04 八枚羽の青蝶
文字数 5,574文字
きゅっと握られた手は、再びゆっくりと開かれた。
開いた掌のなかには、何もない。だが彼は満足するように微笑み、自身の側近を見た。
「よくやった」
〈ライン〉が率直に誰かを褒めることなど稀であり、長いことアスレンの近くにいるスケイズは王子を失望させたことこそなかったが、その彼にしてもやはり――こういった言葉を受けるのは稀なことだった。
「いまのうちに『三つ目』を手にしておくのは、必要なこととなろう。リ・ガンへの警告にもなる」
「しかし、『ふたつ目』もまた、リ・ガンの手に入ろうとしているのでは」
側近の指摘に、アスレンの目は不機嫌そうに細められた。
「サズめ。〈触媒〉などにしてやられおって」
「致し方ございませんでしょう」
スケイズが言うのは、しかし特にサズを取りなそうという意味ではなかった。
「サズ様は、ラインほどのお力をお持ちでは」
「ふん」
アスレンは唇を歪めた。
「確かに、あやつはか弱い からな」
大魔術師 級の術師である従兄をそう評して、アスレンは長い指を組んだ。
「リ・ガンのみなら、守護の力が加わろうと、あやつでもどうとでもなる。だが――あの背後にいるもの 。あれは、面倒だ」
スケイズは黙った。彼もまた、知っていた。彼の〈ライン〉とリ・ガンが対峙したときにリ・ガンを助けた強大なる力。
あれに対抗し得る力の持ち主など、彼は数えるほどしか知らない。もちろん、アスレンはそのひとりであったが。
「セシアラは、どうしている」
思い出したようにアスレンは問うた。
「お健やかでいらっしゃいます」
スケイズは答えた。
「早くも、力の片鱗をお見せになりだしたとか」
「当然だろう」
アスレンは別に面白いことでもないように言った。
「俺の子だ」
「ラインがはじめてそのお力を振るわれたのはおひとつになられた頃。セシアラ様は、まだ十月になるならずでございます」
「母親の血筋と相性がよかったのだろうな。悪いことではない」
「――誰が母親に選ばれたのかは、お尋ねになったことがございませんね」
スケイズの言葉にアスレンの眉が上がった。
「誰でも、よかろう。何か関係があるのか」
「ございません」
スケイズは目を伏せた。
レンの王家は完全なる長子継承で、第一子が必ず王者となった。第二子、第三子は万一のための、言うなれば「保険」であったが、〈ライン〉が代わるような事態が起きたのは、レンの歴史のなかでただ二度であった。
通常の王家に見られるような婚姻という形を取ることは滅多になく、王家の人間ではない方の「親」は〈ライン〉の父、または母という敬意は受けたものの、権力は与えられなかった。王者たるべき子を為しても、王家の生まれでない者が王家に連なることはないのである。
「時期から考えれば、母親はあのふたりのうちのどちらかだろうが」
アスレンはやはりどうでもいいように言った。重要なのは世継ぎ、彼の後継者であってその母親ではない。
「星巡りは最上、あとはシルヴァラッセンがどこまでやれるかにかかっている。失敗すれば、次を試せばよい」
王子は何の感情もこもらない声でそう言うと、組んでいた手をほどいてすっと立ち上がった。
「翡翠の保管はお前に任せる。くれぐれも」
アスレンは口の端を上げてスケイズを見た。
「逃がさぬように――な」
下僕は最上級の礼をして、静かな部屋を後にする主を見送った。
彼は少しだけ、意外に思った。
この時間帯に部屋に戻ってくれば、いつも必ず部屋はきれいにされていた――と言っても、部屋の主には散らかす性分もそれだけの滞在時間もなかったので、明らかな変化と言えば屑箱の中身が消えている、くらいのものだった――と言うのに、今日はまだ掃除人はきていないと見える。
そんなことを思いながら数枚の書類を手にして読み出すと、戸の外で話し声がした。彼付きの使用人となったブロック少年と、慌ててやってきたテリスンの声に相違ない。そう思った彼は、扉が開いても特に顔を上げなかった。
「す、すみません……遅れて」
その声に、ようやくファドックは視線を上げた。
「定められている時間がある訳ではないだろう」
「そ、そうですけど」
娘は何やら口のなかでもごもごと言った。確かに何刻何カイにどの部屋を清掃する、などと定められてはいなかったが、規則的である方が部屋の主たちに鬱陶しがられないことも事実だ。
「私はかまわん。仕事をしろ」
「はい」
彼女が躊躇うように入ってきたのを見たファドックは、ふと違和感を覚える。改めて娘を眺めた彼はその違和感に気づいた。テリスンもまたファドックの視線に気づき、少し顔を青くする。
「す、すみません、その……見当たらなくて」
彼女の足元は、制服の一部として支給される青灰色のものではなかった。黒い靴は世辞にも上等とは言えなかったが、さすがに掃除娘の私物らしく、きれいにされていた。
「見当たらなかったと」
「は、はい」
テリスンは消え入りそうな声で言った。成程、と近衛隊長は思う。彼に近づく新人を気に入らず、少し困らせてやろうと考えた使用人でもいたのだろう、と。
「ヴァリン殿 に言って、新しいものをもらえ。私が許可したと言っていい」
「あ、有難うございます」
支給されているものを破損したり紛失したりすれば、叱責も受ければ給料からも引かれる。だがファドックの許可があればそれらを免れるだろう。
だがもはや彼はそれには答えないで仕事に戻り、娘も仕事を開始した。しばしの沈黙が流れた。
不意に――かしゃん、と音を立てて落ちたものがある。ファドックは目を上げた。見れば、きれいに洗われた替えの上着がかけられている近くで、娘が何かを落としたらしい。
「あっ……すみません」
慌ててそれを拾い上げたテリスンの動きがとまった。
「どうした」
いつもファドックは娘の動向に――レイジュが気に病むほどには――気を使わなかったが、このときは何となく声をかけた。
「これ、上着に入れっぱなしで洗濯に出されたんですね。一緒に、かけてあったみたいです」
「ああ」
ファドックはテリスンの手にあるものを見て思い出したようにうなずいた。
「忘れて――いたな」
「……どなたかへの贈り物じゃ、ないんですか。忘れちゃ、駄目ですよ」
自身の想像をどう思うのか、娘はようよう、そう言った。
「いや」
ファドックは首を振る。
「護りにと渡されたものだが……役には立っていないようだ」
その台詞は淡々と発せられ、そこには皮肉も自嘲も見られない。長方形の赤い石をはめ込んだ飾り物は、テリスンの手のなかで鈍い光を放っていた。
「あの、でもそれなら、お持ちになっていた方がいいんじゃ」」
娘の差し出したそれを省みようともしない近衛隊長に、テリスンはおそるおそる声をかけた。ファドックはまた首を振る。
「不要だ。――片付けていい」
掃除女に対するその指示は、「捨てろ」ということだった。テリスンもそれは理解したが、困った顔をする。
「でも、この前までこうして、持ってらしたんでしょう。なら、これからも」
「何を気にする」
ファドックは言った。
「私が受け取ったものをどうするかが、あなたに何か関係するのか」
「いえっ、その、私には関係ありませんけど」
娘はうつむいた。
「ただ、贈られた方が……哀しむんじゃないかって」
普段のファドックならば、それを聞いて笑っただろう。そして、そういう類の贈り物ではないと娘に説明をするだろう。しかし、レイジュの指摘するように、そこには苦笑すら――浮かばないのだった。
「ならば、あなたが取っておけばよい」
「そ、そんな訳にいきませんよ」
娘は顔を赤くした。
「そ、掃除婦にだって自尊心ってものがあります! 捨てられたものを拾って、自分のものにするなんて、決してしません!」
「そうか」
彼は謝罪の仕草をしたが、その顔に申し訳なさそうな表情は見られない。
「では、私がそれをあなたにやろう」
「……は?」
テリスンは目をぱちくりとさせた。
「私からあなたに贈ろうと言うのだ。私には不要で、あなたは捨てたくないが拾うこともできないと言うのなら、それが最上だろう」
「えっ、いやっ、でもそのっ」
もちろん、テリスンは耳まで真っ赤になりながら慌てた。相手にそんなつもりがかけらもないことは判っていても、憧れの騎士 から飾り物を贈られるというのは、彼女が受けたいささかの意地悪などを補って余りあるほどの状況だろう。
「要らなければ、捨てろ。自分のものならば捨てられるだろう」
ファドックは――やはり笑みひとつ見せぬままで――そう言うと再び筆を取って視線を卓に落とした。テリスンはどうしていいか判らないという様子でしばらく立ち尽くしたが、ひとりで顔を赤くしてその護符をこれ以上なく大切そうに隠しに入れると、こちらも仕事を再開した。
音もなく、戸は開けられる。
部屋の主は訪問者のことは判っていたから、何の礼儀もなしに彼が室内へ足を踏み入れたときに――禍々しくも美しい八枚羽の青蝶が舞う白い背中をゆっくりと薄布に隠したところだったと言うのは、彼女自身が意図したことだと言うことになる。完璧なまでに美しく真白い肌は、香湯 のために少し上気し、ほんのりと色付いていた。
「アスレン」
その名を呼んですっと振り向くと、甘い薔薇 の香りが漂った。レンの王女は肩を出したまま、実の兄に向けて嬉しそうに微笑む。
「戻っていたか」
「ええ、どこへ行っていたと思う?」
「サズを慰めてきたのだろう」
「そうよ」
ラーミフはにっこりと笑って答えた。
「アスレンも、意地悪だわ。傷ついたサズの魔力を制限するなんて」
「とどめを刺してやらなかっただけ、ましだと思うんだな」
「酷い、お兄様」
そう言ったラーミフは言葉とは裏腹にくすくすと笑った。
「そんなことをされたら、私はそのリ・ガンとやらにサズの復讐をしなければならなくなるじゃないの」
もしアスレンがサズを殺せば、その原因を作ったリ・ガンが復讐相手だというのはなかなかにねじ曲がった理屈であった。
「サズと充分、戯れたと見えるな」
妹の機嫌がいい理由をアスレンはそう見て取った。
「そうだわ、ねえアスレン」
ラーミフはまた楽しそうに笑った。
「サズはいろいろなことを覚えてきたわ。とても素敵なこと。お兄様も教わるといいわ」
「俺にサズから教われと?」
その案は王子の怒りは買わず、むしろ笑いを誘った。
「サズから教わったお前が俺に教えると言い出すのでは、ないのか」
「いいえ、サズから直接教わって。それでラーミフに教わったようにして欲しいの」
「あやつでは、お前を満足させられんと見える」
アスレンが笑いを湛えたままで言うと、ラーミフは可憐に肩をすくめた。
「違うわ、サズはとても素敵よ。でもお兄様の方がもっと素敵なんですもの」
ラーミフはそう言うと、裸身に薄い布をまとっただけのままで兄の手を取った。
「私のお部屋まできて下さったのは、そういうことなんでしょう? 抱いてくれるのね、アスレン?」
「いや」
アスレンはその手を引いた。
「そう、すぐにサズの痕跡をお前の身体から消してしまえば、従兄殿に悪かろう」
「嘘ばかり」
ラーミフは拗ねた顔を見せた。
「その気がないのならそう言ってくれればいいのに」
アスレンはそれには答えず、ラーミフは仕方なさそうに後ろを向くと布を滑らせ、その蝶を兄に見せた。と言っても、兄がそのような姿で誘惑されると思っている訳ではなく、風呂上がりであった彼女は着替えの途中であった故、その作業に戻っただけのことである。
「ねえ、お兄様。お願いがあるの」
光沢のある薄赤いドレスを裸身に直接まといながら、ラーミフは振り返ると声を出した。アスレンは顔をわずかに動かして、続けるように促す。彼の妹の「お願い」は多くの場合に置いて〈ロウィル〉に関わる話だったが、王子はいま、王女の声に違う気配を感じていた。ラーミフの目に奇妙な光が宿る。
「あの男――ファドック・ソレスを私に頂戴」
「ほう?」
アスレンの眉が面白そうに上がった。
「何故だ。お前の興味を惹くような男ではないだろう」
「お兄様の興味を一手に引き受けている彼がどんな男なのか知りたいの」
「駄目だ」
兄は簡単に言った。
「お前がいまから近づけば、あの勘のいい番犬は何か裏に気づく」
「気づかれたからってどうなの、アスレン」
ラーミフは口を尖らせた。
「どうせもう、すっかり手の内に収めたのでしょう。いくらでもアスレンの思うままじゃない。すぐに飽きるわ。そうね、それからでもいいわ。私に頂戴」
「いや」
アスレンは言った。笑みが浮かぶ。
「あれはまだ、充分に――楽しめる」
「そう」
ラーミフはまた、奇妙な計りがたい表情を浮かべた。
「それなら……私にも手伝わせて」
アスレンは笑った。
「お前の好む男ではないと言ったろう。女を痛めつけることなどできなかろうよ」
「アスレンが、命じても?」
「……なかなか興深いことを言うな、妹よ」
そう答えたアスレンは、しかし妹に許可を出すことはしなかった。
「女を使うのも面白かろうが、それならば――」
すっとその目が細められた。
「既にあやつの傍にいる女を使った方がよい」
ラーミフはまた口を尖らせたが、それ以上アスレンに「番犬」をねだることはしなかった。
開いた掌のなかには、何もない。だが彼は満足するように微笑み、自身の側近を見た。
「よくやった」
〈ライン〉が率直に誰かを褒めることなど稀であり、長いことアスレンの近くにいるスケイズは王子を失望させたことこそなかったが、その彼にしてもやはり――こういった言葉を受けるのは稀なことだった。
「いまのうちに『三つ目』を手にしておくのは、必要なこととなろう。リ・ガンへの警告にもなる」
「しかし、『ふたつ目』もまた、リ・ガンの手に入ろうとしているのでは」
側近の指摘に、アスレンの目は不機嫌そうに細められた。
「サズめ。〈触媒〉などにしてやられおって」
「致し方ございませんでしょう」
スケイズが言うのは、しかし特にサズを取りなそうという意味ではなかった。
「サズ様は、ラインほどのお力をお持ちでは」
「ふん」
アスレンは唇を歪めた。
「確かに、あやつは
「リ・ガンのみなら、守護の力が加わろうと、あやつでもどうとでもなる。だが――あの背後にいる
スケイズは黙った。彼もまた、知っていた。彼の〈ライン〉とリ・ガンが対峙したときにリ・ガンを助けた強大なる力。
あれに対抗し得る力の持ち主など、彼は数えるほどしか知らない。もちろん、アスレンはそのひとりであったが。
「セシアラは、どうしている」
思い出したようにアスレンは問うた。
「お健やかでいらっしゃいます」
スケイズは答えた。
「早くも、力の片鱗をお見せになりだしたとか」
「当然だろう」
アスレンは別に面白いことでもないように言った。
「俺の子だ」
「ラインがはじめてそのお力を振るわれたのはおひとつになられた頃。セシアラ様は、まだ十月になるならずでございます」
「母親の血筋と相性がよかったのだろうな。悪いことではない」
「――誰が母親に選ばれたのかは、お尋ねになったことがございませんね」
スケイズの言葉にアスレンの眉が上がった。
「誰でも、よかろう。何か関係があるのか」
「ございません」
スケイズは目を伏せた。
レンの王家は完全なる長子継承で、第一子が必ず王者となった。第二子、第三子は万一のための、言うなれば「保険」であったが、〈ライン〉が代わるような事態が起きたのは、レンの歴史のなかでただ二度であった。
通常の王家に見られるような婚姻という形を取ることは滅多になく、王家の人間ではない方の「親」は〈ライン〉の父、または母という敬意は受けたものの、権力は与えられなかった。王者たるべき子を為しても、王家の生まれでない者が王家に連なることはないのである。
「時期から考えれば、母親はあのふたりのうちのどちらかだろうが」
アスレンはやはりどうでもいいように言った。重要なのは世継ぎ、彼の後継者であってその母親ではない。
「星巡りは最上、あとはシルヴァラッセンがどこまでやれるかにかかっている。失敗すれば、次を試せばよい」
王子は何の感情もこもらない声でそう言うと、組んでいた手をほどいてすっと立ち上がった。
「翡翠の保管はお前に任せる。くれぐれも」
アスレンは口の端を上げてスケイズを見た。
「逃がさぬように――な」
下僕は最上級の礼をして、静かな部屋を後にする主を見送った。
彼は少しだけ、意外に思った。
この時間帯に部屋に戻ってくれば、いつも必ず部屋はきれいにされていた――と言っても、部屋の主には散らかす性分もそれだけの滞在時間もなかったので、明らかな変化と言えば屑箱の中身が消えている、くらいのものだった――と言うのに、今日はまだ掃除人はきていないと見える。
そんなことを思いながら数枚の書類を手にして読み出すと、戸の外で話し声がした。彼付きの使用人となったブロック少年と、慌ててやってきたテリスンの声に相違ない。そう思った彼は、扉が開いても特に顔を上げなかった。
「す、すみません……遅れて」
その声に、ようやくファドックは視線を上げた。
「定められている時間がある訳ではないだろう」
「そ、そうですけど」
娘は何やら口のなかでもごもごと言った。確かに何刻何カイにどの部屋を清掃する、などと定められてはいなかったが、規則的である方が部屋の主たちに鬱陶しがられないことも事実だ。
「私はかまわん。仕事をしろ」
「はい」
彼女が躊躇うように入ってきたのを見たファドックは、ふと違和感を覚える。改めて娘を眺めた彼はその違和感に気づいた。テリスンもまたファドックの視線に気づき、少し顔を青くする。
「す、すみません、その……見当たらなくて」
彼女の足元は、制服の一部として支給される青灰色のものではなかった。黒い靴は世辞にも上等とは言えなかったが、さすがに掃除娘の私物らしく、きれいにされていた。
「見当たらなかったと」
「は、はい」
テリスンは消え入りそうな声で言った。成程、と近衛隊長は思う。彼に近づく新人を気に入らず、少し困らせてやろうと考えた使用人でもいたのだろう、と。
「
「あ、有難うございます」
支給されているものを破損したり紛失したりすれば、叱責も受ければ給料からも引かれる。だがファドックの許可があればそれらを免れるだろう。
だがもはや彼はそれには答えないで仕事に戻り、娘も仕事を開始した。しばしの沈黙が流れた。
不意に――かしゃん、と音を立てて落ちたものがある。ファドックは目を上げた。見れば、きれいに洗われた替えの上着がかけられている近くで、娘が何かを落としたらしい。
「あっ……すみません」
慌ててそれを拾い上げたテリスンの動きがとまった。
「どうした」
いつもファドックは娘の動向に――レイジュが気に病むほどには――気を使わなかったが、このときは何となく声をかけた。
「これ、上着に入れっぱなしで洗濯に出されたんですね。一緒に、かけてあったみたいです」
「ああ」
ファドックはテリスンの手にあるものを見て思い出したようにうなずいた。
「忘れて――いたな」
「……どなたかへの贈り物じゃ、ないんですか。忘れちゃ、駄目ですよ」
自身の想像をどう思うのか、娘はようよう、そう言った。
「いや」
ファドックは首を振る。
「護りにと渡されたものだが……役には立っていないようだ」
その台詞は淡々と発せられ、そこには皮肉も自嘲も見られない。長方形の赤い石をはめ込んだ飾り物は、テリスンの手のなかで鈍い光を放っていた。
「あの、でもそれなら、お持ちになっていた方がいいんじゃ」」
娘の差し出したそれを省みようともしない近衛隊長に、テリスンはおそるおそる声をかけた。ファドックはまた首を振る。
「不要だ。――片付けていい」
掃除女に対するその指示は、「捨てろ」ということだった。テリスンもそれは理解したが、困った顔をする。
「でも、この前までこうして、持ってらしたんでしょう。なら、これからも」
「何を気にする」
ファドックは言った。
「私が受け取ったものをどうするかが、あなたに何か関係するのか」
「いえっ、その、私には関係ありませんけど」
娘はうつむいた。
「ただ、贈られた方が……哀しむんじゃないかって」
普段のファドックならば、それを聞いて笑っただろう。そして、そういう類の贈り物ではないと娘に説明をするだろう。しかし、レイジュの指摘するように、そこには苦笑すら――浮かばないのだった。
「ならば、あなたが取っておけばよい」
「そ、そんな訳にいきませんよ」
娘は顔を赤くした。
「そ、掃除婦にだって自尊心ってものがあります! 捨てられたものを拾って、自分のものにするなんて、決してしません!」
「そうか」
彼は謝罪の仕草をしたが、その顔に申し訳なさそうな表情は見られない。
「では、私がそれをあなたにやろう」
「……は?」
テリスンは目をぱちくりとさせた。
「私からあなたに贈ろうと言うのだ。私には不要で、あなたは捨てたくないが拾うこともできないと言うのなら、それが最上だろう」
「えっ、いやっ、でもそのっ」
もちろん、テリスンは耳まで真っ赤になりながら慌てた。相手にそんなつもりがかけらもないことは判っていても、憧れの
「要らなければ、捨てろ。自分のものならば捨てられるだろう」
ファドックは――やはり笑みひとつ見せぬままで――そう言うと再び筆を取って視線を卓に落とした。テリスンはどうしていいか判らないという様子でしばらく立ち尽くしたが、ひとりで顔を赤くしてその護符をこれ以上なく大切そうに隠しに入れると、こちらも仕事を再開した。
音もなく、戸は開けられる。
部屋の主は訪問者のことは判っていたから、何の礼儀もなしに彼が室内へ足を踏み入れたときに――禍々しくも美しい八枚羽の青蝶が舞う白い背中をゆっくりと薄布に隠したところだったと言うのは、彼女自身が意図したことだと言うことになる。完璧なまでに美しく真白い肌は、
「アスレン」
その名を呼んですっと振り向くと、甘い
「戻っていたか」
「ええ、どこへ行っていたと思う?」
「サズを慰めてきたのだろう」
「そうよ」
ラーミフはにっこりと笑って答えた。
「アスレンも、意地悪だわ。傷ついたサズの魔力を制限するなんて」
「とどめを刺してやらなかっただけ、ましだと思うんだな」
「酷い、お兄様」
そう言ったラーミフは言葉とは裏腹にくすくすと笑った。
「そんなことをされたら、私はそのリ・ガンとやらにサズの復讐をしなければならなくなるじゃないの」
もしアスレンがサズを殺せば、その原因を作ったリ・ガンが復讐相手だというのはなかなかにねじ曲がった理屈であった。
「サズと充分、戯れたと見えるな」
妹の機嫌がいい理由をアスレンはそう見て取った。
「そうだわ、ねえアスレン」
ラーミフはまた楽しそうに笑った。
「サズはいろいろなことを覚えてきたわ。とても素敵なこと。お兄様も教わるといいわ」
「俺にサズから教われと?」
その案は王子の怒りは買わず、むしろ笑いを誘った。
「サズから教わったお前が俺に教えると言い出すのでは、ないのか」
「いいえ、サズから直接教わって。それでラーミフに教わったようにして欲しいの」
「あやつでは、お前を満足させられんと見える」
アスレンが笑いを湛えたままで言うと、ラーミフは可憐に肩をすくめた。
「違うわ、サズはとても素敵よ。でもお兄様の方がもっと素敵なんですもの」
ラーミフはそう言うと、裸身に薄い布をまとっただけのままで兄の手を取った。
「私のお部屋まできて下さったのは、そういうことなんでしょう? 抱いてくれるのね、アスレン?」
「いや」
アスレンはその手を引いた。
「そう、すぐにサズの痕跡をお前の身体から消してしまえば、従兄殿に悪かろう」
「嘘ばかり」
ラーミフは拗ねた顔を見せた。
「その気がないのならそう言ってくれればいいのに」
アスレンはそれには答えず、ラーミフは仕方なさそうに後ろを向くと布を滑らせ、その蝶を兄に見せた。と言っても、兄がそのような姿で誘惑されると思っている訳ではなく、風呂上がりであった彼女は着替えの途中であった故、その作業に戻っただけのことである。
「ねえ、お兄様。お願いがあるの」
光沢のある薄赤いドレスを裸身に直接まといながら、ラーミフは振り返ると声を出した。アスレンは顔をわずかに動かして、続けるように促す。彼の妹の「お願い」は多くの場合に置いて〈ロウィル〉に関わる話だったが、王子はいま、王女の声に違う気配を感じていた。ラーミフの目に奇妙な光が宿る。
「あの男――ファドック・ソレスを私に頂戴」
「ほう?」
アスレンの眉が面白そうに上がった。
「何故だ。お前の興味を惹くような男ではないだろう」
「お兄様の興味を一手に引き受けている彼がどんな男なのか知りたいの」
「駄目だ」
兄は簡単に言った。
「お前がいまから近づけば、あの勘のいい番犬は何か裏に気づく」
「気づかれたからってどうなの、アスレン」
ラーミフは口を尖らせた。
「どうせもう、すっかり手の内に収めたのでしょう。いくらでもアスレンの思うままじゃない。すぐに飽きるわ。そうね、それからでもいいわ。私に頂戴」
「いや」
アスレンは言った。笑みが浮かぶ。
「あれはまだ、充分に――楽しめる」
「そう」
ラーミフはまた、奇妙な計りがたい表情を浮かべた。
「それなら……私にも手伝わせて」
アスレンは笑った。
「お前の好む男ではないと言ったろう。女を痛めつけることなどできなかろうよ」
「アスレンが、命じても?」
「……なかなか興深いことを言うな、妹よ」
そう答えたアスレンは、しかし妹に許可を出すことはしなかった。
「女を使うのも面白かろうが、それならば――」
すっとその目が細められた。
「既にあやつの傍にいる女を使った方がよい」
ラーミフはまた口を尖らせたが、それ以上アスレンに「番犬」をねだることはしなかった。