4 喪失感
文字数 3,703文字
母アニーナのもとへと急ぎたい気持ちになってはいたが、ここからなら魔術師協会 を経由するのが自然な道行きだ。
エイラはフードを目深にかぶり、賑やかな中心街区 の大通りを歩いた。
冬至祭 。
街の中心にある広場に雪の三姉妹 の像が造られ、街を襲わないようにと祈りや供物を捧げる。アーレイドくらい温かいところでは雪の三姉妹への怖れはほとんどなかったから、これは形式だ。神殿 が作った聖なる蝋燭があちこちで灯され、火の神 への感謝を捧げる。こちらにはもう少し、人々の実感が込められた。南部に比べれば断然穏やかだとは言え、この地に暮らす者にとって、冬はやはり、寒いものだ。
大きな儀式や企画はほとんど終わっていたが、それでもまだ、街は普段よりも賑やかだった。去年の祭りのときは、少年は街のあちこちを走り回って雑用をこなし、いつもよりも多めの稼ぎに満足していた。あれが、たかだか一年前だとは!
エイラはもう、あれから何十年も経ったような気になっていた。ふとその辺りに目をやれば少年エイルが駆け抜けて行く姿が目に入りそうな、不思議な気持ち。
幻の少年は足を止め、口をへの字に曲げて、いったいあんたは何をやっているんだ、全く理解できない、とでもいうような顔をした。
大通りから一歩入った寂しい小路の中程に、その入り口はあった。
魔術師協会 の扉を見ると、奇妙な気持ちがした。
ずっとこの前を通り過ぎてきた日々は、ここは怖ろしい場所だと思っていた。リ・ガンとして目覚め、「魔力が発現した」という理由でここに閉じこもっている間にそんな誤解はなくなったが、それでも彼女が魔術師というものに偏見をなくしてからこの戸を見るのは、街の外からアーレイドを眺めるのと同じように、初めてのことだったのだ。
何となく深呼吸をしてから協会の戸をくぐると、昼日中にも関わらず、なかは薄暗かった。
これはどこの街でも一緒だ。ヒースリーのような薬草師が使う生薬とは違うが、やはり魔術薬にも光を嫌うものは多い。魔術を使って明るくすることなどいくらでもできるのにそうしない理由はそれだけではなかったが、魔術師を忌む人々にとってはこの薄暗さは不気味さを感じさせ、魔術師への偏見を増す「助け」にもなった。
と言うのは、たいていの術師は、避けられれば気楽でいいと考えていたからである。
「あの……」
受付の青年術師に、魔術師同士の挨拶の仕草をし──しばらくやっていなかったから、記憶を思い起こさねばならなかった──その返礼を受けたエイラはおそるおそる声を出す。
受付の術師はエイラをじっと見て「何か?」と言った。魔術師が協会に用があるならば、さっさと奥の扉から入ればよいのだ。それをしないということは、何かの手続きを求めているのだろうということになる。
「リック師に会いたいんだけど」
高位の術師は協会内に部屋を持ち、そこで仕事をすることが多い。そうした魔術師に会いたければ、取り次ぎをしてもらわなくてはならないのだ。
リックもそれだけの地位を持つ導師であり、この建物の三階に部屋を持っていた。エイルがここに缶詰めになったひと月と少しの間、彼――であったり彼女であったりしたが――は寝泊まりを含め、ほとんどの時間をそこで過ごしたものだ。〈調整〉を覚えるまでは、本当に、部屋の外に一歩もでなかった。
エイラはそんなことを思い出しながら、受付の若い術師が取り次いでくれるのを待った。
「お名前は」
「ああ――エイラ」
魔術師として登録されているのは、その名である。
「……あなたが」
術師はじっと彼女を見た。その視線に何となく気まずいものを覚え、エイラは意味もなく両手をいじった。
「それでしたら、まず、お伝えしなければなりません。エイラ術師」
「何を」
どきりとしたのは、何となく不吉なものを感じたせいだったろうか。
「リック師は、ひと月ほど前に亡くなりました」
「――え?」
その瞬時の予感が正しいものであったことに、だがエイラは理解が及ばない。
「何、だって?」
「以前から病を抱えていらしたのですが、この冬が厳しかったのでしょう。体調を崩され、そのまま」
「嘘……だろ」
もちろん――そんな性質 の悪い冗談を言う人間もそうそういない。まして、導師を訪ねてきた術師にそんなことを言う受付もいない。そう言われた術師も、エイラが動揺しているのであって自身が嘘つきだと糾弾されたのではないことは判っているから、ただ、お気の毒です、と言った。
「リック師は尊敬されておいででしたから、喪章をつけた者も多かったですよ」
黒いローブは何もしなくても葬礼の衣装のようだが、わざわざ弔意を表すというのは他者との関わりを持ちたがらない魔術師 には珍しいことだった。だがそんな慰め――なのだろうか――の言葉は、エイラの受けた衝撃を少なくする手助けには、かけらもならない。
「だってまさか……そんな」
「お年でしたけれど、若くお見えでしたからね。あなたが驚かれ、信じられないのも無理はありませんが」
言いながら術師は、何かエイラの知らぬ印を切った。反射的にさっと警戒する娘に安心させるように笑いかけ、何もない空間から――何かを取り出す。それは術師の手に触れられぬまま、卓の上に落ちた。
「リック導師が残したものです。エイラという術師が帰ってきたら、渡すようにと」
エイラは差し示されたそれを呆然としたままで手にした。それは一通の魔封書。
「導師が……?」
受付の青年はそれをじっと見やり、間違いなくエイラが手紙の受け取り主であると確認すると――魔術師の手紙には、受取人以外がそれを手にすれば警告を発する術が仕込まれていることが多い――また、お気の毒です、と繰り返した。
エイラは呆然としたままで協会をあとにし、賑やかな雑踏へと戻っていった。
手紙の封を切る気にも、なれなかった。
信じられなかったが、嘘ではないとも判っていた。
リックに聞いてもらおうと思っていた。起きた出来事の数々。判らないことに答えをもらおうと思った。答えではなくても、ちょっとした助言でもいい。
何より、彼女 はエイルであることを――そうでありたいこと、そうあろうとしていること、だが揺らぎが生じていること、それに不安を覚えていることを聞いてもらおうと思っていた。
なのに、導師はもういないと言う。
もちろん、魔術に対する何の基礎もない少年に忍耐強く指導をしてくれたリックの死はつらく、哀しい。心に穴が開いたような思いがする。
だが、それと同じくらい痛い思いが胸に浮かんだ。
それでは、もういないのだ。
彼女の本当の姿がエイルであると知っている人間は。
エイラは身を震わせた。その考えは、「エイル」にとってずいぶん不吉に思われた。いまの自分――エイラであり、リ・ガンというモノであること――と、ただのエイル少年を結ぶ糸をリックが持っていてくれるような気がしていたのだ。
それが、切れてしまった。突然に。
ぼんやりと歩を進める。
魔術師のローブを着ていなかったら、盗賊 に掏摸 のひとつも働かれること間違いなし、だ。
だがそんなことはどうでもよかった。
波乱に満ちた半年を送ってきても、帰ってくればアーレイドは変わらずそこにあると思っていた。「エイル」が関わった人々も、また。
変わってしまうとすればそれは自分で、それに対する不安は山のように抱え続けてきたけれど、いつもの顔が並んでいると思って飛び込んだ酒場で全く知らない顔ばかりに迎えられるような――そんなことがあるとは考えもしなかった。
このような喪失感を味わったことは、なかった。
エイル少年は身近に死を感じたことはなかった。
彼の父は亡かったが、父は彼が生まれる前に世を去っている。馬鹿げた予言のせいだった。母は、少年が物心着く頃にはその死を乗り越えていた――少なくともそう見せた――し、喧嘩の果てに顔見知りが死んだというようなことはあっても、それが彼の親しい友人であったとか、そういった経験はなかった。
だから、知らなかった。
よく見知って、慕わしく思っていた顔に二度と会えぬと言うこと。
抱えてきた不安は、自分が帰れぬかもしれぬ、自分はただのエイルには戻れぬだろう、ということであり、彼の愛する人々はアーレイドにいるまま、彼の知らないところで幸せに暮らしているはずだった。
しかし幻想は破られた。
自分の身に何が起ころうと、たとえ何も起こるまいと、それとは関係なく物事は変わっていく。変わらぬものなどないのだ。
涙は流さなかった。
ただ、口を結んで顔を上げた。
何かを――或いは誰かを守りたいと思うのはこういう気持ちから興るのだと、もしかしたら「少年」は知ったのかも、しれない。
エイラはフードを目深にかぶり、賑やかな
街の中心にある広場に
大きな儀式や企画はほとんど終わっていたが、それでもまだ、街は普段よりも賑やかだった。去年の祭りのときは、少年は街のあちこちを走り回って雑用をこなし、いつもよりも多めの稼ぎに満足していた。あれが、たかだか一年前だとは!
エイラはもう、あれから何十年も経ったような気になっていた。ふとその辺りに目をやれば少年エイルが駆け抜けて行く姿が目に入りそうな、不思議な気持ち。
幻の少年は足を止め、口をへの字に曲げて、いったいあんたは何をやっているんだ、全く理解できない、とでもいうような顔をした。
大通りから一歩入った寂しい小路の中程に、その入り口はあった。
ずっとこの前を通り過ぎてきた日々は、ここは怖ろしい場所だと思っていた。リ・ガンとして目覚め、「魔力が発現した」という理由でここに閉じこもっている間にそんな誤解はなくなったが、それでも彼女が魔術師というものに偏見をなくしてからこの戸を見るのは、街の外からアーレイドを眺めるのと同じように、初めてのことだったのだ。
何となく深呼吸をしてから協会の戸をくぐると、昼日中にも関わらず、なかは薄暗かった。
これはどこの街でも一緒だ。ヒースリーのような薬草師が使う生薬とは違うが、やはり魔術薬にも光を嫌うものは多い。魔術を使って明るくすることなどいくらでもできるのにそうしない理由はそれだけではなかったが、魔術師を忌む人々にとってはこの薄暗さは不気味さを感じさせ、魔術師への偏見を増す「助け」にもなった。
と言うのは、たいていの術師は、避けられれば気楽でいいと考えていたからである。
「あの……」
受付の青年術師に、魔術師同士の挨拶の仕草をし──しばらくやっていなかったから、記憶を思い起こさねばならなかった──その返礼を受けたエイラはおそるおそる声を出す。
受付の術師はエイラをじっと見て「何か?」と言った。魔術師が協会に用があるならば、さっさと奥の扉から入ればよいのだ。それをしないということは、何かの手続きを求めているのだろうということになる。
「リック師に会いたいんだけど」
高位の術師は協会内に部屋を持ち、そこで仕事をすることが多い。そうした魔術師に会いたければ、取り次ぎをしてもらわなくてはならないのだ。
リックもそれだけの地位を持つ導師であり、この建物の三階に部屋を持っていた。エイルがここに缶詰めになったひと月と少しの間、彼――であったり彼女であったりしたが――は寝泊まりを含め、ほとんどの時間をそこで過ごしたものだ。〈調整〉を覚えるまでは、本当に、部屋の外に一歩もでなかった。
エイラはそんなことを思い出しながら、受付の若い術師が取り次いでくれるのを待った。
「お名前は」
「ああ――エイラ」
魔術師として登録されているのは、その名である。
「……あなたが」
術師はじっと彼女を見た。その視線に何となく気まずいものを覚え、エイラは意味もなく両手をいじった。
「それでしたら、まず、お伝えしなければなりません。エイラ術師」
「何を」
どきりとしたのは、何となく不吉なものを感じたせいだったろうか。
「リック師は、ひと月ほど前に亡くなりました」
「――え?」
その瞬時の予感が正しいものであったことに、だがエイラは理解が及ばない。
「何、だって?」
「以前から病を抱えていらしたのですが、この冬が厳しかったのでしょう。体調を崩され、そのまま」
「嘘……だろ」
もちろん――そんな
「リック師は尊敬されておいででしたから、喪章をつけた者も多かったですよ」
黒いローブは何もしなくても葬礼の衣装のようだが、わざわざ弔意を表すというのは他者との関わりを持ちたがらない
「だってまさか……そんな」
「お年でしたけれど、若くお見えでしたからね。あなたが驚かれ、信じられないのも無理はありませんが」
言いながら術師は、何かエイラの知らぬ印を切った。反射的にさっと警戒する娘に安心させるように笑いかけ、何もない空間から――何かを取り出す。それは術師の手に触れられぬまま、卓の上に落ちた。
「リック導師が残したものです。エイラという術師が帰ってきたら、渡すようにと」
エイラは差し示されたそれを呆然としたままで手にした。それは一通の魔封書。
「導師が……?」
受付の青年はそれをじっと見やり、間違いなくエイラが手紙の受け取り主であると確認すると――魔術師の手紙には、受取人以外がそれを手にすれば警告を発する術が仕込まれていることが多い――また、お気の毒です、と繰り返した。
エイラは呆然としたままで協会をあとにし、賑やかな雑踏へと戻っていった。
手紙の封を切る気にも、なれなかった。
信じられなかったが、嘘ではないとも判っていた。
リックに聞いてもらおうと思っていた。起きた出来事の数々。判らないことに答えをもらおうと思った。答えではなくても、ちょっとした助言でもいい。
何より、
なのに、導師はもういないと言う。
もちろん、魔術に対する何の基礎もない少年に忍耐強く指導をしてくれたリックの死はつらく、哀しい。心に穴が開いたような思いがする。
だが、それと同じくらい痛い思いが胸に浮かんだ。
それでは、もういないのだ。
彼女の本当の姿がエイルであると知っている人間は。
エイラは身を震わせた。その考えは、「エイル」にとってずいぶん不吉に思われた。いまの自分――エイラであり、リ・ガンというモノであること――と、ただのエイル少年を結ぶ糸をリックが持っていてくれるような気がしていたのだ。
それが、切れてしまった。突然に。
ぼんやりと歩を進める。
魔術師のローブを着ていなかったら、
だがそんなことはどうでもよかった。
波乱に満ちた半年を送ってきても、帰ってくればアーレイドは変わらずそこにあると思っていた。「エイル」が関わった人々も、また。
変わってしまうとすればそれは自分で、それに対する不安は山のように抱え続けてきたけれど、いつもの顔が並んでいると思って飛び込んだ酒場で全く知らない顔ばかりに迎えられるような――そんなことがあるとは考えもしなかった。
このような喪失感を味わったことは、なかった。
エイル少年は身近に死を感じたことはなかった。
彼の父は亡かったが、父は彼が生まれる前に世を去っている。馬鹿げた予言のせいだった。母は、少年が物心着く頃にはその死を乗り越えていた――少なくともそう見せた――し、喧嘩の果てに顔見知りが死んだというようなことはあっても、それが彼の親しい友人であったとか、そういった経験はなかった。
だから、知らなかった。
よく見知って、慕わしく思っていた顔に二度と会えぬと言うこと。
抱えてきた不安は、自分が帰れぬかもしれぬ、自分はただのエイルには戻れぬだろう、ということであり、彼の愛する人々はアーレイドにいるまま、彼の知らないところで幸せに暮らしているはずだった。
しかし幻想は破られた。
自分の身に何が起ころうと、たとえ何も起こるまいと、それとは関係なく物事は変わっていく。変わらぬものなどないのだ。
涙は流さなかった。
ただ、口を結んで顔を上げた。
何かを――或いは誰かを守りたいと思うのはこういう気持ちから興るのだと、もしかしたら「少年」は知ったのかも、しれない。