16 もうご免だけど
文字数 2,800文字
〈変異〉の年の彼の物語は、若い姿の老魔術師をかなり興がらせたようだった。
関わったほかの者からも話を聞いてみたいなどと言ったオルエンに、くれぐれもシーヴとファドックの前にはその姿で行くな、と厳命をしたが、ひねくれ者の魔術師はエイルがそう言ったことで却ってそんな遊びをするかもしれず、エイルは頭が痛くなった。
一方で、オルエンの話は翡翠やレンのことに限らず多岐に渡り、やはり彼にもたいそう興味深かったが、いささか難しくもあった。彼はいまだに、と言うよりは、本当に新米魔術師であり、伝説級の魔力を持つ──のだろう──男の感覚は理解し難かった。
「判らぬか」
オルエンはそんなエイルの様子に気づくと、面白そうに言った。
「お前はまだ、駆け出しであったな。では、私が教えてやろう」
「……あんまり面白い冗談じゃないね」
「本気だぞ」
オルエンはにやりとした。
「王女殿下に魔術学を教えるのだろう? 自分自身も学んでおこうとは思わんのか」
「そりゃ、思うけど」
何故それを知っているのか、などとこの男に問うたところで意味はないと考えたエイルは尋ねる過程を省略することにした。
「そうだろう。お前はまだまだ未熟だからな」
魔術の技も、人生も、などと魔術師は言う。
「悪かったな」
思わずと言った調子で言うものの、反論はできなかった。確かに彼は〈変異〉の年がもたらしたものに振り回されて、何もかもを中途半端にしたままである。
下町の仕事。厨房の仕事。魔術師としての旅も、薬草師の真似事も、隊商に雇われての調理手伝いも、どれもこれも、逃げるように半端なままで終らせてきた。
「拗ねるな。ただ、本腰を入れてみる気はないかと尋ねただけだ」
「精進して立派な魔術師になれとでも?」
エイルは眉をひそめた。確かに、いまとなっては魔術師として生計を立てることも可能である。だが、どうしたいのかはまだ自分でも判らなかった。
「そうは言わんが、せっかくできることがあるのだからやっておけばよかろう」
オルエンは考えるようにして、続けた。
「月に一度、私はこの塔を訪れるとしよう。お前に学ぶ気があれば、教える。そうでなければ、酒を飲んで帰る。もうくるなと言うならば、それでよい。いまやここの主はお前なのだから」
「そうは思えないね」
エイルは〈塔〉を――見定める場所はなかったが――睨みつけた。
「オルエンが第一で、俺は結局のところ客人か、ただのおまけだろう」
「どうであろうか」
〈塔〉は恍けるように言った。
「全く、忌々しいこった」
エイルは両腰に手を当てた。すると、ちゃらん、と何かが音を立てる。オルエンは目を細めた。
「それは何だ。何を持っている」
「え? ああ」
エイルは隠しに手を入れると、その飾り石を取り出した。
「守りの石だってさ。護符みたいなもんだとか。別に俺は護符なんて要らないけど、ファドック様を助けられたのはこれの力だったんじゃないかと思うのと、リック導師の……形見らしいからさ」
それで、身に付けもしないのに持っているのだと彼は言った。
「まあ、縁起ものってとこかなあ」
「何を言っている」
どこか面白そうに、オルエンは言った。
「気づいていないのか。それは、翡翠だぞ」
「……はっ?」
エイルは間の抜けた声を出した。
「だって、色が」
「緑のものだけが魔よけの輝玉と言う訳でもない」
オルエンは講義をするような口調になった。
「かの翡翠の宮殿、女王陛下のご座所はああ見えても翡翠でできているのだと、これは我が私見だが」
「……白くても?」
「そう、白くとも。そして赤くとも」
老魔術師はエイルの手にあるものを指す。
「それも、翡翠」
「へえ」
言われたエイルは赤褐色の石がついたその飾りものをくるくると振り回すようにした。
「判りやすく見せてやろうか?」
オルエンは言い、指を差した。エイルは首飾りをもてあそぶのをやめ、魔術師が何をする気だろうと掌に乗せる。オルエンはにやりとして、もう片方の手指をぱちんと弾いた。
その途端、その石は――まっぷたつになる。
「な」
エイルが呆然としたのはその無体な真似についてもだが、目にしたものについても――だった。
表面を褐色で覆われていた飾り石の、その断面は、北方の穏やかな美しい海の色のような――明るく爽やかな白緑。
「判ったかね?」
オルエンはそう言うとまた指を鳴らし、四角い石は何事もなかったようにひとつに繋がる。
「……何だその目は、エイル。胡散臭いものを見るように師匠を見るでない」
「弟子にしてくださいと言った覚えはないよ」
「特別にその手順は免除してやるとも」
「お断りだと言ってるんだけどさ」
エイルは指先でそれをもてあそぶようにしながら答え、それから石をぎゅっと掴む。
「――翡翠」
「そうだ 」
オルエンはうなずいた。
「それは非常によい守りだ。大事にしろ」
「翡翠なんて、もうご免だけどさ」
エイルは呟いた。
「大事には、するよ」
リック師が、頼りない最後の弟子を案じてくれた、その思いに心が温まるようだ。
そこで彼ははっとなった。
「俺の師匠は、リック師だけで充分。あんたなんか要らないよ」
「死者は何も教えてくれんぞ」
言いながらオルエンは追悼の仕草をした。エイルも倣う。
「だが、主よ」
〈塔〉が口を挟んだ。
「ぬしをアーレイドまで日々跳ばすには、私の力だけでは足りぬぞ」
「ほかのやり方が必要だな?」
オルエンはにやりとした。
「まずはそれから、教えてやろう」
「〈他人の親切には警戒しろ〉って言うよな」
エイルが言うと、オルエンは肩をすくめる。
「託した鍵をこうして受け取ってくれたのだから、礼はする。幾度か私とともにこことアーレイド城を往復すれば、コツが見えてくるだろう」
「冗談」
エイルは言った。
「その顔でアーレイドに行ってみろ、絶対ファドック様に斬られるぞ」
「見誤るようなら、それだけの人間だな。あれはそんな男か?」
オルエンの言いようにエイルは口をつぐんだ。
「別な姿に見せかけることは簡単だが、私はあの騎士殿をごまかす真似はしたくないし、それに第一、彼に残る黒いものを消すためには……この姿を見せた方がよかろうな」
「……術が残ってるのか!?」
「いや」
驚愕したように言う青年に、老魔術師は首を振った。
「彼は強い。だが強い分、痛みを無視して傷口を膿ませかねないと言うことだ」
「……判るような、判らんような」
「お前は、判らんでいい」
老人の台詞に彼は思わずむっとなったが、エイルを馬鹿にしたと言う様子ではない。
「お前は、在るように在れ。エイル」
そう言って笑んだその顔が彼に嫌な感じを思わせることは、もうなかった。
関わったほかの者からも話を聞いてみたいなどと言ったオルエンに、くれぐれもシーヴとファドックの前にはその姿で行くな、と厳命をしたが、ひねくれ者の魔術師はエイルがそう言ったことで却ってそんな遊びをするかもしれず、エイルは頭が痛くなった。
一方で、オルエンの話は翡翠やレンのことに限らず多岐に渡り、やはり彼にもたいそう興味深かったが、いささか難しくもあった。彼はいまだに、と言うよりは、本当に新米魔術師であり、伝説級の魔力を持つ──のだろう──男の感覚は理解し難かった。
「判らぬか」
オルエンはそんなエイルの様子に気づくと、面白そうに言った。
「お前はまだ、駆け出しであったな。では、私が教えてやろう」
「……あんまり面白い冗談じゃないね」
「本気だぞ」
オルエンはにやりとした。
「王女殿下に魔術学を教えるのだろう? 自分自身も学んでおこうとは思わんのか」
「そりゃ、思うけど」
何故それを知っているのか、などとこの男に問うたところで意味はないと考えたエイルは尋ねる過程を省略することにした。
「そうだろう。お前はまだまだ未熟だからな」
魔術の技も、人生も、などと魔術師は言う。
「悪かったな」
思わずと言った調子で言うものの、反論はできなかった。確かに彼は〈変異〉の年がもたらしたものに振り回されて、何もかもを中途半端にしたままである。
下町の仕事。厨房の仕事。魔術師としての旅も、薬草師の真似事も、隊商に雇われての調理手伝いも、どれもこれも、逃げるように半端なままで終らせてきた。
「拗ねるな。ただ、本腰を入れてみる気はないかと尋ねただけだ」
「精進して立派な魔術師になれとでも?」
エイルは眉をひそめた。確かに、いまとなっては魔術師として生計を立てることも可能である。だが、どうしたいのかはまだ自分でも判らなかった。
「そうは言わんが、せっかくできることがあるのだからやっておけばよかろう」
オルエンは考えるようにして、続けた。
「月に一度、私はこの塔を訪れるとしよう。お前に学ぶ気があれば、教える。そうでなければ、酒を飲んで帰る。もうくるなと言うならば、それでよい。いまやここの主はお前なのだから」
「そうは思えないね」
エイルは〈塔〉を――見定める場所はなかったが――睨みつけた。
「オルエンが第一で、俺は結局のところ客人か、ただのおまけだろう」
「どうであろうか」
〈塔〉は恍けるように言った。
「全く、忌々しいこった」
エイルは両腰に手を当てた。すると、ちゃらん、と何かが音を立てる。オルエンは目を細めた。
「それは何だ。何を持っている」
「え? ああ」
エイルは隠しに手を入れると、その飾り石を取り出した。
「守りの石だってさ。護符みたいなもんだとか。別に俺は護符なんて要らないけど、ファドック様を助けられたのはこれの力だったんじゃないかと思うのと、リック導師の……形見らしいからさ」
それで、身に付けもしないのに持っているのだと彼は言った。
「まあ、縁起ものってとこかなあ」
「何を言っている」
どこか面白そうに、オルエンは言った。
「気づいていないのか。それは、翡翠だぞ」
「……はっ?」
エイルは間の抜けた声を出した。
「だって、色が」
「緑のものだけが魔よけの輝玉と言う訳でもない」
オルエンは講義をするような口調になった。
「かの翡翠の宮殿、女王陛下のご座所はああ見えても翡翠でできているのだと、これは我が私見だが」
「……白くても?」
「そう、白くとも。そして赤くとも」
老魔術師はエイルの手にあるものを指す。
「それも、翡翠」
「へえ」
言われたエイルは赤褐色の石がついたその飾りものをくるくると振り回すようにした。
「判りやすく見せてやろうか?」
オルエンは言い、指を差した。エイルは首飾りをもてあそぶのをやめ、魔術師が何をする気だろうと掌に乗せる。オルエンはにやりとして、もう片方の手指をぱちんと弾いた。
その途端、その石は――まっぷたつになる。
「な」
エイルが呆然としたのはその無体な真似についてもだが、目にしたものについても――だった。
表面を褐色で覆われていた飾り石の、その断面は、北方の穏やかな美しい海の色のような――明るく爽やかな白緑。
「判ったかね?」
オルエンはそう言うとまた指を鳴らし、四角い石は何事もなかったようにひとつに繋がる。
「……何だその目は、エイル。胡散臭いものを見るように師匠を見るでない」
「弟子にしてくださいと言った覚えはないよ」
「特別にその手順は免除してやるとも」
「お断りだと言ってるんだけどさ」
エイルは指先でそれをもてあそぶようにしながら答え、それから石をぎゅっと掴む。
「――翡翠」
「
オルエンはうなずいた。
「それは非常によい守りだ。大事にしろ」
「翡翠なんて、もうご免だけどさ」
エイルは呟いた。
「大事には、するよ」
リック師が、頼りない最後の弟子を案じてくれた、その思いに心が温まるようだ。
そこで彼ははっとなった。
「俺の師匠は、リック師だけで充分。あんたなんか要らないよ」
「死者は何も教えてくれんぞ」
言いながらオルエンは追悼の仕草をした。エイルも倣う。
「だが、主よ」
〈塔〉が口を挟んだ。
「ぬしをアーレイドまで日々跳ばすには、私の力だけでは足りぬぞ」
「ほかのやり方が必要だな?」
オルエンはにやりとした。
「まずはそれから、教えてやろう」
「〈他人の親切には警戒しろ〉って言うよな」
エイルが言うと、オルエンは肩をすくめる。
「託した鍵をこうして受け取ってくれたのだから、礼はする。幾度か私とともにこことアーレイド城を往復すれば、コツが見えてくるだろう」
「冗談」
エイルは言った。
「その顔でアーレイドに行ってみろ、絶対ファドック様に斬られるぞ」
「見誤るようなら、それだけの人間だな。あれはそんな男か?」
オルエンの言いようにエイルは口をつぐんだ。
「別な姿に見せかけることは簡単だが、私はあの騎士殿をごまかす真似はしたくないし、それに第一、彼に残る黒いものを消すためには……この姿を見せた方がよかろうな」
「……術が残ってるのか!?」
「いや」
驚愕したように言う青年に、老魔術師は首を振った。
「彼は強い。だが強い分、痛みを無視して傷口を膿ませかねないと言うことだ」
「……判るような、判らんような」
「お前は、判らんでいい」
老人の台詞に彼は思わずむっとなったが、エイルを馬鹿にしたと言う様子ではない。
「お前は、在るように在れ。エイル」
そう言って笑んだその顔が彼に嫌な感じを思わせることは、もうなかった。