10 頼りない灯火
文字数 2,763文字
真冬の深夜に暖もなく南部を歩くなど、普通なら自殺行為である。
これで行き倒れて、エイラの姿でまたゼレットに拾われたらどうしよう、などと考えると、しかし可笑しかった。可笑しく思える自分も可笑しかった。
城を抜けるのは簡単だったが、町もまた同じだった。
冬の夜にいつまでも出歩いている町民はいなかったし、雪の魔物を警戒する町憲兵 の目を術で軽く眩ますくらいは、この姿であれば可能だった。封鎖されている訳でもないのだから町を出ようとして捕らえられることはないだろうが、雪の夜に出ていくのは無茶だから朝になるまで待て、などと真っ当な説得をされてもいまの彼女は困るのだ。だいたい、その説得を受けている最中に「エイル」に変わってしまったらどうなる?
雪の夜は月明かりも星明かりもないのに意外なほど明るかったが、それでも――夜は夜だ。
誰にも聞こえぬ謝罪をして、カーディル城から防風用の灯火器をひとつ拝借してきたが、それは何とも頼りない灯火だった。
火の魔法が得意であれば、この灯火器の明かりをもう少し強くすることもできようが、彼女はそんな技は使えない。聞くところによると夜目の魔法もあるという話だったが、使ったこともなければ、その基礎も知らない。
手探り、と言うよりは足探りで、勝手の判らない南の道を行くだけだ。
(どこへ?)
この姿で、いつもうひとつの姿になるのか判らない状態で、どこへ行けばいい?
(そんなの、決まってるさ)
(俺のヴィエル・エクス)
だが、それはどこなのだ?
翡翠の宮殿。彼女のヴィエル・エクス。それはどこにある?
(ココダ)
(我ハココダ)
〈砂漠の塔〉で彼女のなかに響きわたった声が甦る。
(どこだよ?)
憤然としながら考えた。
あのとき、あの瞬間、はっきり見えたように思われた道は今では影も形もない。そこへの道を取ったのだと思ったのに、「落ちた」先はこのカーディル領だったのだ。
(あれがゼレット様の声だったとは思えないな)
苦笑混じりに考える。
(ならあの声の主は)
(翡翠)
(どの……?)
それはいったい、どの 翡翠なのだ、と考えて驚いた。
リ・ガンに関わりがある翡翠は、ひとつではなのか?
(……当然だ)
(だって〈守護者〉はふたりいる)
翡翠のなかの翡翠、と彼ともうひとりが表現したアーレイドの翡翠を守るのがファドックであり、もうひとつの「失われた」だか「隠された」だかしたものを守るのがゼレットならば。そしてそれとは別に〈翡翠の宮殿〉が存在し、彼がそのまどろみを感じ取る翡翠がそこにあることは確かなのだから、彼に関わる翡翠は最低でも三つ、ということになった。
(失われた、ってやつの……声だったのかな)
(リ・ガンがそれを見つけるってゼレット様は言ったっけ)
(それなら、俺はやっぱりそれを見つけにここへ跳んできたってことになるのか?)
考えながら懸命に足を動かすが、小さな身体は熱を奪われるのも早い。疲労を紛らわす呪文は寒さには役に立たなかったし、寒さを紛らわす呪文などは知らない。あったとしても、それは寒さを無視できるだけのことだから、そんなものを行使しながら雪中を行けば、寒さを感じないままに凍死してしまうことになるだろう。
(どこに行けばいい?)
彼女はただ、足を動かし続けた。
こうして翡翠のことを考えていれば、宣託のような導きが彼女をその地に連れていくかもしれないと言う、あまりにも小さな希望の火を抱き続けながら。
すうっ――と最後の火が消えた。
室内は、闇に閉ざされる。
もし、この瞬間に立ち会った人間がほかにいたとすれば、そのものはこの暗闇にすら安堵したことだろう。消えた光が何か、禍々しいもの――健全な営みにつく人間ならば誰も歓迎しない魔術のものであったことは、何の知識も持たなくとも、粟立つ肌が教えてくれるだろうから。
それは多くの人間が魔術を畏れ、嫌うせいだけではない。
たとえ魔術師 であったとしても、いやそうであればなおさら忌み、怖れたことだろう。禁忌ではなかったが、知識があればあるだけ判る、それは、闇の術。
ふっと、別の明かりが灯った。通常の燭台――と言っても、拵えはかなり上等だった――に通常の火が揺らめく。点けられた方法はあまり通常とは言えなかったが、これは魔術師の業としてはごく普通のことだ。
「――どうだ」
「は」
小さな炎だけが揺らめく薄暗がりでふたつの声がした。
「見えたか」
「……幾つか」
ひとつ目の声は若く、次のものは年嵩の落ち着きを持つ。
「動かぬものが三つ。これは予測通り。そのうちのふたつのごく近くに、動くものがそれぞれぼんやりと。もうひとつから少し離れて、やはり動くものがぼやけたままで、ひとつ。そしてこれだけでは、数が合いませぬ」
「足りないものは何だ」
若い声が問うた。
「リ・ガン」
もうひとつは即答した。
「ほう?」
若い声は面白そうに言った。
「では何だ。翡翠と守護者、〈鍵〉までいるのに、肝心要のモノ がないと、お前はそう言うか」
「気づいて隠れたのやも、しれませぬ」
「この術から隠れられるものか、それ を編んだのは俺だぞ」
ひとつ目の声がいささか怒気を込めて言うと、ふたつめの声の主は暗がりで込み入った謝罪の仕草をした。
「……いいだろう。赦しを与える」
若い方も何か仕草をしてそう言った。
「隠れたのではない。そのようなことはできぬ。ならば反応を見せられぬほど微弱なのか……それとも、リ・ガンは返礼をすることも知らぬ無礼者なのやもしれぬな」
それが主の冗談なのかどうか掴みかね、年嵩の男は黙っていた。
「よいか。もう六の月も終わろうとしているのだぞ。俺は、これ以上は待たぬ」
「では」
「どこがいちばん近い」
「〈翡翠の街〉」
「ほう?」
年嵩の男はまた即答し、若い男はまた面白そうに言った。
「何と。こはまた、傑作なことよ。ヴィエルの名を戴く街に真実、それが眠るとは」
「どのように」
「探れ」
命令は短かった。
「は」
それに対する返答も、また。
若い男は燭台を宙空 に残したまま、音も立てずにマントを翻した。残された男はその背中に丁重な臣下の礼をしながら、主の姿が見えなくなるまでじっと――動かずにいた。
闇の静寂が、ゆらりと動く。
〈時〉は一刻一刻、近づいている。
リ・ガンは未だ目覚めぬ。
歯車は狂っており、それを直そうとするものを嘲笑う。歯車は狂い続け、それを好機と思うものに助け手を差し伸べる。
リ・ガンは未だ、目覚めぬ。
だが――目覚めのときは、近づいていた。
これで行き倒れて、エイラの姿でまたゼレットに拾われたらどうしよう、などと考えると、しかし可笑しかった。可笑しく思える自分も可笑しかった。
城を抜けるのは簡単だったが、町もまた同じだった。
冬の夜にいつまでも出歩いている町民はいなかったし、雪の魔物を警戒する
雪の夜は月明かりも星明かりもないのに意外なほど明るかったが、それでも――夜は夜だ。
誰にも聞こえぬ謝罪をして、カーディル城から防風用の灯火器をひとつ拝借してきたが、それは何とも頼りない灯火だった。
火の魔法が得意であれば、この灯火器の明かりをもう少し強くすることもできようが、彼女はそんな技は使えない。聞くところによると夜目の魔法もあるという話だったが、使ったこともなければ、その基礎も知らない。
手探り、と言うよりは足探りで、勝手の判らない南の道を行くだけだ。
(どこへ?)
この姿で、いつもうひとつの姿になるのか判らない状態で、どこへ行けばいい?
(そんなの、決まってるさ)
(俺のヴィエル・エクス)
だが、それはどこなのだ?
翡翠の宮殿。彼女のヴィエル・エクス。それはどこにある?
(ココダ)
(我ハココダ)
〈砂漠の塔〉で彼女のなかに響きわたった声が甦る。
(どこだよ?)
憤然としながら考えた。
あのとき、あの瞬間、はっきり見えたように思われた道は今では影も形もない。そこへの道を取ったのだと思ったのに、「落ちた」先はこのカーディル領だったのだ。
(あれがゼレット様の声だったとは思えないな)
苦笑混じりに考える。
(ならあの声の主は)
(翡翠)
(どの……?)
それはいったい、
リ・ガンに関わりがある翡翠は、ひとつではなのか?
(……当然だ)
(だって〈守護者〉はふたりいる)
翡翠のなかの翡翠、と彼ともうひとりが表現したアーレイドの翡翠を守るのがファドックであり、もうひとつの「失われた」だか「隠された」だかしたものを守るのがゼレットならば。そしてそれとは別に〈翡翠の宮殿〉が存在し、彼がそのまどろみを感じ取る翡翠がそこにあることは確かなのだから、彼に関わる翡翠は最低でも三つ、ということになった。
(失われた、ってやつの……声だったのかな)
(リ・ガンがそれを見つけるってゼレット様は言ったっけ)
(それなら、俺はやっぱりそれを見つけにここへ跳んできたってことになるのか?)
考えながら懸命に足を動かすが、小さな身体は熱を奪われるのも早い。疲労を紛らわす呪文は寒さには役に立たなかったし、寒さを紛らわす呪文などは知らない。あったとしても、それは寒さを無視できるだけのことだから、そんなものを行使しながら雪中を行けば、寒さを感じないままに凍死してしまうことになるだろう。
(どこに行けばいい?)
彼女はただ、足を動かし続けた。
こうして翡翠のことを考えていれば、宣託のような導きが彼女をその地に連れていくかもしれないと言う、あまりにも小さな希望の火を抱き続けながら。
すうっ――と最後の火が消えた。
室内は、闇に閉ざされる。
もし、この瞬間に立ち会った人間がほかにいたとすれば、そのものはこの暗闇にすら安堵したことだろう。消えた光が何か、禍々しいもの――健全な営みにつく人間ならば誰も歓迎しない魔術のものであったことは、何の知識も持たなくとも、粟立つ肌が教えてくれるだろうから。
それは多くの人間が魔術を畏れ、嫌うせいだけではない。
たとえ
ふっと、別の明かりが灯った。通常の燭台――と言っても、拵えはかなり上等だった――に通常の火が揺らめく。点けられた方法はあまり通常とは言えなかったが、これは魔術師の業としてはごく普通のことだ。
「――どうだ」
「は」
小さな炎だけが揺らめく薄暗がりでふたつの声がした。
「見えたか」
「……幾つか」
ひとつ目の声は若く、次のものは年嵩の落ち着きを持つ。
「動かぬものが三つ。これは予測通り。そのうちのふたつのごく近くに、動くものがそれぞれぼんやりと。もうひとつから少し離れて、やはり動くものがぼやけたままで、ひとつ。そしてこれだけでは、数が合いませぬ」
「足りないものは何だ」
若い声が問うた。
「リ・ガン」
もうひとつは即答した。
「ほう?」
若い声は面白そうに言った。
「では何だ。翡翠と守護者、〈鍵〉までいるのに、肝心要の
「気づいて隠れたのやも、しれませぬ」
「この術から隠れられるものか、
ひとつ目の声がいささか怒気を込めて言うと、ふたつめの声の主は暗がりで込み入った謝罪の仕草をした。
「……いいだろう。赦しを与える」
若い方も何か仕草をしてそう言った。
「隠れたのではない。そのようなことはできぬ。ならば反応を見せられぬほど微弱なのか……それとも、リ・ガンは返礼をすることも知らぬ無礼者なのやもしれぬな」
それが主の冗談なのかどうか掴みかね、年嵩の男は黙っていた。
「よいか。もう六の月も終わろうとしているのだぞ。俺は、これ以上は待たぬ」
「では」
「どこがいちばん近い」
「〈翡翠の街〉」
「ほう?」
年嵩の男はまた即答し、若い男はまた面白そうに言った。
「何と。こはまた、傑作なことよ。ヴィエルの名を戴く街に真実、それが眠るとは」
「どのように」
「探れ」
命令は短かった。
「は」
それに対する返答も、また。
若い男は燭台を
闇の静寂が、ゆらりと動く。
〈時〉は一刻一刻、近づいている。
リ・ガンは未だ目覚めぬ。
歯車は狂っており、それを直そうとするものを嘲笑う。歯車は狂い続け、それを好機と思うものに助け手を差し伸べる。
リ・ガンは未だ、目覚めぬ。
だが――目覚めのときは、近づいていた。