05 〈鍵〉と〈守護者〉
文字数 2,949文字
「『彼女 』ですか」
術はかけられていても彼の頭は明瞭であったから――むしろ、雑念がない分、鋭さは増していたかもしれない――シーヴの呟きが誰を表すのかは知れた。それが「誰」であるのか、自身が知っていながら思い出せないのだと言うことには気づかぬまま。
「彼女は、ここにいるようだ」
「アーレイドに?」
「ああ。アーレイド城に」
シーヴは少し訂正をした。ミオノールは、リ・ガンは姫と騎士のために動くと言った。ならば、街ではなく城だ。それを聞いたファドックは片眉を上げる。
「しかし、あの日の姫君の姿をお見かけしてはおらぬようです」
「判らぬと言うのなら、そうだろうな。お前の状態を知れば、黙っていないはずだ」
〈翡翠の娘〉の顔も名も思い出せぬシーヴ。「リティアエラ」「エイラ」のことに思いが届かぬファドック。
ファドックはエイルの帰還を知りながら、それへの安堵も懸念も閉ざされたままであった。そして無論、シーヴは「エイル」のことを知らぬ。
「それに、わたくしの状態とは、どう言った意味なのです」
「そこに疑問を感じるようじゃ、話しても仕方ない」
シーヴは先と同じようなことを言ったが、深く息を吐くとファドックを見た。
「だが、言っておこう。お前は翡翠を守る存在だ。……アスレンなどに惑わされるな」
俺も人のことは言えんが、とシーヴは付け加えた。
「――ライン・アスレンですか」
「ライン、ときたか」
シーヴは皮肉げに口元を歪めた。
「かの殿下とあなたの間に何がおありなのですか」
「さて、深くて暗い溝ってやつかね。お前も同じように感じているはずだが……そうして捕まっていては、な」
ファドックは答えなかった。アスレンが彼に術をかけていることは知っている。ただ、それは何の問題にもなっていないと「判断」するだけだ。
「奴らが何を考えて俺をここへ……お前のもと、ひいてはアーレイドへ連れてきたのか判らん」
シーヴは嘆息した。
「俺にお前の状況を教えて、奴らに何の得がある?」
「判らぬか」
笑いを含んだ声に〈鍵〉と〈守護者〉は素早く立ち上がった。前者は警戒と確信に剣を抜くため、後者は礼儀を――示すために。
「……忙しいんじゃなかったのかい、ライン」
「なかなか、責務を免れると言うのは難しいことだ。お前には易しいようだがな、リャカラーダ」
尋常ではない方法でその場に姿を現したレンの第一王子は、静かに笑った。
「はっ」
シーヴは片頬を歪めた。
「口清く言ってくれるね。人の女に手を出そうってのは、責務かい」
「彼女」に聞かれれば罵倒されそうなことを言って、砂漠の青年は魔術師を睨んだ。
「お前は、あれを女と言うのだな。愚かだ。あれは〈触媒〉。ヒトですらない」
「何とでも」
青年は物騒な笑みを浮かべた。
「お前とは趣味が合わんことは承知だ」
それを聞いたアスレンもまた不吉な笑みを浮かべた。
「お前をこのように動かすことは我が本意ではなかったが、まあ、よかろう。最終的に巧く運べばそれでよい」
「そういつもいつも、お前に都合よく運ばせやせんよ」
「そうして口先でばかり、できもしないことを言う」
アスレンは芝居がかって息をついた。
「お前たちはよく似ているな?」
シーヴは片眉を上げ、ファドックはじっとその場に立ったままだ。
「……こいつに何をしたんだ」
苦い顔でシーヴはファドックを示した。ファドックは意味が判らないというように目を細め、アスレンはそれに満足そうに笑った。
「幸か不幸か、〈鍵〉はこやつに影響を及ぼさぬようだな」
「俺にしたように……彼女の記憶を奪ったか」
「いいや」
アスレンは肩をすくめた。
「外れだ、リャカラーダ。我はソレスの記憶を操ってなどおらぬ」
「何でもいい、何であろうと――術はかけた」
「無論」
アスレンはそれを否定する気はなかった。
「この番犬は、お前よりも面白うて、な」
「有難い話だよ」
シーヴは魔除けの仕草などした。
「解け」
その短い言葉にアスレンはくっと笑った。
「お前にもまだ充分、面白いところがあるな」
「愚かだと、言うのだろう?」
シーヴは鼻を鳴らした。
「〈愚者を嘲笑うはより愚か〉という言葉を知っているか」
「嘲笑うだと? 馬鹿な。俺は感心しているのだ」
アスレンは言った。
「まるで、珍妙な獣が芸をするのを見物している気持ちになる」
その言いようにシーヴは腹を立てず、むしろにやりとした。
「お前もときどき、面白いようだ。悪趣味だがね」
ファドックはじっと黙ったまま、他都市の二人の王子を見ていた。
彼は、アスレンがアーレイドの宝物庫にある翡翠を――魔術的な意味で――狙っていることは判っている。だがそれは放置しておいてもかまわぬ問題に見えた。もしアスレンがそれを盗もうとでも言うのなら別だ、と。
一方でリャカラーダ――シーヴ。彼はファドックを翡翠の守り手だと言ったろうか。
三つ目。動玉。
何か引っかかるように思った。だがファドックは、それを追う価値を見出せぬのであった。
「悪趣味と。結構だ、リャカラーダ。では続けて、趣味の悪い見せ物を演じてもらおう」
アスレンの言葉にシーヴは嫌な顔をし、ファドックも顔には出さねど、同じような感想を抱いていた。
「ソレス」
その声にファドックはすっと礼をした。それは臣下のものではなく、アーレイド近衛隊長として他都市の高貴な者に向けてする儀礼的なものであった。シーヴはそれを見て取ったが、そのことにどの程度安心できるものか、それともやはり危惧したものか、掴めずにいた。
「お前は翡翠の守り手だな」
アスレンがそれを言い出したことをシーヴは奇妙に思って片眉を上げた。ファドックにそれを思い出されれば、レンには不都合ではないのか?
「ならば、お前の持つ翡翠を狙うそこな東の男は――敵だな」
成程、とシーヴの唇が歪められた。
「たいそうな冗談だ」
シーヴが言うとアスレンは肩をすくめた。
「そう思うのはお前だけやもしれぬぞ」
ファドックは、奇妙な表情でアスレンとシーヴを見比べていた。
彼の全ての厄介ごとのもとであるのがアスレンであることは間違いなかった。だがその事実に怒りを覚えることはなく、「翡翠を狙う」などとの曖昧な言葉に不安、それとも憤りに似たものを覚えるのは不思議だと、そんなふうに考えていた。
「こんな性質 の悪い冗談にはくれぐれも乗るなよ……ソレス」
シーヴはほとんど祈るように言った。ファドックがレンの――アスレンの力を受けていることは明らかだ。意のままという訳ではないとしても、シーヴに、そして「彼女」に利するために率先して動くことはないと見て、いいだろう。
彼はふと、この男を敵に回したくはないと考えたことを思い出した。
(敵になんか)
(ならないよ)
娘の言葉が微かに蘇った気がしたが、それは風のように彼を通り抜けてしまった。
「〈鍵〉と〈守護者〉が翡翠を巡って争えば、どうなるのだろうな?」
少しばかり興味があるのだ――と好奇心のようなものをその声ににじませ、レンの王子は穏やかに笑んだ。
術はかけられていても彼の頭は明瞭であったから――むしろ、雑念がない分、鋭さは増していたかもしれない――シーヴの呟きが誰を表すのかは知れた。それが「誰」であるのか、自身が知っていながら思い出せないのだと言うことには気づかぬまま。
「彼女は、ここにいるようだ」
「アーレイドに?」
「ああ。アーレイド城に」
シーヴは少し訂正をした。ミオノールは、リ・ガンは姫と騎士のために動くと言った。ならば、街ではなく城だ。それを聞いたファドックは片眉を上げる。
「しかし、あの日の姫君の姿をお見かけしてはおらぬようです」
「判らぬと言うのなら、そうだろうな。お前の状態を知れば、黙っていないはずだ」
〈翡翠の娘〉の顔も名も思い出せぬシーヴ。「リティアエラ」「エイラ」のことに思いが届かぬファドック。
ファドックはエイルの帰還を知りながら、それへの安堵も懸念も閉ざされたままであった。そして無論、シーヴは「エイル」のことを知らぬ。
「それに、わたくしの状態とは、どう言った意味なのです」
「そこに疑問を感じるようじゃ、話しても仕方ない」
シーヴは先と同じようなことを言ったが、深く息を吐くとファドックを見た。
「だが、言っておこう。お前は翡翠を守る存在だ。……アスレンなどに惑わされるな」
俺も人のことは言えんが、とシーヴは付け加えた。
「――ライン・アスレンですか」
「ライン、ときたか」
シーヴは皮肉げに口元を歪めた。
「かの殿下とあなたの間に何がおありなのですか」
「さて、深くて暗い溝ってやつかね。お前も同じように感じているはずだが……そうして捕まっていては、な」
ファドックは答えなかった。アスレンが彼に術をかけていることは知っている。ただ、それは何の問題にもなっていないと「判断」するだけだ。
「奴らが何を考えて俺をここへ……お前のもと、ひいてはアーレイドへ連れてきたのか判らん」
シーヴは嘆息した。
「俺にお前の状況を教えて、奴らに何の得がある?」
「判らぬか」
笑いを含んだ声に〈鍵〉と〈守護者〉は素早く立ち上がった。前者は警戒と確信に剣を抜くため、後者は礼儀を――示すために。
「……忙しいんじゃなかったのかい、ライン」
「なかなか、責務を免れると言うのは難しいことだ。お前には易しいようだがな、リャカラーダ」
尋常ではない方法でその場に姿を現したレンの第一王子は、静かに笑った。
「はっ」
シーヴは片頬を歪めた。
「口清く言ってくれるね。人の女に手を出そうってのは、責務かい」
「彼女」に聞かれれば罵倒されそうなことを言って、砂漠の青年は魔術師を睨んだ。
「お前は、あれを女と言うのだな。愚かだ。あれは〈触媒〉。ヒトですらない」
「何とでも」
青年は物騒な笑みを浮かべた。
「お前とは趣味が合わんことは承知だ」
それを聞いたアスレンもまた不吉な笑みを浮かべた。
「お前をこのように動かすことは我が本意ではなかったが、まあ、よかろう。最終的に巧く運べばそれでよい」
「そういつもいつも、お前に都合よく運ばせやせんよ」
「そうして口先でばかり、できもしないことを言う」
アスレンは芝居がかって息をついた。
「お前たちはよく似ているな?」
シーヴは片眉を上げ、ファドックはじっとその場に立ったままだ。
「……こいつに何をしたんだ」
苦い顔でシーヴはファドックを示した。ファドックは意味が判らないというように目を細め、アスレンはそれに満足そうに笑った。
「幸か不幸か、〈鍵〉はこやつに影響を及ぼさぬようだな」
「俺にしたように……彼女の記憶を奪ったか」
「いいや」
アスレンは肩をすくめた。
「外れだ、リャカラーダ。我はソレスの記憶を操ってなどおらぬ」
「何でもいい、何であろうと――術はかけた」
「無論」
アスレンはそれを否定する気はなかった。
「この番犬は、お前よりも面白うて、な」
「有難い話だよ」
シーヴは魔除けの仕草などした。
「解け」
その短い言葉にアスレンはくっと笑った。
「お前にもまだ充分、面白いところがあるな」
「愚かだと、言うのだろう?」
シーヴは鼻を鳴らした。
「〈愚者を嘲笑うはより愚か〉という言葉を知っているか」
「嘲笑うだと? 馬鹿な。俺は感心しているのだ」
アスレンは言った。
「まるで、珍妙な獣が芸をするのを見物している気持ちになる」
その言いようにシーヴは腹を立てず、むしろにやりとした。
「お前もときどき、面白いようだ。悪趣味だがね」
ファドックはじっと黙ったまま、他都市の二人の王子を見ていた。
彼は、アスレンがアーレイドの宝物庫にある翡翠を――魔術的な意味で――狙っていることは判っている。だがそれは放置しておいてもかまわぬ問題に見えた。もしアスレンがそれを盗もうとでも言うのなら別だ、と。
一方でリャカラーダ――シーヴ。彼はファドックを翡翠の守り手だと言ったろうか。
三つ目。動玉。
何か引っかかるように思った。だがファドックは、それを追う価値を見出せぬのであった。
「悪趣味と。結構だ、リャカラーダ。では続けて、趣味の悪い見せ物を演じてもらおう」
アスレンの言葉にシーヴは嫌な顔をし、ファドックも顔には出さねど、同じような感想を抱いていた。
「ソレス」
その声にファドックはすっと礼をした。それは臣下のものではなく、アーレイド近衛隊長として他都市の高貴な者に向けてする儀礼的なものであった。シーヴはそれを見て取ったが、そのことにどの程度安心できるものか、それともやはり危惧したものか、掴めずにいた。
「お前は翡翠の守り手だな」
アスレンがそれを言い出したことをシーヴは奇妙に思って片眉を上げた。ファドックにそれを思い出されれば、レンには不都合ではないのか?
「ならば、お前の持つ翡翠を狙うそこな東の男は――敵だな」
成程、とシーヴの唇が歪められた。
「たいそうな冗談だ」
シーヴが言うとアスレンは肩をすくめた。
「そう思うのはお前だけやもしれぬぞ」
ファドックは、奇妙な表情でアスレンとシーヴを見比べていた。
彼の全ての厄介ごとのもとであるのがアスレンであることは間違いなかった。だがその事実に怒りを覚えることはなく、「翡翠を狙う」などとの曖昧な言葉に不安、それとも憤りに似たものを覚えるのは不思議だと、そんなふうに考えていた。
「こんな
シーヴはほとんど祈るように言った。ファドックがレンの――アスレンの力を受けていることは明らかだ。意のままという訳ではないとしても、シーヴに、そして「彼女」に利するために率先して動くことはないと見て、いいだろう。
彼はふと、この男を敵に回したくはないと考えたことを思い出した。
(敵になんか)
(ならないよ)
娘の言葉が微かに蘇った気がしたが、それは風のように彼を通り抜けてしまった。
「〈鍵〉と〈守護者〉が翡翠を巡って争えば、どうなるのだろうな?」
少しばかり興味があるのだ――と好奇心のようなものをその声ににじませ、レンの王子は穏やかに笑んだ。