9 王女であろうと王妃であろうと
文字数 2,811文字
苛々としたつもりは、おそらく彼女自身にはないだろう。
ただ扉の方に目線を向ける、その回数が顕著に増えているだけにすぎない。
何となく、気分がすぐれないとは感じていた。このところはずっとそうだ。単に、婚約が決まってからはずっと忙しかったので疲れているのだと思っていた。
「……いくら何でも、遅いんじゃないかしら?」
シュアラ・アーレイドは誰にともなく呟いたが、控えていた侍女にしてみれば自分に向けられた台詞としか思えない。侍女は慌てて、何か不手際がございましたでしょうか、などと問うた。
王女はそれに手を振って侍女を咎めるつもりではないことを示したが、何をどうしろというようなことは何も言わず、侍女の居心地を悪くさせた。
少しして、王女がもう一度、今度は聞き違いようのない不興の色を以て声を出そうとした、ときである。
彼女が何度も視線を送った戸が叩かれる音がした。
教育の行き届いた侍女は素早く戸に近づくとそれを開き、訪問者を迎え入れる。
「シュアラ王女殿下」
「――アルドゥイス隊長」
シュアラは自身の声に落胆がにじまないようにした。
齢五十を越えている近衛隊長は長年やり慣れた敬礼をぴしっと王女に向け、シュアラが返礼をするのを見て手を下ろす。
「お呼びと伺いましたが」
「私が?」
シュアラは驚いたように目を軽く瞠った。
「ああ……何か行き違ったのかしら。私はファドックを呼んだのだけれど」
警護のことで話があると伝えたので、話がアルドゥイスの方へ行ったのだろう考えならが、王女は言った。
「ソレスは本日、登城をしておりませんので」
「まあ。どうしたのかしら。……病でも?」
アルドゥイスの言葉にシュアラはまた驚いた。
ファドックが城へやってこないことは滅多にない。鍛えている健康な成人男性であれば、体調不良で休まざるを得ないということがほとんどなかったのだ。だから少し前にファドックが数日間の休みを取ったとき、シュアラはかなり心配したものだった。
だがその後は、忙しさのあまりシュアラのもとを訪れる時間は減じても、彼女が呼べばそれまでと同じように必ずやってきた。
「それとも、アニーナに何か?」
暴漢に襲われたというエイルの母を城で看護することに彼女は一も二もなく同意し、時間が許せば見舞もした。そのアニーナも宮廷医師ランスハルから「退院」の許可を受けて城下に帰っていたが、シュアラはファドックに彼女の様子を見るよう、指示していた。もちろんファドックはシュアラの命令がなくてもそうしただろうが。
「いえ、私は何も聞いておりません」
「……そう」
シュアラは呟くように言った。
「足労をかけて悪かったわね、隊長。少しファドックに訊きたいことがあっただけなの。ああ、お前の仕事に不満がある訳ではないのよ」
王女はそうつけ加えた。警護の話を近衛隊長にではなく護衛騎士にする、と思われてはアルドゥイスにもファドックにも悪かろう。
「殿下 がソレスに信を置かれていることは存じております」
アルドゥイスはそう言った。
「畏れながら、殿下。少々お話をさせていただいてもよろしゅうございますか」
「もちろんだわ」
少し意外に思いながらもシュアラはその依頼を受けた。彼女はこの近衛隊長と個人的に話をしたことはほとんどない。近くで護衛をされることはしょっちゅうだったが、主にはアルドゥイスは父王マザドの隣につき、彼女の隣にいるのはファドックであるからだ。
「どう言った話なのかしら?」
「ソレスのことなのです」
「ファドックがどうしたの?」
これもまた、意外だった。警護の話でもされるのかと思ったのに。
「差し出がましいこととは思いますが、彼を説得してはいただけませんか」
「……何の話なのかしら」
「私は近衛隊長の任を退くことを考えています。後を任せるのなら、ファドック・ソレスが最上と考えておりますが、あの男はそれを受けようとしません」
「でも」
シュアラは驚かされてばかりだった。
「現副隊長をそのまま繰り上げればいいじゃないの。そうでなくとも、隊のなかに相応しい者がいるのではなくて?」
彼女は当然と思えることを言った。
「それにファドックが拒否するのは当然でしょう。ファドックは、近衛隊員ではないのよ。――私の騎士 だわ」
「もちろん、存じております」
アルドゥイスは、シュアラの機嫌を損ねなかっただろうかと慌てて言った。
「副隊長リーセルは補佐に向いておりますし、当人も現状維持を希望しております。隊員のなかにはソレスを剣の師とする者も多く、認めない者はおりません」
などと隊長は、隊の方では問題がない、少なくとも彼はそう考えていることを説明する。
「それに今後は、次期王妃殿下の警護は近衛隊の任となりましょう。殿下とロジェス閣下の警護の責任は我々が負うものであります故」
「何を……言っているの」
シュアラは呆然とした。アルドゥイスは、王妃となるシュアラの警護は護衛騎士の仕事ではないと言っているのだ。
「私が王女であろうと王妃であろうと、彼は私の護衛騎士だわ」
「もちろん、存じております」
アルドゥイスは先と同じ言葉を繰り返した。
「それでも、アーレイド王妃殿下の背後に控えるのが、いつまでも一護衛騎士のままでは……」
ファドックをこれまでと同じ位置に置いておきたいのならば騎士という曖昧な称号だけでは足りぬと言うのだろう。アルドゥイスの言うことも判る。シュアラはしかし、躊躇った。
「……考えておくわ」
「有難う存じます」
アルドゥイスはシュアラがあまり積極的ではないことをもちろん感じ取っただろうが、ただ礼をするとそのまま退出をした。王女は奇妙な感情を覚えながらそれを見送る。
アルドゥイスの言ったことは正しい。
ファドック・ソレスという個人がいかにシュアラとアーレイド城内の人間の信頼を得ていても、王妃の護衛には近衛隊が相応しい。それに、ロジェスは決して狭量な人間ではないが、彼女だけの騎士が常に妻の背後についていることをこの上なく喜ばしいとも思わないだろう。
考えてみれば、ファドックが近衛隊長になるというのは、いささか一足飛びの感こそあれど、それほど不思議なことではない。彼にはそれだけの責任感も能力もあることは間違いないからだ。
だが、近衛隊長であるということはアーレイド王家、ひいてはアーレイドを守る任に就くということで、それはつまり、シュアラだけを守ることを意味しない。
それが引っかかるのだわ、と王女は自身の思いに気づき、この考えは我が儘で子供っぽいだろうかと自問したが、答えは出そうになかった。
シュアラは考えることは諦め、それにしてもファドックはどうしたのだろうかと、改めて護衛騎士の不在に首を傾げた。
ただ扉の方に目線を向ける、その回数が顕著に増えているだけにすぎない。
何となく、気分がすぐれないとは感じていた。このところはずっとそうだ。単に、婚約が決まってからはずっと忙しかったので疲れているのだと思っていた。
「……いくら何でも、遅いんじゃないかしら?」
シュアラ・アーレイドは誰にともなく呟いたが、控えていた侍女にしてみれば自分に向けられた台詞としか思えない。侍女は慌てて、何か不手際がございましたでしょうか、などと問うた。
王女はそれに手を振って侍女を咎めるつもりではないことを示したが、何をどうしろというようなことは何も言わず、侍女の居心地を悪くさせた。
少しして、王女がもう一度、今度は聞き違いようのない不興の色を以て声を出そうとした、ときである。
彼女が何度も視線を送った戸が叩かれる音がした。
教育の行き届いた侍女は素早く戸に近づくとそれを開き、訪問者を迎え入れる。
「シュアラ王女殿下」
「――アルドゥイス隊長」
シュアラは自身の声に落胆がにじまないようにした。
齢五十を越えている近衛隊長は長年やり慣れた敬礼をぴしっと王女に向け、シュアラが返礼をするのを見て手を下ろす。
「お呼びと伺いましたが」
「私が?」
シュアラは驚いたように目を軽く瞠った。
「ああ……何か行き違ったのかしら。私はファドックを呼んだのだけれど」
警護のことで話があると伝えたので、話がアルドゥイスの方へ行ったのだろう考えならが、王女は言った。
「ソレスは本日、登城をしておりませんので」
「まあ。どうしたのかしら。……病でも?」
アルドゥイスの言葉にシュアラはまた驚いた。
ファドックが城へやってこないことは滅多にない。鍛えている健康な成人男性であれば、体調不良で休まざるを得ないということがほとんどなかったのだ。だから少し前にファドックが数日間の休みを取ったとき、シュアラはかなり心配したものだった。
だがその後は、忙しさのあまりシュアラのもとを訪れる時間は減じても、彼女が呼べばそれまでと同じように必ずやってきた。
「それとも、アニーナに何か?」
暴漢に襲われたというエイルの母を城で看護することに彼女は一も二もなく同意し、時間が許せば見舞もした。そのアニーナも宮廷医師ランスハルから「退院」の許可を受けて城下に帰っていたが、シュアラはファドックに彼女の様子を見るよう、指示していた。もちろんファドックはシュアラの命令がなくてもそうしただろうが。
「いえ、私は何も聞いておりません」
「……そう」
シュアラは呟くように言った。
「足労をかけて悪かったわね、隊長。少しファドックに訊きたいことがあっただけなの。ああ、お前の仕事に不満がある訳ではないのよ」
王女はそうつけ加えた。警護の話を近衛隊長にではなく護衛騎士にする、と思われてはアルドゥイスにもファドックにも悪かろう。
「
アルドゥイスはそう言った。
「畏れながら、殿下。少々お話をさせていただいてもよろしゅうございますか」
「もちろんだわ」
少し意外に思いながらもシュアラはその依頼を受けた。彼女はこの近衛隊長と個人的に話をしたことはほとんどない。近くで護衛をされることはしょっちゅうだったが、主にはアルドゥイスは父王マザドの隣につき、彼女の隣にいるのはファドックであるからだ。
「どう言った話なのかしら?」
「ソレスのことなのです」
「ファドックがどうしたの?」
これもまた、意外だった。警護の話でもされるのかと思ったのに。
「差し出がましいこととは思いますが、彼を説得してはいただけませんか」
「……何の話なのかしら」
「私は近衛隊長の任を退くことを考えています。後を任せるのなら、ファドック・ソレスが最上と考えておりますが、あの男はそれを受けようとしません」
「でも」
シュアラは驚かされてばかりだった。
「現副隊長をそのまま繰り上げればいいじゃないの。そうでなくとも、隊のなかに相応しい者がいるのではなくて?」
彼女は当然と思えることを言った。
「それにファドックが拒否するのは当然でしょう。ファドックは、近衛隊員ではないのよ。――私の
「もちろん、存じております」
アルドゥイスは、シュアラの機嫌を損ねなかっただろうかと慌てて言った。
「副隊長リーセルは補佐に向いておりますし、当人も現状維持を希望しております。隊員のなかにはソレスを剣の師とする者も多く、認めない者はおりません」
などと隊長は、隊の方では問題がない、少なくとも彼はそう考えていることを説明する。
「それに今後は、次期王妃殿下の警護は近衛隊の任となりましょう。殿下とロジェス閣下の警護の責任は我々が負うものであります故」
「何を……言っているの」
シュアラは呆然とした。アルドゥイスは、王妃となるシュアラの警護は護衛騎士の仕事ではないと言っているのだ。
「私が王女であろうと王妃であろうと、彼は私の護衛騎士だわ」
「もちろん、存じております」
アルドゥイスは先と同じ言葉を繰り返した。
「それでも、アーレイド王妃殿下の背後に控えるのが、いつまでも一護衛騎士のままでは……」
ファドックをこれまでと同じ位置に置いておきたいのならば騎士という曖昧な称号だけでは足りぬと言うのだろう。アルドゥイスの言うことも判る。シュアラはしかし、躊躇った。
「……考えておくわ」
「有難う存じます」
アルドゥイスはシュアラがあまり積極的ではないことをもちろん感じ取っただろうが、ただ礼をするとそのまま退出をした。王女は奇妙な感情を覚えながらそれを見送る。
アルドゥイスの言ったことは正しい。
ファドック・ソレスという個人がいかにシュアラとアーレイド城内の人間の信頼を得ていても、王妃の護衛には近衛隊が相応しい。それに、ロジェスは決して狭量な人間ではないが、彼女だけの騎士が常に妻の背後についていることをこの上なく喜ばしいとも思わないだろう。
考えてみれば、ファドックが近衛隊長になるというのは、いささか一足飛びの感こそあれど、それほど不思議なことではない。彼にはそれだけの責任感も能力もあることは間違いないからだ。
だが、近衛隊長であるということはアーレイド王家、ひいてはアーレイドを守る任に就くということで、それはつまり、シュアラだけを守ることを意味しない。
それが引っかかるのだわ、と王女は自身の思いに気づき、この考えは我が儘で子供っぽいだろうかと自問したが、答えは出そうになかった。
シュアラは考えることは諦め、それにしてもファドックはどうしたのだろうかと、改めて護衛騎士の不在に首を傾げた。