1 アスレン
文字数 4,539文字
月が数を増やすに連れ、日は次第に長くなっていった。
もはやこの〈変異〉の年は九番目の月を終わらせようとしており、ビナレス地方の季節は冬から春と呼ばれるものに移っている。
木々が芽吹き、道端の雑草が揃って小さな花を咲かせはじめれば、人々の心は訳もなく浮き立ち、暗く寒い日々の終焉を楽しむ。
だが、たいていの者にとっては喜ばしいこの季節を尊ばない者もいる。
それは必ずしも春を嫌い、厭うということではなく――花が咲こうが散ろうが、何も特別に変わることなどないと考えている人種である。
そう言った人種のなかにも様々な傾向があったが、ある一部の者にとっては「時の流れ」自体は重要だ。だがそれはその星の位置によって示されるものであって、重い防寒着を脱ぎ捨てられるようになるなどということは二の次なのだ。
魔術師――という連中がそれである。
それが、ささやかな魔力で占い などをして暮らす下位の術師ならば、彼らにはやはり「花の咲く頃」「温かくなる頃」は稼ぎどきである。季節の変化は重要だ。
しかし、魔術そのものに打ち込むことだけで日々を送るような、ある程度以上の魔力を持つ魔術師たちとなれば、空を見上げるとしたら星の運行を見るため、花を見るとしたら――何か術に役立たないかと考えてのことだ。
だから、季節が春であろうとどうであろうと、彼らには関係なかった。
時はただ巡って行くもので、必要な刻さえ見逃さなければよいのである。
その小さな町の薄汚れた酒場で、ダイア・スケイズはじっとその男を見ていた。
彼がここに伴った魔術師はまだ若く成長途上だが、魔術師以外の人間と交渉し、誑 かすことに長けていた。
彼は黙って、レンの将来を担う若者が術と口先を弄してその男を籠絡するのを見ていた。
「確かに、俺はそいつを知ってる」
男はしばしの沈黙のあとにゆっくりとそう言った。
「だが……まさか、そんな」
「事実なのだ」
若い術師は男を諭すように言った。
「それ は人間ではない。お前の目にどんなに魅力的に映ろうとも、それ に近づけば必ず、破滅がお前のものとなる。多少とは言え関わったのなら、既に厄が付いている。だがそれを為せばお前の厄は祓われる」
「しかし……」
男は躊躇うようだった。だがそのような躊躇など、呪文と金 を積めば簡単に消えるもの。
沈み行く太陽 が、狭い酒場を怪しく紅く染めていく。
スケイズは、男が了承するまであと二分 とかからぬだろうと踏み、その推測が見事に当たっても別に嬉しそうな顔はしなかった。ただ、彼の〈ライン〉はこの件をどう利用していくつもりなのだろう、と考えるのみである。
翡翠。
ビナレス――いや、世界中に散らばる、緑色の宝玉の全てが力を持っている訳では、無論ない。
小さなものでも魔除けの力はあるとされるが、それはせいぜいが「子供の悪夢を払う」程度のものであって、魔術師が放つ力を防いだり、魔物が振るう不可思議な力から身を守ったりすることはできない。
月日が作る淀みを払うほどの大きな力を持つ玉は、この時代、ビナレスにたったのふたつだけ。
それを助けるものが、あとひとつだけ。
リ・ガンと言われる特殊な存在はその力を操ることができる。
その存在は人間の理から外れて翡翠のためだけに生きる。翡翠に関われば絶大な力を発揮するリ・ガンだが、普段は安定を欠き、ただ人と同じ力しか持たぬことが多い。そのリ・ガンを支えるのが〈鍵〉であり、リ・ガンがいない間に翡翠を支えるのが〈守護者〉である。
もし、翡翠の力を思うままに使いたいとなれば、当の翡翠を手に入れてリ・ガンがやってくるのを待つのがいちばんいい。
たいていのリ・ガンは、翡翠の力を「淀みを払う力」と心得ている。穢れ、淀みを集めて強大な魔力とすることもできるが、リ・ガン自身はその力を振るおうとはしない。何故ならリ・ガンは、ただの触媒に過ぎぬから。
もし、〈鍵〉がそれを望めばリ・ガンは望まれた通りにする。〈鍵〉以外の者がそれを望んだとしても、リ・ガンは決して応じぬ。
だから、〈鍵〉以外の者がその力を望むなら――翡翠を持ち、網を張ってそれを捕まえるのがよい。無理矢理にでも目的に叶うよう、操るのだ。
とは言え、リ・ガンと翡翠に纏 わるこれらの事実を知る者は少ない。
実際のところ、六十年に一度しかないその機会にそのようなことを目論んだ人間は、世界がはじまってからでも片手で数えられる程度だ。
その企みに成功した者がいるのかどうか、文献は伝えない。
〈変異〉の年のみに起こるその出来事のために準備をし、行動をすると言うのは、あまり気短でない魔術師にとっても面倒なことで、第一、実際にどの程度の力が得られるものか判りもしないのだ。
――そう。
だから、これは彼にとって、言うなればただの遊びだ。
彼の権力は絶対であったし、その地位も力も、脅かされることなど有り得ない。
生まれ落ちたときから、いや、母の腹にその命の最初の光が宿ったときから、彼の将来は確固たるものだった。
彼がそれに不安を感じたことなどなく、不満を覚えたこともない。
都市レンの〈ライン〉である以上、彼は来るべきときが来ればばレンの支配者となる。
完璧なる血筋と緻密に計算された誕生の星巡り、もちろん最上級の教育を経て形成された「アスレン」は、魔術都市の異名を持つレンのなかでも文句のつけようのないほど、高位の魔術師たる力を持っている。
彼には、既にその手にしている権力や魔力をより大きくする必要などないのだ。
だから、これは言うなれば、ただの遊びに過ぎない。
そして遊びならば無論――面白い方がよい。
「悪くない」
アスレンは言った。
「三つ目 に関しては簡単と言うことだな。何しろ、守護を持たぬのだから」
アスレンは物憂げに髪をかき上げた。
「簡単すぎて面白くはないが。しばらくは放っておけ。在処が判っていればよい。もうひとつの件はお前に任せる」
巧くやれ、などとは言われなくても、スケイズは肝に銘じていた。自ら言い出した策謀を失敗させれば、アスレンの側近という彼の身分など一夜で瓦解する。
「ソレスの方はどうだ」
「通う女がおります」
「ほう」
アスレンの目が面白そうに光った。
「かの騎士が守る女はシュアラ王女のみに非ず、か。守るものがあればあるほど、それは弱みとなる。まして、騎士などと呼ばれる身であればその責任感は異常なほど強く、それが弱みとなるに気づかない。あれを陥落させるには、思ったほど時間がかからぬやもしれぬな」
「――あの騎士をレンに迎え入れられるのですか」
「気に入らぬと?」
スケイズがこのような差し出がましいことを言えば、多くは〈ライン〉の怒りを買うことになったが、このときのアスレンは上機嫌であった。
「確かに、あの男には魔力などない。アーレイドでは騎士であろうと、ここでは下僕以下だ」
「ならば」
「だが、面白かろう? あの男は」
アスレンはくつくつと笑った。
「たいそう奇妙な星巡りを持っておるというのに、自分ではかけらたりとも気づいておらぬ。ただひたすら騎士の――〈守護者〉の使命に尽くす。井戸を枯らすまで水を汲み続ける、愚か者のように」
主人に水を汲めと言われた男が、それをどこにどうしていいのかを尋ねることすらせず、延々と汲み続けて井戸の水をなくした、という昔話の一説を使って、アスレンはファドックを評した。
「どうやらあの男は、いささか鈍いな」
それが面白い、とアスレンはまた笑う。
「気づいたか、スケイズ。あのとき、ソレスは一度たりとも、リ・ガンのことを思い浮かべなかったぞ」
「は」
気づきました、とスケイズは述べる。
「思い出せば、リ・ガンがどんな姿を採っているか俺には判ったろうに。リ・ガンという語を聞いても、その顔を思い浮かべようとはしなかった。俺の魔力に気づいて意図的にそうしたのならば感心するところだが」
「あれは『本能』とでも言うもの……守り手の」
「そうだ 」
スケイズの呟きにアスレンはうなずいた。
「俺に、リ・ガンのことを知らせてはならないと判っている。だが心の表層でそう判断しているのではない。守り手として培われてきた血がそうさせるのだ。だが、よい。あやつが隠そうとしたことなどすぐに知れる。そうだな、スケイズ?」
言われた側近は黙って頭を下げた。
「あの守護めは」
アスレンは護衛騎士の話を続けた。
「リ・ガンと翡翠を狙う者を敵と認め、最大級の防御をする。それだけの力を俺に奮っておきながら、あやつは自分がただの騎士に過ぎないと考えておる」
アスレンは楽しそうに頭を振った。細い白金の髪が薄闇で揺れる。
「愚かだ。あれを手にすることができたら、面白かろうよ」
〈ライン〉は退屈しているのだな、とスケイズは思った。
レンには、アスレンを満足させるものは数多くあるが、興がらせるものはあまりない。
アスレンはこの遊戯を楽しんでいる。計画を潰され、怒りに身を震わせても、彼にとってこれは遊びだ。駒盤で王手をかけたつもりが逆転されたとしたら、気に入らないと感じる者が多いだろう。
だがなかには、逆転劇を面白がる者や、自身の怒りそのものを楽しむ者もいる。遊戯に入り込んでいれば、それだけ「長く遊べる」ことを歓迎する者も。
アスレンは、この遊戯を本気で行っているだけなのである。
「翡翠は動いた」
アスレンはアーレイドの翡翠を――それともリ・ガンを思いだそうとするかのように目を細めた。
「もはやかの力を手にするには、翡翠そのものをいじくり回したところで不可能だ。触媒がその性質を変えてしまったのだからな」
その声は、機嫌の悪そうな色をたたえはじめる。
「リ・ガンめ。力をとどめずに、みな解放してしまった。だから俺に、その気配が掴めなくなったのだ」
「……意図的なれば、ラインのお考えよりも厄介な相手となりましょう」
「何?」
スケイズの言葉にアスレンは片眉を上げた。
「何が意図的だと言う?」
「その力を全て解放せしこと。それ故、ラインがアーレイドの翡翠をお感じになることが……それから発する力にお触れになることができなくなった」
「俺から逃れるために、そうしたと言うのか?」
「ソレスにいかに自覚がないか――ラインはそこをお気に入りの模様ですが、リ・ガンとて同じやもしれませぬ。どこまで自分の力を理解しているものか」
「そうだな」
アスレンは呟いた。
「俺が張っていた網のなかへ無防備に飛び込んできたかと思えば、兎のように怯えておったわ。あの日は『見る』しかなかったが、次はそうはいかぬ」
アスレンは指をぱちんと弾いた。
「支度を続けよ」
スケイズはさっと礼をすると踵を返した。アスレンもまた、華美な装飾の椅子から立ち上がる。彼自身もまた、支度を進めねばならない。
もはやこの〈変異〉の年は九番目の月を終わらせようとしており、ビナレス地方の季節は冬から春と呼ばれるものに移っている。
木々が芽吹き、道端の雑草が揃って小さな花を咲かせはじめれば、人々の心は訳もなく浮き立ち、暗く寒い日々の終焉を楽しむ。
だが、たいていの者にとっては喜ばしいこの季節を尊ばない者もいる。
それは必ずしも春を嫌い、厭うということではなく――花が咲こうが散ろうが、何も特別に変わることなどないと考えている人種である。
そう言った人種のなかにも様々な傾向があったが、ある一部の者にとっては「時の流れ」自体は重要だ。だがそれはその星の位置によって示されるものであって、重い防寒着を脱ぎ捨てられるようになるなどということは二の次なのだ。
魔術師――という連中がそれである。
それが、ささやかな魔力で
しかし、魔術そのものに打ち込むことだけで日々を送るような、ある程度以上の魔力を持つ魔術師たちとなれば、空を見上げるとしたら星の運行を見るため、花を見るとしたら――何か術に役立たないかと考えてのことだ。
だから、季節が春であろうとどうであろうと、彼らには関係なかった。
時はただ巡って行くもので、必要な刻さえ見逃さなければよいのである。
その小さな町の薄汚れた酒場で、ダイア・スケイズはじっとその男を見ていた。
彼がここに伴った魔術師はまだ若く成長途上だが、魔術師以外の人間と交渉し、
彼は黙って、レンの将来を担う若者が術と口先を弄してその男を籠絡するのを見ていた。
「確かに、俺はそいつを知ってる」
男はしばしの沈黙のあとにゆっくりとそう言った。
「だが……まさか、そんな」
「事実なのだ」
若い術師は男を諭すように言った。
「
「しかし……」
男は躊躇うようだった。だがそのような躊躇など、呪文と
沈み行く
スケイズは、男が了承するまであと二
翡翠。
ビナレス――いや、世界中に散らばる、緑色の宝玉の全てが力を持っている訳では、無論ない。
小さなものでも魔除けの力はあるとされるが、それはせいぜいが「子供の悪夢を払う」程度のものであって、魔術師が放つ力を防いだり、魔物が振るう不可思議な力から身を守ったりすることはできない。
月日が作る淀みを払うほどの大きな力を持つ玉は、この時代、ビナレスにたったのふたつだけ。
それを助けるものが、あとひとつだけ。
リ・ガンと言われる特殊な存在はその力を操ることができる。
その存在は人間の理から外れて翡翠のためだけに生きる。翡翠に関われば絶大な力を発揮するリ・ガンだが、普段は安定を欠き、ただ人と同じ力しか持たぬことが多い。そのリ・ガンを支えるのが〈鍵〉であり、リ・ガンがいない間に翡翠を支えるのが〈守護者〉である。
もし、翡翠の力を思うままに使いたいとなれば、当の翡翠を手に入れてリ・ガンがやってくるのを待つのがいちばんいい。
たいていのリ・ガンは、翡翠の力を「淀みを払う力」と心得ている。穢れ、淀みを集めて強大な魔力とすることもできるが、リ・ガン自身はその力を振るおうとはしない。何故ならリ・ガンは、ただの触媒に過ぎぬから。
もし、〈鍵〉がそれを望めばリ・ガンは望まれた通りにする。〈鍵〉以外の者がそれを望んだとしても、リ・ガンは決して応じぬ。
だから、〈鍵〉以外の者がその力を望むなら――翡翠を持ち、網を張ってそれを捕まえるのがよい。無理矢理にでも目的に叶うよう、操るのだ。
とは言え、リ・ガンと翡翠に
実際のところ、六十年に一度しかないその機会にそのようなことを目論んだ人間は、世界がはじまってからでも片手で数えられる程度だ。
その企みに成功した者がいるのかどうか、文献は伝えない。
〈変異〉の年のみに起こるその出来事のために準備をし、行動をすると言うのは、あまり気短でない魔術師にとっても面倒なことで、第一、実際にどの程度の力が得られるものか判りもしないのだ。
――そう。
だから、これは彼にとって、言うなればただの遊びだ。
彼の権力は絶対であったし、その地位も力も、脅かされることなど有り得ない。
生まれ落ちたときから、いや、母の腹にその命の最初の光が宿ったときから、彼の将来は確固たるものだった。
彼がそれに不安を感じたことなどなく、不満を覚えたこともない。
都市レンの〈ライン〉である以上、彼は来るべきときが来ればばレンの支配者となる。
完璧なる血筋と緻密に計算された誕生の星巡り、もちろん最上級の教育を経て形成された「アスレン」は、魔術都市の異名を持つレンのなかでも文句のつけようのないほど、高位の魔術師たる力を持っている。
彼には、既にその手にしている権力や魔力をより大きくする必要などないのだ。
だから、これは言うなれば、ただの遊びに過ぎない。
そして遊びならば無論――面白い方がよい。
「悪くない」
アスレンは言った。
「
アスレンは物憂げに髪をかき上げた。
「簡単すぎて面白くはないが。しばらくは放っておけ。在処が判っていればよい。もうひとつの件はお前に任せる」
巧くやれ、などとは言われなくても、スケイズは肝に銘じていた。自ら言い出した策謀を失敗させれば、アスレンの側近という彼の身分など一夜で瓦解する。
「ソレスの方はどうだ」
「通う女がおります」
「ほう」
アスレンの目が面白そうに光った。
「かの騎士が守る女はシュアラ王女のみに非ず、か。守るものがあればあるほど、それは弱みとなる。まして、騎士などと呼ばれる身であればその責任感は異常なほど強く、それが弱みとなるに気づかない。あれを陥落させるには、思ったほど時間がかからぬやもしれぬな」
「――あの騎士をレンに迎え入れられるのですか」
「気に入らぬと?」
スケイズがこのような差し出がましいことを言えば、多くは〈ライン〉の怒りを買うことになったが、このときのアスレンは上機嫌であった。
「確かに、あの男には魔力などない。アーレイドでは騎士であろうと、ここでは下僕以下だ」
「ならば」
「だが、面白かろう? あの男は」
アスレンはくつくつと笑った。
「たいそう奇妙な星巡りを持っておるというのに、自分ではかけらたりとも気づいておらぬ。ただひたすら騎士の――〈守護者〉の使命に尽くす。井戸を枯らすまで水を汲み続ける、愚か者のように」
主人に水を汲めと言われた男が、それをどこにどうしていいのかを尋ねることすらせず、延々と汲み続けて井戸の水をなくした、という昔話の一説を使って、アスレンはファドックを評した。
「どうやらあの男は、いささか鈍いな」
それが面白い、とアスレンはまた笑う。
「気づいたか、スケイズ。あのとき、ソレスは一度たりとも、リ・ガンのことを思い浮かべなかったぞ」
「は」
気づきました、とスケイズは述べる。
「思い出せば、リ・ガンがどんな姿を採っているか俺には判ったろうに。リ・ガンという語を聞いても、その顔を思い浮かべようとはしなかった。俺の魔力に気づいて意図的にそうしたのならば感心するところだが」
「あれは『本能』とでも言うもの……守り手の」
「
スケイズの呟きにアスレンはうなずいた。
「俺に、リ・ガンのことを知らせてはならないと判っている。だが心の表層でそう判断しているのではない。守り手として培われてきた血がそうさせるのだ。だが、よい。あやつが隠そうとしたことなどすぐに知れる。そうだな、スケイズ?」
言われた側近は黙って頭を下げた。
「あの守護めは」
アスレンは護衛騎士の話を続けた。
「リ・ガンと翡翠を狙う者を敵と認め、最大級の防御をする。それだけの力を俺に奮っておきながら、あやつは自分がただの騎士に過ぎないと考えておる」
アスレンは楽しそうに頭を振った。細い白金の髪が薄闇で揺れる。
「愚かだ。あれを手にすることができたら、面白かろうよ」
〈ライン〉は退屈しているのだな、とスケイズは思った。
レンには、アスレンを満足させるものは数多くあるが、興がらせるものはあまりない。
アスレンはこの遊戯を楽しんでいる。計画を潰され、怒りに身を震わせても、彼にとってこれは遊びだ。駒盤で王手をかけたつもりが逆転されたとしたら、気に入らないと感じる者が多いだろう。
だがなかには、逆転劇を面白がる者や、自身の怒りそのものを楽しむ者もいる。遊戯に入り込んでいれば、それだけ「長く遊べる」ことを歓迎する者も。
アスレンは、この遊戯を本気で行っているだけなのである。
「翡翠は動いた」
アスレンはアーレイドの翡翠を――それともリ・ガンを思いだそうとするかのように目を細めた。
「もはやかの力を手にするには、翡翠そのものをいじくり回したところで不可能だ。触媒がその性質を変えてしまったのだからな」
その声は、機嫌の悪そうな色をたたえはじめる。
「リ・ガンめ。力をとどめずに、みな解放してしまった。だから俺に、その気配が掴めなくなったのだ」
「……意図的なれば、ラインのお考えよりも厄介な相手となりましょう」
「何?」
スケイズの言葉にアスレンは片眉を上げた。
「何が意図的だと言う?」
「その力を全て解放せしこと。それ故、ラインがアーレイドの翡翠をお感じになることが……それから発する力にお触れになることができなくなった」
「俺から逃れるために、そうしたと言うのか?」
「ソレスにいかに自覚がないか――ラインはそこをお気に入りの模様ですが、リ・ガンとて同じやもしれませぬ。どこまで自分の力を理解しているものか」
「そうだな」
アスレンは呟いた。
「俺が張っていた網のなかへ無防備に飛び込んできたかと思えば、兎のように怯えておったわ。あの日は『見る』しかなかったが、次はそうはいかぬ」
アスレンは指をぱちんと弾いた。
「支度を続けよ」
スケイズはさっと礼をすると踵を返した。アスレンもまた、華美な装飾の椅子から立ち上がる。彼自身もまた、支度を進めねばならない。