03 挑発
文字数 5,122文字
猫は、相変わらず、ただの猫だった。
少なくともそう見えた。
「隠された翡翠」とこの白猫に関わりがあるという考えは、魔術的なものに不審の念を抱くゼレット・カーディルにはあまりにも胡乱に思えた。
しかし同時に、彼がその疑いを抱いたときからだった。サズが「翡翠は隠されている」と言う言い方から「ゼレットが隠している」という言い方をするようになったのは。
「考えごとですか」
かけられた声に、伯爵ははっと顔をあげた。
「――何をしている!」
「何を……と申されましても」
珍しくも怒りのこもったその声に、しかしミレインは肩をすくめただけだった。
「仕事ですわ」
「寝ていろと言ったろう、命令だぞ、これは」
「そのご命令は聞けませんわね」
言うとミレインはゼレットの横までやってきて、普段の三倍以上はゆうにある紙束を主人の卓の上に置いた。
「私どもがいなければ、閣下はどの書類がいつまでに必要か、本当に急ぎなのか、ろくに読まずに破り捨ててしまっていいのか、さっぱりお判りになりませんでしょう? タルカスとマルドは私が倒れたことまでは知りませんから、黙って寝かせておくべきですが」
「答えになっておらん!」
ゼレットは苛々と怒鳴ると立ち上がった。素早くミレインの腕を掴んでそのまま抱き上げようとするが、女性執務官は拒んだ。
「おやめ下さい。平気ですのよ。……これが尋常の病でないことは判ります。魔術師 に頼んで、熱の苦しみを無視する術をかけてもらいました」
「何だと」
ゼレットは困惑したように動きをとめたが、その手はミレインを掴んだままだった。
「説得しようとしたのですが、なかなかに吝嗇でして。半刻分しかかけてもらえませんでしたわ。書類の整理にもう四カイはかかってしまいましたので、余計なお喋りの暇はございません、閣下」
ミレインは書類の天辺をとん、と叩いてゼレットにそれを読むよう促した。
「……では、あと二カイで休むのだな」
「そうですわ 」
但し、とミレインは付け加える。
「閣下が二カイで急ぎのお仕事を済ませてくだされば、です」
この脅迫 にゼレットはうなり声をあげて紙の束に手を伸ばした。
タルカスとマルドもまた、幾ら何でも自身の病状はおかしいと考え出していた。ろくに動けぬくせに無理やり寝台から離れようとする、と閉口した看護人が伯爵に泣きつき、ゼレットは非常に渋々と魔術師を彼らの元に送った。
こうして三人の執務官はカーディル城の自室に戻り、一日に半刻だけ業務を行ったが、術をかけた魔術師が警告をしなくてもゼレットには判っていた。治った訳でもないのにそれをごまかすような方法が、彼らの身体によいはずがないのだ。
「強情を張られますね」
「お前に言われたくないがな」
もはやサズは魔術師としての能力をゼレットに隠すつもりはなく、ゼレットの方も自称レンの王甥が扉も開けずに室内に現れたとしても、もう驚かなくなっていた。
「召使いたちも、人数が減っているようですが?」
「うるさい」
ゼレットは苛ついた調子でサズを睨みつける。
「魔術師協会 などは助けにならないと申し上げましたでしょう」
サズが言うのは、しかし事実だった。
協会は、何やら奇妙な力が城に働いていることは認めたものの、それがどういう性質のものであるか、誰――或いは、何――が発しているものなのか、見当もつけられなかったからだ。
一方でサズは、ほとんど想像のようなものだろうが、おそらくは正しい推測をつけている。
――翡翠 。
サズが、自分の仕業ではないと誓った言葉を頭から信じた訳ではなかったが、この魔術師は彼を脅すつもりならばもっと違うやり方をするのではないかと言う気がした。
同じようにゼレット本人ではなく他者を脅かすとしても、こうしてじわじわと彼の周辺を蝕んでいくのではなく、もっと直接的な方法を選びそうに思えた。もし、サズがミレインにでも刃を突きつけてゼレットに翡翠の在処を問えば、彼はもっと簡単に陥ちるかもしれない。
サズもそれくらいのことは理解していそうなものだが――それは王甥殿下の好みに合わない、とでもいうところだろうか?
「お前に借りなど作らぬと、俺も申し上げた はずだが」
「閣下ご自身は、かまわないのでしょうが」
サズは、ゼレットの皮肉を無視した。
「守り手でいらっしゃいますからね。近しい方々が倒れる穢れも閣下には悪影響を及ぼさない」
「それは」
ゼレットは苦々しい顔をした。
「脅迫だな」
「滅相もない」
サズは肩をすくめる。
「閣下は私を強情だと思われるようですが、先に申し上げました通り、閣下の方こそ相当のものですね」
魔術師は掌を上にしてゼレットを指し示すような動作をした。
「そうして、何を待つのです? 城の召使いたちまで全員、倒れるのを待つおつもりですか? もし、私がこの穢れに耐えかねて倒れるなり、ここを出ていくなりすることを期待しておいでなら、的外れです」
「何。そのようなことは考えておらん」
ゼレットは言った。
「お前にはむしろ、穢れとやらは心地よいものなのではないのか」
「私は魔物ではございませんよ」
「似たようなものだろうが」
ゼレットが言い捨てると、サズは笑った。
「似て非 なるもの 、です」
そう言って「似ている」ことを肯定したレンの王甥は、ふとその目を閉じた。
「……どうすれば、閣下のお心が溶けるのでしょうね。安心して、翡翠を呼んでいただくには」
「まず、お前が消えることだな。我が恋人よ」
ゼレットは面白くもなさそうに口髭を歪めた。サズは薄く笑う。
「私の身分と力を知ってなお、私を抱かれる閣下の度胸には感服いたします」
「ふん」
ゼレットは「恋人」をじろじろと見た。
「先日までの頑なな態度が嘘のような変わり振りだな」
こうして接して話している昼間の落ち着いた態度のことのみならず、ゼレットが夜の彼についても評していることはサズにも判ったようだった。
「私も、かしずかれる身ですから」
サズはまた笑うが、そこには以前には見られなかった冷ややかなものの他に――奇妙な艶めかしさまでがあった。
「手練手管は、この身に受けて知っているのですよ」
「女に尽くされて悦んだ男が、同じ方法で男に尽くすというのはなかなかに聞かない話だが」
「存外に、閣下は性差に拘られますね」
サズは面白そうに言った。
「閣下はこれまで、私を男性として支配しようとされました。けれどいまは逆だと――お気づきですか?」
「何」
ゼレットの目に不満そうな光が宿る。
「……望みは何だ」
翡翠、という答えがほしいのではない。サズが翡翠を求めることなどゼレットは知っており、ゼレットが知っていることをサズも知っている。
「閣下が、心から私の助けを欲してくださること」
言いながらサズはゼレットの卓の前まで足を進めた。
「有り得んな」
「閣下はそう、言われる。……ですから」
サズは、木の机を縁を指でなぞるようにしながらそれを半周し、伯爵のすぐ横までたどり着いた。
「ですから、私は」
笑いを含んだ声が吐息がかかるほどゼレットに近く寄った。そこにはミオノールがシーヴに見せたような明らかな誘惑はなく、ゼレットの方にも、砂漠の青年が女魔術師に感じたような、誘惑されることへの腹立ちはない。
しかしサズは間違いなくゼレットを挑発しており、ゼレットはどう応じてやろうかと思う――これは、惑わされはせずとも誘いに乗っていると言うことになるやも、しれなかった。
「だから」
言うとゼレットはサズの腕を掴んで無理矢理引き寄せ、形ばかりの抵抗をするサズを難なく彼の膝の上に座らせた。そのまま肩を抱いて顔を寄せ、しかし唇は合わせなかった。
「だから、俺を支配しようと言うのか。お前の助けの前に、お前の身体を欲するようにさせようと?」
「閣下」
サズの唇が両端、上がった。
「――ミレイン殿の香りがしますね。病に苦しんでいる女性に無茶を仰ってはいけませんよ」
「ミレインの名を口にするな」
低い声でゼレットは言った。
「何故ですか。私が閣下の『女』の名を口にのぼせれば、彼女が汚れるとでも?」
「そうだ」
ゼレットはきっぱりと言った。サズは笑う。
「こんなに冷たい恋人ははじめてですよ、閣下」
言うとサズは、初めて自分の方から「恋人」の唇を求めた。たとえばこれが女術師に迫られた砂漠の青年ででもあったなら、彼は嫌悪を持ってそれを拒絶するだろう。しかしゼレットとサズの間ではこれは誘惑というよりは挑戦となる。
ゼレットは負けじとばかりに激しくそれを返し――ふと、急に身を離した。
「閣下?」
サズが不審そうに言ったのは、ゼレットが口づけをやめたからではなく――伯爵の瞳に一瞬 、何かが走ったのを見て取ったからである。それは、迷い、躊躇い、それとも怖れと言われるものに似ており、ゼレット・カーディルがこれまで青年に見せていたどんな表情とも異なった。
「どう、されたのです?」
「――いや」
ゼレットは言葉を濁した。彼の耳には、確かに届いたのだ。扉にぱたりと触れる、小さな手の音。
「何でもない」
言うとゼレットは中断した口づけを再開しようとしたが、魔術師は自身の手を顔の前に持ってきてそれを留めた。
「閣下」
囁くように言う。
「それ は――何です?」
「何だと」
ゼレットもまた、小さく返した。
「それ とは、何だ」
「驚きましたね」
魔術師はゆっくりと言った。
「これまで、ごまかしなど一度もなさらなかったあなたが――そのような欺騙を。まるでどこにでもいる男のように、熱いキスで恋人を騙そうとされるのですか?」
「何を言う」
ゼレットは不満そうに言った。
「俺が、ごまかそうとしているだと」
「ええ」
「何をだ」
「ですから」
サズはゼレットの肩を押しのけると、彼の膝に座ったままで続けた。
「それ を」
サズが手を振ると、かちゃりと音を立てて扉が――開いた。ゼレットは苦い顔を隠そうとしたが、うまくいかなかった。
「……猫 」
扉の外に誰が待っているのであれ、サズの予想をこう裏切るものもなかっただろう。
「あれは、俺の女のつもりなのだ」
ゼレットは言った。
「このような情景を見れば妬く」
言いながら彼は青年を膝から下ろした。白猫は開けられた扉の向こうに誰もいなかったことをどう思うのか、しばしその場に佇んでからゆっくりと伯爵の執務室に入ってきた。
「それだけ……ですか」
「何か、気になることでもあったか」
ゼレットは肩をすくめてみせた。サズは白猫と伯爵を見比べるようにする。
「なかなかどうして、気難しいのだ。あやつに噛みつかれた女はひとりやふたりではないぞ」
「それだけ、閣下は魅力的でいらっしゃると言うことですか」
その言葉に、どうだろうかと言うようにゼレットは両手を挙げた。
「お前の目には――どう映る?」
「そうですね」
サズは薄く笑った。
「私の目には、やはり閣下はごまかそうとしていらっしゃるとしか」
ゼレットは口髭を歪めた。
「何故だ」
「お気づきではありませんか。閣下はそのように、まるでわたくしを口説くかのような言葉を吐かれたことはございません」
「そうであったか?」
ゼレットは首をかしげると、すっとサズの手を取った。
「殿下 が甘い言葉をお望みとは知らなかった。今宵はそうしてお仕えして進ぜよう」
「おやめください」
しかしサズはその遊戯には乗ってこなかった。ゼレットの手を払う。
「意外でしたね。ではあれが――閣下が隠そうとされている、もの」
「何を訳の判らんことを」
ゼレットは笑った。笑おうとした、と言うのが正しかっただろうか。
「猫の首輪に翡翠がついているとでも思うのか?」
「まさか」
サズはじっと白猫カティーラを見た。
「けれど、あれがただの猫であるのなら、私はレン王家から離れてもようございます」
冷たい視線に気づくと、カティーラはフーッと怒りの声を出した。
「よいものを見せていただいたようです、閣下。それでは、そろそろお別れと――参りましょうか?」
少し寂しいですが――と言って魔術師は両掌を上に向けると、冷たい目をしてカーディル伯爵を見た。
少なくともそう見えた。
「隠された翡翠」とこの白猫に関わりがあるという考えは、魔術的なものに不審の念を抱くゼレット・カーディルにはあまりにも胡乱に思えた。
しかし同時に、彼がその疑いを抱いたときからだった。サズが「翡翠は隠されている」と言う言い方から「ゼレットが隠している」という言い方をするようになったのは。
「考えごとですか」
かけられた声に、伯爵ははっと顔をあげた。
「――何をしている!」
「何を……と申されましても」
珍しくも怒りのこもったその声に、しかしミレインは肩をすくめただけだった。
「仕事ですわ」
「寝ていろと言ったろう、命令だぞ、これは」
「そのご命令は聞けませんわね」
言うとミレインはゼレットの横までやってきて、普段の三倍以上はゆうにある紙束を主人の卓の上に置いた。
「私どもがいなければ、閣下はどの書類がいつまでに必要か、本当に急ぎなのか、ろくに読まずに破り捨ててしまっていいのか、さっぱりお判りになりませんでしょう? タルカスとマルドは私が倒れたことまでは知りませんから、黙って寝かせておくべきですが」
「答えになっておらん!」
ゼレットは苛々と怒鳴ると立ち上がった。素早くミレインの腕を掴んでそのまま抱き上げようとするが、女性執務官は拒んだ。
「おやめ下さい。平気ですのよ。……これが尋常の病でないことは判ります。
「何だと」
ゼレットは困惑したように動きをとめたが、その手はミレインを掴んだままだった。
「説得しようとしたのですが、なかなかに吝嗇でして。半刻分しかかけてもらえませんでしたわ。書類の整理にもう四カイはかかってしまいましたので、余計なお喋りの暇はございません、閣下」
ミレインは書類の天辺をとん、と叩いてゼレットにそれを読むよう促した。
「……では、あと二カイで休むのだな」
「
但し、とミレインは付け加える。
「閣下が二カイで急ぎのお仕事を済ませてくだされば、です」
この
タルカスとマルドもまた、幾ら何でも自身の病状はおかしいと考え出していた。ろくに動けぬくせに無理やり寝台から離れようとする、と閉口した看護人が伯爵に泣きつき、ゼレットは非常に渋々と魔術師を彼らの元に送った。
こうして三人の執務官はカーディル城の自室に戻り、一日に半刻だけ業務を行ったが、術をかけた魔術師が警告をしなくてもゼレットには判っていた。治った訳でもないのにそれをごまかすような方法が、彼らの身体によいはずがないのだ。
「強情を張られますね」
「お前に言われたくないがな」
もはやサズは魔術師としての能力をゼレットに隠すつもりはなく、ゼレットの方も自称レンの王甥が扉も開けずに室内に現れたとしても、もう驚かなくなっていた。
「召使いたちも、人数が減っているようですが?」
「うるさい」
ゼレットは苛ついた調子でサズを睨みつける。
「
サズが言うのは、しかし事実だった。
協会は、何やら奇妙な力が城に働いていることは認めたものの、それがどういう性質のものであるか、誰――或いは、何――が発しているものなのか、見当もつけられなかったからだ。
一方でサズは、ほとんど想像のようなものだろうが、おそらくは正しい推測をつけている。
――
サズが、自分の仕業ではないと誓った言葉を頭から信じた訳ではなかったが、この魔術師は彼を脅すつもりならばもっと違うやり方をするのではないかと言う気がした。
同じようにゼレット本人ではなく他者を脅かすとしても、こうしてじわじわと彼の周辺を蝕んでいくのではなく、もっと直接的な方法を選びそうに思えた。もし、サズがミレインにでも刃を突きつけてゼレットに翡翠の在処を問えば、彼はもっと簡単に陥ちるかもしれない。
サズもそれくらいのことは理解していそうなものだが――それは王甥殿下の好みに合わない、とでもいうところだろうか?
「お前に借りなど作らぬと、俺も
「閣下ご自身は、かまわないのでしょうが」
サズは、ゼレットの皮肉を無視した。
「守り手でいらっしゃいますからね。近しい方々が倒れる穢れも閣下には悪影響を及ぼさない」
「それは」
ゼレットは苦々しい顔をした。
「脅迫だな」
「滅相もない」
サズは肩をすくめる。
「閣下は私を強情だと思われるようですが、先に申し上げました通り、閣下の方こそ相当のものですね」
魔術師は掌を上にしてゼレットを指し示すような動作をした。
「そうして、何を待つのです? 城の召使いたちまで全員、倒れるのを待つおつもりですか? もし、私がこの穢れに耐えかねて倒れるなり、ここを出ていくなりすることを期待しておいでなら、的外れです」
「何。そのようなことは考えておらん」
ゼレットは言った。
「お前にはむしろ、穢れとやらは心地よいものなのではないのか」
「私は魔物ではございませんよ」
「似たようなものだろうが」
ゼレットが言い捨てると、サズは笑った。
「
そう言って「似ている」ことを肯定したレンの王甥は、ふとその目を閉じた。
「……どうすれば、閣下のお心が溶けるのでしょうね。安心して、翡翠を呼んでいただくには」
「まず、お前が消えることだな。我が恋人よ」
ゼレットは面白くもなさそうに口髭を歪めた。サズは薄く笑う。
「私の身分と力を知ってなお、私を抱かれる閣下の度胸には感服いたします」
「ふん」
ゼレットは「恋人」をじろじろと見た。
「先日までの頑なな態度が嘘のような変わり振りだな」
こうして接して話している昼間の落ち着いた態度のことのみならず、ゼレットが夜の彼についても評していることはサズにも判ったようだった。
「私も、かしずかれる身ですから」
サズはまた笑うが、そこには以前には見られなかった冷ややかなものの他に――奇妙な艶めかしさまでがあった。
「手練手管は、この身に受けて知っているのですよ」
「女に尽くされて悦んだ男が、同じ方法で男に尽くすというのはなかなかに聞かない話だが」
「存外に、閣下は性差に拘られますね」
サズは面白そうに言った。
「閣下はこれまで、私を男性として支配しようとされました。けれどいまは逆だと――お気づきですか?」
「何」
ゼレットの目に不満そうな光が宿る。
「……望みは何だ」
翡翠、という答えがほしいのではない。サズが翡翠を求めることなどゼレットは知っており、ゼレットが知っていることをサズも知っている。
「閣下が、心から私の助けを欲してくださること」
言いながらサズはゼレットの卓の前まで足を進めた。
「有り得んな」
「閣下はそう、言われる。……ですから」
サズは、木の机を縁を指でなぞるようにしながらそれを半周し、伯爵のすぐ横までたどり着いた。
「ですから、私は」
笑いを含んだ声が吐息がかかるほどゼレットに近く寄った。そこにはミオノールがシーヴに見せたような明らかな誘惑はなく、ゼレットの方にも、砂漠の青年が女魔術師に感じたような、誘惑されることへの腹立ちはない。
しかしサズは間違いなくゼレットを挑発しており、ゼレットはどう応じてやろうかと思う――これは、惑わされはせずとも誘いに乗っていると言うことになるやも、しれなかった。
「だから」
言うとゼレットはサズの腕を掴んで無理矢理引き寄せ、形ばかりの抵抗をするサズを難なく彼の膝の上に座らせた。そのまま肩を抱いて顔を寄せ、しかし唇は合わせなかった。
「だから、俺を支配しようと言うのか。お前の助けの前に、お前の身体を欲するようにさせようと?」
「閣下」
サズの唇が両端、上がった。
「――ミレイン殿の香りがしますね。病に苦しんでいる女性に無茶を仰ってはいけませんよ」
「ミレインの名を口にするな」
低い声でゼレットは言った。
「何故ですか。私が閣下の『女』の名を口にのぼせれば、彼女が汚れるとでも?」
「そうだ」
ゼレットはきっぱりと言った。サズは笑う。
「こんなに冷たい恋人ははじめてですよ、閣下」
言うとサズは、初めて自分の方から「恋人」の唇を求めた。たとえばこれが女術師に迫られた砂漠の青年ででもあったなら、彼は嫌悪を持ってそれを拒絶するだろう。しかしゼレットとサズの間ではこれは誘惑というよりは挑戦となる。
ゼレットは負けじとばかりに激しくそれを返し――ふと、急に身を離した。
「閣下?」
サズが不審そうに言ったのは、ゼレットが口づけをやめたからではなく――伯爵の瞳に一
「どう、されたのです?」
「――いや」
ゼレットは言葉を濁した。彼の耳には、確かに届いたのだ。扉にぱたりと触れる、小さな手の音。
「何でもない」
言うとゼレットは中断した口づけを再開しようとしたが、魔術師は自身の手を顔の前に持ってきてそれを留めた。
「閣下」
囁くように言う。
「
「何だと」
ゼレットもまた、小さく返した。
「
「驚きましたね」
魔術師はゆっくりと言った。
「これまで、ごまかしなど一度もなさらなかったあなたが――そのような欺騙を。まるでどこにでもいる男のように、熱いキスで恋人を騙そうとされるのですか?」
「何を言う」
ゼレットは不満そうに言った。
「俺が、ごまかそうとしているだと」
「ええ」
「何をだ」
「ですから」
サズはゼレットの肩を押しのけると、彼の膝に座ったままで続けた。
「
サズが手を振ると、かちゃりと音を立てて扉が――開いた。ゼレットは苦い顔を隠そうとしたが、うまくいかなかった。
「……
扉の外に誰が待っているのであれ、サズの予想をこう裏切るものもなかっただろう。
「あれは、俺の女のつもりなのだ」
ゼレットは言った。
「このような情景を見れば妬く」
言いながら彼は青年を膝から下ろした。白猫は開けられた扉の向こうに誰もいなかったことをどう思うのか、しばしその場に佇んでからゆっくりと伯爵の執務室に入ってきた。
「それだけ……ですか」
「何か、気になることでもあったか」
ゼレットは肩をすくめてみせた。サズは白猫と伯爵を見比べるようにする。
「なかなかどうして、気難しいのだ。あやつに噛みつかれた女はひとりやふたりではないぞ」
「それだけ、閣下は魅力的でいらっしゃると言うことですか」
その言葉に、どうだろうかと言うようにゼレットは両手を挙げた。
「お前の目には――どう映る?」
「そうですね」
サズは薄く笑った。
「私の目には、やはり閣下はごまかそうとしていらっしゃるとしか」
ゼレットは口髭を歪めた。
「何故だ」
「お気づきではありませんか。閣下はそのように、まるでわたくしを口説くかのような言葉を吐かれたことはございません」
「そうであったか?」
ゼレットは首をかしげると、すっとサズの手を取った。
「
「おやめください」
しかしサズはその遊戯には乗ってこなかった。ゼレットの手を払う。
「意外でしたね。ではあれが――閣下が隠そうとされている、もの」
「何を訳の判らんことを」
ゼレットは笑った。笑おうとした、と言うのが正しかっただろうか。
「猫の首輪に翡翠がついているとでも思うのか?」
「まさか」
サズはじっと白猫カティーラを見た。
「けれど、あれがただの猫であるのなら、私はレン王家から離れてもようございます」
冷たい視線に気づくと、カティーラはフーッと怒りの声を出した。
「よいものを見せていただいたようです、閣下。それでは、そろそろお別れと――参りましょうか?」
少し寂しいですが――と言って魔術師は両掌を上に向けると、冷たい目をしてカーディル伯爵を見た。