9 何もかも忘れて

文字数 2,736文字

「俺は」
 その腕から懸命に逃れながら、娘は声を出した。
「俺の、エイラって姿は本当の……ものじゃなくて」
 本当の?
 娘は自問した。
 本当の姿とは、何だろう?
「もちろん」
 笑いを含んだ――その声は砂漠の王子のものには思えなかった。
「知っておるよ、エイル」
「ゼ」
 娘は目を丸くした。
「ゼレット様っ!」
「もちろん、俺だ。ほかに誰だと思ったのだ?」
 少し不満そうに、その口髭が歪められた。
「俺は、お前がエイルであろうとエイラであろうとかまわん。いや」
 ゼレットの腕が娘を抱き締める。
「それどころか、両方であってくれる方が嬉しいくらいだが」
 いつもの調子の伯爵から逃れようと、少年は全力を尽くした。
「あのですねっ、閣下っ、俺にはそういう趣味はありませんから!」
「『エイラ』の姿ならばかまわないではないか」
「かまいますっ。身体は女のもの同然でも、心はエイルのままなんですからっ」
「ふむ」
 ゼレットはじろじろと少年を見た。
「心はエイルのまま、とな」
「ええ、そうですよ」
「……本当に?」
「……ゼレット様?」
 された問い返しは意外なものであると同時に、少年であろうと娘であろうと不安に思っていることではあった。
 本当に、心はただのエイル少年であったときのままだろうか?
「――本当に、お前はつれないな」
 だがゼレットは、聞き返しなどしなかったかのように肩をすくめて、寂しそうな顔などしてみせた。
「そんなに俺が嫌いか」
「そっ、そうは言いませんけど」
 少年はしどろもどろになってうつむいた。
「俺は」
 どう答えていいのか――困惑する。
「その」
「――言いたいことがあるのなら、はっきり言ったらどうなの」
 その声は、いちばん――少年の心臓が大きく跳ねさせる。
「お前と話をするのは楽しかったのに、いきなりどこかへ行ってしまうなんて……やっぱり礼儀知らずね、エイル」
「シュアラ」
 つんと尖らせた唇は不機嫌そうだが、しかしその目は少し、笑っている。
「いいのよ。きっと、戻ってきてくれるんでしょう? そうしたらたくさん、話を聞かせてね。私の知らない……行くことのできない世界の、こと」
「俺の……話をしても、信じてもらえないと思うけどな」
「まあ」
 シュアラは笑った。
「お前が、どんな一大冒険をしたと言うの? 聞かせてごらんなさいな」
「いや、あんまり言いたくない……かな」
 少年はごまかした。シュアラは、今度は間違いなく不機嫌そうにし――少年は、あと一言でも余計なことを言えば小火山の噴火だな、などと考えた。
「まったく、姫様に何て口の利きようだい。呆れたよ、あたしは」
 突然背後からかかった声に、少年は飛び上がった。
「恩ってものを知るんだね、馬鹿息子」
「母さん!」
「何を目を丸くしてるんだい。あんたはね、エイル。もう、そうやって姫さんに気軽に口を利いちゃいけないんだよ」
「……何でさ」
「エイル」
 シュアラの声がした。
「紹介するわ。こちらはロジェス・クライン侯爵閣下。わたくしの婚約者よ」
 振り返るとシュアラが、彼女の背後に立つ誰かに手を差し伸べている。影になっていて少年にはその顔はよく見えず、だが、王女の手を恭しく取って口付ける姿はすらりとしていて、なかなかの美男ぶりを想像させた。
「お前がおかしな真似などしないことは判っているけれど、婚約者を持つ姫が他の男とふたりで話をするというのはあまり、よいこととは言えないものね」
「そりゃ、そうだよ、な」
 少年は笑おうとした。
「俺が、シュアラと……王女様と話をしてたこと自体が、おかしいんだ。変な気を回すなよ、俺は別にこんなこと、何でも」
「何でも?」
 王女の目が翳った。
「そう、お前には……何でもないのね」
 顔の見えぬクライン侯爵がシュアラの肩を抱くと、彼女に背を向けさせた。
「シュア……」
「やめなよ……馬鹿息子」
 どきりとして振り返ったのは、母に思いを見抜かれたのではないかという怖れによるのではなく――その声が、弱々しかったからだった。
「どうしたの、母さん!」
 少年は蒼白になって叫んだが、アニーナの顔の方が白かった。
 少年の全身を冷たくさせたのは、その左肩からとめどなく血が――あふれ出ていること。
「母さん!」
「何を騒いでるんだい、うるさいね」
 動転してその血をとめようとばかりに差し出された少年の手をアニーナは振り払う。
「あたしのことなんか、気にしてる場合かい」
「どうして、こんなことに!」
 少年は叫ぶが、どうでもいいというようにアニーナは首を振った。
「あんたのせいじゃないんだから」
「どういう、ことだよ!」
「馬鹿だね、泣きそうな顔なんかして。あたしはあんたをそんなやわ(・・)な子に育てた覚えはないよ」
「泣いてなんか」
 それは言い訳ではなかった。驚き、訝しみ、憤ってはいるがそこに涙の入る余地はない。
 それに、涙など流すのは、この状況においては不吉(・・)でもあると感じていた。涙など流せばまるで、怖ろしいことが起きたと――起きるのだと認めるようには、思えないだろうか?
「泣いたりなんかするかよ、俺はただ、心配を」
「ああ、じゃあ……笑って(・・・)るのかい(・・・・)?」
「何――」
 アニーナの言葉はまたも少年の意表をついた。
「笑いなんかも、するはず」
 言いかけて、ふと、首筋が冷たくなった。
 ――背後で、確かに笑い声が、する。
 少年はばっと振り返った。
 少年の目に映るのは、先と同じように表し難い感情をにじませたままのシュアラと、顔の見えぬ婚約者。
 いや。
 その隣で笑い声をたてているのは、冷たい瞳を持つ白金髪の――魔術師。
アスレン(・・・・)!」
 少年の目が強い緑色に輝いた。
 レンの王子はアーレイドの王女をその黒いマントの内に包むようにして、少年を見ながら嘲笑っていた。
「俺は」
 少年は力強く声を出した。
「俺は、お前の思う通りには、絶対にさせない!」
 ぱあっと緑色の光が辺りをやわらかく満たした。
 激烈な感情がすうっと治まっていく。
 呼び覚まされかけた記憶と、記憶の内にないはずであったいくつかの事実は、再び穏やかな光に消えていった。
 いまは休むべきときなのだと、リ・ガンは思い出した。
 こうして揺さぶられれば、回復は遅くなる。
 そうなって喜ぶのはリ・ガンと〈女王陛下〉の敵だけで、リ・ガンが守るべきものたちに対しては何の役にも立たぬのだ。
 穏やかな眠りがまたも訪れだした。
 いまは休むのだ。心を騒がすことは何もかも忘れて。
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登場人物紹介

エイル

下町で生まれ育った少年。ふとしたことからアーレイドの王城に上がることとなり、王女シュアラの「話し相手」をすることになる。

(イラスト:桐島和人)

ファドック・ソレス
王女シュアラの護衛騎士。王女はもとより、城の人々からの信頼も篤い。身分は平民で、決して出過ぎないことを心がけている。

シュアラ・アーレイド
アーレイドの第一王女。王位継承権を持つが、女王ではなく王妃となる教育を受けている。父王が甘やかしており、わがままなところも。

レイジュ・フューリエル
シュアラの気に入りの侍女。王女に忠誠心があると言うより、ファドックの近くにいられるという理由で、侍女業に精を出している。

クラーナ
アーレイドを訪れた吟遊詩人。神秘的な歌を得意とすると言う。エイルに思わせぶりな言葉を残した。

リャカラーダ・コム・シャムレイ
東国にある街シャムレイの第三王子。義務を嫌い、かつて与えられた予言の娘を探して故郷を離れ、砂漠の民たちと旅をしている。

シーヴ
リャカラーダの幼名。王子として対応する必要がなければ、こちらを名乗る。

エイラ
六十年に一度ある〈変異〉の年に、特殊な翡翠と関わることを定められた存在。魔術師のような力を持つが、厳密には魔術師ではない。

ゼレット・カーディル
ウェレス王に仕える伯爵。威張ったところがなく、平民たちとの距離も近いカーディル領主。その好みは幅広い。

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