05 何も知らぬのに
文字数 3,522文字
「どうしてそれを翻す気になったんだ」
「……ラザムスが」
シーヴはそれがヒースリーの別名であることを思い出した。
「あの玉を持ってきたとき、俺は驚いたよ。後先考えないガディならともかく、何でまた善良なあいつがレンなんかに睨まれる真似をするのかと……だから俺はあいつに言ってやった。どうして、これまでにそれを売っ払っちまわなかったのかってね」
「その話は」
聞いた、と言おうとして――シーヴは違和感を覚えた。
「この前聞いた話と、少し違うようだな」
以前に男は「それを売り払えと助言して友人を追い返した」というような話をした。だがいまの話運びは、どこか違う。それだけでもない。先日の話の主点にあるのは「友人」で、いまは「翡翠」だ。
「判るか」
バイスは髭面を心底嫌そうに歪めた。
「そうさ。あいつは俺に、翡翠の魔力について鑑 てくれるよう頼み、俺はそれを受けた」
「……それなら」
「動玉」はこの男が持っているのか、とシーヴはバイスをじっと見た。バイスは嘆息する。
「言っておくが、俺はできるならラザムスを助けたいし、あんたにも恨みはないよ、兄さん。でも魔術師ってのは、高位の術師には逆らえないもんさ」
「何」
シーヴは、はっとした。
暗い部屋の奥、バイスの向こうに――黒いローブの、影がある。
鋭敏な感覚を持つ彼でもその気配には全く気がつかなかった。彼は素早く立ち上がって剣を抜こうとしたが――もはや彼は、簡単には立ち上がることができなかった。
全身が、酷く重くなっている。
「これで、俺はお役ご免か」
バイスはシーヴにではなく、その背後の相手に言った。
「翡翠も 渡した し、それを探す男も呼んだ。もう、いいだろう」
「よかろう」
低い声が答えた。シーヴは全身の総毛立つのを感じた。
「お前の役割は終わった。命は助けてやろう。外へ出て、しばらく戻ってくるな」
バイスは言葉にして何か答えることはせず、泡を食ったようにその命令に従った。シーヴはそれを見送ることはせず――もししたくても、振り返ることも難儀しただろうが――大男の向こうにいた存在だけをじっと見やる。
ゆったりとしたローブを身につけていてもはっきりと判る痩身。フードの奥の顔は暗がりではほとんど見えないが、やはり痩せこけていることは判った。
「我が教え子が世話になったそうだな」
「何だと」
シーヴは言いながら、喋ることには不自由なさそうだな、などと判定をした。何も罵詈雑言を吐いてやろうというのではない。理解できたのは、目前の魔術師は彼と話をする気があるということ。つまり、少なくともすぐさまに殺そうと言うのではないのだ。
「何の話だ」
尋ね返すと、何もない空間からしゅっと音を立てて何かが飛んできた。シーヴは反射的に飛びすさろうとするが叶わず、のろのろとわずかばかりに身を反らしただけとなった。それを見た男は、フードの影で口の両端を笑うように上げた。
笑ったのだろう、とシーヴは思う。彼は、ダイア・スケイズの笑みという珍しいものを目にしたことになるが、それがどれだけ珍しいものかは知らない。
「これは」
知らない事実にぞっとすることはないまま、シーヴは目前の粗末な卓上に刺さったものに見覚えがあると気づく。
「お前の、ミオノールへの贈り物だな――リャカラーダ」
「……突っ返されたということは、嫌われたということかな」
彼は、名を呼ばれたことには触れず、ただそんなことを口にした。
「何の。彼女はたいそうお前を気に入っている。どうかお前を殺さないでくれと私に頼み込んだほどだ」
そう言うとスケイズはまた笑った。彼を知るものが見れば、却って怖ろしくさえ思うであろう。
「お前を殺 すときは 、必ず自分 にやら せてくれ 、とな」
「それはまた……歪んだ惚れ方をされたものだ」
シーヴはミオノールの瞳を思い出した。初めは表情なく、次に艶を含み、あとには――冷ややかな。
「ミオノールの誘いに乗らなかったそうだな。次には試してみるといい。あれはいい女だ」
「次だろうが最後だろうが、断るね。あんたと兄弟になりたいとは思わん」
「そうか。それを聞けば彼女は哀しむだろう」
「そうかね」
シーヴは淡々と答えた。
「そのまま忘れてくれれば俺としちゃ有難いがね、つれなくすれば余計に入れ込む女もいるからな」
「そうだな、リャカラーダ。ミオノールはそういう女かもしれんがな」
二度に渡ってその名を呼ばれ、シーヴは目を細めた。向こうはシーヴの身分も出身も、ミオノールとの間に起きたことも全て知っているのに――こちらには何も材料がない。レンの魔術師であることだけは間違いないが、判るのはそれだけだ。
「俺に何か話があるのか」
シーヴは重い手を懸命に動かして目の前の刀子を引き抜いた。
男はミオノールの師だと言った。彼の抵抗などものともせずに、遠い砂漠とバイアーサラを行き来させた力を持つ彼女の。
それに、ミオノールに対してやったように隙をつくこともできない。相手は彼の武器を知っており、このようなものから身を守る魔術くらいは用意しているはずだ。
そうしたものがあらかじめかけておくものなのか、瞬時にかけるものなのか、シーヴは知らない。だがどうであれ、彼がこれを投げるような動作をすれば、投げ終える前にその術を使うか、それとももっと不 穏な方法 が採られるだろうことは察しがつく。
だがそれでも、彼はそれが抵抗の意志だとでも言うように、刀子を手に持ったままにした。スケイズはシーヴの手の動きをじっと見たままで口を開く。
「お前がどう思っているのか知らぬが」
スケイズはうっそりと続けた。
「リ・ガンと翡翠など、いつでも簡単に我々の手に入る」
「……ほう、そうかね」
シーヴは苛つきかける自身を感じ取った。
「なら、何故そうしない」
「そう したとも」
スケイズの手が動いた。青年は――彼の立場ではいささか無駄な――警戒をしながらそれを見守った。
男は、ローブのなかから何かを取り出した。シーヴの記憶に蘇るものがある。――では、ランドが示した翡翠玉は、〈魔術都市〉の人間の手に渡ってもあのときと変わらず、戦士の旅に擦り切れかけた布の袋の中に入っているのだ。
「それを返してもらおうか」
シーヴの言葉に、スケイズの目が面白そうに光った。
「お前のものだと?」
「少なくとも、お前のもんじゃないな」
「ではこれを私にお譲りいただこうか、殿下 。お前の大事な女の自由と引き換えではどうだ」
スケイズが言うのはリ・ガン――エイラのことであろうが、シーヴの脳裏には、ふたりの女の姿が浮かんだ。スケイズはそれを見て取るように、じっと彼を見る。
「……ミオノールには恋敵が多いな」
「お前のそれは、いったい、どういう脅しなんだ」
恋敵云々には触れず、シーヴは笑った。
「お前はそうして目的の玉を手にしているのに、それを渡さなければ俺の女をどうにかする、というのか」
「そうだ 」
スケイズは言った。
「リ・ガンはそれを認めたがらぬだろうが、〈鍵〉が同意したとなればその反発力は弱まろうな」
「……成程」
シーヴは呪いの言葉を吐いた。彼自身、考えていたことである。リ・ガンを利用したければ〈鍵〉を押さえるべきだと。
「返事は急がぬ。だがリャカラーダ、我々はいまや、リ・ガンの動きを把握しているのだと知っておけ」
「何だと」
「リ・ガンはいま、カーディルにて翡翠を探している。それを見つけられるのはリ・ガンか守り手だけであろうから、見つかるまでは放っておこう。見出されれば、また話は変わる。……殿下は少々の失敗をされたが、致命的ではない」
「殿下 だと」
シーヴは返した。
「それがお前とミオノールの主か。ライン、とか言ったな」
青年の言葉に、スケイズは眉をひそめた。
「何も知らぬのに、愚かなことを言うのは止すのだな。ラインは――ライン。ほかのどのような存在とも異なる」
もちろんシーヴは、アスレンもサズも知らない。スケイズの言葉に、意味が判らないとばかりに口を歪めた。
「リャカラーダ、お前が生きていられるのは、ラインが強いてお前の死を望まれてはいない、という一点に因るのだ」
「は!」
シーヴは笑った。
「ご寛大にも、生きていてよろしいとお許しくださる訳か」
有難いね、と青年は言った。
「……ラザムスが」
シーヴはそれがヒースリーの別名であることを思い出した。
「あの玉を持ってきたとき、俺は驚いたよ。後先考えないガディならともかく、何でまた善良なあいつがレンなんかに睨まれる真似をするのかと……だから俺はあいつに言ってやった。どうして、これまでにそれを売っ払っちまわなかったのかってね」
「その話は」
聞いた、と言おうとして――シーヴは違和感を覚えた。
「この前聞いた話と、少し違うようだな」
以前に男は「それを売り払えと助言して友人を追い返した」というような話をした。だがいまの話運びは、どこか違う。それだけでもない。先日の話の主点にあるのは「友人」で、いまは「翡翠」だ。
「判るか」
バイスは髭面を心底嫌そうに歪めた。
「そうさ。あいつは俺に、翡翠の魔力について
「……それなら」
「動玉」はこの男が持っているのか、とシーヴはバイスをじっと見た。バイスは嘆息する。
「言っておくが、俺はできるならラザムスを助けたいし、あんたにも恨みはないよ、兄さん。でも魔術師ってのは、高位の術師には逆らえないもんさ」
「何」
シーヴは、はっとした。
暗い部屋の奥、バイスの向こうに――黒いローブの、影がある。
鋭敏な感覚を持つ彼でもその気配には全く気がつかなかった。彼は素早く立ち上がって剣を抜こうとしたが――もはや彼は、簡単には立ち上がることができなかった。
全身が、酷く重くなっている。
「これで、俺はお役ご免か」
バイスはシーヴにではなく、その背後の相手に言った。
「
「よかろう」
低い声が答えた。シーヴは全身の総毛立つのを感じた。
「お前の役割は終わった。命は助けてやろう。外へ出て、しばらく戻ってくるな」
バイスは言葉にして何か答えることはせず、泡を食ったようにその命令に従った。シーヴはそれを見送ることはせず――もししたくても、振り返ることも難儀しただろうが――大男の向こうにいた存在だけをじっと見やる。
ゆったりとしたローブを身につけていてもはっきりと判る痩身。フードの奥の顔は暗がりではほとんど見えないが、やはり痩せこけていることは判った。
「我が教え子が世話になったそうだな」
「何だと」
シーヴは言いながら、喋ることには不自由なさそうだな、などと判定をした。何も罵詈雑言を吐いてやろうというのではない。理解できたのは、目前の魔術師は彼と話をする気があるということ。つまり、少なくともすぐさまに殺そうと言うのではないのだ。
「何の話だ」
尋ね返すと、何もない空間からしゅっと音を立てて何かが飛んできた。シーヴは反射的に飛びすさろうとするが叶わず、のろのろとわずかばかりに身を反らしただけとなった。それを見た男は、フードの影で口の両端を笑うように上げた。
笑ったのだろう、とシーヴは思う。彼は、ダイア・スケイズの笑みという珍しいものを目にしたことになるが、それがどれだけ珍しいものかは知らない。
「これは」
知らない事実にぞっとすることはないまま、シーヴは目前の粗末な卓上に刺さったものに見覚えがあると気づく。
「お前の、ミオノールへの贈り物だな――リャカラーダ」
「……突っ返されたということは、嫌われたということかな」
彼は、名を呼ばれたことには触れず、ただそんなことを口にした。
「何の。彼女はたいそうお前を気に入っている。どうかお前を殺さないでくれと私に頼み込んだほどだ」
そう言うとスケイズはまた笑った。彼を知るものが見れば、却って怖ろしくさえ思うであろう。
「
「それはまた……歪んだ惚れ方をされたものだ」
シーヴはミオノールの瞳を思い出した。初めは表情なく、次に艶を含み、あとには――冷ややかな。
「ミオノールの誘いに乗らなかったそうだな。次には試してみるといい。あれはいい女だ」
「次だろうが最後だろうが、断るね。あんたと兄弟になりたいとは思わん」
「そうか。それを聞けば彼女は哀しむだろう」
「そうかね」
シーヴは淡々と答えた。
「そのまま忘れてくれれば俺としちゃ有難いがね、つれなくすれば余計に入れ込む女もいるからな」
「そうだな、リャカラーダ。ミオノールはそういう女かもしれんがな」
二度に渡ってその名を呼ばれ、シーヴは目を細めた。向こうはシーヴの身分も出身も、ミオノールとの間に起きたことも全て知っているのに――こちらには何も材料がない。レンの魔術師であることだけは間違いないが、判るのはそれだけだ。
「俺に何か話があるのか」
シーヴは重い手を懸命に動かして目の前の刀子を引き抜いた。
男はミオノールの師だと言った。彼の抵抗などものともせずに、遠い砂漠とバイアーサラを行き来させた力を持つ彼女の。
それに、ミオノールに対してやったように隙をつくこともできない。相手は彼の武器を知っており、このようなものから身を守る魔術くらいは用意しているはずだ。
そうしたものがあらかじめかけておくものなのか、瞬時にかけるものなのか、シーヴは知らない。だがどうであれ、彼がこれを投げるような動作をすれば、投げ終える前にその術を使うか、それとも
だがそれでも、彼はそれが抵抗の意志だとでも言うように、刀子を手に持ったままにした。スケイズはシーヴの手の動きをじっと見たままで口を開く。
「お前がどう思っているのか知らぬが」
スケイズはうっそりと続けた。
「リ・ガンと翡翠など、いつでも簡単に我々の手に入る」
「……ほう、そうかね」
シーヴは苛つきかける自身を感じ取った。
「なら、何故そうしない」
「
スケイズの手が動いた。青年は――彼の立場ではいささか無駄な――警戒をしながらそれを見守った。
男は、ローブのなかから何かを取り出した。シーヴの記憶に蘇るものがある。――では、ランドが示した翡翠玉は、〈魔術都市〉の人間の手に渡ってもあのときと変わらず、戦士の旅に擦り切れかけた布の袋の中に入っているのだ。
「それを返してもらおうか」
シーヴの言葉に、スケイズの目が面白そうに光った。
「お前のものだと?」
「少なくとも、お前のもんじゃないな」
「ではこれを私にお譲りいただこうか、
スケイズが言うのはリ・ガン――エイラのことであろうが、シーヴの脳裏には、ふたりの女の姿が浮かんだ。スケイズはそれを見て取るように、じっと彼を見る。
「……ミオノールには恋敵が多いな」
「お前のそれは、いったい、どういう脅しなんだ」
恋敵云々には触れず、シーヴは笑った。
「お前はそうして目的の玉を手にしているのに、それを渡さなければ俺の女をどうにかする、というのか」
「
スケイズは言った。
「リ・ガンはそれを認めたがらぬだろうが、〈鍵〉が同意したとなればその反発力は弱まろうな」
「……成程」
シーヴは呪いの言葉を吐いた。彼自身、考えていたことである。リ・ガンを利用したければ〈鍵〉を押さえるべきだと。
「返事は急がぬ。だがリャカラーダ、我々はいまや、リ・ガンの動きを把握しているのだと知っておけ」
「何だと」
「リ・ガンはいま、カーディルにて翡翠を探している。それを見つけられるのはリ・ガンか守り手だけであろうから、見つかるまでは放っておこう。見出されれば、また話は変わる。……殿下は少々の失敗をされたが、致命的ではない」
「
シーヴは返した。
「それがお前とミオノールの主か。ライン、とか言ったな」
青年の言葉に、スケイズは眉をひそめた。
「何も知らぬのに、愚かなことを言うのは止すのだな。ラインは――ライン。ほかのどのような存在とも異なる」
もちろんシーヴは、アスレンもサズも知らない。スケイズの言葉に、意味が判らないとばかりに口を歪めた。
「リャカラーダ、お前が生きていられるのは、ラインが強いてお前の死を望まれてはいない、という一点に因るのだ」
「は!」
シーヴは笑った。
「ご寛大にも、生きていてよろしいとお許しくださる訳か」
有難いね、と青年は言った。