10 いい機会だなんて言いたかないですけど
文字数 4,971文字
ばたん、と音を立てて開けられた扉の方を見やると、彼は驚いて目を見開いた。その先にいる音の主は、そんなふうに乱暴に戸を扱う人間ではなかったからだ。
「どういうことだ!」
そして、こんなふうに声を荒らげる人間でもなかった。彼は略式の敬礼と礼儀を逸することへの謝罪の仕草をしようとし、やめろと留められる。
「そのように腹を刺されてまで礼を尽くそうとしなくてよい、ファドック・ソレス」
ロジェス・クラインは苛ついたように言うが、ファドックに腹を立てている訳ではないことは彼にも判った。
「どういうことだ。その客人とやらは何者だったのだ」
「それは」
ファドックは困ったように口を開いた。
彼の血のなかに流れ込んだトフラン草の毒は彼を数日間の昏睡状態には追い込んだものの、宮廷医師ランスハルの処置は的確であり、それはゆっくりと彼から洗い流されていた。処置が遅れれば、一命を取り留めたとしても、身体を動かすだけのことにでもたいそう不自由する身になっていただろうと言う。
それが塗られていた短剣は、何とも運よく、彼の内臓を傷つけることはなかった。
ヘルサラク神の加護であるのか、それとも〈守護者〉を必要だと言ったアスレンが彼を殺さないようにしたためかは判らなかったが、ファドックは後者であるとはあまり考えたくなかった。
一旬もすれば、鍛えられた身体は、起き上がって話ができる程度にはなっていたが、こうして生き延びれば次の問題は、その負傷についての言い訳であった。
まさか、レンの王子の指示でレンの王女がアーレイドの近衛隊長を刺したとは言えぬ。レンの王女に触れずに「掃除娘」を犯人とすることもできなかった。家族や親戚に累が及ぶ、というファドックの懸念はもとより――テリスンという娘のことなど、彼のほかには誰ひとりとして覚えていなかったからだ。
ともあれ――。
そうして近頃の「奇妙な出来事」を重ね合わせて作り上げた物語は「おかしな男に言いがかりをつけられた」と言うようなものであった。
ファドックには得手でないその手の創作をしたのはシーヴで、彼はアニーナの夫と名乗る男から彼女の怪我について脅しを受けていたことになっている。その負傷そのものは彼と関わりが「あるはずはなかった」が、治療のために城へ連れたことが悪化を招いたというような難癖をつけてきた、と。
そんなことを言って金銭を脅し取ろうとしてきた男は使用人ブロックが目撃した「船乗りふうの男」で――この「創作」にはファドックは難色を示したが、リャカラーダと結び付けられるはずがあるものかと、とシーヴは一蹴した――アニーナに新しい夫はいないと知ったファドックが要求をはねつけると怒って刺した、というのである。
事実を知る者から見ればあまりにも無茶苦茶に思える説明は、しかし真実味があったらしい。ファドックの様子がおかしかったのも脅迫者に悩まされていたせいだとして片づけられようとしていた。
当然、アーレイドとしてはその犯人を探そうとした。しかしそんな男などいないのだ、とシーヴは平然としたもので、少ししたらファドック自身がその捜索を終了する命令を出せ、などと言った。
何故だかこうしてファドックにそれを追及にきたロジェスに、男の素性は知らぬなどと苦しい言い訳をした彼は、侯爵がそれを納得しているのかしていないのか見定め難かった。
「しかし、無事でよかった」
しばらく黙ってファドックを見たあと、その話題を続けるのはやめたかのようにロジェスは言った。
「お前に万一のことでもあれば、困る」
ファドックは片眉を上げる。それは現職の近衛隊長が不祥事、或いは不慮の事故で死ねば、というだけの意味には感じ取れなかった。
「何故に、閣下はそのようなことを言われるのですか」
「……うむ」
クライン侯爵は奇妙な表情を見せた。それは困るような、戸惑うような。
「私の父のことは、お前は知るまいな」
「お亡くなりになられた……とだけ」
「うむ」
ロジェスはまた迷うような顔を見せたが、息を吐くと続けた。
「何と言うか、父は一度決めるとなかなか考えを変えない人物だった。二十年近く前になるのか……ティクスの町を訪れたときに気に入った麺麭 職人をアーレイドの祭りに無理矢理招いたのは私の父なのだ、ファドック」
「──それは、存じませんでした」
彼は、驚きを隠してそうとだけ答えた。
「だろうな」
ロジェスは嘆息した。
「我が父がソレス一家をアーレイドへ招き、その死を招いた。私がそのつながりを知ったのはここ数年だが……お前には借りがあるように思っているのだ」
「そのようなことは」
「言うな。私が勝手に思っているだけだ」
彼は手を振ってファドックの言を制した。
「とにかく、私はお前に借りを返さねばと感じていた。だと言うのにお前から騎士の位置を奪う形となり、困惑をしていた。それでもお前が近衛隊長としてシュアラの傍にいるのならばその問題は解決されたと思い……だが、万一にもその地位にあった故に死ぬようなことになってみろ、私はどうすればいいのだ」
「ご安心を」
ファドックは言った。
「閣下もお聞き及びの通り、この負傷は地位には関係なく」
「そういった話ではない」
ロジェスはまたもファドックの言葉を遮る。
「お前が死ねばシュアラが哀しむ」
この単純かつ真実を突いた指摘には、ファドックは言葉を返せなかった。
「殿下 がどれだけお前を案じていると思う。私もまた、夫として彼女を守る立場に立つ人間だ。お前に借りはあるが、シュアラを泣かせることはならんぞ、近衛隊長 」
言われたファドックは黙って敬礼をした。階級と知性と――人柄を兼ね備えた男がシュアラの隣に立つことほど、望ましいことはない。
ロジェスはその後、話を戻すとまるで尋問のように彼にいくつか質問をしたが、答えがはかばかしくないのと医師から制止がかかったことで、諦めるように彼から離れた。
日が経てばそれだけ「犯人」の発見は難しくなろうし、まして船乗り だと言うのならばもうアーレイドにはいないかもしれない。捜査の手が及ばぬことを悔しがるロジェスや近衛隊員たち、町憲兵たちには悪いが、早くほとぼりが冷めればよいものだ、と「被害者」はこっそり嘆息をした。
それにしてもロジェスの話は思いがけなかった。
顔にはあまり出さなかったが、彼は驚愕したと言ってもいいくらいであった。
もちろん、ロジェスの亡き父親を恨むのではない。たとえ強引に招かれたのだしても、応じたのは両親であるのだし、王城都市に出店できる好機だという気持ちもあったかもしれない。そもそも出発が一日、いや数刻ずれていたら、襲撃にも遭わなかったかもしれないのだ。
だから恨むことはない。ロジェスの父親のせいではない。
そう、と彼は考えた。
もしあの出来事がなく、彼がキドに拾われずとも、家族がロジェスの父の世話になれば。
「麺麭屋の息子」が城の――それこそ下厨房の――用聞きをするようなことだって、あったかもしれない。
そう、では、あの事件がなくとも、彼は「アーレイド城」というものに近くなり得たのだ。
その考えは、彼が〈守護者〉たるにはかの事件が必要だったのかもしれない、親を亡くし、キドに育てられ、王城に上がることが決まっていたのかもしれない――というような心痛む思考を軽減した。
ロジェスを――その父を恨むどころが、教えてもらえて有難いくらいであったが、生憎とロジェス・クラインにそれを語る機会はないだろう。侯爵は翡翠の守り手のことなど知らぬのだ。
しばらくはランスハル医師のもとを離れられなかったファドックだったが、意識が戻ってからは医師の忠告もろくに聞かずにその身体で可能な限りの仕事をしようとして周辺から感心されたり呆れられたり嘆かれたりしていた。余程の重要事項以外は誰も安静第一の怪我人を煩わせたくなかったので、結果として彼は休むか、見舞いに訪れる誰かと語らうかしかなかった。
もっとも頻繁にやってきたのはレイジュであったが、彼女は騎士が何か不自由していないかと気を回すことを主眼としたから、話し相手にはもとより、書類を持ってくるように指示をする訳にもいかなかった。
「たまには、のんびりしたらいいじゃないですか」
しかめ面をしてエイルは言った。
「ファドック様はずっと休みなしだったでしょう。それを」
彼はファドックの傷跡を指し示した。
「いい機会だなんて言いたかないですけどね、ここは休んどいてくださいよ。業務なら、そうだ、むしろ副隊長を鍛えるいい機会だと思えばいいじゃないですか」
現近衛副隊長は補佐の立場を好んだから、代理のようないまの形を――さすがに口には出さぬが――嫌がった。彼を鍛えるよりは、とファドックは思う。
「それならば、次期副隊長としてイージェンを鍛える方がよいかもしれん」
その台詞にエイルは少し目を丸くして、面白そうににやりとした。
「悲鳴あげますよ、イージェン」
「あげさせておけ。だがいまの話は内密だからな」
「判ってます」
エイルはますますにやにやし、ファドックは苦笑した。
「どうだ、不自由はないか」
「それは俺の台詞だと思うんですけれど」
エイルは眉をひそめた。
「だが、いまの状態は面倒だろう」
「……そりゃ、まあ」
リ・ガンとしての使命が終わったと思うのは、彼がファドックやシーヴの存在を「感じ取る」ことができなくなったことからも明らかだった。
「使命を果たすこと」を第一と考えたのは「翡翠の女神」の意思を尊重するリ・ガンの部分だけではなく、〈鍵〉、〈守護者〉、そしてかつてのリ・ガンを案じる「人間」の部分でもあった。
彼はあのあとすぐ、眠りの訪れぬ夜にシーヴとともに翡翠に対峙し――優しい風に充たされて、その使命を終えたのだ。
オルエンの力は驚くべき強さでリ・ガンを支え、「翡翠を眠らせる」という行為は「目覚めさせる」それよりも容易なものだった。
翡翠たちはいまや穏やかな眠りにつき、もうリ・ガンを騒がせるものはなく、従って彼らのそばにいて安定を覚えると言う感覚も――失せていた。
それは酷い喪失感をもたらすのではないかと危惧していた彼だが、数奇な運命をともにすることによってできた絆が煙のようにかき消えることはなく、少年は、まるでただの少年のように、騎士と話をした。
ただ、いまだにその名残りとでも言うものがある。
それは〈変異〉の年が終われば消え去るものかという心配や、それともこの年が終われば彼自身がどうなっているだろうかという相変わらずの不安を招くよりも、僥倖に思えた。
何故なら、彼がどきりとしたようには――シーヴは「エイラ」の「正体」に気づいていなかったからだ。
宮廷医師に話をつけるのならばエイラよりもエイルの方がよいのではないか、という意味に取れたあの台詞は、事実そのような意味であったのだろうが、シーヴではなくオルエンが発したものということになる。
シーヴはそのときのことを――意識を失っていた間のことまで――全て覚えており、あれがオルエンであったという「エイラ」の説明に納得したが、どこまでが自分の言葉でどこからがオルエンのものであるのかは、判別がつけづらいらしかった。クラーナに言わせれば二人の〈鍵〉の感覚はよく似ており、明らかにシーヴが知らぬこと以外は、どちらの 台詞でも あった ――というところなのやもしれなかった。
ともあれ、エイルは城を訪れれば少年エイルとなり、キド伯爵の館の客人を訪れれば娘エイラとなって時間を過ごしていた。
「でも」
エイルは言った。
「もう終わりです。こんな面倒は。だって、もう〈鍵〉の役割は終わったし、あいつは……東に帰る」
「では、告げぬのか」
ファドックの問いに、少年は曖昧な笑顔を向けた。
自分でも、どうしたいのかよく判らなかった。
南の伯爵の執務官が聞けば――それは恋だと、言っただろうか?
「どういうことだ!」
そして、こんなふうに声を荒らげる人間でもなかった。彼は略式の敬礼と礼儀を逸することへの謝罪の仕草をしようとし、やめろと留められる。
「そのように腹を刺されてまで礼を尽くそうとしなくてよい、ファドック・ソレス」
ロジェス・クラインは苛ついたように言うが、ファドックに腹を立てている訳ではないことは彼にも判った。
「どういうことだ。その客人とやらは何者だったのだ」
「それは」
ファドックは困ったように口を開いた。
彼の血のなかに流れ込んだトフラン草の毒は彼を数日間の昏睡状態には追い込んだものの、宮廷医師ランスハルの処置は的確であり、それはゆっくりと彼から洗い流されていた。処置が遅れれば、一命を取り留めたとしても、身体を動かすだけのことにでもたいそう不自由する身になっていただろうと言う。
それが塗られていた短剣は、何とも運よく、彼の内臓を傷つけることはなかった。
ヘルサラク神の加護であるのか、それとも〈守護者〉を必要だと言ったアスレンが彼を殺さないようにしたためかは判らなかったが、ファドックは後者であるとはあまり考えたくなかった。
一旬もすれば、鍛えられた身体は、起き上がって話ができる程度にはなっていたが、こうして生き延びれば次の問題は、その負傷についての言い訳であった。
まさか、レンの王子の指示でレンの王女がアーレイドの近衛隊長を刺したとは言えぬ。レンの王女に触れずに「掃除娘」を犯人とすることもできなかった。家族や親戚に累が及ぶ、というファドックの懸念はもとより――テリスンという娘のことなど、彼のほかには誰ひとりとして覚えていなかったからだ。
ともあれ――。
そうして近頃の「奇妙な出来事」を重ね合わせて作り上げた物語は「おかしな男に言いがかりをつけられた」と言うようなものであった。
ファドックには得手でないその手の創作をしたのはシーヴで、彼はアニーナの夫と名乗る男から彼女の怪我について脅しを受けていたことになっている。その負傷そのものは彼と関わりが「あるはずはなかった」が、治療のために城へ連れたことが悪化を招いたというような難癖をつけてきた、と。
そんなことを言って金銭を脅し取ろうとしてきた男は使用人ブロックが目撃した「船乗りふうの男」で――この「創作」にはファドックは難色を示したが、リャカラーダと結び付けられるはずがあるものかと、とシーヴは一蹴した――アニーナに新しい夫はいないと知ったファドックが要求をはねつけると怒って刺した、というのである。
事実を知る者から見ればあまりにも無茶苦茶に思える説明は、しかし真実味があったらしい。ファドックの様子がおかしかったのも脅迫者に悩まされていたせいだとして片づけられようとしていた。
当然、アーレイドとしてはその犯人を探そうとした。しかしそんな男などいないのだ、とシーヴは平然としたもので、少ししたらファドック自身がその捜索を終了する命令を出せ、などと言った。
何故だかこうしてファドックにそれを追及にきたロジェスに、男の素性は知らぬなどと苦しい言い訳をした彼は、侯爵がそれを納得しているのかしていないのか見定め難かった。
「しかし、無事でよかった」
しばらく黙ってファドックを見たあと、その話題を続けるのはやめたかのようにロジェスは言った。
「お前に万一のことでもあれば、困る」
ファドックは片眉を上げる。それは現職の近衛隊長が不祥事、或いは不慮の事故で死ねば、というだけの意味には感じ取れなかった。
「何故に、閣下はそのようなことを言われるのですか」
「……うむ」
クライン侯爵は奇妙な表情を見せた。それは困るような、戸惑うような。
「私の父のことは、お前は知るまいな」
「お亡くなりになられた……とだけ」
「うむ」
ロジェスはまた迷うような顔を見せたが、息を吐くと続けた。
「何と言うか、父は一度決めるとなかなか考えを変えない人物だった。二十年近く前になるのか……ティクスの町を訪れたときに気に入った
「──それは、存じませんでした」
彼は、驚きを隠してそうとだけ答えた。
「だろうな」
ロジェスは嘆息した。
「我が父がソレス一家をアーレイドへ招き、その死を招いた。私がそのつながりを知ったのはここ数年だが……お前には借りがあるように思っているのだ」
「そのようなことは」
「言うな。私が勝手に思っているだけだ」
彼は手を振ってファドックの言を制した。
「とにかく、私はお前に借りを返さねばと感じていた。だと言うのにお前から騎士の位置を奪う形となり、困惑をしていた。それでもお前が近衛隊長としてシュアラの傍にいるのならばその問題は解決されたと思い……だが、万一にもその地位にあった故に死ぬようなことになってみろ、私はどうすればいいのだ」
「ご安心を」
ファドックは言った。
「閣下もお聞き及びの通り、この負傷は地位には関係なく」
「そういった話ではない」
ロジェスはまたもファドックの言葉を遮る。
「お前が死ねばシュアラが哀しむ」
この単純かつ真実を突いた指摘には、ファドックは言葉を返せなかった。
「
言われたファドックは黙って敬礼をした。階級と知性と――人柄を兼ね備えた男がシュアラの隣に立つことほど、望ましいことはない。
ロジェスはその後、話を戻すとまるで尋問のように彼にいくつか質問をしたが、答えがはかばかしくないのと医師から制止がかかったことで、諦めるように彼から離れた。
日が経てばそれだけ「犯人」の発見は難しくなろうし、まして
それにしてもロジェスの話は思いがけなかった。
顔にはあまり出さなかったが、彼は驚愕したと言ってもいいくらいであった。
もちろん、ロジェスの亡き父親を恨むのではない。たとえ強引に招かれたのだしても、応じたのは両親であるのだし、王城都市に出店できる好機だという気持ちもあったかもしれない。そもそも出発が一日、いや数刻ずれていたら、襲撃にも遭わなかったかもしれないのだ。
だから恨むことはない。ロジェスの父親のせいではない。
そう、と彼は考えた。
もしあの出来事がなく、彼がキドに拾われずとも、家族がロジェスの父の世話になれば。
「麺麭屋の息子」が城の――それこそ下厨房の――用聞きをするようなことだって、あったかもしれない。
そう、では、あの事件がなくとも、彼は「アーレイド城」というものに近くなり得たのだ。
その考えは、彼が〈守護者〉たるにはかの事件が必要だったのかもしれない、親を亡くし、キドに育てられ、王城に上がることが決まっていたのかもしれない――というような心痛む思考を軽減した。
ロジェスを――その父を恨むどころが、教えてもらえて有難いくらいであったが、生憎とロジェス・クラインにそれを語る機会はないだろう。侯爵は翡翠の守り手のことなど知らぬのだ。
しばらくはランスハル医師のもとを離れられなかったファドックだったが、意識が戻ってからは医師の忠告もろくに聞かずにその身体で可能な限りの仕事をしようとして周辺から感心されたり呆れられたり嘆かれたりしていた。余程の重要事項以外は誰も安静第一の怪我人を煩わせたくなかったので、結果として彼は休むか、見舞いに訪れる誰かと語らうかしかなかった。
もっとも頻繁にやってきたのはレイジュであったが、彼女は騎士が何か不自由していないかと気を回すことを主眼としたから、話し相手にはもとより、書類を持ってくるように指示をする訳にもいかなかった。
「たまには、のんびりしたらいいじゃないですか」
しかめ面をしてエイルは言った。
「ファドック様はずっと休みなしだったでしょう。それを」
彼はファドックの傷跡を指し示した。
「いい機会だなんて言いたかないですけどね、ここは休んどいてくださいよ。業務なら、そうだ、むしろ副隊長を鍛えるいい機会だと思えばいいじゃないですか」
現近衛副隊長は補佐の立場を好んだから、代理のようないまの形を――さすがに口には出さぬが――嫌がった。彼を鍛えるよりは、とファドックは思う。
「それならば、次期副隊長としてイージェンを鍛える方がよいかもしれん」
その台詞にエイルは少し目を丸くして、面白そうににやりとした。
「悲鳴あげますよ、イージェン」
「あげさせておけ。だがいまの話は内密だからな」
「判ってます」
エイルはますますにやにやし、ファドックは苦笑した。
「どうだ、不自由はないか」
「それは俺の台詞だと思うんですけれど」
エイルは眉をひそめた。
「だが、いまの状態は面倒だろう」
「……そりゃ、まあ」
リ・ガンとしての使命が終わったと思うのは、彼がファドックやシーヴの存在を「感じ取る」ことができなくなったことからも明らかだった。
「使命を果たすこと」を第一と考えたのは「翡翠の女神」の意思を尊重するリ・ガンの部分だけではなく、〈鍵〉、〈守護者〉、そしてかつてのリ・ガンを案じる「人間」の部分でもあった。
彼はあのあとすぐ、眠りの訪れぬ夜にシーヴとともに翡翠に対峙し――優しい風に充たされて、その使命を終えたのだ。
オルエンの力は驚くべき強さでリ・ガンを支え、「翡翠を眠らせる」という行為は「目覚めさせる」それよりも容易なものだった。
翡翠たちはいまや穏やかな眠りにつき、もうリ・ガンを騒がせるものはなく、従って彼らのそばにいて安定を覚えると言う感覚も――失せていた。
それは酷い喪失感をもたらすのではないかと危惧していた彼だが、数奇な運命をともにすることによってできた絆が煙のようにかき消えることはなく、少年は、まるでただの少年のように、騎士と話をした。
ただ、いまだにその名残りとでも言うものがある。
それは〈変異〉の年が終われば消え去るものかという心配や、それともこの年が終われば彼自身がどうなっているだろうかという相変わらずの不安を招くよりも、僥倖に思えた。
何故なら、彼がどきりとしたようには――シーヴは「エイラ」の「正体」に気づいていなかったからだ。
宮廷医師に話をつけるのならばエイラよりもエイルの方がよいのではないか、という意味に取れたあの台詞は、事実そのような意味であったのだろうが、シーヴではなくオルエンが発したものということになる。
シーヴはそのときのことを――意識を失っていた間のことまで――全て覚えており、あれがオルエンであったという「エイラ」の説明に納得したが、どこまでが自分の言葉でどこからがオルエンのものであるのかは、判別がつけづらいらしかった。クラーナに言わせれば二人の〈鍵〉の感覚はよく似ており、明らかにシーヴが知らぬこと以外は、
ともあれ、エイルは城を訪れれば少年エイルとなり、キド伯爵の館の客人を訪れれば娘エイラとなって時間を過ごしていた。
「でも」
エイルは言った。
「もう終わりです。こんな面倒は。だって、もう〈鍵〉の役割は終わったし、あいつは……東に帰る」
「では、告げぬのか」
ファドックの問いに、少年は曖昧な笑顔を向けた。
自分でも、どうしたいのかよく判らなかった。
南の伯爵の執務官が聞けば――それは恋だと、言っただろうか?