第59話 バレンタインデーに部屋に招待され胸が高鳴る朔

文字数 921文字

 朔は、キスから先に進みたいと思っていたが、実際は、二人の仲はなかなか進展しない。あるいは、十一歳下の朔と深い関係になることを、菜月は躊躇しているのだろうか。
 キスも、あのときの一度きりだ。だが、焦ってはいけないと自分に言い聞かせる。
 朔は結婚を前提に交際を申し込み、菜月もそれを受け入れてくれたのだから、彼女だって将来のことを真剣に考えてくれているに違いない。
 それならば、そんなに急がなくても、いつか必ずそのときが来るはずだ。自分は一生菜月と一緒にいるつもりなのだし、一生は、きっと恐ろしく長い。
 一生のうちには、キスもその先も、きっと飽きるくらいに……。
 
 
 やがて二月になり、バレンタインデーが来た。その日は平日だったので、菜月は、学校が終わってから朔を迎えに来た。
 朔がシートベルトを締めると、車を発進させてから、おもむろに菜月が言った。
「今日は私の部屋に招待するわ」
「え?」
 思わず横を見るが、ハンドルを握った菜月は前方を向いたまま言った。
「影森くんに手料理をごちそうしようと思って。望くんの料理にはかなわないかも知れないけど」
 
 言葉もないまま、菜月の横顔を見つめていると、不意に彼女がこちらを向いて言った。
「それでいい?」
 朔は、なんとか言葉を絞り出す。
「……もちろんです。すごく、うれしい」
 まだ一度も菜月の部屋に行ったことはない。気になってはいたが、今まで誘われたことはなかったし、自分から行きたいなどと言えるはずもない。
 これからのことを考えると、胸が高鳴る。
「よかった」
 菜月がにっこり笑った。
 
 
 朔は、部屋の中を見回す。オフホワイトやベージュ、ブラウンを基調とした室内は、落ち着いた雰囲気で、いかにも菜月らしいと思う。
「嫌だ、そんなに見ないで。影森くんの部屋に比べたら、ウサギ小屋みたいでしょう?」
 恥ずかしそうに微笑む菜月に、朔は言った。
「そんな、あの部屋は、お母さんと住むつもりだったから……」
 菜月の笑顔が消えたのを見て、失言したことに気づく。
「あっ、すいません。あの、先生らしくて、とても居心地のよさそうな部屋だと思って」
 菜月が再び微笑む。
「ありがとう。そこに座って。今用意するから、ちょっと待っててね」
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