09 少しばかりの寄り道
文字数 3,218文字
ミオノールは息を吐いた。
「殿下は私の気遣いを全て無駄にされる。この上は、どうして差し上げたらよろしいでしょう?」
「既に言った。去ねと」
「いいえ」
女は艶然と微笑んだ。
「ラインのお言葉をお忘れですか?」
「……俺を逃さぬと?」
「ええ。ラインはダイア様をこの任にとお考えでいらっしゃいましたが、我が師はラインの補佐でお忙しく……」
シーヴはその名にぞくりとするものを覚えた。魔術師としてアスレンの方がずっと上であっても、霞みの向こうにあるスケイズの黒ローブ姿は彼の心臓を冷たくするようだった。
「リャカラーダ様がわたしをお望みと伺いましたから、力不足ながら、こうして」
ミオノールはするりと彼に抱かれる距離に入り込むと、その両手を彼の胸に寄せた。シーヴは女を引き離そうとするが、むせ返るような百合 の香りが彼の力を弱めた。
「忘れてしまわれたのなら、またもう一度、私を愛してくださればよいだけのこと」
女は囁いた。
「殿下に貫かれた とき」
艶を笑みに含めながら、女は言った。ミオノールとの間に何があったのかを覚えていれば、わざわざ誤解されるような表情と物言いを選ぶ女魔術師に苦い顔をするところであるが、このときの彼はただ、まさかと思うのみであった。
「私がどれだけあなたに愛を覚えたか、お判りになりませんでしょうね。そしてわたしがあなたに与えた――傷のこと」
すっとミオノールの手が彼の胸部を撫でた。シーヴは女を抱き締め、その身体をむさぼりたいと言う強烈な願望が上がってくるのと必死で――戦った。
「あなたのなかに……ここには、いまでもわたしがおりますよ、リャカラーダ様」
女の指が男の胸で、意味のない文様を描いた。シーヴはその愛撫にはを食いしばるようにする。惑わされてはならない、惑わされては――。
「リャカラーダ様」
(――これが)
薄雲の向こうから、ミオノールのものではない口が発したミオノールの声が聞こえた。
(好き勝手に操ると――いうこと)
心はどうにか顔を背けようとするのに、身体はそれに従わない。かけらも「女」を感じさせないこともできれば、熟練の春女も見せ得ぬ強烈な色香を発することも思うままの魔術師。彼の記憶を縛り、彼の内にその魔力を残したままの。
朱い唇が重ねられた。ミオノールの手はシーヴの両頬にかけられ、砂漠の青年の顔を優しく包み込んだ。シーヴは、自身の腕が意思に反して女を抱き締めることがないよう――色欲に満ちた口づけに応じることがないよう、両の拳を握り締めていた。
「やはり、本当の身体で本当のリャカラーダ様に触れられると言うのは嬉しいことです」
ミオノールが愉悦に輝いた声で言った。
「本当の――」
シーヴは繰り返す。
本当の身体。以前は異なった。その理由は、彼が女の身体を痛めたから。夜明け前の、〈翡翠の宮殿 〉の間近くで。
シーヴはばっと目を見開いた。彼は素早く左手で女の右手を取ると、ぐいっと下方に押しやった。均衡を崩した女の上にそのまま回り込むようにして乗りかかると、女の目が満足そうにきらめき――次の瞬間に、その色は消えた。
青年は右腰から引き抜いた刀子――選んだ訳ではなかったのに、その一本はかつて彼女を刺したものと同じだった――を上方から勢いをつけ、彼女の心の臓をめがけて振り下ろしたからだ。
瞬時に、その光景が蘇っていた。
薄暗い湖のほとりで、少年を抱えた女の冷たい瞳。
あのときは少年を守るためにとった手段を今度は紛れもない自身の意志で行うことに躊躇いはなかった。
自分を守るためだけではない、ならばいったい何、そして誰を守るためだと――?
しかし、その刃が決定的なものをもたらす寸前に、彼の武器は弾き飛ばされたかと思うとその右手が自身の背後まで簡単にひねり上げられた。彼は呻き声をもらし、苦痛の声などあげてしまった自分に呪いの言葉を吐き――既視感を覚えた。
「油断をするな、ミオノール。次は、死ぬぞ」
「ダイア様」
その声には覚えがあった。
「ダイアとやら。動玉を返してもらおうか」
薄寒いものを覚えながら、シーヴは言った。蘇る記憶。動玉と呼ばれる石を彼の前にちらつかせ、ようやく癒えてきた彼の右腕を痛めつけた魔術師。それは、この男だ。
「ほう」
スケイズは感情のこもらない声で感嘆の言葉を口にした。
「見事なものだ。どうしてか、術を破った。だが」
「殿下が破られたのはその一部にすぎません」
弟子は師匠の言葉のあとを取った。
「私の術は未熟でございますね。滅多に、ひけをとることはないのですが」
ミオノールは残念そうに言った。スケイズはわずかに首を振る。
「安心してよい、弟子よ。お前はシルヴァラッセンの師として十二分に秀でている。この男が異常なのだ」
「悪かったな」
シーヴは右腕を後ろ手にとられたような状態のまま――無論、背後には誰もいないのだが――思わず呟いた。
「俺はお前たちの実験対象か何かか?」
「そうだな」
スケイズは淡々と言った。
「ある意味では、そうだ。我々は、お前がどのような『作用』をもたらす存在なのか、じっと観察をしている」
「経過はどうだい、レンのお気に召すかね」
その都市の名もいまでは簡単に思い出せた。ダイアと言うらしいこの男。そしてミオノール。
それから――アスレン。レンの王子。彼の、そして彼女の敵。
「気に入らぬな」
それがスケイズの返答だった。シーヴの片眉が上がる。
「全く以て、気に入らぬことばかりだ」
シーヴは苦痛に顔を歪めた。背後に回された腕が、ゆっくりと、きつく、ひねり上げられていく。
「ダイア様」
ミオノールのとりなすような声に背後の力は少し弱められ、シーヴは安堵するとともに呪いの言葉が浮かぶ。いまのささやかな制止のおかげで彼の腕が折られずに済んだのでも、女に感謝しようという気持ちにはなれない。
「お前は実験動物だ、リャカラーダ。我々はこれからもお前を見張り、我らが望む方角からあまりに遠く離れれば、その道を正す」
「正す 」
シーヴは、ふん、と鼻を鳴らした。
「そいつはご親切だ」
「リャカラーダ様」
ミオノールがすっと進み出た。
「何処へ行かれるのです」
シーヴは目を細めた。またも彼を襲う既視感。だが記憶は靄のように霞んではいない。
故郷の地シャムレイで、彼の第一侍従が第三王子に尋ねた。
更にそれより以前、西のアーレイドでひとりの騎士が彼に尋ねた。
(何処へ)
(何処へも――行かぬ)
かつて二度、彼はそう答えた。
「……判りきったこと」
シーヴはふたりの魔術師を睨み、笑った。
「俺の魔物のお姫様が俺を呼ぶところ、だ」
スケイズは表情を変えず、ミオノールは顔を曇らせた。
愚かだと言うのならば言えばいい。
レンの術師ふたりに対峙しながら、何の魔力も持たぬ青年はしかし、笑っていた。それは、「強がり」であったろうか?
「よかろう」
魔術師の男はゆっくりと言った。
「その前に、少しばかりの寄り道はどうだ、リャカラーダ。何、然程には遠くない」
スケイズの言葉に、シーヴは目を細めた。この男は何を言い出したのだろう。
「……そうですね」
ミオノールも応じた。
「わたくしがご用意した砂漠の宿がお気に召さなかったのならば、やはり王子殿下に相応しい場所を」
シーヴは一歩、身を引いた。だがそれに何の意味があろうか。
「聞くところによると」
スケイズがそのフードの奥で瞳を光らせたように思った。
「何でも……お前はレンに興味を持っているそうではないか」
ふと、彼の好む砂漠の熱い風を思い出したシーヴは、たとえ真夏であってもレンの風は冷たそうだな――などと思った自分に自嘲した。
「殿下は私の気遣いを全て無駄にされる。この上は、どうして差し上げたらよろしいでしょう?」
「既に言った。去ねと」
「いいえ」
女は艶然と微笑んだ。
「ラインのお言葉をお忘れですか?」
「……俺を逃さぬと?」
「ええ。ラインはダイア様をこの任にとお考えでいらっしゃいましたが、我が師はラインの補佐でお忙しく……」
シーヴはその名にぞくりとするものを覚えた。魔術師としてアスレンの方がずっと上であっても、霞みの向こうにあるスケイズの黒ローブ姿は彼の心臓を冷たくするようだった。
「リャカラーダ様がわたしをお望みと伺いましたから、力不足ながら、こうして」
ミオノールはするりと彼に抱かれる距離に入り込むと、その両手を彼の胸に寄せた。シーヴは女を引き離そうとするが、むせ返るような
「忘れてしまわれたのなら、またもう一度、私を愛してくださればよいだけのこと」
女は囁いた。
「殿下に
艶を笑みに含めながら、女は言った。ミオノールとの間に何があったのかを覚えていれば、わざわざ誤解されるような表情と物言いを選ぶ女魔術師に苦い顔をするところであるが、このときの彼はただ、まさかと思うのみであった。
「私がどれだけあなたに愛を覚えたか、お判りになりませんでしょうね。そしてわたしがあなたに与えた――傷のこと」
すっとミオノールの手が彼の胸部を撫でた。シーヴは女を抱き締め、その身体をむさぼりたいと言う強烈な願望が上がってくるのと必死で――戦った。
「あなたのなかに……ここには、いまでもわたしがおりますよ、リャカラーダ様」
女の指が男の胸で、意味のない文様を描いた。シーヴはその愛撫にはを食いしばるようにする。惑わされてはならない、惑わされては――。
「リャカラーダ様」
(――これが)
薄雲の向こうから、ミオノールのものではない口が発したミオノールの声が聞こえた。
(好き勝手に操ると――いうこと)
心はどうにか顔を背けようとするのに、身体はそれに従わない。かけらも「女」を感じさせないこともできれば、熟練の春女も見せ得ぬ強烈な色香を発することも思うままの魔術師。彼の記憶を縛り、彼の内にその魔力を残したままの。
朱い唇が重ねられた。ミオノールの手はシーヴの両頬にかけられ、砂漠の青年の顔を優しく包み込んだ。シーヴは、自身の腕が意思に反して女を抱き締めることがないよう――色欲に満ちた口づけに応じることがないよう、両の拳を握り締めていた。
「やはり、本当の身体で本当のリャカラーダ様に触れられると言うのは嬉しいことです」
ミオノールが愉悦に輝いた声で言った。
「本当の――」
シーヴは繰り返す。
本当の身体。以前は異なった。その理由は、彼が女の身体を痛めたから。夜明け前の、〈
シーヴはばっと目を見開いた。彼は素早く左手で女の右手を取ると、ぐいっと下方に押しやった。均衡を崩した女の上にそのまま回り込むようにして乗りかかると、女の目が満足そうにきらめき――次の瞬間に、その色は消えた。
青年は右腰から引き抜いた刀子――選んだ訳ではなかったのに、その一本はかつて彼女を刺したものと同じだった――を上方から勢いをつけ、彼女の心の臓をめがけて振り下ろしたからだ。
瞬時に、その光景が蘇っていた。
薄暗い湖のほとりで、少年を抱えた女の冷たい瞳。
あのときは少年を守るためにとった手段を今度は紛れもない自身の意志で行うことに躊躇いはなかった。
自分を守るためだけではない、ならばいったい何、そして誰を守るためだと――?
しかし、その刃が決定的なものをもたらす寸前に、彼の武器は弾き飛ばされたかと思うとその右手が自身の背後まで簡単にひねり上げられた。彼は呻き声をもらし、苦痛の声などあげてしまった自分に呪いの言葉を吐き――既視感を覚えた。
「油断をするな、ミオノール。次は、死ぬぞ」
「ダイア様」
その声には覚えがあった。
「ダイアとやら。動玉を返してもらおうか」
薄寒いものを覚えながら、シーヴは言った。蘇る記憶。動玉と呼ばれる石を彼の前にちらつかせ、ようやく癒えてきた彼の右腕を痛めつけた魔術師。それは、この男だ。
「ほう」
スケイズは感情のこもらない声で感嘆の言葉を口にした。
「見事なものだ。どうしてか、術を破った。だが」
「殿下が破られたのはその一部にすぎません」
弟子は師匠の言葉のあとを取った。
「私の術は未熟でございますね。滅多に、ひけをとることはないのですが」
ミオノールは残念そうに言った。スケイズはわずかに首を振る。
「安心してよい、弟子よ。お前はシルヴァラッセンの師として十二分に秀でている。この男が異常なのだ」
「悪かったな」
シーヴは右腕を後ろ手にとられたような状態のまま――無論、背後には誰もいないのだが――思わず呟いた。
「俺はお前たちの実験対象か何かか?」
「そうだな」
スケイズは淡々と言った。
「ある意味では、そうだ。我々は、お前がどのような『作用』をもたらす存在なのか、じっと観察をしている」
「経過はどうだい、レンのお気に召すかね」
その都市の名もいまでは簡単に思い出せた。ダイアと言うらしいこの男。そしてミオノール。
それから――アスレン。レンの王子。彼の、そして彼女の敵。
「気に入らぬな」
それがスケイズの返答だった。シーヴの片眉が上がる。
「全く以て、気に入らぬことばかりだ」
シーヴは苦痛に顔を歪めた。背後に回された腕が、ゆっくりと、きつく、ひねり上げられていく。
「ダイア様」
ミオノールのとりなすような声に背後の力は少し弱められ、シーヴは安堵するとともに呪いの言葉が浮かぶ。いまのささやかな制止のおかげで彼の腕が折られずに済んだのでも、女に感謝しようという気持ちにはなれない。
「お前は実験動物だ、リャカラーダ。我々はこれからもお前を見張り、我らが望む方角からあまりに遠く離れれば、その道を正す」
「
シーヴは、ふん、と鼻を鳴らした。
「そいつはご親切だ」
「リャカラーダ様」
ミオノールがすっと進み出た。
「何処へ行かれるのです」
シーヴは目を細めた。またも彼を襲う既視感。だが記憶は靄のように霞んではいない。
故郷の地シャムレイで、彼の第一侍従が第三王子に尋ねた。
更にそれより以前、西のアーレイドでひとりの騎士が彼に尋ねた。
(何処へ)
(何処へも――行かぬ)
かつて二度、彼はそう答えた。
「……判りきったこと」
シーヴはふたりの魔術師を睨み、笑った。
「俺の魔物のお姫様が俺を呼ぶところ、だ」
スケイズは表情を変えず、ミオノールは顔を曇らせた。
愚かだと言うのならば言えばいい。
レンの術師ふたりに対峙しながら、何の魔力も持たぬ青年はしかし、笑っていた。それは、「強がり」であったろうか?
「よかろう」
魔術師の男はゆっくりと言った。
「その前に、少しばかりの寄り道はどうだ、リャカラーダ。何、然程には遠くない」
スケイズの言葉に、シーヴは目を細めた。この男は何を言い出したのだろう。
「……そうですね」
ミオノールも応じた。
「わたくしがご用意した砂漠の宿がお気に召さなかったのならば、やはり王子殿下に相応しい場所を」
シーヴは一歩、身を引いた。だがそれに何の意味があろうか。
「聞くところによると」
スケイズがそのフードの奥で瞳を光らせたように思った。
「何でも……お前はレンに興味を持っているそうではないか」
ふと、彼の好む砂漠の熱い風を思い出したシーヴは、たとえ真夏であってもレンの風は冷たそうだな――などと思った自分に自嘲した。