1 今日のところは
文字数 3,548文字
王女の突然の退席は、しかし宴にはそう大きな影響を及ぼさなかったようだ。娘に甘い王はその身勝手を叱責することもないし、リャカラーダが無礼だと怒り出すこともなかった。
異国の王子は、その後、待ちわびていた宮廷婦人たちに引っ張りだことなり、終始にこやかに彼女らの疑問に答え、話をしていたと言う。
エイラの正体も取り沙汰された──無論、偽物だとか実は少年であったとかではなく、本当にファドック・ソレスの婚約者候補なのかどうか、ということだが──ようだ。キド伯爵は、内心で大笑いしたかどうかはともかくとしてはっきりとそれを否定し、あの頑固な男を養子にすることはとうに諦めているとも言ったが、噂好きのお喋り鳥 たちは素直に納得などせず、ああだこうだと勝手な尾ひれを付けるのだった。
そのような話をエイルが聞くのはだいぶあとのことになる。
ともあれ、少年はふらふらの頭を支えながら、品がよくともやはり騒がしい空間を離れて息をついた。
ファドックに支えられ、心配そうなシュアラに見守られながら、先ほどレイジュに化粧を施された小さな部屋へ戻り、それでもまだふらつく足で最初にしたことは、王女──うら若き少女の前であることなど気にもとめず、その鬱陶しいドレスを脱ぎ捨てたことだった。
「こんなもんっ、俺は二度とっ、着ないっ!」
そう叫ぶと、今度は遠慮なくその場に座り込む。
「顔も洗っておくか」
いきりたつ少年と、困ったように背を向けて赤くなっている少女の間に立って、ファドックは言った。
「顔?……ああ」
何やら塗りたくられたことを思い出すと、彼は乱暴に顔をこすった。
「それでは落とせなくてよ。ちゃんと薬を使って洗わなくては……誰かいないの!」
「ちょいっ、シュアラ、頼むから、呼ぶならレイジュかカリアにしてくれ」
これ以上、醜態を知られる人数を増やしたくなくてエイルが言うと、少女は不審そうにしながらもうなずいた。王女が広間を退くと同時に、広間で控えていた侍女も彼女についてきている。シュアラの声にすぐに姿を見せた若い娘は、王女の命を受けて仲間の侍女を探しに行った。
「――もう平気なの、エイル?」
「あんまり」
「まあ」
「これの精神的負担が大きすぎて」
少年は落ち着いた黄色をしたドレスと、女性のものにしては少し大きめの、黒い細靴を睨みつけた。
「それだけ? 身体の調子がおかしいのではなくて?」
「それだけってこた、ないだろ。俺がどんなに嫌だったか知らないくせに」
「あら。それだったら嫌だと言えばよかったでしょう。お前は私にはそうするくせに、カリアにはしないの」
おっと、ご機嫌が悪くなりそうだ、とエイルは肩をすくめた。
「それは」
ちらりとファドックの様子を窺う。騎士はシュアラに、エイルが警護のために簡単かつ実用的な訓練を受けたことも、近くにいるためにあんな格好をさせられたことも――本当に、ほかの方法がなかったと言うのか?――話していない。それなのに、少年が告げてしまってよいものか。
「まあ、エイル。――それは、何?」
「それって……ああ」
王女が目にとめたものを見つけて、エイルは肩を落とした。
「お前、どうしてそんなものを」
「私が身につけさせたのです」
「何故?」
彼が着ていた優美なドレスとは全く相容れない、彼らが話題にしているそれは――少年が背に隠していた小剣だ。
「畏れながら姫君。このまま、かの宴にお戻りになるお気持ちが?」
「……ないわ。リャカラーダ殿下のお話は伺いたいけれど、みなが寄ってたかって聞きたがったのでは殿下に申し訳ないし、それに、この宴だけでお帰りになってしまうということもないでしょう。それより、エイルが気になるわ。それとファドック。お前も」
少女はキッと護衛騎士 を睨んだ。
「何を考えているの。許可も得ずに帯剣して王宮に入るなど……罰せられても仕方がないのよ!」
「それどころか、場合によっては、陛下への反逆と取られかねません」
「判っているのならどうして」
「ご心配、されませぬよう。アルドゥイス近衛隊長の許可は得ております」
「――どういうこと」
王女は困惑した。
「これは、ちょっとしたお遊びなんかじゃなかったってことさ」
エイルはドレスになる前に脱ぎ捨てた――はずだったが、レイジュの仕業だろう、それらは何とも美しくたたみ直されていた――いつもの衣服を身につけながら苦々しい顔をした。
「普通さ、いきなり東国の王子殿下でございますなんて言われても、信じられないだろ?」
「協会 が保証をしたわ」
「したのは、そういう名前の王子がいることだけだろ。本人かどうか」
「まず間違いないだろうとのことだったわ」
「へえ、そいつは初耳だけど、確証がないことに変わりはないじゃないか」
どういう理由で「間違いない」という判定が下ったのかは知らないが、どうであれ、話に違いはない。
「そもそも、実際に王子殿下サマご本人だったとしたって、おかしな話さ。いったい何のためにアーレイドへ?」
「まあ、船が壊れた話を聞いていないの?」
「こちとら、不作法な下町の人間なもんでね。耳にしたことを全部鵜呑みにして素直に驚いてたら身が保たないよ」
「嘘だと、言うのね」
「それは判りません」
ファドックが答えた。
「東方の拵えをした船が酷い有様で停泊していることは確かですが、詳細は不明です。船に起きたことを調べるには時間が足りなさすぎました。また我々は東方に真偽を確かめる術を持ちません。シャムレイという街の支配者も、第三王子が如何なる立場の人間であるかも判らないのです。魔術師協会 がそう告げたのだと言っても、エイルの言う通り、ここへやってきたのが偶然なのか故意なのか」
何も判りません、と騎士は言い、シュアラは考えるようにした。
「王子殿下が偽物ではと疑ったのね。本物だとしても、その意図が判らないと。それで――」
シュアラはエイルを見やった。
「私の警護を?」
「……王子が本物で、何の企みもないんだったら……護衛騎士が姫にぴったりくっついてるなんて、『失礼』だろ」
「そんなことを……考えていたの」
「結局、要らん世話で、俺が恥をかいただけってことになるかもしれないけどな」
「私」
シュアラは、呟くように言った。何を言い出すかと少年はそちらに目を向ける。
「……もう少し、楽な服装にするわ。エイル、ファドック。半刻したらいつもの部屋にきなさい」
だが少女は文句も礼も言わず、そんなことを口にした。騎士はさっと礼をし、少年はひらひらと手を振る。戸の外に控えていた侍女が王女を連れ去ると、少年は深いため息をつく。
「結局」
彼は繰り返した。
「心配、しなくてもよかったってことみたいすね」
「そうだな。……今日のところは」
「何か知ってるんすか、ファドック様」
含みのある言い方に、エイルは顔を上げた。だがファドックは首を振る。
「ただ、奇妙に思うことはある」
「おかしなことだらけっすよ、あの王子さんは。お上品なツラして、食わせもんだし」
「何故そう思った?」
「俺、聞いたんです」
エイルは酒場での喧嘩の話をした。
「そりゃあ、王様の前で『うちの臣下があなたの市民に絡まれました』とか言えねえかもしれねえけど」
「そうだな」
エイルの言い様にファドックは苦笑する。
「ほかには、どうだ」
「ほかって」
「感じたか」
「何を――ですか」
どきりとして問い返す。
「あの男の……いや、いい」
「何……すか。ファドック様が言いかけてやめるなんて、気味悪りい。言って下さいよ」
促しながらエイルは、どんな返答がくるのか、想像がつくように思った。
「言えば、もっと私らしくないと思うかもしれんぞ」
ファドックはそう前置いて続けた。
「私がかの王子に見たのは、お前に近いものだ。エイル」
「どういう、意味です」
どきりとして、エイル。
「私が初めてお前を見たときにとてもよく似た、『この男を知っている』という感覚。だが現実には知らぬ。そして同時に思うのだ。何の根拠もないのに、確信に近い」
ファドックは少年を見た。
「彼が、アーレイドに害をなすはずがない――と」
そう言ってファドックは、何とも珍しく、そんな言葉を口にした自身に少しうろたえるかのようだった。
しかし少年もまた、戸惑っていた。
アーレイドに害をなすはずがない。ファドックはそう感じたと? そしてそれに安堵したと言うのか?
シュアラ に、ではなく、アーレイドを対象と考えて?
異国の王子は、その後、待ちわびていた宮廷婦人たちに引っ張りだことなり、終始にこやかに彼女らの疑問に答え、話をしていたと言う。
エイラの正体も取り沙汰された──無論、偽物だとか実は少年であったとかではなく、本当にファドック・ソレスの婚約者候補なのかどうか、ということだが──ようだ。キド伯爵は、内心で大笑いしたかどうかはともかくとしてはっきりとそれを否定し、あの頑固な男を養子にすることはとうに諦めているとも言ったが、噂好きの
そのような話をエイルが聞くのはだいぶあとのことになる。
ともあれ、少年はふらふらの頭を支えながら、品がよくともやはり騒がしい空間を離れて息をついた。
ファドックに支えられ、心配そうなシュアラに見守られながら、先ほどレイジュに化粧を施された小さな部屋へ戻り、それでもまだふらつく足で最初にしたことは、王女──うら若き少女の前であることなど気にもとめず、その鬱陶しいドレスを脱ぎ捨てたことだった。
「こんなもんっ、俺は二度とっ、着ないっ!」
そう叫ぶと、今度は遠慮なくその場に座り込む。
「顔も洗っておくか」
いきりたつ少年と、困ったように背を向けて赤くなっている少女の間に立って、ファドックは言った。
「顔?……ああ」
何やら塗りたくられたことを思い出すと、彼は乱暴に顔をこすった。
「それでは落とせなくてよ。ちゃんと薬を使って洗わなくては……誰かいないの!」
「ちょいっ、シュアラ、頼むから、呼ぶならレイジュかカリアにしてくれ」
これ以上、醜態を知られる人数を増やしたくなくてエイルが言うと、少女は不審そうにしながらもうなずいた。王女が広間を退くと同時に、広間で控えていた侍女も彼女についてきている。シュアラの声にすぐに姿を見せた若い娘は、王女の命を受けて仲間の侍女を探しに行った。
「――もう平気なの、エイル?」
「あんまり」
「まあ」
「これの精神的負担が大きすぎて」
少年は落ち着いた黄色をしたドレスと、女性のものにしては少し大きめの、黒い細靴を睨みつけた。
「それだけ? 身体の調子がおかしいのではなくて?」
「それだけってこた、ないだろ。俺がどんなに嫌だったか知らないくせに」
「あら。それだったら嫌だと言えばよかったでしょう。お前は私にはそうするくせに、カリアにはしないの」
おっと、ご機嫌が悪くなりそうだ、とエイルは肩をすくめた。
「それは」
ちらりとファドックの様子を窺う。騎士はシュアラに、エイルが警護のために簡単かつ実用的な訓練を受けたことも、近くにいるためにあんな格好をさせられたことも――本当に、ほかの方法がなかったと言うのか?――話していない。それなのに、少年が告げてしまってよいものか。
「まあ、エイル。――それは、何?」
「それって……ああ」
王女が目にとめたものを見つけて、エイルは肩を落とした。
「お前、どうしてそんなものを」
「私が身につけさせたのです」
「何故?」
彼が着ていた優美なドレスとは全く相容れない、彼らが話題にしているそれは――少年が背に隠していた小剣だ。
「畏れながら姫君。このまま、かの宴にお戻りになるお気持ちが?」
「……ないわ。リャカラーダ殿下のお話は伺いたいけれど、みなが寄ってたかって聞きたがったのでは殿下に申し訳ないし、それに、この宴だけでお帰りになってしまうということもないでしょう。それより、エイルが気になるわ。それとファドック。お前も」
少女はキッと
「何を考えているの。許可も得ずに帯剣して王宮に入るなど……罰せられても仕方がないのよ!」
「それどころか、場合によっては、陛下への反逆と取られかねません」
「判っているのならどうして」
「ご心配、されませぬよう。アルドゥイス近衛隊長の許可は得ております」
「――どういうこと」
王女は困惑した。
「これは、ちょっとしたお遊びなんかじゃなかったってことさ」
エイルはドレスになる前に脱ぎ捨てた――はずだったが、レイジュの仕業だろう、それらは何とも美しくたたみ直されていた――いつもの衣服を身につけながら苦々しい顔をした。
「普通さ、いきなり東国の王子殿下でございますなんて言われても、信じられないだろ?」
「
「したのは、そういう名前の王子がいることだけだろ。本人かどうか」
「まず間違いないだろうとのことだったわ」
「へえ、そいつは初耳だけど、確証がないことに変わりはないじゃないか」
どういう理由で「間違いない」という判定が下ったのかは知らないが、どうであれ、話に違いはない。
「そもそも、実際に王子殿下サマご本人だったとしたって、おかしな話さ。いったい何のためにアーレイドへ?」
「まあ、船が壊れた話を聞いていないの?」
「こちとら、不作法な下町の人間なもんでね。耳にしたことを全部鵜呑みにして素直に驚いてたら身が保たないよ」
「嘘だと、言うのね」
「それは判りません」
ファドックが答えた。
「東方の拵えをした船が酷い有様で停泊していることは確かですが、詳細は不明です。船に起きたことを調べるには時間が足りなさすぎました。また我々は東方に真偽を確かめる術を持ちません。シャムレイという街の支配者も、第三王子が如何なる立場の人間であるかも判らないのです。
何も判りません、と騎士は言い、シュアラは考えるようにした。
「王子殿下が偽物ではと疑ったのね。本物だとしても、その意図が判らないと。それで――」
シュアラはエイルを見やった。
「私の警護を?」
「……王子が本物で、何の企みもないんだったら……護衛騎士が姫にぴったりくっついてるなんて、『失礼』だろ」
「そんなことを……考えていたの」
「結局、要らん世話で、俺が恥をかいただけってことになるかもしれないけどな」
「私」
シュアラは、呟くように言った。何を言い出すかと少年はそちらに目を向ける。
「……もう少し、楽な服装にするわ。エイル、ファドック。半刻したらいつもの部屋にきなさい」
だが少女は文句も礼も言わず、そんなことを口にした。騎士はさっと礼をし、少年はひらひらと手を振る。戸の外に控えていた侍女が王女を連れ去ると、少年は深いため息をつく。
「結局」
彼は繰り返した。
「心配、しなくてもよかったってことみたいすね」
「そうだな。……今日のところは」
「何か知ってるんすか、ファドック様」
含みのある言い方に、エイルは顔を上げた。だがファドックは首を振る。
「ただ、奇妙に思うことはある」
「おかしなことだらけっすよ、あの王子さんは。お上品なツラして、食わせもんだし」
「何故そう思った?」
「俺、聞いたんです」
エイルは酒場での喧嘩の話をした。
「そりゃあ、王様の前で『うちの臣下があなたの市民に絡まれました』とか言えねえかもしれねえけど」
「そうだな」
エイルの言い様にファドックは苦笑する。
「ほかには、どうだ」
「ほかって」
「感じたか」
「何を――ですか」
どきりとして問い返す。
「あの男の……いや、いい」
「何……すか。ファドック様が言いかけてやめるなんて、気味悪りい。言って下さいよ」
促しながらエイルは、どんな返答がくるのか、想像がつくように思った。
「言えば、もっと私らしくないと思うかもしれんぞ」
ファドックはそう前置いて続けた。
「私がかの王子に見たのは、お前に近いものだ。エイル」
「どういう、意味です」
どきりとして、エイル。
「私が初めてお前を見たときにとてもよく似た、『この男を知っている』という感覚。だが現実には知らぬ。そして同時に思うのだ。何の根拠もないのに、確信に近い」
ファドックは少年を見た。
「彼が、アーレイドに害をなすはずがない――と」
そう言ってファドックは、何とも珍しく、そんな言葉を口にした自身に少しうろたえるかのようだった。
しかし少年もまた、戸惑っていた。
アーレイドに害をなすはずがない。ファドックはそう感じたと? そしてそれに安堵したと言うのか?