04 手品ならば、種がある
文字数 2,989文字
その表情を見るまでもなく、第一王子の機嫌がよくないのは明白すぎるほどであった。
多少の不快であれば、王子はその美しい眉を微かにひそめる程度だろう。腹を立ててくると、いっそ表情がなくなることもある。
だから、アスレンが明らかに声を荒らげたり、癇癪を起こしたように手近なものを投げつけたり、というような状態になれば、側近のスケイズですら部屋に近づくことも避ける。
そうしたアスレンを怖れない――それどころかむしろ、好むのは彼の妹王女くらいのものであるから、ラーミフの訪問に館の人間は心から安堵した。
「アスレン」
袖がなく丈の短い薄青のドレスから伸びた白い手足は眩しいほどで、たいていの男ならば大きく開いたその胸元と、少ない生地で隠された残りの部分を思って身体を熱くする。そのような様子を見せない――隠しているのではなく――のは彼女の兄くらいのものであって、また彼女はアスレン以外の前では滅多にそのような格好をしなかったから、青い蝶の毒粉に惑わされる男はそれほど多くはなかった。
無論、彼女が惑わしたいと思えば、別であったが。
「機嫌が悪いのね。いったい何があったの?」
アスレンは、来訪者をぎろりと睨んだ。ほかの誰もが心臓と寿命を縮ませるであろうその負に満ちた眼差しは、彼女には悦びだった。
「リ・ガンが消えた」
それが王子の返答だった。
「――消えた?」
ラーミフは驚いたように口に手を当てた。
「お兄様の鎖を外して逃げたと言うの?」
「有り得ん」
王子の答えは早かった。
「俺の前から逃れたあとであっても――リ・ガンの動向は手に取るように掴めていたのだ。いまや南の翡翠 も目覚めた。そのあとで」
「消えた?」
ラーミフの言葉にアスレンは黙ったが、それは即ち肯定であった。
「このようなことができると言うのなら、さっさと逃れておればよいのだ。それを――翡翠を目覚めさせたあとで、為した。まるでわざわざ、翡翠の目覚めを俺に教えるかのように」
「でも、お兄様の力が〈触媒〉などに劣るはずがないでしょう」
兄の不満が「リ・ガンが逃げた」ことよりも、「自身の術が破られたかもしれない」ことに因するのだと知った妹はそう言った。機嫌を取るためでも不興を 買うため でもなく、ただ思ったことを言ったのだったが。
「無論だ」
アスレンが応じるのもまた、自惚れや傷ついた自尊心を癒すためではなく、淡々と事実――であるはずのこと――を語ったものだった。
「あのような中途半端な存在に、我が力が劣る訳がない」
しかし何かがあった。それだけは確かだ、と言うようなことを王子は言った。
「きれいに消えてしまったの? まるで、手品 のように?」
「――手品 」
第一王子は王女の言葉を繰り返した。
「手品ならば、種があるな」
兄の目が考えるように細められるのをラーミフはうっとりと見ていた。
「確かに……残るものは、ある」
アスレンの声は囁きのようで、ラーミフにはよく聞き取れなかった。彼女はこれ以上は兄の言葉を聞き逃すまいとするかのように、羽根のように軽い足取りで兄の傍らに寄っていった。
「ラーミフ」
かけられた声に、王女の瞳が輝いた。
「私に何かできることがあるの? お兄様」
「いや」
期待に満ちた声は、しかし簡単に否定された。
「お前にはしばらく我慢をしてもらおう。愛人をひとり、借りるぞ」
「まあ」
ラーミフは笑った。
「お兄様は、ずるい。ラーミフから楽しみをみんな奪ってしまう気だわ」
「馬鹿なことを」
アスレンは一蹴した。
「どんな状況であろうと、お前は楽しむのであろうに」
言われたラーミフはくすくすと笑った。
「ねえ、アスレン。私では駄目かしら? 話に聞くような男なら、陥とすまでもないのでしょう?」
「今度は、そちらをねだるのか。ソレスはもうよいのか」
不興を湛えていたアスレンの目が楽しそうな色を帯び始めた。
「気の多い女だ」
「そんなことないわ」
ラーミフはどこか拗ねたような口調で言った。
「アスレンとサズが気にする相手だもの。ラーミフがそのどちらとも遊びたいと言ったって、不思議じゃないでしょう」
「不思議ではない。気が多いなと言ったのだ」
「嘘よ、そんなことないわ」
ラーミフはまた、アスレンの言葉を否定した。
「私にはアスレンだけ」
甘い吐息とともに耳元で発せられるその言葉に、彼女の兄はかけらも心を動かされた様子はなかった。ラーミフはそれに気づくとまた拗ねたような顔をする。兄とそう幾つも違わぬ妹は、しかしそうするとずいぶんと幼く、少女めいて見えた。
「ファドック・ソレスにかけている術は何なの、アスレン。何のためにあんな術を使うの。操るのなら、もっと簡単な方法がいくらでもあるじゃない」
「俺の好きなように操っても意味がない。俺にいささか目を隠されていたところで、全ての判断はあやつ自身の内から出るのだ。完璧な近衛隊長は、貴族どもには評価が高いようだな」
アスレンはそう返し、続けた。
「リ・ガンのことはもちろん、〈鍵〉のこともあれば、揺らぎの見え出したラクトルの〈要〉のこともある。俺も常に忠犬を観察し続ける訳にはいかないからな。俺が目を放した隙に勝手をされては面倒だが、ああやっておけば何も馬鹿なことはできぬだろう」
「でも」
妹は口を挟んだ。
「守り手としての守護力を発揮されたら面倒なのではなくて?」
「何の」
アスレンは肩をすくめた。
「時には、逆らうようでなくては面白くない。――いつもでは、苛つかされるがな」
もちろんこの妹王女が兄王子の言葉に意見や反論を述べることなどなかった。だが、母女王サクリエルならば言ったであろうか。彼が好むのは、「予想通りに逆らう」騎士であり、それを越えたときに苛つくのだろうと。
「第一、翡翠の影響力を抑制できるのは翡翠だけであろうな。あやつから『本能』を取り去るのは難しかろう」
「そう、どうしてもラーミフに手を出すなと言うのね」
ラーミフは軽く肩をすくめてから、小さく首をかしげて兄を見た。
「――本当は? アスレン」
妹は問うた。兄は微かに笑う。ラーミフはそれをじっと見て、また拗ねたように唇を尖らせた。
「判ったわ。お兄様は、あの男がお兄様のために悩み、苦しんでいる姿を他者に見せたくないのでしょう」
「それは、なかなか」
アスレンは同じ笑みのままで言った。
「穿った見方をするものだな、妹よ」
「私はやっぱり、ファドック・ソレスの方が良いわ。お願い、お兄様」
「駄目だ。お前はそのまま、大人しくしていろ」
それがアスレンの返答――或いは命令だった。ラーミフはつまらないと言うように首を少しかしげた。アスレンはそれを見ながら、少し考えるようにして、続けた。
「いや。そうだな。近いうちにお前にも、引き合わせてやろう」
王女は目を妖しく輝かせた。
それから唇を美しく笑みの形に作ると兄に寄り、礼のようなことを言うと素早く口づける。アスレンは黙ってその肩を押しやり、やはりその行為に何か感情の動いた様子のない目で妹を見た。
その瞳を見た王女はもう一度、嬉しそうに笑って踵を返すのだった。
多少の不快であれば、王子はその美しい眉を微かにひそめる程度だろう。腹を立ててくると、いっそ表情がなくなることもある。
だから、アスレンが明らかに声を荒らげたり、癇癪を起こしたように手近なものを投げつけたり、というような状態になれば、側近のスケイズですら部屋に近づくことも避ける。
そうしたアスレンを怖れない――それどころかむしろ、好むのは彼の妹王女くらいのものであるから、ラーミフの訪問に館の人間は心から安堵した。
「アスレン」
袖がなく丈の短い薄青のドレスから伸びた白い手足は眩しいほどで、たいていの男ならば大きく開いたその胸元と、少ない生地で隠された残りの部分を思って身体を熱くする。そのような様子を見せない――隠しているのではなく――のは彼女の兄くらいのものであって、また彼女はアスレン以外の前では滅多にそのような格好をしなかったから、青い蝶の毒粉に惑わされる男はそれほど多くはなかった。
無論、彼女が惑わしたいと思えば、別であったが。
「機嫌が悪いのね。いったい何があったの?」
アスレンは、来訪者をぎろりと睨んだ。ほかの誰もが心臓と寿命を縮ませるであろうその負に満ちた眼差しは、彼女には悦びだった。
「リ・ガンが消えた」
それが王子の返答だった。
「――消えた?」
ラーミフは驚いたように口に手を当てた。
「お兄様の鎖を外して逃げたと言うの?」
「有り得ん」
王子の答えは早かった。
「俺の前から逃れたあとであっても――リ・ガンの動向は手に取るように掴めていたのだ。いまや南の
「消えた?」
ラーミフの言葉にアスレンは黙ったが、それは即ち肯定であった。
「このようなことができると言うのなら、さっさと逃れておればよいのだ。それを――翡翠を目覚めさせたあとで、為した。まるでわざわざ、翡翠の目覚めを俺に教えるかのように」
「でも、お兄様の力が〈触媒〉などに劣るはずがないでしょう」
兄の不満が「リ・ガンが逃げた」ことよりも、「自身の術が破られたかもしれない」ことに因するのだと知った妹はそう言った。機嫌を取るためでも
「無論だ」
アスレンが応じるのもまた、自惚れや傷ついた自尊心を癒すためではなく、淡々と事実――であるはずのこと――を語ったものだった。
「あのような中途半端な存在に、我が力が劣る訳がない」
しかし何かがあった。それだけは確かだ、と言うようなことを王子は言った。
「きれいに消えてしまったの? まるで、
「――
第一王子は王女の言葉を繰り返した。
「手品ならば、種があるな」
兄の目が考えるように細められるのをラーミフはうっとりと見ていた。
「確かに……残るものは、ある」
アスレンの声は囁きのようで、ラーミフにはよく聞き取れなかった。彼女はこれ以上は兄の言葉を聞き逃すまいとするかのように、羽根のように軽い足取りで兄の傍らに寄っていった。
「ラーミフ」
かけられた声に、王女の瞳が輝いた。
「私に何かできることがあるの? お兄様」
「いや」
期待に満ちた声は、しかし簡単に否定された。
「お前にはしばらく我慢をしてもらおう。愛人をひとり、借りるぞ」
「まあ」
ラーミフは笑った。
「お兄様は、ずるい。ラーミフから楽しみをみんな奪ってしまう気だわ」
「馬鹿なことを」
アスレンは一蹴した。
「どんな状況であろうと、お前は楽しむのであろうに」
言われたラーミフはくすくすと笑った。
「ねえ、アスレン。私では駄目かしら? 話に聞くような男なら、陥とすまでもないのでしょう?」
「今度は、そちらをねだるのか。ソレスはもうよいのか」
不興を湛えていたアスレンの目が楽しそうな色を帯び始めた。
「気の多い女だ」
「そんなことないわ」
ラーミフはどこか拗ねたような口調で言った。
「アスレンとサズが気にする相手だもの。ラーミフがそのどちらとも遊びたいと言ったって、不思議じゃないでしょう」
「不思議ではない。気が多いなと言ったのだ」
「嘘よ、そんなことないわ」
ラーミフはまた、アスレンの言葉を否定した。
「私にはアスレンだけ」
甘い吐息とともに耳元で発せられるその言葉に、彼女の兄はかけらも心を動かされた様子はなかった。ラーミフはそれに気づくとまた拗ねたような顔をする。兄とそう幾つも違わぬ妹は、しかしそうするとずいぶんと幼く、少女めいて見えた。
「ファドック・ソレスにかけている術は何なの、アスレン。何のためにあんな術を使うの。操るのなら、もっと簡単な方法がいくらでもあるじゃない」
「俺の好きなように操っても意味がない。俺にいささか目を隠されていたところで、全ての判断はあやつ自身の内から出るのだ。完璧な近衛隊長は、貴族どもには評価が高いようだな」
アスレンはそう返し、続けた。
「リ・ガンのことはもちろん、〈鍵〉のこともあれば、揺らぎの見え出したラクトルの〈要〉のこともある。俺も常に忠犬を観察し続ける訳にはいかないからな。俺が目を放した隙に勝手をされては面倒だが、ああやっておけば何も馬鹿なことはできぬだろう」
「でも」
妹は口を挟んだ。
「守り手としての守護力を発揮されたら面倒なのではなくて?」
「何の」
アスレンは肩をすくめた。
「時には、逆らうようでなくては面白くない。――いつもでは、苛つかされるがな」
もちろんこの妹王女が兄王子の言葉に意見や反論を述べることなどなかった。だが、母女王サクリエルならば言ったであろうか。彼が好むのは、「予想通りに逆らう」騎士であり、それを越えたときに苛つくのだろうと。
「第一、翡翠の影響力を抑制できるのは翡翠だけであろうな。あやつから『本能』を取り去るのは難しかろう」
「そう、どうしてもラーミフに手を出すなと言うのね」
ラーミフは軽く肩をすくめてから、小さく首をかしげて兄を見た。
「――本当は? アスレン」
妹は問うた。兄は微かに笑う。ラーミフはそれをじっと見て、また拗ねたように唇を尖らせた。
「判ったわ。お兄様は、あの男がお兄様のために悩み、苦しんでいる姿を他者に見せたくないのでしょう」
「それは、なかなか」
アスレンは同じ笑みのままで言った。
「穿った見方をするものだな、妹よ」
「私はやっぱり、ファドック・ソレスの方が良いわ。お願い、お兄様」
「駄目だ。お前はそのまま、大人しくしていろ」
それがアスレンの返答――或いは命令だった。ラーミフはつまらないと言うように首を少しかしげた。アスレンはそれを見ながら、少し考えるようにして、続けた。
「いや。そうだな。近いうちにお前にも、引き合わせてやろう」
王女は目を妖しく輝かせた。
それから唇を美しく笑みの形に作ると兄に寄り、礼のようなことを言うと素早く口づける。アスレンは黙ってその肩を押しやり、やはりその行為に何か感情の動いた様子のない目で妹を見た。
その瞳を見た王女はもう一度、嬉しそうに笑って踵を返すのだった。