9 最良の道
文字数 2,478文字
「では……リャカラーダ様と?」
まるでシーヴを動揺させようとするかのように、女はきれいな声でその名を簡単に口にした。だが彼は、そのような手に乗るつもりはない。
「自らは名乗らず、相手の名を連呼するのがレン の礼儀なのか?」
この程度のことで女が動じるとも思わなかったが、こちらもお前の正体は知っているのだぞ、くらいのことは言ってやらなくては気が済まない。
「これは失礼」
女は、案の定驚いた顔などはせず、ただすっと礼をした。
「貴き御方に名乗るほどの者ではないと、考えましたもので」
「成程」
シーヴは言った。
「なかなかいちいち、癇に障る女だな」
そう言って青年は笑ってやった。
「名を名乗れ と言って いる 」
すっと笑いを消したシーヴは、短く、はっきりと告げた。レンの下僕はまたも礼をする。
「――ミオノールとお呼びください、殿下」
ミオノールと名乗った女の優雅な礼は本当に、彼の癇に障った。しかしシーヴはそう言った様子は見せず、ただ手で向かいを指して、座りたければ座れと示した。
「俺を見張って、どうする」
ミオノールが腰掛けるのを待ってから、シーヴは単刀直入に問うた。てっきり空とぼけでもするだろうと思っていたシーヴは、女の薄笑いを見て顔をしかめる。
「……お判りなのでは」
「お前の主の希望など、俺が知るものか」
「ラインのお望みは」
シーヴは〈ライン〉という敬称を耳にしたことはなく、レンの第一王子アスレンの名も小耳に挟んだ程度であったから、彼のなかでそれらがすぐに繋がることはなかった。それでも、その〈ライン〉とやらとは冗談でも仲良く笑い合うなどできないだろうことは――次の言葉を聞く前から判っていた。
「翡翠。そして、リ ・ガン 」
お判りなのでは、とミオノールはまた言った。
シーヴは眉をひそめたが、それは何もミオノールの言葉に驚いたためではなかった。返答は予想通りのものであった。彼がこのときに気づいたのは、ここが変わらず〈牛の尾〉亭の食堂でありながら、彼らふたりはそこから遮断されていること――ほかの人間が立てる音や声が一切、彼の耳に届かなくなっていることだった。
「……そのために俺を見張って、どうする」
だが、それに慌ててみたところで仕方がない。魔術師がそうしたいと思えばそれくらいのことはするのだ。シーヴはすぐにそう考えるとそれについては突き詰めず、先の言葉を繰り返した。
「言っておくが、また『お判りでしょう』などと戯けた台詞を吐けば、ただでは済まさぬぞ」
どう済まさぬと言うのか、と内心では自分に呆れつつ、シーヴは言った。
こういう輩を相手取るときは、「シーヴ」よりも「リャカラーダ」の方がよかった。当人としては意識して入れ替えている訳ではないのだが、自然、口調は第三王子のものになっている。
ミオノールの方もそれを感じ取るのか、はなから彼を第三王子として扱っているからなのか、いささかわざとらしいほどに恭 しい礼を繰り返す。
「殿下はリ・ガンへ繋がり、リ・ガンの居場所まで道を開かれます故」
意外な返答――彼が思っていた以上に真っ当な、なおかつ真実だとすれば彼の知らぬ事実が戻ってきて、シーヴは少し驚いた。
「道を開くだと。俺はそのような方法は知らぬぞ」
「時至れば、お判りになりましょう」
「成程」
シーヴはまた言った。
「それを待ち、俺を見張るか」
ミオノールは肯定も否定もせずにただ頭を垂れた。
「俺が黙って、このまま見張らせているとでも?」
「殿下 のお望みはどうあれ」
ミオノールは礼を尽くしているふりをしながら、続けた。
「レンにご協力いただくのが、誰に とっても 常に最良の道かと存じます」
「お前たち にとっては 、左様であろうな」
リャカラーダはぞんざいに言った。その程度の台詞に気圧される彼ではない。
「だがミオノール、お前の主もお判り だろうよ。俺が決して、レンのためになど動かんと」
「賢いお答えとは思えません、リャカラーダ様」
「そうか?」
リャカラーダは口の端を上げた。
「お前たちが気に入らないだけだろう」
「そのようなご返答は」
「黙れ」
続けようとするミオノールを片手を上げて制した。
「レンが重きを置くものとシャムレイが価値を認めるものは違うのだ、覚えておけ」
第三王子は目に不興を浮かべて言った。ミオノールは少しだけ怯んだように見え――だが、また笑った。
「結構です、殿下。しかしあなたがどのように思われようと、あなたには、私が見張るのをやめさせる権限はありません」
シーヴの目が細まった。確かにその通りである。ミオノールは彼に敬意を払っているように見える――少なくともそのふりをしているが、もちろん、彼の指示に従う謂われはない。リャカラーダには、目前の女をレンの命令に抗わせることはできないのだ。
だが、これで確実に判ったこともある。
そうであろうと予測してはいたが、ただの希望的観測にすぎなかったことを向こうから明らかにしてくれた。
(狙いはリ・ガンだと言ったな。ならばつまり)
(エイラは、無事でいる)
(そしておそらくは)
(――〈翡翠の宮殿〉に)
そこ以上に安全な場所はないだろうと思う。自分の力だけで守ると言いきれないのは情けなくもあるが、見栄を張っても仕方がない。〈魔術都市〉などに対して彼に何ができるというのか。
彼にできるのは、彼女を安全な地においておくこと。エイラが翡翠の宮殿 にいるのなら、そしてそこにレンが手出しできぬのなら、その状態を維持すること、だ。
彼が宮殿への――エイラへの鍵 でもあるというのなら、その鍵をかけたままに、すること。
彼にできるのは、ミオノールというこの女がそれを阻止しようと言うのならば、それと戦うことだった。
まるでシーヴを動揺させようとするかのように、女はきれいな声でその名を簡単に口にした。だが彼は、そのような手に乗るつもりはない。
「自らは名乗らず、相手の名を連呼するのが
この程度のことで女が動じるとも思わなかったが、こちらもお前の正体は知っているのだぞ、くらいのことは言ってやらなくては気が済まない。
「これは失礼」
女は、案の定驚いた顔などはせず、ただすっと礼をした。
「貴き御方に名乗るほどの者ではないと、考えましたもので」
「成程」
シーヴは言った。
「なかなかいちいち、癇に障る女だな」
そう言って青年は笑ってやった。
「
すっと笑いを消したシーヴは、短く、はっきりと告げた。レンの下僕はまたも礼をする。
「――ミオノールとお呼びください、殿下」
ミオノールと名乗った女の優雅な礼は本当に、彼の癇に障った。しかしシーヴはそう言った様子は見せず、ただ手で向かいを指して、座りたければ座れと示した。
「俺を見張って、どうする」
ミオノールが腰掛けるのを待ってから、シーヴは単刀直入に問うた。てっきり空とぼけでもするだろうと思っていたシーヴは、女の薄笑いを見て顔をしかめる。
「……お判りなのでは」
「お前の主の希望など、俺が知るものか」
「ラインのお望みは」
シーヴは〈ライン〉という敬称を耳にしたことはなく、レンの第一王子アスレンの名も小耳に挟んだ程度であったから、彼のなかでそれらがすぐに繋がることはなかった。それでも、その〈ライン〉とやらとは冗談でも仲良く笑い合うなどできないだろうことは――次の言葉を聞く前から判っていた。
「翡翠。そして、
お判りなのでは、とミオノールはまた言った。
シーヴは眉をひそめたが、それは何もミオノールの言葉に驚いたためではなかった。返答は予想通りのものであった。彼がこのときに気づいたのは、ここが変わらず〈牛の尾〉亭の食堂でありながら、彼らふたりはそこから遮断されていること――ほかの人間が立てる音や声が一切、彼の耳に届かなくなっていることだった。
「……そのために俺を見張って、どうする」
だが、それに慌ててみたところで仕方がない。魔術師がそうしたいと思えばそれくらいのことはするのだ。シーヴはすぐにそう考えるとそれについては突き詰めず、先の言葉を繰り返した。
「言っておくが、また『お判りでしょう』などと戯けた台詞を吐けば、ただでは済まさぬぞ」
どう済まさぬと言うのか、と内心では自分に呆れつつ、シーヴは言った。
こういう輩を相手取るときは、「シーヴ」よりも「リャカラーダ」の方がよかった。当人としては意識して入れ替えている訳ではないのだが、自然、口調は第三王子のものになっている。
ミオノールの方もそれを感じ取るのか、はなから彼を第三王子として扱っているからなのか、いささかわざとらしいほどに
「殿下はリ・ガンへ繋がり、リ・ガンの居場所まで道を開かれます故」
意外な返答――彼が思っていた以上に真っ当な、なおかつ真実だとすれば彼の知らぬ事実が戻ってきて、シーヴは少し驚いた。
「道を開くだと。俺はそのような方法は知らぬぞ」
「時至れば、お判りになりましょう」
「成程」
シーヴはまた言った。
「それを待ち、俺を見張るか」
ミオノールは肯定も否定もせずにただ頭を垂れた。
「俺が黙って、このまま見張らせているとでも?」
「
ミオノールは礼を尽くしているふりをしながら、続けた。
「レンにご協力いただくのが、
「
リャカラーダはぞんざいに言った。その程度の台詞に気圧される彼ではない。
「だがミオノール、お前の主も
「賢いお答えとは思えません、リャカラーダ様」
「そうか?」
リャカラーダは口の端を上げた。
「お前たちが気に入らないだけだろう」
「そのようなご返答は」
「黙れ」
続けようとするミオノールを片手を上げて制した。
「レンが重きを置くものとシャムレイが価値を認めるものは違うのだ、覚えておけ」
第三王子は目に不興を浮かべて言った。ミオノールは少しだけ怯んだように見え――だが、また笑った。
「結構です、殿下。しかしあなたがどのように思われようと、あなたには、私が見張るのをやめさせる権限はありません」
シーヴの目が細まった。確かにその通りである。ミオノールは彼に敬意を払っているように見える――少なくともそのふりをしているが、もちろん、彼の指示に従う謂われはない。リャカラーダには、目前の女をレンの命令に抗わせることはできないのだ。
だが、これで確実に判ったこともある。
そうであろうと予測してはいたが、ただの希望的観測にすぎなかったことを向こうから明らかにしてくれた。
(狙いはリ・ガンだと言ったな。ならばつまり)
(エイラは、無事でいる)
(そしておそらくは)
(――〈翡翠の宮殿〉に)
そこ以上に安全な場所はないだろうと思う。自分の力だけで守ると言いきれないのは情けなくもあるが、見栄を張っても仕方がない。〈魔術都市〉などに対して彼に何ができるというのか。
彼にできるのは、彼女を安全な地においておくこと。エイラが
彼が宮殿への――エイラへの
彼にできるのは、ミオノールというこの女がそれを阻止しようと言うのならば、それと戦うことだった。