08 繰り返し
文字数 3,199文字
頭には靄がかかるようなのに、見える風景には問題がなかった。
この靄の存在は、却ってよかった、のだろうか。余分なところを見ずに済ませば、怖れも迷いも生じずに済むからだ。
ヴォイドに出立を告げたときには、いったいどんな嫌味を言われるかと覚悟を決めた彼だったが、第一侍従は以前と同じ言葉――必ず、生きて帰ってくるように――を口にしただけであった。そして彼は、そのままシャムレイを出た。
「出る」ことができたのはアスレンが彼から離れたからだ、との考えは彼の内になかったが、動く時機だと思えばそれを逃す彼ではない。
薄い幕をかけられたままの彼の記憶。しかしはっきりと心に残るものも、ある。
彼の〈翡翠の娘〉。
顔も名も思い出せぬのに、ひとつだけその記憶に残るのは――。
(アーレイド)
翡翠の名を戴く都市。
そこは、彼が予言の存在と初めて巡り会った地である。
彼は彼らの「本当の」出会いをまだ知らなかった。皮肉なことにも――そのことは覚えていると言うのに!
心に導かれるまま、彼は馬 を西方に駆った。彼を見張る者がいようといまいと。
休息は最低限にものになり、町に寄るのは食糧の補給と馬を替えるためだけになった。愛馬のハサスと離れていることは心苦しいが、こうなればそれも幸いだ。ハサスを乗り捨てることになれば胸が痛む。
こんなに急いたことはなかった。走り続ければ、靄が晴れると思うかのように。
――無論、そのようなことはないと判っていた。
ただ、見える手がかりに走ったのだ。
すぐにこうしなかった自分が不思議だった。アスレンという名の鎖がそれをさせなかったことには、気づいていない。
女魔術師は、彼に魔力がないのに術に抗えることが驚きだと言ったが、これもまた同じであろう。第一王子が余所へ気を逸らしたと言っても、その術はいまだ彼を縛っているはずなのだから。
ひとりで旅をすることはともかく、夜の街道と言う、とても安全と言い難い場所でひとりで休むことは避けたかった。盗賊 や山賊 の類に目をつけられれば、靄を払うどころかそこで人生の終わりである。
だから彼はなるべく隊商 を見つけてその近くで休むか、さもなくば昼間に休んだ。彼は暑さには強かったが、真夏の熱に倒れないためには、その方法は一般的なものであった。
わずかな睡眠のたびに、その姿が見えるような気がした。
彼の――〈翡翠の娘〉。
「不思議なことです」
ぱっとシーヴは目を開いた。
そのとき彼は、限界に近い疲労感を覚えて、夜の月の女神 が美しく輝く街道を少し離れ、林の間で微睡んでいたところだった。
「どうして殿下 は、そうしてまっすぐに走り出せるのでしょう」
その声には覚えがあった。その姿にも。その――香りにも。
「……ミオノール」
ゆっくりと身を起こしながら、彼は言った。
するりと口から出てきた名に女は喜び、男は苛ついた。彼は覚えている訳でも思い出した訳でもないのに、名は簡単に彼の脳裏に上ったのだ。――望む名は、かけらも蘇らないと言うのに。
「こうしてこの耳で、殿下のお声を聞けるとは嬉しいものです。それも、我が名をお呼びいただけるとは」
「黙れ」
ほとんど反射的に、シーヴは言った。
「アスレンの仲間だな。お前が、次の見張りか」
その言葉に、ミオノールは何か印のようなものを切った。シーヴは警戒するが、とりたてて魔術のようなものが行われたとは思えなかった。少なくとも目に見えては、と言うことになるだろうが。
「そのような、畏れ多い。私はラインの下僕、それも末端にすぎませぬ」
「戯言は要らん」
シーヴが返すと女は笑った。
「リャカラーダ様は、それでもお変わりない。嬉しゅうございますね」
すぐ脇に立っていた女はすっと両膝をつき、シーヴがその身を支えるように地面につけている手を包み込むようにした。途端、全身を駆けめぐる甘い感覚に、王子はうめき声をもらしてその手を引いた。
「そしてやはり、素直になろうとされない」
ミオノールは笑った。
「素直」
シーヴは繰り返した。
「素直になるというのは」
シーヴは言った。
「お前の胸ぐらをひっ掴んで手妻など使うなと言い、その耳もとで鼓膜を破るほどの大声で、俺の記憶を返せと叫ぶと言うことだな」
「正解です 」
女は艶めいた笑いを見せた。シーヴは片眉を上げる。
「ええ。わたくしが、殿下の思い出を封じて差し上げました」
シーヴはそれを指摘したのではなかった。ミオノールも、それを判った上で、青年に真実を語っていた。
「それはつまり」
女の言葉の意味に気づいたシーヴは言った。
「返す気はない、ということだな」
青年は唇を歪めた。
「これは殿下の御為でございますから」
ミオノールはその顔に懸念すら浮かべてそう言った。
「私は、魔物などに翻弄されるリャカラーダ様を放っておけなかったのです」
青年は眉根をひそめた。彼はその話を知っている。
「俺は」
彼は口を開いた。
「俺はお前と以前にもそのようなやり取りをしたな。そして俺はお前を拒絶した」
ミオノールは肩をすくめた。それは肯定であるように見えた。
「ならば、記憶がなかろうと答えは同じだ。去 ね」
きっぱりとした返答に、女魔術師はこれ以上ないほど楽しそうに笑った。
「本当に、心から嬉しゅうございます、殿下。どんなときでも快晴の空のように曇りない。いえ」
女は美しい手を彼の肩に乗せた。
「曇り空であっても、たとえ嵐が吹き荒れていても、そうではないというふりを――される」
「強がり だと言うか」
シーヴはにやりとして言った。スケイズに言われた台詞が不意に彼に蘇って口の端に上ったが、それが誰に言われたものなのか彼には判らず――ミオノールはまた驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを取り戻した。
「私は、そんな殿下が愛おしくてたまりません」
「ほう」
彼は軽く返した。ミオノールは首を振る。
「つれない、お言葉。どれだけわたくしを愛してくださったかも忘れてしまわれたのですね」
「嘘だな」
シーヴは即答した。また、女は笑う。
「酷い御方ですね、リャカラーダ様。リ・ガンのことは懸命に思い出そうとされますのに、私のことは都合よく、そのままお忘れになってしまわれる、と」
「リ・ガン」
シーヴは繰り返した。
「ええ」
ミオノールは腕を彼の肩に回すと、囁くようにした。
「殿下を惑わす、化け物。あの女のためにリャカラーダ様は幾度も身を危険にさらし、お命を危うくすることも。わたくしや、砂漠の娘の真摯な愛ではなかなか、殿下をお救いすることができません」
「それでこの、強硬手段か?」
シーヴは笑ったが、そこには少し神経質な感じが混ざっただろうか。
「魔術で強引にほかの女を忘れさせるのが、お前の『真摯な愛』か」
「魔術で強引に、その女に惹きつけられていらっしゃるのですよ」
繰り返しだな、とシーヴは思った。記憶になくとも判ることはある。この繰り返しをミオノールが楽しんでいることも、また。
「リ・ガンさえいなければ、殿下は迷うことなく私を愛してくれましょうに」
「それは、振られた女ならば誰でも思うことだな」
「男も、同じですね」
ミオノールはシーヴの皮肉に少しも怯むことなく、言った。
「殿下がどれだけリ・ガンを追っても、あの女は別の男を見ています。私は殿下が傷つくところを見たくはありません」
「それでご親切に記憶を乱し、そして」
シーヴはにやりとした。
「これ以上は 行くな と言うのだな。つまり、俺の道行きは合っているのだ」
この靄の存在は、却ってよかった、のだろうか。余分なところを見ずに済ませば、怖れも迷いも生じずに済むからだ。
ヴォイドに出立を告げたときには、いったいどんな嫌味を言われるかと覚悟を決めた彼だったが、第一侍従は以前と同じ言葉――必ず、生きて帰ってくるように――を口にしただけであった。そして彼は、そのままシャムレイを出た。
「出る」ことができたのはアスレンが彼から離れたからだ、との考えは彼の内になかったが、動く時機だと思えばそれを逃す彼ではない。
薄い幕をかけられたままの彼の記憶。しかしはっきりと心に残るものも、ある。
彼の〈翡翠の娘〉。
顔も名も思い出せぬのに、ひとつだけその記憶に残るのは――。
(アーレイド)
翡翠の名を戴く都市。
そこは、彼が予言の存在と初めて巡り会った地である。
彼は彼らの「本当の」出会いをまだ知らなかった。皮肉なことにも――そのことは覚えていると言うのに!
心に導かれるまま、彼は
休息は最低限にものになり、町に寄るのは食糧の補給と馬を替えるためだけになった。愛馬のハサスと離れていることは心苦しいが、こうなればそれも幸いだ。ハサスを乗り捨てることになれば胸が痛む。
こんなに急いたことはなかった。走り続ければ、靄が晴れると思うかのように。
――無論、そのようなことはないと判っていた。
ただ、見える手がかりに走ったのだ。
すぐにこうしなかった自分が不思議だった。アスレンという名の鎖がそれをさせなかったことには、気づいていない。
女魔術師は、彼に魔力がないのに術に抗えることが驚きだと言ったが、これもまた同じであろう。第一王子が余所へ気を逸らしたと言っても、その術はいまだ彼を縛っているはずなのだから。
ひとりで旅をすることはともかく、夜の街道と言う、とても安全と言い難い場所でひとりで休むことは避けたかった。
だから彼はなるべく
わずかな睡眠のたびに、その姿が見えるような気がした。
彼の――〈翡翠の娘〉。
「不思議なことです」
ぱっとシーヴは目を開いた。
そのとき彼は、限界に近い疲労感を覚えて、夜の
「どうして
その声には覚えがあった。その姿にも。その――香りにも。
「……ミオノール」
ゆっくりと身を起こしながら、彼は言った。
するりと口から出てきた名に女は喜び、男は苛ついた。彼は覚えている訳でも思い出した訳でもないのに、名は簡単に彼の脳裏に上ったのだ。――望む名は、かけらも蘇らないと言うのに。
「こうしてこの耳で、殿下のお声を聞けるとは嬉しいものです。それも、我が名をお呼びいただけるとは」
「黙れ」
ほとんど反射的に、シーヴは言った。
「アスレンの仲間だな。お前が、次の見張りか」
その言葉に、ミオノールは何か印のようなものを切った。シーヴは警戒するが、とりたてて魔術のようなものが行われたとは思えなかった。少なくとも目に見えては、と言うことになるだろうが。
「そのような、畏れ多い。私はラインの下僕、それも末端にすぎませぬ」
「戯言は要らん」
シーヴが返すと女は笑った。
「リャカラーダ様は、それでもお変わりない。嬉しゅうございますね」
すぐ脇に立っていた女はすっと両膝をつき、シーヴがその身を支えるように地面につけている手を包み込むようにした。途端、全身を駆けめぐる甘い感覚に、王子はうめき声をもらしてその手を引いた。
「そしてやはり、素直になろうとされない」
ミオノールは笑った。
「素直」
シーヴは繰り返した。
「素直になるというのは」
シーヴは言った。
「お前の胸ぐらをひっ掴んで手妻など使うなと言い、その耳もとで鼓膜を破るほどの大声で、俺の記憶を返せと叫ぶと言うことだな」
「
女は艶めいた笑いを見せた。シーヴは片眉を上げる。
「ええ。わたくしが、殿下の思い出を封じて差し上げました」
シーヴはそれを指摘したのではなかった。ミオノールも、それを判った上で、青年に真実を語っていた。
「それはつまり」
女の言葉の意味に気づいたシーヴは言った。
「返す気はない、ということだな」
青年は唇を歪めた。
「これは殿下の御為でございますから」
ミオノールはその顔に懸念すら浮かべてそう言った。
「私は、魔物などに翻弄されるリャカラーダ様を放っておけなかったのです」
青年は眉根をひそめた。彼はその話を知っている。
「俺は」
彼は口を開いた。
「俺はお前と以前にもそのようなやり取りをしたな。そして俺はお前を拒絶した」
ミオノールは肩をすくめた。それは肯定であるように見えた。
「ならば、記憶がなかろうと答えは同じだ。
きっぱりとした返答に、女魔術師はこれ以上ないほど楽しそうに笑った。
「本当に、心から嬉しゅうございます、殿下。どんなときでも快晴の空のように曇りない。いえ」
女は美しい手を彼の肩に乗せた。
「曇り空であっても、たとえ嵐が吹き荒れていても、そうではないというふりを――される」
「
シーヴはにやりとして言った。スケイズに言われた台詞が不意に彼に蘇って口の端に上ったが、それが誰に言われたものなのか彼には判らず――ミオノールはまた驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを取り戻した。
「私は、そんな殿下が愛おしくてたまりません」
「ほう」
彼は軽く返した。ミオノールは首を振る。
「つれない、お言葉。どれだけわたくしを愛してくださったかも忘れてしまわれたのですね」
「嘘だな」
シーヴは即答した。また、女は笑う。
「酷い御方ですね、リャカラーダ様。リ・ガンのことは懸命に思い出そうとされますのに、私のことは都合よく、そのままお忘れになってしまわれる、と」
「リ・ガン」
シーヴは繰り返した。
「ええ」
ミオノールは腕を彼の肩に回すと、囁くようにした。
「殿下を惑わす、化け物。あの女のためにリャカラーダ様は幾度も身を危険にさらし、お命を危うくすることも。わたくしや、砂漠の娘の真摯な愛ではなかなか、殿下をお救いすることができません」
「それでこの、強硬手段か?」
シーヴは笑ったが、そこには少し神経質な感じが混ざっただろうか。
「魔術で強引にほかの女を忘れさせるのが、お前の『真摯な愛』か」
「魔術で強引に、その女に惹きつけられていらっしゃるのですよ」
繰り返しだな、とシーヴは思った。記憶になくとも判ることはある。この繰り返しをミオノールが楽しんでいることも、また。
「リ・ガンさえいなければ、殿下は迷うことなく私を愛してくれましょうに」
「それは、振られた女ならば誰でも思うことだな」
「男も、同じですね」
ミオノールはシーヴの皮肉に少しも怯むことなく、言った。
「殿下がどれだけリ・ガンを追っても、あの女は別の男を見ています。私は殿下が傷つくところを見たくはありません」
「それでご親切に記憶を乱し、そして」
シーヴはにやりとした。
「