5 見知っているように思った
文字数 2,701文字
少年の腕を掴んで、半ば連行するように歩いていく伯爵の姿を見たものは、彼がエイルを力ずくでどうにかしようとしているとでも思っただろうか。
だがゼレットがエイルを連れていったのはもちろん彼の寝室ではなく、エイルがときどき給仕に訪れる執務の部屋だった。
「閣下」
部屋にいた男が驚いたように主人とその連れを見やる。
「マルド、外せ」
「はい」
ゼレットがそのような命令をすることは稀だったが、マルドと呼ばれた初老の執務官は聞き返すことなくそれに従う。飾り気のほとんどないその部屋には赤々と暖炉が燃えていたが、笑みを浮かべないゼレットと二人でいると薄寒く感じた。
伯爵は黙ったままでエイルを椅子に座らせ、自身の卓に近寄ると瓏草 を取り出して手近な燭台から火をつける。長くゆっくりと吐き出される煙はまるでため息のようで、エイルはゼレットよりもその煙に視線をやった。
ゆったりと宙へ浮かび、そして薄れて消えていく。まるで、明日も見えぬ彼の道であるかのようだ。
「……守護者」
出された声にびくっとした。煙の行く先を見ていて、その煙を吐き出す主のことを忘れていた。
「と言ったな」
「言いました」
「それが何を意味するのか、知っていて言ったのか」
「……少しは。でも」
エイルは戸惑った。
「でも、閣下が言われる意味とは、違うかもしれません」
「俺の言う意味だと? 俺が何を意味する」
「判りません」
エイルは出過ぎた発言を謝罪する仕草をした。と、ゼレットは手を振って、それをやめろと示す。
「臣下の振りなどよせ」
そんな風に言う。
「宮廷の真似事をして、誤魔化そうとしてもそうは行かん」
「別に」
エイルはむっとした。
「ごまかすつもりなんか」
「何を知っている」
言え、とゼレット。エイルは嘆息した。何をどう話せばいい?
「閣下の家系にどんな話が伝わってるのかは知りません。ただ俺は、行かなきゃいけないところがあるんです」
そんなふうにはじめた。
「帰る場所だの行く場所だの、忙しいやつだな」
ゼレットの口調は軽いが、楽しそうな様子は見られない。
「俺が望んで忙しくしてる訳じゃありませんよ」
エイルは不満そうに言った。実際、不満だ。「運命」とやらに振り回されることも、ゼレットに何やら疑惑の目で見られることも。
「それで、お前はどこに行く」
「――〈翡翠の宮殿 〉」
「……それは何だ。お伽話か。お前の家に伝わる伝承か?」
「予言、です」
あまり言いたくないことを口にした。案の定、ゼレットの目がまた不審の色を帯びる。
「俺だって、最初は信じてませんでしたよ。いまだって、信じてるとは言えないけど、でも」
信じざるを得ない、と言うのが本音だ。
「でも?」
伯爵は続きを促した。考えながら、少年は続ける。
「馬鹿馬鹿しいと思われても仕方ないです。でも、判ることがあるんだ。〈翡翠〉に関わりのある人に出会うと」
雷神の子 に触れられたようになる、といつだったかファドックに語ったようなことを言った。
「それが、俺か?」
ゼレットもまた、ファドックが言ったような返答をする。エイルはうなずいた。
「お前は何者だ。御巫か?」
エイルは苦笑して首を振った。まるでファドックと交わした会話の繰り返しのようだ。だがゼレットは当然、城の少年と護衛騎士の会話など知らぬから、彼の笑いに眉をひそめる。それに気づいて、エイルは慌てて真顔に戻った。
「俺が何者かってのは、俺がいちばん知りたいくらいですよ」
「答えになっておらんな」
リ・ガン、と言えば伯爵に通じるだろうか。彼自身にも判らないことなのに。
「あの……閣下の知っている伝承を伺ってもよろしいですか」
エイルの言葉を聞くと、ゼレットは考えるようにしながら瓏草を小鉢に押しつけた。最後の煙を吐き出す。
「自らの手の内は見せずに、こちらの札を寄越せときたか」
「そんなつもりじゃないです。ただ、閣下ばっかり判ってたらずるいでしょう」
また、むっとしてそう言った。いつものゼレットならば笑ってくれるはずだが、いまはそのような様子はない。
「……カーディル家は、翡翠を守っていた」
ヴィエル、との言葉にどきりとする。
「だがそれはいつしか失われ、カーディル家にはその血筋だけが残った。〈変異〉の年には翡翠を求める者が訪れると伝わっていたが、俺の爺様の代には誰もやってこなかった。そう聞いている。だから俺はそんな話は信じておらん」
「それでも、こうして、〈翡翠〉と〈守護者〉と言う言葉に反応されたじゃないですか」
「……そのような眼を持つ子供は」
ゼレットは二本目の瓏草を手にした。
「機知で様々な危難を切り抜けるか、それとも、警戒されて早めに消されるか、どちらかだな」
「警戒ですって」
考えようによっては脅し文句のような言葉にも怯まず、エイルは言った。
「何を警戒するんです。俺のような『子供』に対して、何を。俺がその、翡翠を求める者だと思っているのですか? それで、翡翠がないことを非難するとでも? 非難されたからって、どうなんです。あなたはそんなもの、信じていないのでしょう」
「ああ、信じておらん」
ゼレットは繰り返した。
「信じたくないのかも、しれん。雪中に落ちていたお前を拾い、何も訊かずに手元に置いているのは何故だと思う。行く当てのなさそうなお前を案じた親切心からだと思うか? それとも、可愛い少年に一目惚れして手懐けようとしていたとでも?」
「……後者はお断りしたいです」
思わずそんなふうに言うと、ゼレットは面白くもなさそうに笑った。
「俺はお前を見知っているように思ったのだ、エイル。目覚めたお前と言葉を交わせばそうではないと判ったが、お前が我が城にいると思うと何故か安心するのだ。その理由について考えてみようと思ったことはなかった。しかし」
ゼレットは、何かを思い出そうとするように両の目を細めた。
「お前は、リ・ガンか」
エイルはびくりとした。師リック以外の口からその言葉を聞いたのは初めてであった。少年の驚愕の表情をじっと見ながら、ゼレットはまだ火をつけていなかった二本目の瓏草を卓に置いた。
「そうなのか。では、伝承は本当なのか」
「わか、判りません」
少年はどもった。
「リ・ガンとは……何なんですか、閣下」
「恍けるのか?」
「ち、違います。俺、よく知らないんです。本当です!」
ゼレットが何か非難めいたことを口にする前に、慌てて言った。
だがゼレットがエイルを連れていったのはもちろん彼の寝室ではなく、エイルがときどき給仕に訪れる執務の部屋だった。
「閣下」
部屋にいた男が驚いたように主人とその連れを見やる。
「マルド、外せ」
「はい」
ゼレットがそのような命令をすることは稀だったが、マルドと呼ばれた初老の執務官は聞き返すことなくそれに従う。飾り気のほとんどないその部屋には赤々と暖炉が燃えていたが、笑みを浮かべないゼレットと二人でいると薄寒く感じた。
伯爵は黙ったままでエイルを椅子に座らせ、自身の卓に近寄ると
ゆったりと宙へ浮かび、そして薄れて消えていく。まるで、明日も見えぬ彼の道であるかのようだ。
「……守護者」
出された声にびくっとした。煙の行く先を見ていて、その煙を吐き出す主のことを忘れていた。
「と言ったな」
「言いました」
「それが何を意味するのか、知っていて言ったのか」
「……少しは。でも」
エイルは戸惑った。
「でも、閣下が言われる意味とは、違うかもしれません」
「俺の言う意味だと? 俺が何を意味する」
「判りません」
エイルは出過ぎた発言を謝罪する仕草をした。と、ゼレットは手を振って、それをやめろと示す。
「臣下の振りなどよせ」
そんな風に言う。
「宮廷の真似事をして、誤魔化そうとしてもそうは行かん」
「別に」
エイルはむっとした。
「ごまかすつもりなんか」
「何を知っている」
言え、とゼレット。エイルは嘆息した。何をどう話せばいい?
「閣下の家系にどんな話が伝わってるのかは知りません。ただ俺は、行かなきゃいけないところがあるんです」
そんなふうにはじめた。
「帰る場所だの行く場所だの、忙しいやつだな」
ゼレットの口調は軽いが、楽しそうな様子は見られない。
「俺が望んで忙しくしてる訳じゃありませんよ」
エイルは不満そうに言った。実際、不満だ。「運命」とやらに振り回されることも、ゼレットに何やら疑惑の目で見られることも。
「それで、お前はどこに行く」
「――〈
「……それは何だ。お伽話か。お前の家に伝わる伝承か?」
「予言、です」
あまり言いたくないことを口にした。案の定、ゼレットの目がまた不審の色を帯びる。
「俺だって、最初は信じてませんでしたよ。いまだって、信じてるとは言えないけど、でも」
信じざるを得ない、と言うのが本音だ。
「でも?」
伯爵は続きを促した。考えながら、少年は続ける。
「馬鹿馬鹿しいと思われても仕方ないです。でも、判ることがあるんだ。〈翡翠〉に関わりのある人に出会うと」
「それが、俺か?」
ゼレットもまた、ファドックが言ったような返答をする。エイルはうなずいた。
「お前は何者だ。御巫か?」
エイルは苦笑して首を振った。まるでファドックと交わした会話の繰り返しのようだ。だがゼレットは当然、城の少年と護衛騎士の会話など知らぬから、彼の笑いに眉をひそめる。それに気づいて、エイルは慌てて真顔に戻った。
「俺が何者かってのは、俺がいちばん知りたいくらいですよ」
「答えになっておらんな」
リ・ガン、と言えば伯爵に通じるだろうか。彼自身にも判らないことなのに。
「あの……閣下の知っている伝承を伺ってもよろしいですか」
エイルの言葉を聞くと、ゼレットは考えるようにしながら瓏草を小鉢に押しつけた。最後の煙を吐き出す。
「自らの手の内は見せずに、こちらの札を寄越せときたか」
「そんなつもりじゃないです。ただ、閣下ばっかり判ってたらずるいでしょう」
また、むっとしてそう言った。いつものゼレットならば笑ってくれるはずだが、いまはそのような様子はない。
「……カーディル家は、翡翠を守っていた」
ヴィエル、との言葉にどきりとする。
「だがそれはいつしか失われ、カーディル家にはその血筋だけが残った。〈変異〉の年には翡翠を求める者が訪れると伝わっていたが、俺の爺様の代には誰もやってこなかった。そう聞いている。だから俺はそんな話は信じておらん」
「それでも、こうして、〈翡翠〉と〈守護者〉と言う言葉に反応されたじゃないですか」
「……そのような眼を持つ子供は」
ゼレットは二本目の瓏草を手にした。
「機知で様々な危難を切り抜けるか、それとも、警戒されて早めに消されるか、どちらかだな」
「警戒ですって」
考えようによっては脅し文句のような言葉にも怯まず、エイルは言った。
「何を警戒するんです。俺のような『子供』に対して、何を。俺がその、翡翠を求める者だと思っているのですか? それで、翡翠がないことを非難するとでも? 非難されたからって、どうなんです。あなたはそんなもの、信じていないのでしょう」
「ああ、信じておらん」
ゼレットは繰り返した。
「信じたくないのかも、しれん。雪中に落ちていたお前を拾い、何も訊かずに手元に置いているのは何故だと思う。行く当てのなさそうなお前を案じた親切心からだと思うか? それとも、可愛い少年に一目惚れして手懐けようとしていたとでも?」
「……後者はお断りしたいです」
思わずそんなふうに言うと、ゼレットは面白くもなさそうに笑った。
「俺はお前を見知っているように思ったのだ、エイル。目覚めたお前と言葉を交わせばそうではないと判ったが、お前が我が城にいると思うと何故か安心するのだ。その理由について考えてみようと思ったことはなかった。しかし」
ゼレットは、何かを思い出そうとするように両の目を細めた。
「お前は、リ・ガンか」
エイルはびくりとした。師リック以外の口からその言葉を聞いたのは初めてであった。少年の驚愕の表情をじっと見ながら、ゼレットはまだ火をつけていなかった二本目の瓏草を卓に置いた。
「そうなのか。では、伝承は本当なのか」
「わか、判りません」
少年はどもった。
「リ・ガンとは……何なんですか、閣下」
「恍けるのか?」
「ち、違います。俺、よく知らないんです。本当です!」
ゼレットが何か非難めいたことを口にする前に、慌てて言った。