5 何から聞いたら
文字数 3,189文字
夕刻前に店を開いた〈聖なる槍〉亭の主人は、気づいたとしてもそうでないとしても、異国の青年の連れが吟遊詩人から美女に変わったことについて、何も言わなかった。
シーヴは宿を変えようかとも考えたが、もしクラーナが戻ってくるなら同じところにいた方がいいだろうと思ってやめた。だが同時に、吟遊詩人は戻ってこないだろうとも判ってもいた。彼の道標としての役割は終わったのだ。
先の盗賊 たちが再びやってくる危険性についても考えたが、魔術師 に派手にやられた記憶と身体は、シーヴへの仕返しや彼の財布への魅惑を忘れるほど痛いはずだ。
「しかし」
シーヴが口火を切った。
「何から聞いたらいいもんか、な」
だがその火はずいぶんと小さかった。シーヴの方はエイラと違って、彼女が「リ・ガン」とか言うものだとの確信がない。
「たぶん、私に答えられることは少ない」
エイラの言い方に、シーヴはクラーナの「制限」を思い出す。だが彼女の言うのはそうではないらしい。
「あんたが〈鍵〉だってことは判ったけど、どうして判るのか、それが判らない。宮殿に関しても同じだ。突然……判ったけど、どうして判るのか」
「判らない、か」
シーヴが言うとエイラはうなずく。
「それじゃ、宮殿に行けば判るか?」
「どうだろう。そうなんじゃないかと思うけど、虫がよすぎるかな」
エイラがライファム酒の杯をいじり回しながら困惑したように言うのを見ると、シーヴはふと安心した。では彼女の立っている位置も、彼とほとんど変わらないのだ。
「それじゃそっちの番でいい」
「私の?」
エイラはシーヴが何を言っているのか判らない、と言うように彼を見た。
「俺に訊きたいことが山ほどあるんだろう?〈鍵〉がどうの、は俺も判らないが、それ以外にもあるんなら答えようじゃないか」
エイラは迷った。すっと頭に浮かんだ疑問は、何故シーヴがアーレイドにきたのか――であったが、それを口にすることはできなかった。どこでリャカラーダ王子を見たのか、という話はあまりしたくなかったからだ。
「どうして……王子殿下がこんな旅なんか?」
判りきった疑問を口にした。シーヴはやはり、判っているだろうと肩をすくめる。
「俺の〈翡翠の娘〉を見つけるためだった」
「〈翡翠の娘〉?」
「お前のことのようだな」
娘、という言われようは好まないが、そう言われて思い出すこともある。
「それじゃ、あの塔で言ったのは」
「俺が何を言った?」
覚えていない、とシーヴは言う。何でもない、とエイラは首を振った。
(お前は俺の翡翠の――)
そのあとには、何とも単純な「娘」という一語がつくだけだったのだ。エイラはこっそり苦笑した。
彼女は、シーヴが彼女をリ・ガンという「モノ」として見る存在、リ・ガンを利用しようとする存在ではないかと錯覚したのである。こうしてシーヴに相対するいまでは、何故そんな馬鹿げた錯覚などができたのか判らない!
そうだ、思えば単純なことだった。シーヴ――リャカラーダを目にしたその日だったではないか。エイル少年に、突然の変化が訪れたのは。
「子供の頃、そういう予言を受けたんだ」
そんなふうにしてシーヴは、自身が受け取り、受け入れた占い師の言葉をエイラに語った。同じように、エイラもずっと背負ってきた予言について話す。但し、「ふたつの心」がどうの、という件 については、何となく口をつぐんでいた。
正直なところ、ふたつの「身体」ならばともかく「心」というのは判らない。占い師が何か言い間違えたか、それとも間違って記憶しているのだろうか、と思うこともある。
だが、仮に「身体」の話だとしても、やはりあまり言いたくはない。
〈鍵〉相手ならばそれを話しても問題はないかもしれない。エイラでありエイルであるという話をしても。彼女が目の前で少年の姿になって見せたところで、驚きはしても受け入れてくれるかもしれない。ほんの少しだけ、そう言った望みも抱いた。
しかし彼女はそれを試そうとはしなかった。
まだ気持ちに踏ん切りが着かないせいもある。そして同時に、シーヴが探していたのが〈娘〉であるという言葉が、エイラの本当の姿を語るのを躊躇わせた。
「何ともはや、奇妙な話だな。予言なんていう曖昧なものを信じて、東国の俺と西端のお前がこうして南で」
シーヴのため息混じりの言葉にうなずきかけて、エイラははっとなった。
「西端 ?」
「違うのか?」
「それも、予言にあったのか?」
「いや、だがお前はあのとき、あの場所にいただろう」
シーヴは続ける。
「アーレイド城」
「なっ何で!」
思わず叫んでがたん、と立ち上がったエイラは、酒場の客たちの注視を受ける。それに気づくとエイラは赤面し、もごもごと言い訳のような言葉を呟いて座り直した。シーヴは少し驚いてそれを見ながら、俺が知っていたら拙 かったか、などと尋ねた。
「拙かないけど……な、何で知ってるのかと思って」
エイラは少しどもる。
「お前だって、俺をリャカラーダだと知っていたじゃないか」
知られているはずもないことを知っていると言われて仰天したのならお互い様だ、などとシーヴは考えた。
「あの夜、お前があの城内にいたことだけは間違いない。〈翡翠の娘〉がもうひとりいるんじゃなければな」
そう口にしてシーヴは唇を歪めた。冗談を言ったつもりだが、そんなことを思いついた自分が可笑しかった。もうひとり探し出せなどと言われては、たまらない。
「城のどこで何をしていたのか知らんが、東国の第三王子を歓迎する宴があったことくらいは覚えてるだろう? あの日、俺は宴から退いたあと――何と言うのか」
また、唇を歪めた。〈予言〉について語るのも馬鹿げていると思ったが、エイラに対して話すのに抵抗はなかった。だがこれは、誰が相手でも馬鹿げている。
「啓示 みたいなものを感じたんだ」
それでも敢えて続けた。
「啓示だって?」
「そう」
笑わないでもらえるとは助かるな、などと言って、シーヴは自身が体験したことを語った。突然彼の世界が白くなり、近くに〈翡翠の娘〉がいると確信したこと。だが、すぐにその気配を失ったこと。
護衛騎士と対峙したことについては、特に語らなかった。隠す意図はなく、別に話す必要はないと思っただけだ。
「それは確かに、私だ」
エイラは、隠しごとを指摘された子供のように渋々と認めた。
「あの夜、私は……初めて、その」
どう言おうか、彼女は迷った。エイラに変わった、とは言えない。
「あんたは啓示だって言ったけど、似たようなもの、かな。私はあの夜、初めて、その……リ・ガンとしての啓示を受けた」
言い淀むエイラにシーヴは一瞬 おかしな想像をしたが、すぐにそれは振り払った。
娘が恥じらいながら言う「夜」だの「初めて」だのという単語からの連想をエイラが知れば、口を歪めてまずいものでも食べたような顔をしたか、顔を真っ赤にして怒鳴ったか、どちらかであっただろう。もし南の伯爵閣下ならば、躊躇うことなくそれを口にして相手を赤く――怒りによってでも恥じらいによってでも――させただろうが。
「それが俺に伝わったのか」
思いついた冗談を口にするのは避け、シーヴはそうとだけ言った。
「あのときは、何も知らなかった」
もちろんエイラはシーヴの内に浮かんだ考えなど知らないから、ただあの夜を思い出してそう言う。
事実、それは何という狂いだっただろう。「歯車の狂い」さえなければ、彼らは半年前に出会い、目覚めていたはずだ。
遅くとも、である。運命が導けば、それよりもずっと出会いは早かったかもしれないのだ。
シーヴは宿を変えようかとも考えたが、もしクラーナが戻ってくるなら同じところにいた方がいいだろうと思ってやめた。だが同時に、吟遊詩人は戻ってこないだろうとも判ってもいた。彼の道標としての役割は終わったのだ。
先の
「しかし」
シーヴが口火を切った。
「何から聞いたらいいもんか、な」
だがその火はずいぶんと小さかった。シーヴの方はエイラと違って、彼女が「リ・ガン」とか言うものだとの確信がない。
「たぶん、私に答えられることは少ない」
エイラの言い方に、シーヴはクラーナの「制限」を思い出す。だが彼女の言うのはそうではないらしい。
「あんたが〈鍵〉だってことは判ったけど、どうして判るのか、それが判らない。宮殿に関しても同じだ。突然……判ったけど、どうして判るのか」
「判らない、か」
シーヴが言うとエイラはうなずく。
「それじゃ、宮殿に行けば判るか?」
「どうだろう。そうなんじゃないかと思うけど、虫がよすぎるかな」
エイラがライファム酒の杯をいじり回しながら困惑したように言うのを見ると、シーヴはふと安心した。では彼女の立っている位置も、彼とほとんど変わらないのだ。
「それじゃそっちの番でいい」
「私の?」
エイラはシーヴが何を言っているのか判らない、と言うように彼を見た。
「俺に訊きたいことが山ほどあるんだろう?〈鍵〉がどうの、は俺も判らないが、それ以外にもあるんなら答えようじゃないか」
エイラは迷った。すっと頭に浮かんだ疑問は、何故シーヴがアーレイドにきたのか――であったが、それを口にすることはできなかった。どこでリャカラーダ王子を見たのか、という話はあまりしたくなかったからだ。
「どうして……王子殿下がこんな旅なんか?」
判りきった疑問を口にした。シーヴはやはり、判っているだろうと肩をすくめる。
「俺の〈翡翠の娘〉を見つけるためだった」
「〈翡翠の娘〉?」
「お前のことのようだな」
娘、という言われようは好まないが、そう言われて思い出すこともある。
「それじゃ、あの塔で言ったのは」
「俺が何を言った?」
覚えていない、とシーヴは言う。何でもない、とエイラは首を振った。
(お前は俺の翡翠の――)
そのあとには、何とも単純な「娘」という一語がつくだけだったのだ。エイラはこっそり苦笑した。
彼女は、シーヴが彼女をリ・ガンという「モノ」として見る存在、リ・ガンを利用しようとする存在ではないかと錯覚したのである。こうしてシーヴに相対するいまでは、何故そんな馬鹿げた錯覚などができたのか判らない!
そうだ、思えば単純なことだった。シーヴ――リャカラーダを目にしたその日だったではないか。エイル少年に、突然の変化が訪れたのは。
「子供の頃、そういう予言を受けたんだ」
そんなふうにしてシーヴは、自身が受け取り、受け入れた占い師の言葉をエイラに語った。同じように、エイラもずっと背負ってきた予言について話す。但し、「ふたつの心」がどうの、という
正直なところ、ふたつの「身体」ならばともかく「心」というのは判らない。占い師が何か言い間違えたか、それとも間違って記憶しているのだろうか、と思うこともある。
だが、仮に「身体」の話だとしても、やはりあまり言いたくはない。
〈鍵〉相手ならばそれを話しても問題はないかもしれない。エイラでありエイルであるという話をしても。彼女が目の前で少年の姿になって見せたところで、驚きはしても受け入れてくれるかもしれない。ほんの少しだけ、そう言った望みも抱いた。
しかし彼女はそれを試そうとはしなかった。
まだ気持ちに踏ん切りが着かないせいもある。そして同時に、シーヴが探していたのが〈娘〉であるという言葉が、エイラの本当の姿を語るのを躊躇わせた。
「何ともはや、奇妙な話だな。予言なんていう曖昧なものを信じて、東国の俺と西端のお前がこうして南で」
シーヴのため息混じりの言葉にうなずきかけて、エイラははっとなった。
「
「違うのか?」
「それも、予言にあったのか?」
「いや、だがお前はあのとき、あの場所にいただろう」
シーヴは続ける。
「アーレイド城」
「なっ何で!」
思わず叫んでがたん、と立ち上がったエイラは、酒場の客たちの注視を受ける。それに気づくとエイラは赤面し、もごもごと言い訳のような言葉を呟いて座り直した。シーヴは少し驚いてそれを見ながら、俺が知っていたら
「拙かないけど……な、何で知ってるのかと思って」
エイラは少しどもる。
「お前だって、俺をリャカラーダだと知っていたじゃないか」
知られているはずもないことを知っていると言われて仰天したのならお互い様だ、などとシーヴは考えた。
「あの夜、お前があの城内にいたことだけは間違いない。〈翡翠の娘〉がもうひとりいるんじゃなければな」
そう口にしてシーヴは唇を歪めた。冗談を言ったつもりだが、そんなことを思いついた自分が可笑しかった。もうひとり探し出せなどと言われては、たまらない。
「城のどこで何をしていたのか知らんが、東国の第三王子を歓迎する宴があったことくらいは覚えてるだろう? あの日、俺は宴から退いたあと――何と言うのか」
また、唇を歪めた。〈予言〉について語るのも馬鹿げていると思ったが、エイラに対して話すのに抵抗はなかった。だがこれは、誰が相手でも馬鹿げている。
「
それでも敢えて続けた。
「啓示だって?」
「そう」
笑わないでもらえるとは助かるな、などと言って、シーヴは自身が体験したことを語った。突然彼の世界が白くなり、近くに〈翡翠の娘〉がいると確信したこと。だが、すぐにその気配を失ったこと。
護衛騎士と対峙したことについては、特に語らなかった。隠す意図はなく、別に話す必要はないと思っただけだ。
「それは確かに、私だ」
エイラは、隠しごとを指摘された子供のように渋々と認めた。
「あの夜、私は……初めて、その」
どう言おうか、彼女は迷った。エイラに変わった、とは言えない。
「あんたは啓示だって言ったけど、似たようなもの、かな。私はあの夜、初めて、その……リ・ガンとしての啓示を受けた」
言い淀むエイラにシーヴは一
娘が恥じらいながら言う「夜」だの「初めて」だのという単語からの連想をエイラが知れば、口を歪めてまずいものでも食べたような顔をしたか、顔を真っ赤にして怒鳴ったか、どちらかであっただろう。もし南の伯爵閣下ならば、躊躇うことなくそれを口にして相手を赤く――怒りによってでも恥じらいによってでも――させただろうが。
「それが俺に伝わったのか」
思いついた冗談を口にするのは避け、シーヴはそうとだけ言った。
「あのときは、何も知らなかった」
もちろんエイラはシーヴの内に浮かんだ考えなど知らないから、ただあの夜を思い出してそう言う。
事実、それは何という狂いだっただろう。「歯車の狂い」さえなければ、彼らは半年前に出会い、目覚めていたはずだ。
遅くとも、である。運命が導けば、それよりもずっと出会いは早かったかもしれないのだ。