの衝撃はなかった。当然だ。あれは、リ・ガンとして目覚めよという翡翠の――或いは、翡翠の「女王」の警告だったのだから。いまとなっては、判りすぎるほどに判っている。この男が〈守護者〉だと言うこと。
ただ、彼の手はこんなに大きかっただろうかなどと思うだけ。エイルよりもエイラの手の方が華奢なのだと思い至るまで数秒 かかる。
(怖い)
椅子を引かれ、そっと立ち上がったが、足が震えそうになる。
(〈鍵〉がいて〈守護者〉がいて、翡翠も近い。リ・ガンとしてはこんなに安定する環境もない)
(でも)
(――怖い)
心配そうに見送るシーヴとシュアラの視線を――おそらくは、レイジュの羨ましそうな視線も――背中に受けながらエイラはファドックに連れられて部屋を出た。
王女の護衛騎士が客人の女性を伴って退出してきたことに、警備の兵ふたりは驚いたようだった。だが、ひとりは中に入り、もうひとりはそのままここで仕事を続けるように、とのファドックの簡単な命令に敬礼しただけで、何も尋ねることはなかった。
護衛騎士はすぐ近くの小さな部屋――エイルならば広いと思う――に彼女を連れると、ゆったり座れる椅子に案内した。
「何かお飲物をお持ちしましょう。香り茶でよろしいですか」
「いえっ、あの、その……要らないです、何も」
エイラは慌てて首を振った。本当に気分が悪い訳ではないのだ。
「では少し、風に当たられますか」
部屋の奥を見ると、小さな露台に出られるようになっている。再びファドックが差し出す手に、再び首を振った。
「大丈夫、です、ほんとに。その……すみません」
エイラはずっと視線を下ろしたままだ。やはり、たいそう気分が悪いように見えるだろうが、それでもまだ顔が上げられない。
「では」
騎士の声色が、少し変わったように思えた。
「心配する必要はなさそうですね。つまり、リャカラーダ殿下 がシュアラ様に内密のお話がおありということですか」
思わず、顔を上げた。視線が――合う。
(ファドック様)
「ち、違います」
エイラはどうにか言った。そして失敗したと思った。ごまかしたいのなら、まずは恍けるべきだ。
「その、リャカラーダ……殿下がじゃなくて」
もう一度、ファドックを見た。
「私が……あなたに会いたかったんです」
これは、リ・ガンの台詞なのかエイルの台詞なのか、彼女自身判らなかった。ファドックはその眉根を微かに寄せる。
「私に」
ゆっくりと彼は繰り返した。
「リティアエラ姫」
「……姫、はやめてもらえますか」
シーヴが「王子」と言われて嫌がった理由が少し判った気がした。
「では、セリ」
ファドックはその理由は問わずに、女性に使う敬称を口にする。それもやめてほしいところだが、それを繰り返すと自分はエイルだと説明しなければならないことになりそうで、堪えた。
「貴女は何者ですか」
エイラはどきり、とした。何か話があるのですか、とでも聞いてくれればいいものを――ファドックはずばりと核心をついてくる。
「リ・ガン」
だが、どう言おうか考える前に答えが口から出ていた。
「そして、あなたは〈守護者〉」
「ああ、私のことなど気にされる必要はございませんのに。こうして殿下にお招きいただくだけで望外の喜びなのですから」
エイラが、しゃあしゃあと言う王子殿下に吹き出さずに済んだのは、シュアラの台詞が気にかかったためもあった。キド伯爵と言えば忘れもしない、シュアラとは別の意味で、ファドックの主である。シュアラが本当にキドを招待していたのか、それとも名を使ったに過ぎぬのかは判らないが、別に伯爵が体調を崩してなどはいないだろうということに、エイラはルイエ金貨を賭けてもよかった。
ともあれ――。
シュアラ王女とリャカラーダ王子の
通常ならば彼女たちは給仕などしないが、「あくまでも王女の私的な席である」との主張でもあるのだろう。
女たちのなかにレイジュやメイ=リスの姿があったことはエイラの動揺のもとではあったが、彼女らも客の顔をじろじろとのぞき込むようなことは当然しないので、目を合わせることもせずに済んだ。
出てきた皿に手をつければそれは何とも絶品で、エイラははじめてアーレイドの上厨房の食事にありついたことになる。料理長ミーリの腕は確かに一流だと、いささか場違いな感想を抱いた。
リャカラーダはシュアラが望む異国のことを――珍しくもあまり誇張を混ぜずに――語り、彼が半年前にここを飛び出さなければその翌日にはシュアラが聞いていたであろう話を彼女に聞かせた。こうなると「リティアエラ」は何故ついてきたのかも判らないくらいで、シュアラと一緒になって彼女の知らないことに感心するしかない。
とは言え、もちろん、彼女にはほかに気になることもあった。
そう、もちろん、この部屋に入ったとき、いやその前から気づいている。
シュアラは王子殿下に紹介などしないし、一緒に席に着くこともなくても、最初からずっと王女の斜め後方に立っている、
いることは判っている。
だが、どうしてもそこに目を向けることができなかった。
目が合えば、全て見抜かれてしまいそうだ。
常識で考えれば、有り得ないと思う。ファドックがエイラを見て、エイル少年だと思うはずなどがない。
だが〈守護者〉がリ・ガンを見れば判るのではないだろうか。
そこにいるのが「エイル」であるとは思わなくとも、下働きの少年と同じ何かを持っていることが判るのではないだろうか。
もう、判っているのではないだろうかと思うから、ファドックを見ることができないのだ。
その瞳にまさかという驚愕や――
「――どうされた、姫」
シーヴの声にはっとなった。
「気分でもお悪いのか」
「まあ、お口に合いませんでしたかしら?」
エイルとエイラ、両方の動悸、或いは動揺の原因となるふたりに同時に見つめられ、リティアエラは顔を赤くした。
「いえ、そのような……とても素晴らしいお料理ですけれど」
気がつくと、その手はとまっていた。厨房の少年の心は、ミーリに申し訳ない、と思う。料理は間違いなく最高級だが、食欲はいつの間にか減退していた。もしかしたら眠りと同様に、食事も必要としなくなっているのではないか、と言う思いがふと浮かび――それは打ち消した。
いまはそんなことを考えて不安に思っている場合ではない。
「旅の疲れでも、出たのかもしれませんな。殿下、もしよろしければリティアエラ姫を少し休ませていただけまいか」
「ええ、もちろんですわ。レイジュ、カリアを呼ん――」
「よろしければ」
無礼を承知で、リャカラーダは遮った。
「そちらの騎士殿に彼女をお任せしたいのですが」
エイラは呪いの言葉を吐きかけたが、思いとどまった。何もそれは、この場所とこの格好に相応しくないと思ったからだけでは、ない。
シーヴは、何も彼女に意地悪をしている訳ではないのだ。エイラが抱くファドックへの複雑な心境など知らぬのだから、皮肉や嫌味のつもりもないだろう。
いまのシーヴの判断は、的確なのだ。
何のためにエイラがここにいる? 考えるまでもない。〈翡翠〉のため。とっとと〈守護者〉と話をつけろと、そう言うのだろう。
リャカラーダの言葉にシュアラは意外そうに目を瞠った。エイラが見ていれば、ファドックも同じようにするのに気づいただろう。シュアラは戸惑うようにファドックを振り返り、護衛騎士が小さくうなずくのを見た。
「そうですわね。侍女では、リティアエラ様がお倒れにでもなってしまったら、支え切れませんものね。……私の騎士をご信頼いただけて光栄ですわ」
通常で考えれば、保護すべき姫君をほかの男に預けたいなどと言い出すのは、相手が騎士だろうと滅多にないことだ。男の手が必要な状況であっても、侍女を頼むと言い張る男ならばいるだろうが。
ファドックはシュアラとリャカラーダ、そしてエイラにも正式の礼をすると、何も言わずに「リティアエラ姫」の隣による。
「姫」
囁くように出された声にどきりとした。差し出された手にも逡巡する。
「リティアエラ」
促すようなシーヴの声に、エイラは深々と息を吐き出し、震える手で――演技ではなかったが、それはいかにも、気分が悪そうに見えた――自身の手をファドックの掌に合わせた。
以前に感じた、ガラシアの衝撃はなかった。当然だ。あれは、リ・ガンとして目覚めよという翡翠の――或いは、翡翠の「女王」の警告だったのだから。いまとなっては、判りすぎるほどに判っている。この男が〈守護者〉だと言うこと。
ただ、彼の手はこんなに大きかっただろうかなどと思うだけ。エイルよりもエイラの手の方が華奢なのだと思い至るまで数
(怖い)
椅子を引かれ、そっと立ち上がったが、足が震えそうになる。
(〈鍵〉がいて〈守護者〉がいて、翡翠も近い。リ・ガンとしてはこんなに安定する環境もない)
(でも)
(――怖い)
心配そうに見送るシーヴとシュアラの視線を――おそらくは、レイジュの羨ましそうな視線も――背中に受けながらエイラはファドックに連れられて部屋を出た。
王女の護衛騎士が客人の女性を伴って退出してきたことに、警備の兵ふたりは驚いたようだった。だが、ひとりは中に入り、もうひとりはそのままここで仕事を続けるように、とのファドックの簡単な命令に敬礼しただけで、何も尋ねることはなかった。
護衛騎士はすぐ近くの小さな部屋――エイルならば広いと思う――に彼女を連れると、ゆったり座れる椅子に案内した。
「何かお飲物をお持ちしましょう。香り茶でよろしいですか」
「いえっ、あの、その……要らないです、何も」
エイラは慌てて首を振った。本当に気分が悪い訳ではないのだ。
「では少し、風に当たられますか」
部屋の奥を見ると、小さな露台に出られるようになっている。再びファドックが差し出す手に、再び首を振った。
「大丈夫、です、ほんとに。その……すみません」
エイラはずっと視線を下ろしたままだ。やはり、たいそう気分が悪いように見えるだろうが、それでもまだ顔が上げられない。
「では」
騎士の声色が、少し変わったように思えた。
「心配する必要はなさそうですね。つまり、
思わず、顔を上げた。視線が――合う。
(ファドック様)
「ち、違います」
エイラはどうにか言った。そして失敗したと思った。ごまかしたいのなら、まずは恍けるべきだ。
「その、リャカラーダ……殿下がじゃなくて」
もう一度、ファドックを見た。
「私が……あなたに会いたかったんです」
これは、リ・ガンの台詞なのかエイルの台詞なのか、彼女自身判らなかった。ファドックはその眉根を微かに寄せる。
「私に」
ゆっくりと彼は繰り返した。
「リティアエラ姫」
「……姫、はやめてもらえますか」
シーヴが「王子」と言われて嫌がった理由が少し判った気がした。
「では、セリ」
ファドックはその理由は問わずに、女性に使う敬称を口にする。それもやめてほしいところだが、それを繰り返すと自分はエイルだと説明しなければならないことになりそうで、堪えた。
「貴女は何者ですか」
エイラはどきり、とした。何か話があるのですか、とでも聞いてくれればいいものを――ファドックはずばりと核心をついてくる。
「リ・ガン」
だが、どう言おうか考える前に答えが口から出ていた。
「そして、あなたは〈守護者〉」