08 お前の、望みは
文字数 2,426文字
風を感じた。
それは、風神 がもたらす自然のものとは異なったけれど、それを「風」と表現する以外の方法を知らなかった。
優しく、やわらかく、身体を撫でる。
いや、身体の外側だけではない。
まるでそれは肉体のなかを――心や魂と呼ばれるものまでも、暖かく包み込み、愛撫していくようだった。
この、充たされるような思いがリ・ガンだけのものであるのは、何とも残念なことのように思った。
翡翠とともにあり、その力を本来の流れに乗せること、言うなればたったそれだけの何ともささやかな「使命」。
そのためにリ・ガンは生まれ、六十年に一度の〈変異〉の年を送る。
「人間」には計り知れない理の上に成り立つ、その「存在」が望むこと。「望む」という言い方は、人間的すぎただろうか。
そうあるべきこと。
ただ、そうあるべきこと。
その力を感じているとき、リ・ガンにはそれは当たり前すぎることだった。
人間である〈鍵〉が「女王」と表現した存在は、無であると同時に、巨大だった。何にも影響をもたらさないのに、多くを支配した。
人の子はそれを知らぬ。
〈変異〉の年を境界として払われる、穢れと呼ばれた淀み。それを感じ取らぬ者も感じ取る者も、知ることはない。
知るのはただ、リ・ガンのみ。
それは「女王陛下」の下僕であり、その一部。
こうしているときは、全てのことがあまりにも当たり前すぎて、何を思い悩んでいたのか判らない。
思い悩んでいたのは、「人間」の部分。
その部分には理解できないことを「目隠し」されていたのもまた、当たり前のこと。
リ・ガンが「人間」という形を取るために必要なこと。
或いは、「その部分」がそういう形を取りたいと望んだために起きたこと。
「望む」という言い方は、人間的すぎただろうか――?
リ・ガンは目を開いた。
そこは――真白き宮殿だった。
「シーヴ」
リ・ガンは、〈鍵〉の名を呼んだ。傍らに立つ砂漠の青年は、ゆっくりとリ・ガンを見た。
「お前の、望みは?」
「俺の――望み」
やはりゆっくりと、青年は繰り返した。
「そう 。翡翠たちは、百二十年の眠りから覚め、穢れを払っている。けれど、お前が望むならばその力をどうとでも使うことができる」
「どうとでも、とは?」
「たとえば、シャムレイの支配」
「それは、断ったはずだ」
「そうか。それなら、『王子』の身分を捨てること」
きゅっと青年は目を細くした。そうしたいと常々口にし、だができぬと言ってきたそれは、現実問題として「無理だ」ということ。
それを可能にするのか?
「リャカラーダ」を捨て、ただの「シーヴ」としてウーレたちと過ごし、気ままに旅を続けることが、できると?
青年のうちに湧き上がったそれは、強い憧れ。血筋故につけられた足枷を外し、ただの――シーヴとして。
「……いや」
青年は、首を振った。
「俺はそれも、望まない」
彼の第一侍従。妹姫。母。慕わしい顔が浮かぶ。「慕わしい」とは言えずとも、父の顔も。
「俺は、シーヴでありたい。だが同時に、俺はリャカラーダだ」
「そうか」
リ・ガンは反駁しなかった。
「ならば、ほかには?」
「ほかに」
青年はまた、繰り返す。
「俺は」
彼はじっとリ・ガンを見た。長い茶金の髪。その瞳は、いまは濃緑。
「――エイラ」
「言ってみろ、何だって叶えてやる」
自信に満ちた、その台詞。青年の知る娘のものとは、異なるような。
「『何だって』?」
「まあ、可能な限りってことになるけどな。よっぽど無茶苦茶を言い出しさえしなけりゃ」
何だって、とリ・ガンはまた言った。
「エイラ」
青年は、再び呼んだ。リ・ガンを。いや、娘を。
「俺の、望みは」
そこで青年は言葉をとめた。リ・ガンは訝しげに〈鍵〉を見る。
「言ってみろ」
「俺は」
何を言おうとしているのか、青年自身、判然としなかった。
一年前ならば、青年の望みは〈翡翠の娘〉を見つけることだった。それはいま、彼の傍らにいる。翡翠の不思議な波動に包まれ、人の姿を取りながら人ではない存在として。
「俺は、お前に」
言いかけて、しかし彼は首を振る。
「幸せになってほしい」などとは――どうにも陳腐ではないか?
「言えよ」
リ・ガンは促す。
「俺は、望む。エイラ、俺は在るように在ってほしい」
彼女が。自分自身が。翡翠が。シャムレイが。アーレイドが。カーディルが。――全てが。
曖昧な台詞に、だがリ・ガンは問い返すことをしなかった。
「判った」
リ・ガンは、ただそうとだけ言った。そして、その濃緑の瞳を閉じる。
在るように在ること。
翡翠は――眠りにつくことを選ばれた。
触れずとも、目に届くところになくとも、乱れた力の均衡を保つために振るわれる「翡翠」の力を操り、再び六十年の――今度こそ六十年だけの眠りにつかせることは、容易なことだった。
本来ならば〈鍵〉と〈守護者〉の力を借りて為されるそれは、しかしそうでなければならぬと言うのではない。
リ・ガンを知り、リ・ガンの力に合わせられる力が存在すればよいのだ。
まして、それがかつての〈鍵〉だと言うのなら――リ・ガンの助け手として十二分。
アーレイドの宝玉。
カーディルの輝玉。
そして旅する輝石。
従来よりも二倍長い月日を半端に過ごした翡翠たちは、今度こそ従来の長さの眠りにつく。
リ・ガンの使命は終わる。
六十年後の「後継」のことは、いまのリ・ガンは知らない。
ただ知るのは、自分の番が終わった、ということ。
多少の不都合もあった。
だが、いまやそれは問題ではない。
風がリ・ガンを覆う。
翡翠は眠った。
リ・ガンもまた――眠るのか。
「女王」の下僕は再び目を閉じると首を振った。
答えは、いずれ、出る。
それは、
優しく、やわらかく、身体を撫でる。
いや、身体の外側だけではない。
まるでそれは肉体のなかを――心や魂と呼ばれるものまでも、暖かく包み込み、愛撫していくようだった。
この、充たされるような思いがリ・ガンだけのものであるのは、何とも残念なことのように思った。
翡翠とともにあり、その力を本来の流れに乗せること、言うなればたったそれだけの何ともささやかな「使命」。
そのためにリ・ガンは生まれ、六十年に一度の〈変異〉の年を送る。
「人間」には計り知れない理の上に成り立つ、その「存在」が望むこと。「望む」という言い方は、人間的すぎただろうか。
そうあるべきこと。
ただ、そうあるべきこと。
その力を感じているとき、リ・ガンにはそれは当たり前すぎることだった。
人間である〈鍵〉が「女王」と表現した存在は、無であると同時に、巨大だった。何にも影響をもたらさないのに、多くを支配した。
人の子はそれを知らぬ。
〈変異〉の年を境界として払われる、穢れと呼ばれた淀み。それを感じ取らぬ者も感じ取る者も、知ることはない。
知るのはただ、リ・ガンのみ。
それは「女王陛下」の下僕であり、その一部。
こうしているときは、全てのことがあまりにも当たり前すぎて、何を思い悩んでいたのか判らない。
思い悩んでいたのは、「人間」の部分。
その部分には理解できないことを「目隠し」されていたのもまた、当たり前のこと。
リ・ガンが「人間」という形を取るために必要なこと。
或いは、「その部分」がそういう形を取りたいと望んだために起きたこと。
「望む」という言い方は、人間的すぎただろうか――?
リ・ガンは目を開いた。
そこは――真白き宮殿だった。
「シーヴ」
リ・ガンは、〈鍵〉の名を呼んだ。傍らに立つ砂漠の青年は、ゆっくりとリ・ガンを見た。
「お前の、望みは?」
「俺の――望み」
やはりゆっくりと、青年は繰り返した。
「
「どうとでも、とは?」
「たとえば、シャムレイの支配」
「それは、断ったはずだ」
「そうか。それなら、『王子』の身分を捨てること」
きゅっと青年は目を細くした。そうしたいと常々口にし、だができぬと言ってきたそれは、現実問題として「無理だ」ということ。
それを可能にするのか?
「リャカラーダ」を捨て、ただの「シーヴ」としてウーレたちと過ごし、気ままに旅を続けることが、できると?
青年のうちに湧き上がったそれは、強い憧れ。血筋故につけられた足枷を外し、ただの――シーヴとして。
「……いや」
青年は、首を振った。
「俺はそれも、望まない」
彼の第一侍従。妹姫。母。慕わしい顔が浮かぶ。「慕わしい」とは言えずとも、父の顔も。
「俺は、シーヴでありたい。だが同時に、俺はリャカラーダだ」
「そうか」
リ・ガンは反駁しなかった。
「ならば、ほかには?」
「ほかに」
青年はまた、繰り返す。
「俺は」
彼はじっとリ・ガンを見た。長い茶金の髪。その瞳は、いまは濃緑。
「――エイラ」
「言ってみろ、何だって叶えてやる」
自信に満ちた、その台詞。青年の知る娘のものとは、異なるような。
「『何だって』?」
「まあ、可能な限りってことになるけどな。よっぽど無茶苦茶を言い出しさえしなけりゃ」
何だって、とリ・ガンはまた言った。
「エイラ」
青年は、再び呼んだ。リ・ガンを。いや、娘を。
「俺の、望みは」
そこで青年は言葉をとめた。リ・ガンは訝しげに〈鍵〉を見る。
「言ってみろ」
「俺は」
何を言おうとしているのか、青年自身、判然としなかった。
一年前ならば、青年の望みは〈翡翠の娘〉を見つけることだった。それはいま、彼の傍らにいる。翡翠の不思議な波動に包まれ、人の姿を取りながら人ではない存在として。
「俺は、お前に」
言いかけて、しかし彼は首を振る。
「幸せになってほしい」などとは――どうにも陳腐ではないか?
「言えよ」
リ・ガンは促す。
「俺は、望む。エイラ、俺は在るように在ってほしい」
彼女が。自分自身が。翡翠が。シャムレイが。アーレイドが。カーディルが。――全てが。
曖昧な台詞に、だがリ・ガンは問い返すことをしなかった。
「判った」
リ・ガンは、ただそうとだけ言った。そして、その濃緑の瞳を閉じる。
在るように在ること。
翡翠は――眠りにつくことを選ばれた。
触れずとも、目に届くところになくとも、乱れた力の均衡を保つために振るわれる「翡翠」の力を操り、再び六十年の――今度こそ六十年だけの眠りにつかせることは、容易なことだった。
本来ならば〈鍵〉と〈守護者〉の力を借りて為されるそれは、しかしそうでなければならぬと言うのではない。
リ・ガンを知り、リ・ガンの力に合わせられる力が存在すればよいのだ。
まして、それがかつての〈鍵〉だと言うのなら――リ・ガンの助け手として十二分。
アーレイドの宝玉。
カーディルの輝玉。
そして旅する輝石。
従来よりも二倍長い月日を半端に過ごした翡翠たちは、今度こそ従来の長さの眠りにつく。
リ・ガンの使命は終わる。
六十年後の「後継」のことは、いまのリ・ガンは知らない。
ただ知るのは、自分の番が終わった、ということ。
多少の不都合もあった。
だが、いまやそれは問題ではない。
風がリ・ガンを覆う。
翡翠は眠った。
リ・ガンもまた――眠るのか。
「女王」の下僕は再び目を閉じると首を振った。
答えは、いずれ、出る。