05 それは、面白い
文字数 2,469文字
足音を立てない歩き方は、見るものに貴猫 を思わせた。
だが、それをじろじろと眺める者はいない。たとえその姿に見惚れる者がいたとしても、この場所では彼への尊敬や憧れより、畏怖の方が強かった。
第一王子の突然の訪問に、彼はすっと立ち上がると敬意を表す仕草をした。
「ライン」
その手の動きを認め、呼びかけを聞いたアスレンは、口の端を上げた。
「どうやら、ずいぶんと腹立たしく思っているようだな。――従兄殿」
「まさか。ラインに腹を立てるなど」
「綺麗事は止せ」
遮るようなアスレンの言葉に、サズは小さく肩をすくめると再び腰を下ろした。アスレンもまた、卓の向かいの椅子に腰かける。サズは息をついた。
「私の失態だと言うのなら、それも仕方がない。だがアスレン、お前は言わなかったな。リ・ガンの裏に控える、人間を超えた存在について」
「ほう?」
第一王子は足を組んだ。
「告げておれば、どうにかできたと言うのか?」
アスレンは笑った。
「お前の血ではあれには勝てぬ、サジアレス」
「そうであろう。我が血統は所詮、傍系だ」
サズは、アスレンの言葉に腹を立てた様子はなかった。それは、彼らにとってはあまりにも明白な事実であったのだ。
直系だけが力を持ち、継ぐ、その流れはあまりに細い糸のようであった。しかしレンという都市は長い歴史をそうやって織り上げてきたのだ。それは細くとも切れることない、何とも強靱なものだった。
「そのように自身を卑下するでない、王甥殿下」
第一王子殿下は直前の自身の言葉と矛盾する台詞を吐いた。
「マリセルのおかげで俺は翡翠 に関わる話を知ることができたのだし、リ・ガンを引っ張り出したのはお前の努力の結果だ。サズ、俺はお前に感謝をしておるくらいだぞ」
「それは、気味が悪いな」
従兄の答えはそれだった。
「次は私に、何をさせる」
「させるだと?」
アスレンは繰り返した。
「お前が勝手に、乗ってきたのだろう」
「そうだな 」
サズは答えた。
「ラーミフが、お前の欲しがるものを欲しがるのだ、アスレン。ならば私の手でもたらしてやろうと思っただけのこと」
「そうか」
アスレンは左肩をすくめるようにした。
「そのために、尊身を張ってきたか」
アスレンの揶揄にサズは怒ることはなかった。むしろ、彼は笑って言った。
「なかなか、楽しめた」
「そのようだな」
アスレンもまた、薄く笑った。
「ラーミフも楽しんだようだ。俺に、お前から教われと言ってきたぞ」
「私が、お前に?」
サズは笑ったままで続ける。
「それはまた……ぞっとしない話もあるものだ」
「――サズ」
不意にアスレンは、その声色を変えた。サズも笑みを消す。第一王子の薄灰色の瞳は、暗さを強めたようだった。
「奴らは、ラクトルを探るやもしれん」
「……フェルンを?」
サズは眉をひそめた。意味が判らない、と言うようだった。
「探るとは……いったい何をだ。最後の〈要〉からもう、二十年か、もしかしたら三十年は経つのだろう。それでもフェルンの御術は力を失われていないと聞く」
「だが、ラクトルは延命に成功した魔術師の基準で計っても、もう相当の爺いだ。陣に綻びが出ていても不思議ではない」
「だが」
今度はサズが反駁をした。
「フェルンを探って、何になる? 第一、どうやって探る」
「さてな」
アスレンはわずかに首を傾けた。
「ただ、翡翠の力は〈要〉の補強に使えるやもしれん。俺はラクトルの力を維持することになど興味はないが、サクリエルがうるさい」
母にして女王の名を口にして、アスレンは手を振る。
「ただ、最後の〈要〉にはマリセルも関わっている。お前の母に詳しく尋ねておけ。そのときがくれば、お前の魔力は戻してやろう」
「有難い仰せだな、ライン」
サズは暗く笑った。
「魔術師が魔術師に与える屈辱の、何とも単純で強力なことか」
「屈辱か」
アスレンの目が面白そうに光った。
「よい響きの言葉だな」
唇の両端を上げて冷ややかに笑う王子の脳裏に浮かぶものを想像しながら、サズは黙って従弟を見た。
「リ・ガンはどうするのだ」
「どう、とは?」
従兄の問いに王子は聞き返した。
「どうもこうもない。翡翠を目覚めさせる前に捕まえるが最上ではあったが、目覚めさせてからでもかまわん。〈時〉も近い、いまとなっては却ってその方がいいくらいだろう。それに――あの化け狐 の尻尾は掴んでいる」
「カーディルで隠されし翡翠を探り続けているか」
サズは、緑色の目をした女の姿を思い出しながら言った。アスレンはうなずき、それだけではない、と続けた。
「居所を押さえているだけではない。化け狐、と言ったろう」
「どういう意味だ?」
「アーレイドの守り手が怒りに燃えたのは……痛めつけさせた女がリ・ガンの母親だったからだと判った」
「ほう」
サズは感心したように返したが、その話題に大して興味を持っていないことは明白であった。
「〈守護者〉が守るのは翡翠だけと思っておったが、どうやら奴らはリ・ガンも守る気だな」
「……ほう」
サズの繰り返しには、今度は違う色が混ざった。
「それは、面白いな」
ふたりの従兄弟の脳裏には、緑の眼を持つひとりの女と、別々の〈守護者〉の姿が浮かんでいた。
「では、俺は行くとしよう」
サズは、それが必ずしも彼の部屋からの退出だけを意味しないことに気づいた。
「……何処へ」
「さてな」
〈ライン〉はまた言うとすっと立ち上がった。
「俺は俺の行く場所へ行く。お前はお前の役割を果たせ。――楽しみにしているぞ」
そう言ってアスレンは、深紅で裏打ちされた黒いマントを翻した。アスレンの言う彼の「役割」を複数に渡って思い当たったレンの王甥は、再び暗い笑みを浮かべていた。その笑みにはしかし、先のものとは少し異なった。その瞳には、先にはなかった妖しい光が――宿っていた。
だが、それをじろじろと眺める者はいない。たとえその姿に見惚れる者がいたとしても、この場所では彼への尊敬や憧れより、畏怖の方が強かった。
第一王子の突然の訪問に、彼はすっと立ち上がると敬意を表す仕草をした。
「ライン」
その手の動きを認め、呼びかけを聞いたアスレンは、口の端を上げた。
「どうやら、ずいぶんと腹立たしく思っているようだな。――従兄殿」
「まさか。ラインに腹を立てるなど」
「綺麗事は止せ」
遮るようなアスレンの言葉に、サズは小さく肩をすくめると再び腰を下ろした。アスレンもまた、卓の向かいの椅子に腰かける。サズは息をついた。
「私の失態だと言うのなら、それも仕方がない。だがアスレン、お前は言わなかったな。リ・ガンの裏に控える、人間を超えた存在について」
「ほう?」
第一王子は足を組んだ。
「告げておれば、どうにかできたと言うのか?」
アスレンは笑った。
「お前の血ではあれには勝てぬ、サジアレス」
「そうであろう。我が血統は所詮、傍系だ」
サズは、アスレンの言葉に腹を立てた様子はなかった。それは、彼らにとってはあまりにも明白な事実であったのだ。
直系だけが力を持ち、継ぐ、その流れはあまりに細い糸のようであった。しかしレンという都市は長い歴史をそうやって織り上げてきたのだ。それは細くとも切れることない、何とも強靱なものだった。
「そのように自身を卑下するでない、王甥殿下」
第一王子殿下は直前の自身の言葉と矛盾する台詞を吐いた。
「マリセルのおかげで俺は
「それは、気味が悪いな」
従兄の答えはそれだった。
「次は私に、何をさせる」
「させるだと?」
アスレンは繰り返した。
「お前が勝手に、乗ってきたのだろう」
「
サズは答えた。
「ラーミフが、お前の欲しがるものを欲しがるのだ、アスレン。ならば私の手でもたらしてやろうと思っただけのこと」
「そうか」
アスレンは左肩をすくめるようにした。
「そのために、尊身を張ってきたか」
アスレンの揶揄にサズは怒ることはなかった。むしろ、彼は笑って言った。
「なかなか、楽しめた」
「そのようだな」
アスレンもまた、薄く笑った。
「ラーミフも楽しんだようだ。俺に、お前から教われと言ってきたぞ」
「私が、お前に?」
サズは笑ったままで続ける。
「それはまた……ぞっとしない話もあるものだ」
「――サズ」
不意にアスレンは、その声色を変えた。サズも笑みを消す。第一王子の薄灰色の瞳は、暗さを強めたようだった。
「奴らは、ラクトルを探るやもしれん」
「……フェルンを?」
サズは眉をひそめた。意味が判らない、と言うようだった。
「探るとは……いったい何をだ。最後の〈要〉からもう、二十年か、もしかしたら三十年は経つのだろう。それでもフェルンの御術は力を失われていないと聞く」
「だが、ラクトルは延命に成功した魔術師の基準で計っても、もう相当の爺いだ。陣に綻びが出ていても不思議ではない」
「だが」
今度はサズが反駁をした。
「フェルンを探って、何になる? 第一、どうやって探る」
「さてな」
アスレンはわずかに首を傾けた。
「ただ、翡翠の力は〈要〉の補強に使えるやもしれん。俺はラクトルの力を維持することになど興味はないが、サクリエルがうるさい」
母にして女王の名を口にして、アスレンは手を振る。
「ただ、最後の〈要〉にはマリセルも関わっている。お前の母に詳しく尋ねておけ。そのときがくれば、お前の魔力は戻してやろう」
「有難い仰せだな、ライン」
サズは暗く笑った。
「魔術師が魔術師に与える屈辱の、何とも単純で強力なことか」
「屈辱か」
アスレンの目が面白そうに光った。
「よい響きの言葉だな」
唇の両端を上げて冷ややかに笑う王子の脳裏に浮かぶものを想像しながら、サズは黙って従弟を見た。
「リ・ガンはどうするのだ」
「どう、とは?」
従兄の問いに王子は聞き返した。
「どうもこうもない。翡翠を目覚めさせる前に捕まえるが最上ではあったが、目覚めさせてからでもかまわん。〈時〉も近い、いまとなっては却ってその方がいいくらいだろう。それに――あの
「カーディルで隠されし翡翠を探り続けているか」
サズは、緑色の目をした女の姿を思い出しながら言った。アスレンはうなずき、それだけではない、と続けた。
「居所を押さえているだけではない。化け狐、と言ったろう」
「どういう意味だ?」
「アーレイドの守り手が怒りに燃えたのは……痛めつけさせた女がリ・ガンの母親だったからだと判った」
「ほう」
サズは感心したように返したが、その話題に大して興味を持っていないことは明白であった。
「〈守護者〉が守るのは翡翠だけと思っておったが、どうやら奴らはリ・ガンも守る気だな」
「……ほう」
サズの繰り返しには、今度は違う色が混ざった。
「それは、面白いな」
ふたりの従兄弟の脳裏には、緑の眼を持つひとりの女と、別々の〈守護者〉の姿が浮かんでいた。
「では、俺は行くとしよう」
サズは、それが必ずしも彼の部屋からの退出だけを意味しないことに気づいた。
「……何処へ」
「さてな」
〈ライン〉はまた言うとすっと立ち上がった。
「俺は俺の行く場所へ行く。お前はお前の役割を果たせ。――楽しみにしているぞ」
そう言ってアスレンは、深紅で裏打ちされた黒いマントを翻した。アスレンの言う彼の「役割」を複数に渡って思い当たったレンの王甥は、再び暗い笑みを浮かべていた。その笑みにはしかし、先のものとは少し異なった。その瞳には、先にはなかった妖しい光が――宿っていた。